• ベストアンサー

マルクス主義は キリスト教の自力・難行道だったか

莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)の回答

回答No.20

 ありがとう御座いました。風が吹けば案山子の着物も動きます。見てもらいたい。お話してもらいたい。聞いてもらいたい。相手してもらいたい。茶の間の声がある。伝える内容は必要ない。バックミュージックが、心地よく流れている。伝える愛やメッセージは無関係、そしてその任務はない。声声声。お話が途切れてはさびしい、怖い、不安だ。  本当にそうですね、みんなそうですね。用事はなかったのですね。  私には私の用事があるので、ごめんなさいね。今までありがとう。

noname#80116
質問者

お礼

      愛には恐れがない。    完全な愛は 恐れを締め出します。      (ヨハネの第一の手紙4:18)  けれども 愛には きよらかな恐れがある。  わたしの愛は 全きものかとおそれる清らかな恐れがある。

関連するQ&A

  • キリスト教信仰に向いていないのでしょうか

    キリスト者の方に質問です。 聖書の記述で大宣教命令に違和感があります。 宣教・伝道はそれ程重要なことでしょうか。 個人的にキリスト教に関心はあるのですが、献金・奉仕も継続するのは不可能に近いです。 このような場合、キリスト教を信仰することは難しいでしょうか。 行動力が不足している人間も向かない気がします。 無教会主義に関してはどのように思われますか。 自分自身、教義の思い込みのように錯覚する時が多々あります。 哲学のように計画的に思考することは到底向いておらず聖書解釈も疲れます。 自分が可能な方法で歩んできましたが、 ここまで行き詰っているということは、やはり宗教に向かない性格なのでしょうか。 個人的には教会組織に頼らずに歩んでいきたいと思っています。 独りでは、やはり行き詰ってしまうのでしょうか。 教会員では無いので、牧師にも相談できず困っています。

  • キリスト教に関してだけどね。

    キリスト教に関してだけどね。 処刑台のかけられたイエスに、王と神が一元だった時代に神への反逆を連想させるのは、特に教義として説き伏せる必要もなく明白であっつただろう。 ユダヤの伝道師イエスとはローマに対する呪いの小道具だよ。 キリスト教にとっては、実際はイエスなる愚か者は、神とするならば悪神なんだという見解から思考をアプローチするのも手だ。 ユダヤの生んだローマにとっての死せる神の象徴であり、ローマが殺した神の象徴でもある。 その恐怖に屈服してしまうとキリスト教の伝道師が、あなたは神に膝まずきました、その恐怖の結果こそが信仰心なのですと、屈服こそ信仰心という刷り込みを行い、疫病として蔓延していった。 これカルト教団の現在の手法と一致項がある。 キリスト教は、カルトの本家家元でもあるんだ。 なら邪教の一つと判断するのは妥当性がある。 ひとつ解決のための光明を提示すると。 イエスなる去った者はユダヤの人。 キリスト教のシンボルのキリストとはローマの神につけられた仮称だ。 この両者は切り分けて考えるといい。 キリストは、いきさつを解説している通りに、聖霊として成立していないか、極めて不完全なんだよ。 したがってキリストなる聖霊の成立で邪教から信じる人々も復活するんだ。 闇の仏陀「黒き明星」闇黒の救世主「最速の臆病者」共通するカッコイイきめ台詞。 やがて来る者は、 やがて去るものと、つかの間すれ違う。 (両者はその刹那にいかなる言葉を交わすのか) ところで、宗教批判や宗教への警戒は、キングオブカルトのキリスト教では風物詩で、唯一の神とか言いながら内部分裂や抗争が他の宗教よりも際立って激しいんだろうなあ。 誰にでも何らかの信仰心があるんで、その不可侵のはずの信仰心を自由に語ることを阻害する統率の仕方だ。 日本の風土では、漫画が好きな人が手塚治虫がわたしの神だといっても、だれも何ら違和感を感じない。 スーパーサイヤ人がわたしの神だとまで言っても、ポンポンと肩をたたいて慰めてくれる。 究極は、見知らぬ者同士が「私は神を信じる」こういったとたんにだ、「私もだ」こう答えて、いかなる神かを問わずに兄弟として接するのが理想だろう。 ところが、それでいて、信仰にはしきたりもあれば合言葉もあるんだ。 それ自体は特に仲良くする者同士の部族宗派で別に弊害はない模様だ。 どちらかというと、生活習慣のすり合わせで、倫理とか道徳と関連するんだよ。 閉鎖的になると弊害は起きるようだね。 今回は論説として自分自身で研究した内容を学問カテゴリーに投稿しています。 哲学というのは、既存の命題の解を求めるほかに、自分自身で命題を作成するという手法があります。 おおむね、そうした前提で質問していまして、何か研究を先に進めるヒントの募集です。 素人っぽい感想文、特定の専門家の自分の専門に立脚した意見、ふざけた突っ込み、ブチ切れて俺はキリスト教徒だ、おめ~は教義に反しているという殴り込み、予期せぬ奇襲攻撃、なんでもいいですよ。

