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現実的な解釈ができる人  できない人

 こんばんは。お世話になります。  人間には『現実的な解釈ができる人間』と『現実的な解釈ができない人間』が居るように思います。  例えば、Aさんが事実無根の悪者扱いをされている状況を見て、 短絡的に「Aさんが悪い」等と思い込んでしまう第三者は多いと思いますし、 逆に、そのような状況であっても、適切に現実的な解釈ができる人も居ます。 (もちろん、どのような状況においても現実的な解釈ができるような完璧な人間は居ないと思いますので、 現実的な解釈ができる傾向の人、できない傾向の人、等と言った方が適切かもしれません)  そこで質問ですが、まず、現実的な解釈ができる人と、できない人の違いを、 専門的な立場から、うまく説明して頂きたいと思います。 (自分でも更に調べたいので、専門用語等も教えて下さい)  次に、現実的な解釈ができる人と、できない人の割合はどのくらいなのか、教えて頂きたいと思います。 (経験談や経験から得た憶測等でもかまいません)  宜しくお願いします。

noname#90016
noname#90016

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回答No.21

buhahaさま、こんばんは、 残念ながら、心理カウンセラーではありません。 50を超えもういい加減年ですが、将来的には仕事に生かしたいと考えております。 来年は、NLPのプラクティショナーをとるのが、今のところの目標です。 > インナーとミドルの違いがよくわかりません…… そうですね、インナーとミドルは、大変にわかりづらいモノですが、 インナーは、他人と比べたり、他人に証明はできませんが、自分の中で確実に感じる感覚です。 近頃、脳科学の茂木健一郎氏の云う、クオリアのようなものかも知れません。 対して、ミドルは、インナーからの情報を得て沸き起こる感情・思い・考えなどです。 >  例えば、Aさんが事実無根の悪者扱いをされている状況を見て、 そこで、見ている状況すべてが、アウターで、 そこで、感じている空気、暑さや寒さ、見ている色、音などがインナーで、 その悪者扱いをみて、起こってくる感情・思い・考えなどがミドルとなります。 >> 他人に対する(愛)情が、問題解決能力を支える土台です。 > この辺りの理論にも興味があります。 ここ17年ほど(臨床)心理の色々な理論を学んで来ましたが、 “理論”というのでなく“前提”ですね、理屈云々ではなく、 最初に、人間に対する(愛)情=関心が無ければ、心理学は 発展してこなかったと思っています。 人間への信頼と愛情が、臨床心理学の基礎です。 ただ、元々の日本語に無い、愛なんてクサイ言葉を出すと、反発されることもよくあります、 私のような古い人間は、“情”と言った方が、どうもしっくりくるような気がします。 爆笑問題のテレビでしたが、ある大学教授(?)が 『「愛は地球を救う」ではなくて、「小さな親切は地球を救う」です。』と言っていましたが、 おお!名(迷)言だな~と感心して聞いた覚えがあります。(笑) 愛では、重過ぎますし、重い・・・大きな感情は、どうしても見返りを求める不純さが付きまといます。 “愛”の名のもとに、相手を操作しようとの意志が働くことを、愛の不純さの程度の尺度だと、 私は考えています。その為、愛別離の三苦は、愛の不純さ故に苦しみが増すものと思っています。 > 愛があるが故の不快感 相手の「裏切り」と感じる為には、なんらか相手に期待していたモノが在ったということになります、 逆に愛の不純さの無い「小さな親切なら」相手の裏切りを感じることはないことになります。 不快感を覚える時には、自分の心の期待感を反省する必要があるでしょうし 期待感を相手に伝えていない場合には、もともとその約束は無かったものと諦めましょう。 生老病死、愛別離苦の四苦八苦を超えるために、 お釈迦様は、“諦める”ことが必要だと説いています。 仏教用語の諦めとは、「明らかに観る=正確にモノゴトを捉える」という意味であり、 「現実的な解釈」の為の有効な方法でもあります。 > それに、愛を持って接すると増長してしまう人も多いじゃないですか(笑) 相手が増長したことが結果なら、やったこと(態度や言葉など=インプット)を修正し、 結果(=アウトプット)を観察すれば良い・・・(笑)と云うことになります、 「失敗」はミドルなので、考えようによっていくらでも変える事が出来ます。 結果を「失敗」と判断するのか、「成功への材料」と捉えるのかは、本人の考えひとつということです。 ・(見返りつきの)不純な愛情を、愛と勘違いしないこと ・“諦める”こと ・結果をを修正しやり直すこと ・コミニュケーションをしっかりと取り誤解を避けること なんだか、修行のプログラムのようになっちゃいましたね(汗) 以上、一応わかっていることを、書き連ねて来ましたが、 私自身決して出来ている訳ではありませんので、決して誤解無きようお願いしますね。 「わかることと、出来ることは、全く次元違う」と云うことは、私自身、身に染みて知っております。

noname#90016
質問者

お礼

 何度もありがとうございます。  インナーとミドルの違い、よーくわかりました。  腕にチクリと痛みを感じた。インナー  見ると蚊が私の血を吸っていた。アウター 「てめー! なにしやがんだ! うりゃっ」 ミドル 〈パチン!(という感覚)〉インナー  手の平に血が。アウター 「こいつ、こんなに吸いやがって! ずうずうしいんじゃ! ボケ!」 ミドル  っと、こんな感じですよね。  修行プログラムの方も参考にさせて頂きます。  さて、NO20の回答者様のご指摘どおり、『愛』という言葉は定義が難しいと思うのですが、  harrywithersさんがおっしゃっている『愛』について、もう少し詳しく教えて頂けないでしょうか。 (他の部分は理解できたのですが、『愛』に関する部分だけが、まだ理解できません)  harrywithersさんがおっしゃっている『愛』とは、どのようなものなのでしょうか? また、それは問題解決能力を支える土台の為だけに存在する道具のようなものなのでしょうか? (少なくとも、harrywithersさんがおっしゃっている『愛』と、私がイメージする『愛』とは異なるように感じました)  その辺りについて具体的に教えて頂けたら幸いに思います。  宜しくお願い致します。

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  • noname002
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回答No.22

