• ベストアンサー

赤穂浪士の討ち入りの日は?

元禄時代の12月14日に、赤穂浪士47人が吉良上野介の屋敷に討ち入りをしました。 元禄時代は旧暦(陰暦)を使っていたと思うのですが、12月14日とは旧暦の12月14日なのでしょうか? それとも新暦(陽暦)の12月14日なのでしょうか? どなたか教えていただけませんでしょうか?

  • 歴史
  • 回答数2
  • ありがとう数7

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • hiromi-5
  • ベストアンサー率15% (36/235)
回答No.1

1703年1月30日だな 元禄や慶応など日本の年代で掛かれたものは明治6年1月1日以前は全て旧暦表示 1703年などと西暦で書かれたものは1582年以降は新暦、今の暦と一緒 ちなみに1582年というのは現在使われている太陽暦の一つグレゴリオ暦が始まった年である

tameyan
質問者

お礼

hiromi-5 さん 早速のお返事ありがとうございます。

その他の回答 (1)

  • o24hi
  • ベストアンサー率36% (2961/8168)
回答No.2

 こんにちは。  元禄15年12月14日=1703年1月30日だそうです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A9%82%E6%B5%AA%E5%A3%AB

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A9%82%E6%B5%AA%E5%A3%AB
tameyan
質問者

お礼

o24hiさん ありがとうございます。 Wikipediaを見ればよかったんですね。

関連するQ&A

  • なぜ赤穂浪士の討ち入りは成功したのか?

     歴史ファンとしていつも気になっておりました。  なぜ、赤穂浪士の討ち入りはあれほどまで見事に成功したのでしょうか?  吉良邸には赤穂浪士よりもかなり多くの警護の武士たちが詰めていたでしょうし、日頃から討ち入りにも備えていたはずです。また、いくら早朝に寝込みを突かれたからといっても、テレビや映画で観るような赤穂浪士の「圧勝」は本当にあったのでしょうか?  毎年12月になるとこの疑問が湧いてくるのです。  ご存知の方がおられれば、どうぞお教えください。  よろしくお願いいたします。  

  • 赤穂浪士

     赤穂浪士って有名ですよね。討ち入られた、吉良上野介善央の養子の吉良左兵衛善周は生きてたんですよね。その後、諏訪安芸守にお預けになったと聞いたのですが、詳しいことが分かりません。討ち入り後の善周について詳しく教えてください。その事について書かれている本なども紹介してくださったら光栄です。  それから、四十七義士の矢頭右衛門七についても分かれば教えてください。  お願いします。

  • 赤穂浪士の討ち入りの日

    赤穂浪士の討ち入りの日は12月14日なのでしょうか。 確か当時は太陰暦だったようなきがするのですが・・・。 教えてください。

  • 「赤穂浪士討ち入り」を幕府が陰で手助け?

    忠臣蔵のシーズンです。 元禄14年8月19日、幕府は吉良義央に対して、呉服橋内から本所へ屋敷替えを命じています。 これは、討ち入りし易いようにしたのだ、という説がネット上ではいくつかありますが、ホントですか。 赤穂事件をよく知らない私には、説得力のある話もあります。 よろしくお願いします。

  • 日本人はどうして赤穂浪士を賛美するのでしょうか?

    日本人は赤穂浪士が大好きですね。 毎年12月になると、忠臣蔵の特番があります。 どうしてこんなに人気があるのでしょうか? 赤穂浪士の話は現代に当てはめてみると、賛美するようなところがないように感じます。 人物や事件の評価というのは時代によって変ると思うのですが、赤穂浪士の評価が昔も今もさほど変らないのはどうしてでしょうか? わたしの母も赤穂浪士の悪口をいうと怒ります。 わたしが赤穂浪士を賛美しない点は次のとおりです。 1、主君の浅野が変。   ・現代でいうと、国会で刃物を振り回すような行為で、そのような人物は信用できません。 2.殺しすぎ。   ・吉良家は死者16人、負傷者20人余を出しています。今こんなことやったら大変な騒ぎです。 3.吉良上野介は名君?   ・地元では、吉良上野介は名君だったといわれています。ドラマでは悪役にされていますが、真相を知りたいところです。 4.吉良上野介は被害者。   ・松の廊下の事件では、吉良上野介は明らかに被害者。なのに何故憎まれるの?逆ギレではないでしょうか? 5.復讐が楽しい?   ・復讐に命をかけるわけですが、それがそんなに意義あることでしょうか?復讐をして相手を殺害したところで空しさだけが残ると思うのですが。   ・主君が吉良上野介に殺害されたのならともかくも、事実は逆で吉良上野介が主君に殺されそうになったわけです。それで主君の仇を討ったといえるのでしょうか? 日本人は復讐潭が単に好きなだけなのでしょうか? よろしくお願いします。

  • 赤穂浪士

    そもそも浅野内匠頭の刃傷沙汰が吉良への遺恨では無く 精神を煩っていたが為の単なる「乱心」であったなら 赤穂浪士の吉良低討ち入りはただの強盗殺人だと思うんですが? 幕府が浪士に切腹を命じたのはその為だったと思うのです

  • 赤穂浪士討ち入りについて

    ちょい歴史好きのおやじです。初歩的な質問で恐縮です。赤穂浪士の仇討ちについては、吉良側は事前に察知していたようですから、幕府は当然認識していたと思います。しかし、実際は討ち入りが実行され、吉良は打ち首に。幕府は事実上見殺しにした形ですが、その理由はどこにあるのでしょうか?もし、世論を気にしてということなら、当時の幕政は世論の動向に左右されるようなものだったのでしょうか。世論という言葉は広い意味になりますので、この場合は、ごく一般庶民の見解ということでお願いします。どなたかお詳しい方、よろしくご教示下さい。

  • 赤穂浪士で有名な吉良邸の場所は?

    約300年前、赤穂浪士が吉良邸に討ち入りをした話は有名ですが、吉良邸というのは現在でいうと、どこにあったのでしょうか? ご存じの方がいましたら教えてください。m(_ _)m

  • 赤穂浪士討ち入り300年

    今年は赤穂浪士討ち入り300周年だと聞きました。 赤穂市や東京の泉岳寺などでは、何か特別な行事はあるのでしょうか。

  • 吉良邸では、どうして赤穂浪士襲撃に備えて

    吉良邸では、どうして赤穂浪士襲撃に備えて番犬を飼わなかったのでしょうか?歴史にもしもは禁物ですが、吉良邸で番犬を数匹、 飼っていれば赤穂浪士たちの襲撃を事前に察知し、ある程度の防御はできたかも知れないし、上野介義央も無惨な死に方をしなくてもよかったかも知れません。 補足 赤穂浪士たちが邸内に侵入を開始した時、それを察知した番犬たちが、いっせいに吠え、それを聞いて吉良邸内にいた者たちが不審者たち(赤穂浪士)の侵入に気づき、警戒を強化していたと思って・・・。