  • キリスト教で最も戒律の厳しい(あるいは信仰の篤い)宗派はどこでしょうか?

    キリスト教で最も戒律が厳しい(あるいは信仰の篤い)宗派はどこでしょうか?(クリスチャンの方に質問です) 私は20代前半の男です。これまでの二十余年、無宗教(厳密に言えば家系は父母ともに浄土真宗です)を貫いてきましたが、今現在クリスチャンになること(=洗礼を受けること)を検討しています。 聖書を学生時代に読んで大きな衝撃を受け、また実際にクリスチャンの知己を得た体験がきっかけなのですが、私の現在のスタンスとしては、日本語で聖書を読み、あれこれと自分の頭をたよりに思索にふけるという、いわば無信仰の自由主義神学派の様な曖昧なものです。 私としてはそろそろ聖書を「読む」ことから「生きる」ことにシフトしなければ、これ以上安らかな心境で生きてゆけないという危機的な情況に対峙しており(精神が弱いのです)、教会に通うことも検討しているのですが、その際にどの宗派を選ぶのかという点で迷いが生じています。 もちろん、細かな教義を一つ一つ検討するのが良い方法だとは思うのですが、これまでさんざんエセ自由主義神学の方法で自分勝手に聖書を解釈してきた私にとって、そうした出口のない教義問答に明け暮れていたらいつまでも洗礼に辿り着けない気がするのです。 そこで至ってシンプルに、己を律するという意味合いも含め、最も戒律の厳しい宗派に身を投じてみたいと考える様になりました。 もちろんパウロが云う様に「律法よりも信仰が先立つのだから、戒律の厳しさを尺度にするのは本末転倒」というご批判があるかもしれませんが、自分にはやはり、その信仰を他者に対し裏付ける律法の遵守がとても重要なのです。これは勝手な意見ですが、やはり上の言葉を隠れ蓑に、多少戒律に違反したって構わないじゃないかと言って過度の飲酒や姦淫を平気で行う「なんちゃってクリスチャン」だって少なからずいると聞きますし、そういう信仰の薄い信者の多い宗派に入って幻滅する位なら、いっそ自己のマキシムに厳格に生きる無信仰者でいるほうがよっぽどマシだと本気で思うのです。 モルモン教などの新興派閥も含め、この宗派は戒律が厳しい、といわれるキリスト教宗派があれば、あるいは実際に信仰されていれば、その内実を教えてください。カトリックやバプテスト、エホバの証人などは厳しいと聞きますが、実際の所をお聞かせ頂ければ幸いです。

  • 《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。

    《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。  まづ前提として 信教・良心の自由にもとづく個人の信仰は別問題です。(わたし自身 信じている側ですらあります)。  要するにこの命題は 《現人神なり》と言っています。《神が人となった》と。これは 哲学あるいは市民の常識からは どう扱うのでしょう。  経験合理性には明らかに反しています。(あるいは 超えています)。あいまいにし 放っておくのでしょうか。一定の見解を明らかにしないでしょうか。  なお 非合理ゆえに我れ信ずは 個人の信仰のことですから 別問題です。  けっきょく なぜ ゆるされているのですか。  具体的には 教科書をとおして――いまどう書かれているか知らないで言うのですが 触れているはずでしょうから―― 子どもたちにどのように説明するのですか。