長い投稿ばかりだと、お互い疲れますね、すでに回数も多過ぎるくらいですし、いい加減、手短にしておきます(笑) >人間は本来対象希求的である以上、そのような状況において裏切り感等を覚えるのは、 (自らが対象希求性を意識していようといまいと、それを相手に対して意図的に要求していようといまいと)ごく自然なことだと思うのですが、その自然な状態を、どのようにして乗り越えるか。それとも乗り越える必要など無いのか。 「ごく自然なこと」ええ、そうです。そしてまた、相手が自分の期待に報いてくれてもくれなくても、それも相手側の「自然」なわけです。 私は「自然なこと」を乗り越えるべきか捨てるべきかといった悩み方はしません。だって「自然なこと」ですもの。基本はシンプルでいいんじゃないかと思っています。 このあたり、ちょっとテグジュペリの『星の王子さま』を思い起こしました。 ただ、敢えて「手放す」ことも、時に必要かな、と思っています。 問題になるとしたら、その「自然なこと」が「不自然なこと」になってしまって、自分自身の苦の種になる場合でしょう。 コミュニケーションがとれていて、ふだんから本当に、かみ合っていれば大概は自他共に、そう大きくはずれた結果にならないだろうと思えますが、それでも最終的には蓋をあけてみなければ分からないものです。だって自分と他者は違う生き物ですから。たとえば >シンドイ話は無しにしましょうよ これも私がシンドイことはないので全く心配していただくことはないのです。本当に自分がシンドイなと思えば、そうできる限り、とっとと距離を置きます。同時に、こういう話をすることが別段、私自身に「プラスになる」わけでもありません。まだ思い出すことすら避けたいくらいの渦中にあれば口を閉ざすかもしれませんが、回答者として私なりの一応、結論に至ったまでのプロセスとして説明したに過ぎません。こういう話題に関して、いきなり結論だけ言ってもサッパリ分からないでしょうし。むしろ説明を受ける側のほうがシンドくなるかもしれないとの危ぶみはありましたけど。 まあ、そもそも話題が話題ですから、どうしても重たい話になりがちですね。 ANo.19さまが教えてくださった『ゲシュタルトの祈り』これ、私も以前どこかで読んだことがあるのですが 「私は私のために生き、あなたはあなたのために生きる。  私はあなたの期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。  そしてあなたも、私の期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。」 このあたり、非常に重要なところだと思います。 他者は(そして自分自身すらも!)自分の思い通りにならない。これは長く生きていれば誰しも多かれ少かれ実感することでしょうね。 心理学は、もともと欧米発祥のものですし、「愛」なるものの考え方も日本人のそれとは、だいぶ違うかもしれません。あちらは、あらゆる学問の基底にキリスト教の精神がガッチリと組み込まれているそうですから。

noname#90016
質問者

補足

 ほんと、たくさんの回答を頂きました(笑)  でも、ほんとにありがたいことです。感謝感謝です。  さて、「自然のままで構わない」とお考えなわけですね。 了解致しました。  現時点における個人的な見解を申し上げますと、(この問題に関しては) 自然のままで居ることに対する疑問を、払拭するまでには至っておりません。 『不自然なこと』を『自然なこと』に変えるのが成長だと思いますし、 もう少し答えを探してみようと思います。(「少し」で済むだろうか;) >相手が自分の期待に報いてくれてもくれなくても、それも相手側の「自然」なわけです。  そうですよね。 (その『自然』が許されるものなのか否かは別問題ですが) >ただ、敢えて「手放す」ことも、時に必要かな、と思っています。  そうですね。  私の場合、惨めな生き方はしたくない、という気持ちが強くて、 そんな気持ちがあるから手放せないんですよね。 >問題になるとしたら、その「自然なこと」が「不自然なこと」になってしまって、自分自身の苦の種になる場合でしょう。  そうですね。  その苦が、無意味な苦なのか、試行錯誤なりトレーニングなりになっている有益な苦なのか、その辺りが問題ですよね。  まあ、もっと大きく見れば、無意味な苦など無いと思いますが。 >いきなり結論だけ言ってもサッパリ分からないでしょうし。  ホントそうなんですよね。  それに、いきなり結論パターンでは、その判断を導き出した論理が支離滅裂だったりすることも多いじゃないですか(苦笑) >むしろ説明を受ける側のほうがシンドくなるかもしれないとの危ぶみはありましたけど。  お心遣いありがとうございます。なんて優しいお方(涙) でも、ぜんぜん大丈夫ですので、ご安心ください。 (言われても、なにがシンドイのか理解できていないほどですから 汗)  なお、「自分を問うこと」等といったお話が私に対するものであれば、その辺りはご安心ください。 知り合いの精神科医に驚かれるほど自己分析しておりますので(笑) もちろん、まだまだ十分とは言えないでしょうが。 『ゲシュタルトの祈り』は、私も何かの本で読んだことがあるのですが、 一つの『論理の出発点』みたいな感じなんでしょうかね。  個人的に興味があるのは、相手がゲシュタルト的な価値観を持っていないケースです。 つまり「私はあなたの期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない」に反する人間、 「お前は俺の期待に応えて行動するために、この世に生きているんだ!」的な人間に対して、 心に生じるであろう不快感等、何らかの問題を、どのように扱うのだろうか? ってことですね。  でもって、この辺りで食事してきます。もうペコペコ……

  • noname002
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回答No.20

>ちょっとカナブンがうるさいので、この辺りで勝負をつけてきますね。 現実を身をもってわからしてやります!笑 先日、参加した『昆虫の命の大切さ』という質問スレを思い出してしまいました。 まあ、カナブンブンには、トシくった人間のような邪気はカケラもないことでしょう。(笑) 一昨年の年末でしたか、郵便ポストにハガキを投函しようとしたら、下にノラと思しき猫たちがいて、なぜか目をラキラキさせて食い入るように私の顔を見つめてくるので、交通量の多い道端ということが気にかかり、「車に気をつけなアカンよ~」と声をかけると、なかの一匹が代表して「ニヤン!!」とビックリするくらい元気良く、お返事してくれました。実家の父に、その話をすると「おっまえはなあ、、、猫にそんなことをゆっとるのか、ふはは」と呆れて苦笑されました。ええ、むかし飼ってた猫ともなりますと、オイタが過ぎたときなど「アンタはねぇーっ!!」と激しく説教したりして、亡母にも「猫に、そんなこと言ったって」と呆れられました。(笑) 御熱心な質問姿勢でいらっしゃって、私も、ついつい長文になってしまうのですが、段階ごとに、お尋ねになりたいことを、つど明確に煮詰めてこられるので、こちらとしても答え易いです。 >理性ではわかっていても、不快感が生じることありませんか?その手の輩にふざけた態度を取られたときに。  私の場合「(その程度の人間に対して)これっぽっちも心を乱したくない」という気持ちがあるのですが、その一方、ブッ飛ばしてやりたくなるときもあるんです(笑) はいはい~大いにございますとも!!(大自信+力こぶ) 「こやつごときに心乱されるだけ大損するわ!」気分になりますね。「こちとら、そこまでヒマじゃねーのよ!」(笑) 必ずしもフザケそのものに立腹するわけではないのですが、その度が過ぎたりして実際、不愉快だから止めてね、と言っても止めるどころか、もっと調子に乗ってエスカレートしたり(このあたりの心理も、おおよそ察しはついてます)そのために実質の弊害が出たりしたら私のなかで、ピキーンとスイッチが入ります(笑)そしてココロのなかで呟きます。「とうとう、やってしまったね。。。」(不気味な笑) >でも難しいですよね。優しさ等を持つと困ったチャンが増長しますし、「優しさを持つが故の不快感」ってあると思うんですよね。 このような状況を、どのようにして乗り越えるのか… 確かに難しい。とくに加減が。 「困ったチャンの増長」というのは大概は「試し」です。その要求は「許し」です。と言ってホイホイ許すと味をしめて何度でもマタゾロ、「あの時は許してくれたのに、なんで今度はダメなの~?!」などと、ずうずうしくもノタマウことがあるので、ホント、「チョーシこき過ぎだっちゅうの!破邪顕正!!」とドヤシつけたくなりますねっ!!しかも、これがオッサン・オバハン・ジイサン・バアサンの年齢ともなりますと破邪顕正も通り越して「アナタたち、とっても元気ね。。。もうエエから、あっち行ってくんない?」と脱力します。。。こっちのからだのほうが持ちまへん。 No.19における遣り取りからで差し出がましいのですが 「人に対する(愛)情」ということ 私は常々「愛?それ、なあに?」とか思ってしまうのですが(笑)まず何をもって「愛」とするのかが難しい。 >「愛があるが故の不快感(裏切られ感に由来する不快だと思われます)」 まあ恋愛感情などは特にそうですよね。 仰るところの「裏切られ感」こうしたものが伴う場合、それを「愛」と呼ぶにふさわしいだろうか? 「愛」に「裏切られ感」が伴ってしまうのは、前提として、自分のための報酬を求めているからではないのか? では、敢えて解釈を加工する(要するに、ムリくり、イイように解釈を施す)ことで「裏切られ感」を避け、ひいては恨みや憎しみの感情を避け得たならば、それは「愛」と呼ぶにふさわしくなるのか?? >「愛があるが故の不快感」を避けるために、愛を捨ててしまう人 >それに、愛を持って接すると増長してしまう人 仏教の教えでは「愛」というものも執着のタネと見做すそうで、けっして良いものとは考えないみたいです。なかなか定義が難しいのですね。 私の個人的経験からの感慨ですが、「増長してしまう人」のみならず「増長させてしまう」愛って、なんだろか?ということです。 自分を問う。困難ですし、厳しい辛い、避けたいことです。でも、これをやっておかないと自分を棚上げ、独り善がりに陥り、そのために、いつも他者に「自分可愛さのための怒り」を燃え上がらせていなければならなくなります。私なんか、からだ弱いですから、じき燃料切れ、テキメンに体調崩します。そして、そのために、ますますアタマにきます。 私は、ぶっちゃけますと、薄々お察しいただいてるかもしれませんが、子どもの時分から、あらゆる人間のタチの悪い汚さ醜さを恐らくは一般の数倍みてきております。ですから「愛を持たねば」と言われると「何それ?」と冷ややかな反応を返したくなる面がございます。 無理することもなかろう、と思うのです。まずは、そういう自分であることに気づくことです。気づくのは辛いこともあるでしょうが、そうしないと次の段階に行けない。でないと自分ばかりを棚にあげて、他者に対しては「おまえには愛がない、もっと、もっと私に愛を寄越せ!!」と、それこそ愛のない強迫をイケシャアシャアと要求するばかりの人が、のさばり出てきたりします。こういう人の「愛の行為」なるものが、これまた傍迷惑な独り善がりだったり。論より証拠に、こういう人の「愛の行為」は結局、誰も救いません。なぜでしょうか。 先々回の投稿でしたか 「第三者の方々のなかから鵜の目鷹の目のごとき関心を集めるというような情況まで招き、それが、いっそう私の不快を募らせました。このことは私にとって大いに「直接の重要性」を感じさせることとなったために、その後の情報収集と、その分析へと向かわせる動機づけとなったわけです。」と申し上げましたが 他者を怒らせる人の目的は、まさに、ここにあります。要するに「乞う!関心」です。好意的な感情を得る自信或いは、その実績に乏しい人の場合、「怒り」を誘発することは最も手っ取り早い手段です。つまり「怒って欲しい」のです。当然、本人自身も大いに怒っております。ですから、それに応えて易々と怒る人は、お望みどおり「怒ってあげて」いるわけで、先方は内心で舌なめずりして喜んでいるはずです。共振リズム最高じゃん!いっしょに揺れようよ!!ってとこですね(笑)その手は桑名の焼きハマグリ(笑) でも「怒らせたい」人は「試す」ことが仕事として生まれついているのかもしれませんね。言わば人類の「汚れ役」(笑)別に、そんな役、なくてもいいような気もするんですが。。。べつに本人喜んで引き受けてるわけでもなさそうですしね。 ANo.19さまが挙げていらっしゃる「ガキ大将」なる存在の有益については実は私の母も申していたことでした。 また「情報リテラシー」ということに関して、以下のような、当カテゴリーでの、かつての質疑応答がありました。少し長いですが御参考ください。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2339602.html ANo.19さまは「俯瞰」ということも挙げてくださいましたが これは自分一個にしがみついている状態では、結局できないものでしょう。 これができるのであれば、あるいは大いに怒ってよい、いえ、怒るべきなのかもしれません。自己利益のみに由来した怒りは所詮それだけの結果しか招かないことだろうと思います。しかし「俯瞰」した怒りであるならば、その怒りの処し方には何者かの智恵が与えられるのかもしれません。それは多分、最強です。 このあたりの結果は、その遅早にも顕れるもののようです。 やはり、まずは自分を問うこと、でしょうね。「ブッ飛ばしてやり」たければ、なおのこと(笑) 実際、自分を棚上げしてる人の言うことなんて、言ってることと、してること、まず言ってること自体が稚拙なまでにチグハグですもの。そういう人は、仮想敵づくりが好きというのか、ほぼ一貫して他人のことばかり悪し様に言いますから、すぐ分かります。(代わりに、味方と見做したい者にはベタ甘。自分に対して、そうであるように)でも、その臆面のなさを見てると、そのチグハグにすら気づけないのかなあ?って思います。ねっ、カワイソウでしょ?(笑)なかには一応の「臆面」が文章に出てしまってる人もおられますけど、これもまたトラブルの種(笑) 他者を鞭打つのはカンタンかもしれませんが、おのれを鞭打つのは難しいことです。 逆に言えば、徹底的に自らを鞭打った者、それに耐えられた(つまりは受容できた)者だけが他者を鞭打つことができるのかもしれません。 なかなかシンドイ話になってしまいました。;´д`)          

noname#90016
質問者

お礼

 いつも素早い回答、ありがとうございます。  カナブンは生け捕りにして逃がしてやりました。 でもカナブンは、自分の力で切り抜けたと思い込んでいるかもしれませんね。 いまごろ仲間内で武勇伝を語っているかも(笑)  さて、『愛』についてですが、確かに曖昧な言葉ですよね。  まあ、何にしても、人間は本来対象希求的である以上、そのような状況において裏切り感等を覚えるのは、 (自らが対象希求性を意識していようといまいと、それを相手に対して意図的に要求していようといまいと) ごく自然なことだと思うのですが、その自然な状態を、 どのようにして乗り越えるか。それとも乗り越える必要など無いのか。 そもそも乗り越えることなどできないのか。愛を捨てることが最善の方法なのか。 そんな疑問があり、質問をさせて頂きました。  ごめんなさい、ちょっと出かけなくてはならないので、取り急ぎ補足までとさせて頂きます。  あ、それと、シンドイ話は無しにしましょうよ。 もちろん、シンドイ話をすることがnonami002さんにとってプラスになるなら良いのですが…… なんだか心配になっちゃいます。  では、いってきまーす