  • クリスチャン又宗教に詳しい方

    質問です。 全部をお答えして頂かなくても結構です。 一つでも良いのでご回答下さい。 (1)貴方がクリスチャンになったきっかけは? (2)キリストは全ての者の為に十字架に架けられたという事ですが  それを本当に信用しますか? (3)キリスト教と戦争は関わりがあるのですか? (4)クリスチャンは他宗教に対してどの様でしょうか?(寛大か?) (5)キリストという個人は本当に実在してクリスチャンはそれを全て  信じて(例えば神がこの世の全てを創造した等)いるのでしょうか? (6)神(キリスト)とは宇宙の意思と解釈してはいけないのでしょうか? (大日如来は宇宙の象徴?言う事を何となく聞いた事があるのですが、 であれば神というのは一つの繋がった者と考えて良いのか?) (7)神など全く信じていなかった人が(むしろその様な人を馬鹿にしていた)クリスチャンになる事はあるのでしょうか?体験者の声が聞けたら・・・。 (8)仏教で親鸞の浄土真宗は他力本願(信じる者は救われる)と言った  教義でキリスト教に似ているといった事を聞きましたが真意は? 聞きかじりの知識もありお恥ずかしいのですが、 少しでも御教授下さい。宜しくお願いします。

  • 宗教や信仰の特性。

    1959年から46年いた大学では労組の書記長を長くしていました。60年安保の時代ですね。 当然ラディカル革新で唯物史観。反信仰。 しかしある人との個人的邂逅から30年ほど前からヒンドゥ系統の宗教というか信仰を精進努力しています。 無論、マザーセンターからの文書や出版物は勉強します。 私は納得し同感しています。 そして感想ですが:実はこの世の事柄や科学や学問での実証はないと存じます。 でも納得。 信仰や宗教って事実や知性に根拠を求めないのではないでしょうか?

  • 〈父、子、聖霊〉の《三位一体》は、等質かつ等価であるか?

    私は、キリスト信仰における《三位一体》を、普遍的位相とは認めるものの(キリスト教全会派に共通する教義ではない)、三位のそれぞれの位格が、等質かつ等価であるとの見解を、咀嚼しかねております。  もちろん、会派ごとの教義は尊重します。しかしながら、私自身がプロテスタント無派閥に所属していた、元不良信者であります。通っていた教会では、三位一体を大変に重視していましたが、私が師に、「《主》とは、すなわち〈父なる神〉ではないのか?なぜ新約では、《主イエス・キリスト》に変わっているのか?〈人の子〉が、なぜ救世主を超越して、《主》と呼ばれるのか?〈御霊〉は、キリストの血によらなければ授けられないのか?」と問い質すと、逆に不信仰を諌められてしまいました。  そこで、皆さんにお尋ねします。 【Q-1】 〈父、子、聖霊〉、それぞれの、役割とは何でしょうか? 【Q-2】 〈父、子、聖霊〉、それぞれは、等質といえるでしょうか? 【Q-3】 〈父、子、聖霊〉、それぞれは、等価といえるでしょうか? 【Q-4】 〈父、子、聖霊〉、それぞれが、等質でも等価でもないとしたら、どれが最も重要なのでしょうか? 【Q-5】 《三位一体》とは、何でしょうか?  以上、皆さまの私見でもかまいませんので、よろしくお答え願います。

  • イエスが なぜキリストか。

     イエスが なぜキリストか。  次に掲げる聖句に集中します。  その中で特には  ○ 人の内から生きた水が湧き出る  に焦点を当てます。  ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~  37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。     「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。  38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の     内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」  39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。  ~~~~~~~~~~~~  * 《聖書に書いてあるとおり》 ~~~~~~  ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。  ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~~~~  わたしは乾いている地に水を注ぎ  乾いた土地に流れを与える。  あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ  あなたの末にわたしの祝福を与える。  ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~  主は常にあなたを導き  焼けつく地であなたの渇きをいやし  骨に力を与えてくださる。  あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ◆(α) イエスが なぜキリストか。  すなわち問題は 渇いた者に水を飲ませるだけではなく その人の内から水が湧き出るようにさせる。と言っていることにある。  闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。  このゆえに イエス(人間)が同時に キリスト(神の子であり神)であると。  教義やその認識や人間としての努力や助け合いあるいは科学としての認識やその応用 これらすべての宗教や人智を揚棄し 個人の内側に火をともした。  ◆(β) イエスがキリストであるということは 宗教が揚棄されることであり キリストのキの字も言わないで済むようになることである。  それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと 関係ないというところの《非思考の庭》がわが心に成るという問題。  この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。  おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。  どこまで哲学の議論に耐え得ましょうか?  ご教授ください。