回答No.19

まだ締め切られていなかったので、再び参上しました(汗) この二週間ほど、ネットにつながらなかったり、 一週間ほど、心理療法のトレーニングに参加しておりました、 久々に覗くと、凄い書き込みですね、 「現実的な解釈」の現実的な解釈とは何か、との言葉の解釈にこだわる向きもありそうですが、 何んだか、犬やネコが、自分の尻尾を追いかけてぐるぐる回るような議論になりそうなので あえて触りません(笑)(←まあ一種の逃げですネ) 今日はちょっと違う方向から・・・ 先回は、流して書きましたが、buhahaさまの問われた、「現実的な解釈」の先には、 「現実的な解決」を想定しているように思います。(私の勝手な解釈でしたらスイマセン)) その意味では、前回書きました(1)の情報処理能力の高さ≒(2)問題解決能力、となります。 大きな会社などでの管理者研修などでは、(1)(2)を合わせて、 マネジメント能力と呼び、それを、鍛える研修などを行っています。 このマネジメント能力を個人に応用することで、「現実的な解釈」と「問題の解決」が可能です。 私には、全ての訓練を書く能力も記憶力もありませんが・・・主に下のようなものです。 1)情報取得能力(注意力、整合性のチェック、態度、偏見・思い込み排除などなど)の向上   ↓    2)情報処理能力(重要度、優先順位、解決につながるかのチェック、問題の根本は?   ↓    何が本当の問題か、解決した時、他の問題は起こるのか?などなど) 3)問題解決能力(問題解決に最適な方法は?、ふさわしい人物は、時間・タイミングなどなど) このように、理路整然と書くと簡単そうですが、現実には難しい面も多々あります。 しかし、このような(ある意味面倒な)努力をしないと、現実は真実を垣間見せてくれないのも事実です。 このような、マネジメント能力は、義務教育などで意識して教えられる訳ではない為に 学業の成績の良さなどに、あまり係わりなく、むしろ、昔のガキ大将・・・ 沢山の子分を従えて野山を駆け回っていたガキ大将タイプに、この能力を発達させた人が居たりします。 最後に、もう一つ、「情報リテラシー」との考え方があります、(参考URLに貼り付けて置きました) これも、「現実的な解釈」の為のひとつの手法かと思います。 さて、ついでに、(問題と関連させながら)前回の課題に答えてみます。 ---------------------------------------------------------------------------- >  さて、「もう一人の客観的な自分自身を訓練して作り出していることが必要になります。」 > ・・・・中略・・・・ それはどのような状態なのか、 > どのような訓練が必要なのでしょうか? > 人格を分裂させてしまう等、何らかの弊害は無いのでしょうか? 先ず、人格を分裂させる訳ではありません 人格はあくまでひとつですので、弊害などはありません。 言わば、クライアントに真剣に誠実に向かい合って相手の苦しみまでを取り込んでいる自分自身と、 それを、うしろ側やあるいは俯瞰で眺めている自分が居るという感覚です。 理論的にいうなら、カウンセリングに入り込んでいる自分と客観視している自分の意識とを 瞬間的に切り替えているのだと思いますが、感覚的には、どちらも両方存在している感じです。 サッカーなどで、上手い選手が敵陣にいる見方へのパスを出すときに、 ボールを蹴る位置・角度・強さなどを瞬間的に判断しながらも、 敵味方の全体の配置(動き)を感覚的に捉えているそんな、状態です。 テニス・卓球・野球などの、相手のある球技などは、目の前の球(シャトルなど)に 全力で向かいながらも相手の動きを把握しなければ、競技に勝つことが出来ません。 競技でも、予測に予断が入ると、判断を誤りミスや失点につながります。 さて、訓練ですが、上記のようなスポーツも意識して行うことで 相当な訓練になるかと思います。 一応、心理的に大きな傷を背負った人間でない限り、ひとつのことに 集中し夢中になった経験があると思いますし、集中力の訓練は、検索すると 色々な方法がでてきますので、少し割愛します。 ゲシュタルト療法のトレーニングでは、今起こっていることを下の三つに分類します・・・ ○インナー (身体の内側で感じている感じ、他人とは比較できないが、内部で確実に起こっていること) ○アウター (外側で起こっていること、他人と比較し検証することができる事実) ○ミドル  (身体の外側で起こっていることによって引き起こされて起こる感情や気分) 例えば、私は今、キーボードの圧力を指先に感じながら、(インナー) この文章を打っています。(アウター)扇風機のやわらかな風を心地よく感じています。(ミドル) この様に、今私自身に起こっていることを、インナー、アウター、ミドルに分類していきます。 これは、事実と事実以外の出来事を取捨選択する訓練と共に、客観性の訓練にもなりまし、 いつ、何処ででも実行可能な訓練です。 -------------------------------------------------------------------------------- そして、「ゲシュタルトの祈り」と呼ばれる、 ゲシュタルトセラピーの創始者のF・パールズの好んだ詩があります。 『私は私のために生き、あなたはあなたのために生きる。  私はあなたの期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。  そしてあなたも、私の期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。  もしも縁があって、私たちが出会えたのならそれは素晴らしいこと。  出会えなくても、それもまた素晴らしいこと。』 上記の、マネジメント能力も情報リテラシーも、ただの問題解決だけで 人(他人に)対する“情”(愛情、なさけ、親切など)が無ければ、 例え問題が表面的に解決しても、どこかに冷たいシコリが残るものです。 クサイ結論かもしれませんが、他人に対する(愛)情が、問題解決能力を支える土台です。 このように、「現実的な解釈」が出来るためには、 人(他人)愛情をベースにかなりの経験、知識、訓練などが必要です、 他人に惑わされない自立性や起こったモノゴトに対する責任感も大きく関わります。 反対に、「現実的な解釈」を放棄するには、上記の反対で、 経験、知識、訓練などの面倒なことは必要なく、裏切られるかも知れない愛情も 責任感も自立性も必要なく、他人の歪んだ世界観を無批判に受け入れれば良いだけなので、何よりも楽です。 長々とスイマセンでした。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%85%E5%A0%B1%E3%83%AA%E3%83%86%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%BC
noname#90016
質問者

お礼

 おかえりなさーい^^  私もチョット前に、数週間ネットに繋がらなかった時期があるのですが、そりゃーもー不便でした。 天気予報ひとつとっても、ネットなら自分が知りたいときに見れるのに、 テレビだと時間が来るまで待たないと駄目なんですから。なんだかんだやってるうちに見逃してしまったり…… かといって電話で聞くとお金がかかるし(え? セコイですか?笑)  心理療法のトレーニングということは、心理カウンセラーの方でしょうか? どうりで詳しいはずですね。  ゲシュタルト療法は名前だけは知っていましたが、そういう理論があるのですね。 たいへん興味を持ちました。さっそく入門書みたいのを探してみますね。 (ごめんなさい、その訓練法にも興味があるのですが、インナーとミドルの違いがよくわかりません……汗) >他人に対する(愛)情が、問題解決能力を支える土台です。  この辺りの理論にも興味があります。  解決能力の問題を抜きにしても、人が愛を持って生きることは価値あることだと思います。  harrywithersさんも「裏切られるかも知れない愛情」とおっしゃっていますが、 「愛があるが故の不快感(裏切られ感に由来する不快だと思われます)」ってあると思うんですね。 (裏切られ感の原因は愛だけに限らないと思いますが、冗長になりますので、ここでは『愛』に限定させて頂きます) 「愛があるが故の不快感」を避けるために、愛を捨ててしまう人だって多いと思うんです。  それに、愛を持って接すると増長してしまう人も多いじゃないですか(笑)  このような状況を、どのようにして乗り越えるか。これが愛を持って生きる人間にとっての、 一つの課題ではないかと思うのですが、なかなか答えに辿り着けません。 (この辺りの疑問を解決する知見があれば、是非とも教えて頂きたいです。よろしくお願い致します)  前回の質問に対する答えも、ありがとうございました。  参考になりました。

  • noname002
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回答No.18

「PCが壊れて」しまわずに済みましたか?(笑)今年は例年に比べ雷が多いそうですね。 先回は大変長い投稿になってしまいまして御読みになるのに骨が折れましたでしょう。 >母には「言うことを聞かないと、この家に、お前を置き去りにして、おかあさんだけ出て行くからね」と毎日のように脅され と申しましたが、「おかあさんを怒らせるようだと、おかあさんは、からだが悪いんだから死んでしまうよ。でなければ、おかあさんは毒薬を隠してあるんだからね、それを飲んで死んでしまうから」とも脅されていたのを、あとから思い出しました。フラッシュバック状態?(笑) それと「お前のお父さんは」「お前のお父さんは」二言目には父親の悪口ばかりでした。確かに言われても仕方ないようなところのある男ですけど、いまの私だったら「私の父親と言う前にアンタの亭主でしょうが。それも自分から詰め腹切らせて押し掛けて来たW不倫のデキチャッタ婚でサ!」と言い返すんですがね(笑) 締め括りは必ず「お前は、そういうおとうさんソックリ!!」まったく何ちゅうことを言う親でしょうか。まだ幼稚園にも行かない年齢の子どもをつかまえて。申し訳なくて、ただうなだれていた幼かった私が自分で不憫になってしまいます。しかも父親や義理のきょうだい特に姉は親も認める意地の悪い性格でして父と口を揃えて「アンタはアンタの母親ソックリ!!」ときたもんです。典型的「板挟み」状態。いま振り返ると、きょうだいたちと年齢が離れていて一番幼い、家族のなかで最も立場の弱かった私が、家族全員からスケープゴート扱いだったんですね。しかも、それと同時に非常に依存されてもいたことに後年になって気がつきました。私ばかりが母に依存していると思い込んでいたのですが。 愚痴っぽくなってしまい失礼しました。 母には私が子どもの頃から「お前は嫉まれやすい」と、よく言われましたが、私自身は障害を始めとして人さまよりも不利な条件に事欠きませんから、いったい何を嫉まれるというのかトンと分かりませんでした。恐らく、私を一番嫉んでいたのは母自身だったろうと思います。そしてそれを本人は全く自覚してもいなかったことでしょう。 さて >現実的な根拠が無いのに人を悪者扱いしたり侮辱したりする人間や、そのような人間が居る世の中に対して、どのような精神状態や信念等を持って望むのが良いとお考えでしょうか? との、お尋ねですね。 御質問者さまは、こうしたことで何か実際に悩みを抱えていらっしゃるのでしょうか。 先回までの投稿で「現実的な根拠が無いのに人を悪者扱いしたり侮辱したりする人間」については、その余裕のなさかげんや、内なる動機の強さ等といったことを指摘してみましたが、だからといって、そういう「困ったチャン」と直接の利害や関わりもないのに「教育的指導」とやらを行うという親切ばかりもやってられません。ましてイイおとなともなりますと「その歳こいたら自分で自分のめんどうみなさいよ!」と突き放したくもなりますよね。「アンタの子じゃなし孫じゃなし」(笑) そうなると確かに「そのような人間が居る世の中に対して」どう臨むか?ということになってきますね。 私は「信念」というようなものは、どうもムシが好きません。周囲に「信念」のカタマリみたいな人が多かったせいでしょうか、はた迷惑なイメージがあります(笑) そうですねぇ他人さまの「精神状態」まで責任持つのは限界ありますから結局、まずは自分の「精神状態」をどうするか?ということになってきますね。 一番望ましいのは、間違った判断それも明らかであれば、なおのことですが、その人に、より近しい人が注意してあげるべきなんです。 まさに、判断力の乏しい子どもに対しては親や養育者の立場にある者が責任持って指導しますが、究極そういうことなんです。 たとえイイ歳のおとなでも脳に何かの問題がある場合など特にそうですが、本人に、どこまで思考や判断の責任を問えるのか?ですね。そして、行動に明らかに大きな問題が出てしまっているとき、周囲は、それをどうするのか?ということです。 頭のなかや内心で思ったり考えることについてまでは、他人に(そして往々本人にすら)どうこうできませんので問題は、事前に対処防衛できかねる第三者が実際の被害を被ってしまう前に、誰が、問題行動を起こす人を導くかサポートするのかということだと思います。 その意味からも私は、内面的に重大な問題を抱えている本人そのものよりも、その身近の周囲の態度のほうが、もっと気になります。最近よく見かけるイジメの話題でも、見て見ぬふりをする周囲のほうが問題視されてきているようですが、まして「尻馬に乗る」ごときは、何をかいわんや、です。 「イジメっ子の潜在的被害者意識」「イジメ」行為を行う本人自身は、実は、それが「正義」であると盲目的に信じて行っている、という説があるそうです。 要するに先回も申し上げた「自己主観の甘さ」ということにもなるのでしょうが、そうした人の「尻馬に乗って」しまう人が、なぜ自分は「尻馬に乗り」たいのだろうか?と自身に問うだけの知性があるかどうか、これは穿った見方かもしれませんが「尻馬に乗り」たい自分に、よしや気がついていたとしても、その誘惑をコントロールできるかどうかが最終的には問われると思います。 ですから、気がつけない自覚できないというのは、ごくごく初歩段階、お話にもならない段階です。 「邪さ」というものを些かも知らない幼な子にしか許されません。 「脳に問題がある」ような人と分かっていて、敢えて、その「尻馬に乗る」ような場合、その誘惑が自分のなかの何に由来するのかを探らなければならないでしょう。でも、それをできる人は少ないだろうと思います。 数のうえから言って脳の問題が大きい人は少数派でしょうし、こういうことは必ず一定の割合で出現するものだそうです。ですから現実に重要なことは、やはり問題の発端となった人よりも、その周辺の人の態度が問われるべきと思います。 明らかな問題行動を起こす人も、そういう人に被害を被ってしまう人も、ともに全体的には少数派だと思いますが、周辺の人々というのは圧倒的多数派でしょう。一番、鍵を握っています。 内部的に異常性を抱えている人に追随してしまうようなことは、直接の被害を被る人ばかりが真っ先に淘汰の憂き目に遭うように印象されるでしょうが、それだけに留まらず結局は回りまわって全員が自分で自分の首を絞めることになる、つまり最後には共倒れになるということです。 全くのアカの他人なら、逐一関わって、めんどうみるわけにもまいりませんが、せめて自分に近しい人、その事情を多少なりとも知っている間柄であれば、それなりに応じた責任を持って対処する、こういう態度が最低限、必要であろうと思います。 最近つくづく思うのですが、人前で恥も外聞もなく、まるで小児が駄々こねて引っくり返り手足をバタバタさせながら自分の要求を通せと喚き散らすような人を見かけると、「このトシになってなあ…」と思わず呆れさせられて(発達心理学的には、どこかの段階で取りこぼしがあると、幾つ何十になっても、そのレベルで発達が停滞してしまうんだとか?だから幼児性や浅はかさや極度の依存を責めるのは、心理学に無知なアンタが間違ってる!!と責められたことがあります。私に言わせれば、その自称「心理学徒」のほうが何か思いっきりカン違いして甘ったれてるんじゃないかと思いましたけど)以前は、ただただ嫌悪と怒りがこみ上げましたが、近ごろは「ああ~自分が、こんなプライドをカン違いした情けない姿を演じなければならないような役回りでなくてよかった~」と思うようになりました。大金積まれても、どんなオイシイ条件を提示されても、こんな役回り、マッピラです。その意味で、彼ら、かえって気の毒な人たちだなぁとも思えるようになりました。 但し、容易に窺い知れることですが、こういうタイプは得てして野心マンマン、エネルギー満々です。まぁ当人にとっては哀しいことにと言うか、よくしたものでと言うか当然というか実際は能力的にも立場的にもイマイチ中途半端ということが多いようにも思われますので、ある意味、辛うじて救いになってるかなあとも思うのですが、人の世界のあらゆる場所において、このテの人に強力な実権を握らせることだけは用心しなければなりません。 歴史を振り返ってみても窺えることですが、特に、いまは核兵器に代表されるような歴史上未曾有の重大な危険と隣り合わせの時代です。大衆は、これまでのような「愚か」の代名詞に甘んじず厳しく知性を磨かねばならない時代になったと思います。 自分がイイほうにまわりたいのは誰しもでしょうけれど、自己主観の甘さを戒める知性の重視と共に、どうしても、それを持ち得ぬ人に対する周囲の者の態度の慎重さ、「情けは人のためならず」とくに「あすは我が身」ということを噛み締めることだと思います。 「困ったチャン」たちから直接被害を受けてしまうこと、これが一番、自分自身にとって避けたい問題なわけですが、これを完全に事前に防ぐことは、現実、ほぼ不可能です。不幸にも「困ったチャン」に遭遇してしまったあと、どう戦い或いは切り抜けるか、これはもう修行ですね。自分を守るのは最後は自分自身です。「天は自らたすくる者をたすく」。 宿命的なまでに、こういう運びになりがちな人は、それでも生き抜いていこうと思えば、だから人並みはずれて強くならざるを得ないのです。それには自己主観に対する厳しさも含まれます。そして優しくもなるのです。 「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格はない」といったところなのでしょうか(笑)                 