  • 組織としての宗教は 違憲ではないか

     1. 宗教組織は 結社の自由になじまないのではないか? 信教の自由を侵しかねないかたちと内容をもって 憲法違反ではないか? 以下 これを問います。  2. 信仰は 《良心・信教の自由》がうたわれているとおりに 個人の内面主観において自由に成り立つと考えられる。  3. しかるに宗教とは この信仰から得られた生活態度ないし世界観をオシエとして表現したものである。  4. その宗教は しばしば教団とよばれる組織を持つ。一般には 結社の自由において 自由だと見なされている。  5. ところが 信仰の教義化かつ組織化は まづ教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている(註1)。しかもそのオシエを中心としオシエに従って 組織の権限関係が形成されることになる。  6. ならば 一方で主観内面としての信仰はすでに消えており(もしくは 蝉の抜け殻と見るべきオシエに変身しており) 他方でしかもその信仰が――という意味は オシエとその遵守というものに成り変わった信仰観念が―― 組織の運営や人間の関係にとって判断・評価の基準とされることになる。  7. つまり 信仰ではないものが信仰と見なされしかもその教義が組織〔としての人間関係〕の中心となる。教義が中心となるということは 組織の権限関係において最高の地位に立つものが解釈したその教義内容が中心となることを意味する。  8. もしこうであるならば 組織の長としての人間が ほかの人びとを・そしてしかも組織の外の人びとをも ほんとうは信仰ではなくなっている倫理規範としての《教義》とその知識および実践の度合いに応じて 評価しときには裁くというかたちになる。  9. これは 信仰の・または信徒のあつまりではありえない。言わば道徳ごっこである。道徳ごっこっとしての仮面をかぶったイジメ合いである。  10. 自分も他人もそして世の中が 自分の思うようにならないという《苦――生老病死だそうだ――》から逃れようとして いやそれなら自分以外の人間をみなおれの思うようにあやつればよいという支配欲にみづからが支配され この道徳ごっこ――つまり内面における信仰の外面化としての倫理規範のもてあそび――を考案し 結社の自由に乗じて組織化したものである。のではないか?  11. この組織宗教とは 良心・信教の自由を侵す犯罪行為ではないのか? 憲法違反ではないか?  12. 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその人間としての判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪行為ではないか?  13. 結社の自由は 宗教にもとづく組織としては 個人における良心・信教の自由と両立しないのではないか?  個人の信仰は ヒエラルキアになじみ得ない。  14. 信仰の宗教化じたいがすでにその瞬間に 信仰の自殺行為となるのではないか?  15. 聖典等と呼ばれる文献等の研究のための組織のみが残るのではないか?   16. いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきではないか?  17. 宗教組織は すべからくすみやかに自己解体すべきではないか?  (註1) 《信仰はその教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている》: たとえば信仰においては 《存在の奥底にそなわったと言うべき中核のチカラが 〈ひとは人をころさないものだ〉と語っているのを知っている》。しかるに 宗教においてその信仰内容が教義化されるということは 《なんぢ ころすなかれ》という言葉による表現となって持たれることを意味する。  片や 心の声を知っている信仰と 片や その声の内容を倫理規範として持ちそのことの習慣化によって或る種の観念を形成しこの観念が――法規範と成ることをとおしても――おのれの思惟や行動〔の自由〕を規制するようにはたらくこととがある。この両者の差は おおきいであろう。 

  • イエスが なぜキリストか。

     イエスが なぜキリストか。  次に掲げる聖句に集中します。  その中で特には  ○ 人の内から生きた水が湧き出る  に焦点を当てます。ぎゃくに言うと なぜこのコトに一般にクリスチャンは注目しないのか? と問います。  ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~  37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。     「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。  38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の     内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」  39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。  ~~~~~~~~~~~~  * 《聖書に書いてあるとおり》 ~~~~~~  ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。  ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~~~~  わたしは乾いている地に水を注ぎ  乾いた土地に流れを与える。  あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ  あなたの末にわたしの祝福を与える。  ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~  主は常にあなたを導き  焼けつく地であなたの渇きをいやし  骨に力を与えてくださる。  あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  (α) イエスが なぜキリストか。  すなわち問題は 渇いた者に水を飲ませるだけではなく その人の内から水が湧き出るようにさせる。と言っていることにある。  闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。  このゆえに イエス(人間)が同時に キリスト(神の子であり神)であると。  教義やその認識や人間としての努力や助け合いあるいは科学としての認識やその応用 これらすべての宗教や人智を揚棄し 個人の内側に火をともした。  (β) イエスがキリストであるということは 宗教が揚棄されることであり キリストのキの字も言わないで済むようになることである。  それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと関係なく《信じる》のは同じであるというところの《非思考の庭》 このかたちがわが心に成るという問題。  この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。  おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。  どこまで哲学の議論に耐え得ましょうか? さまざまに展開しえましょうか?  問い求めます。ご教授ください。