noname#90016
質問者

お礼

 いつも詳しい説明ありがとうございます。  なぜか家の中をカナブンのような虫が飛び回っている為、そいつと格闘しながらお礼を書いてます。 >他人さまの「精神状態」まで責任持つのは限界ありますから結局、まずは自分の「精神状態」をどうするか?ということになってきますね。  おっしゃるとおりだと思います。 >「ああ~自分が、こんなプライドをカン違いした情けない姿を演じなければならないような役回りでなくてよかった~」と思うようになりました。  こちらもおっしゃるとおりだと思います。  私も理性のうえでは同じような考えを持っています。それが道理だと思います。  しかし、理性ではわかっていても、不快感が生じることありませんか? その手の輩にふざけた態度を取られたときに。  私の場合「(その程度の人間に対して) これっぽっちも心を乱したくない」という気持ちがあるのですが、 その一方、ブッ飛ばしてやりたくなるときもあるんです(笑)  そのような状況もあり、質問の主旨からは逸れてしまいましたが、noname002さんは色々と考えていらっしゃるようなので、 その辺りについて具体的なお話が聞けるかと思い、質問をさせて頂いた次第です。 「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格はない」も、ホントそうですよね。  でも難しいですよね。優しさ等を持つと困ったチャンが増長しますし、「優しさを持つが故の不快感」ってあると思うんですよね。  このような状況を、どのようにして乗り越えるのか……  これが優しさを持って生きる人間の課題だと思うのですが、 なかなか答えが見えてきません。(もし答えをご存知でしたら、教えて頂けたら幸いです)  ちょっとカナブンがうるさいので、この辺りで勝負をつけてきますね。 現実を身をもってわからしてやります!笑

  • noname002
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回答No.17

ANo.16です。 確かに急に涼しくなりました。私は暑がりなので助かりますが、これから寒さ侘しい季節へ一直線かと思うと名残惜しさも。。。夏には夏の、冬には冬の風情情緒あり、ということですね。それにしても、よく鍛えてくれはる(笑)何年生きても暑さ寒さが平気になるということがありません。 さて、今回グッと長くなりそうです。お茶やコーヒーでも用意なさってくださいね。私もアイスコーヒーを飲みながら作成しましたので(笑) >『できる傾向にある人』と『できない傾向にある人』の割合は、時代によって変化するような気もする  もし、回答者様の人生において、そのような変化を肌で感じ取った経験がありましたら、 また、そのような変化を示す知見がございましたら、その理由等について、ご教示を頂けたら う~ん、大概何につけても「傾向性」というものは時代によって変化するものだろうと思いますが、今回の話題に関して、時代による変化というものを感じ取ったと言えるような経験は私には、これと言って、ないです。むしろ、こういう問題は時代とは無関係な普遍的問題なのかなぁと思います。但し「私自身も、将来への深刻な不安に苛まれていた若い頃ほど思い当たるところが少からずあったと自覚しております。」と述べましたように、個人の人生の流れのなかでは大なり小なりの変化はあるのが自然だろうと思います。 私の実際の重大な経験として一つの例をお話ししましょう。 私は、もともとマザコンと言うべき母親っこでして、それは幼心に父親が人間的に信用できなかったから余計に母親べったりになってしまったのですが、その母には「言うことを聞かないと、この家に、お前を置き去りにして、おかあさんだけ出て行くからね」と毎日のように脅されてビクビクヒヤヒヤしておりました。暴力的な父親や義理のきょうだいたちと取り残されるなんて想像するのも恐ろしかったのです。母の言うことは絶対で、母は私にとって法王のごとき存在、生きた法律として君臨していました。ですから自分が幼児期に背負った障害の問題についても完全に母の支配下にあり、自分自身で自分の問題を検討判断することが一切許されていなかったのです。 ふだん日常では、子どもの頃から何につけても優秀な、手腕の水際立った能弁な人として注目を集める、しかも実に容姿端麗な人でしたから、誰もが母を賞賛しこそすれ、正面きって批判することは難しかったのです(その分、隠れた敵も多かったようですが)。ただ、生い立ちや家庭に関しては苦労の多い人でした。病気がちでもありました。 しかし私が学校に通うという社会への第一歩を踏み出し始めると、とたんに躓きが明らかになります。それは年齢を重ねるにつれて毎年毎年、雪だるま式に膨れ上がっていきました。 やがて、昼行灯のごときボンヤリした私も、さすがに自分を無理やり納得させ続けることが困難になりました。それまで飽くまでも母の意向に沿った納得を、無理な論理を駆使して自分に強いていたのです。そのため私は、いつも疲れていて自分の幸せにとって肝腎なことすら後手後手に回っていました。 やがて母が病死したあとになって、母が私に犯し続けていた手酷い仕打ちの内容を否応なく知ることになったのです。それと同時に、母の脳に或る種の遺伝的異常があったということも。 >「脳の問題で片付けてしまうのは無理があると」につきましては 「現に現実的な解釈ができる傾向にある人と、できない傾向にある人がいる以上、それを、すべての人間に共通する脳の問題で片付けてしまうのは無理があると思った為、質問を続けさせて頂いた次第です」ということです。  以前のやり取りにおける「脳の問題」とは「個別に備わった脳の問題(または傾向)」等という意味ではなく「すべての人間に共通に備わった脳の問題」等といった意味で用いられていた為、そのような話になったわけです。 「個別に備わった脳の問題(または傾向)」等という意味であれば、無理があるとは思いません これまでの遣り取りを拝見していて改めて思ったことですが いわゆる「思い込みが激しい」というのは、先回申し上げた「詰まるところ安易であり怠惰」「要するに無批判でステレオタイプ的固定的」「個人レベルに立脚しようが世間一般レベルに立脚しようが、どちらでも当人にとって、よりラクなほうを選んでいるだけ」「こうした傾向性のある人というのは決して珍しいわけでなく、むしろ一般的」ということは、補足いただいた >「すべての人間に共通に備わった脳の問題」等といった意味 のほうへ繋がっていくことだと思います。ですから、これはこれで一つの理論的見解であろうと思います。ことに自分自身の主観に対する盲目的なまでの甘さ、このメカニズムを検討したときに、この見解は頷けるものがあります。 が、しかし御質問者さまの御真意は、それを越えてなお >「現に現実的な解釈ができる傾向にある人と、できない傾向にある人がいる以上、それを、すべての人間に共通する脳の問題で片付けてしまうのは無理があると思った ということにあると了解しました。 ANo.3さまの御回答中から >自分の知らないことばかりの関係で、入手した情報が~というだけの場合に、事実関係を確認するのは無理ですから本当はその情報の正否妥当性の判断は困難なのですが、~という解釈をしてしまう人も多数発生します。 これは私自身の身の上にも実際起きたことがありました。 私も、ふだんは、どちらかと言えば他人に関心が薄いほうで、自分にとって直接の重要性がないと思える場合は、相手側から示された一方的情報を、その真偽について、あまり追求する気にもなれずに至って素直に安易に受け入れてしまう傾向はあります。 この或る出来事については、なかなかの紆余曲折がありまして、第三者の方々のなかから鵜の目鷹の目のごとき関心を集めるというような情況まで招き、それが、いっそう私の不快を募らせました。このことは私にとって大いに「直接の重要性」を感じさせることとなったために、その後の情報収集と、その分析へと向かわせる動機づけとなったわけです。そして、その出来事の陰には >他に情報が乏しい場合、自分に関係がない場合、類似の情報解釈で誤った記憶をすぐに思い出して自制できない場合には、現実的な解釈は難しくなる そしてANo.6さまが仰る >心が傷ついた人々、自分の傷に無自覚な人達は現実的な解釈ができず、自分の心の中の傷ついた世界を他人に投影する傾向がある >臨床心理の一派の「交流分析(TA)」では人間を大きく3つの部分(P=親的な部分、A=冷静な大人の部分、C=子どもの部分)に分けて考えています。この、Aの部分が、他のPやCに侵略されている状態を「汚染」と呼びます。 例えば偏見などは、PがAを汚染している状態ですし、CがAを侵すと、常識はずれのわがままとか屁理屈、妄想などがひどく成ります。 このような人物が実際にいたのです(一度ならずです)。正確には「自分に関係がない」はずのことを無理やりに「関係がある」ものと見做した言動をとったわけなのですが、恐らくは「無理に自分に関係づける」というあたりに重要な鍵が潜んでいるであろうと思います。そして「無理に」ということは御質問者さま仰るところの「わざわざ」ですから、「非現実的な解釈」を暴走させてしまうのは当然と言えば当然のことです。そして私の場合、私側に情報が当初ほぼ皆無であるということを相手側に、つけ込まれたかたちになったのでした。もっとも、この事態が長く続くことを私は許しませんでしたが、一番私を怒らせた原因でもありました。 背景情報が皆無に等しい第三者に関して単なる安直怠惰を越えて「わざわざ」なる解釈を施す場合には、これは、むしろ自分に関係づけるための作業であると言えないでしょうか。その「関係づけ」の動機は何か、ということになりそうですね。まして本来「利害関係がない」はずであれば、これは大変な積極的働きかけということになってきます。 ANo.6さまが挙げてくださった >1)客観的な事実を探り出す力 >2)自分自身を知り、自分の心の傷や偏見などを投影しないこと >3)常識と知識を使いこなし、様々な解決策を探る努力を怠らないこと >4)情報が間違いとわかった時に、すぐに修正できる柔軟な姿勢 これらのいずれも ANo.4さまが御指摘の「欲求不満」「外界情報が自分の精神状態を破壊に追い込む危険性を孕んでいるため現実的な判断がおろそかになる」というような状態の人にとっては大変困難なことだと思います。つまり余裕がないのですね。こうした状態では「投影」「連鎖」という心理作用も起き易いだろうと思います。 ただ、こういう人が、いくら「考える材料(知識)」を集め「比較して検証する」ことに自分では努めたつもりでも「無自覚な偏見がひどい」「考えが歪んだ人」にはムダどころか、かえって事態を複雑にしてしまいます。まさに「下手の考え休むに似たり」、それどころか、そういう人物にかかわってしまった者が、より深刻な損害を被ってしまいがちです。もう泣き寝入りするしかなくなりかねません。 ANo.5さま御指摘の >現実に起きていることをしっかり把握しないで表面的理解で短絡した意見を出すかどうかということを質問されているのであれば、多くの人は実際に発生した現実がどうのような経過、事情があったのかには関心を持っていないので表面的理解で済ませているはずだと、私は思います。 と仰るのは、ご尤もと思います。そして御質問者さまが仰る >「現実的な解釈をしない人たちは、関心を持っていないから表面的な理解で済ませているのであって、けっして能力が劣っているわけではない」 というのは、「現実的」というのが単に他者が主張していることを、無関心ゆえに鵜呑みにしてラクに済ましているだけなのか(ラクを選ぶというのも一種の合理的選択です)そこに自分側の相手に対する情報の致命的欠如という自覚がないだけということなのか、或いはラクに済ますどころか情報の欠如を、むしろ利用して殊更に恣意的解釈づけを行っているのか。このあたりになりますと、これはもう「能力が劣っている」というレベルの話ではなくなるように思います。 「現実」というコトバの定義は哲学カテゴリーでも、よく話題にのぼることです。 ANo.6さま御指摘の >他人の噂話を面白おかしいことだけの興味本位で、無自覚に楽しむとき、この情報処理能力は、使われない筋肉のように衰えて行きます。 という戒めは、ANo.11さまの >単純なケースでは、好奇心が高く、友人知人とのダベリング的会話を重視している人にとって格好の話題であるからということが多いと思います。週刊誌のゴシップなどと同じです。Cさんにとって直接の利害関係がないAさんについての評判であれば、Aさんが事実として悪者でも事実無根の悪者扱いでも、その区別はそれほど重要ではなくて、友人知人との会話での格好のテーマであるという方が重視選択されたのだと考えることができると思います。 ということと共通していますね。 >(情報を鵜呑みにする等)というと聞こえが良くありませんが、とても大事なことだと思います。統計学で仮説検証という方法があります。統計に限らずに重要な思考方法だと思います。 言われた内容をきちんと細部まで確定します。(勝手にねじ曲げないことが大事です) 「情報を鵜呑みにする等」といったことは、いわゆる優等生気質に、よく見られるように思いますが、「勝手にねじ曲げない」で「言われた内容をきちんと細部まで確定」することは、複雑な人間心理が絡むような場では、そうとう困難なことのようです。 ANo.12で仰っている >公平な人と言われる人の中には、少ない情報で良い悪いを決めつけない人が多いと思います。また、一部のうわさや前評判で人にラベルを貼ってしまわない人が多いと思います。また単に決めないというだけ、判断力がないという場合には公平な人とは言わないと思います。一般的には、相応の理解力判断力があり世間常識も多くて、その場の雰囲気に惑わされず、ある程度冷静で納得性の高い判断をする人を、公平な人と言うのだと思います。 公平という言葉は、偏らない、えこひいきしないというのが原義ですが、公平であるためには単に天秤でバランスを取るということではなくて、きちんと諸関係を把握し、関係者の納得のいくような解決に導くということを同時に実現することを含んでいると思います。 >案件を検討するにあたって何が大事な情報かを判断し大事な情報を集めようとする人、この状態で何を解決することが大事なのかわかる人、基本と例外の区別を考えることのできる人、論理的とかつじつまとか、人の行動は発言の癖、偏り、変動とかについて考えたことが多い人であれば公平なジャッジができる可能性が高まると思います。 自分で考える習慣のない人は公平なジャッジはできません。自分で情報を評価し総合しないので、他人の意見を取り入れるか、単にあまのじゃくを言うことになります。人に異論を立てないという生活習慣、他人志向・集団志向で生きている人は、誰かが自信を持ってAさんを悪く言えば、それを自分の考えとする傾向が強くなります。 このへんは、たいへん大事なことだと思います。 そういえば私が幼い頃、しつこくケンカを仕掛けてきた相手に、たまらずやり返したところ、おとなの人に「ケンカ両成敗、ケンカになるのは、どっちも悪い」と言われ、とても納得いかない気分になったことを思い出しました。 いくら「自分で考え」ようとしても、そうすればするほど、かえって始末が悪くなる人もいるのです。先ほど申し上げた「下手の考え休むに似たり」です。(笑) 自分自身の判断力に自信がないからこそ権威的なものに頼ろうとするのでしょうが、そもそも自分の判断力に自信がない人ならでは、自分の判断力そのものを俎上に載せて分析する能力が乏しくて不思議はありません。それどころか権威的なものに接するほどに、そのこと自体を自分の判断力に対する自信付けに利用してしまいます。「頭でっかち」一丁あがりです。もともと自分で自分が信用できない体たらくなのですから、いやがうえにも謙虚でなければ、それこそ、つじつまが合わないだろうにと思うのですが(笑) >(恐れて縮こまり不安に戦くような)異常に臆病なパーソナリティを形成し、発言できない人、行動できない人といった病的な症状を呈する 「異常に臆病なパーソナリティ」の人だからこそ、のべつまくなしに発言しまくり暴走しまくる「病的な症状を呈する」人もおられますよ(笑) まとめますと、情報収集と分析を行おうと欲するときは、何らかの強い動機と関心が伴うこと、これが、無自覚にせよ自覚的にせよ殊更な自己主観に合った解釈づけを目論む場合には、いくら情報収集と分析を行っても、その主観的解釈づけに沿った結論しか出せないこと、むしろその主観的解釈に沿わない情報であれば、これを敢えて無視するということをしてしまうこと。つまり、どこまでも都合のいい部分だけをとりあげようとするということ、早い話が「自分に甘い人」。もっと突っ込めば、「自分に対して積極的に甘いおやつを与えずにいられない人」というわけです。そして、こういうタイプの場合(自分にとって都合の悪い)情報がないことを、むしろ歓迎します。同時に、都合の悪い情報には耳を貸しません。 コトバというものは、そもそも多義的な性格を持ちます。ですから、これの解釈を行うときに最も解釈者の心理が出易いのです。 「言葉の内容は僅かに7%しか伝わらない」という(「メーラビアン」ですか)お話についても、だからこそ、できるだけ恣意的解釈の隙を与えないように文章を作るか、敢えて殊更に恣意的解釈を促すような文章を作るかというところも一つの判断材料になります。日本人は主語を省く等の発話が多いという指摘をよく見かけます。良い悪いに関しては、ここでは触れませんが、こうしたところにも日本人特有の性質が出ているのかもしれません。 但し、明瞭的確な文章能力に関しては、これは本当に、その高低が絡んでいることも多いだろうと思います。大概は論理能力の問題と密接に繋がっていると見受けます。なかには、その能力の低さを他人に覚らせまいとして、かえって殊更に不明瞭な文章にしてしまっている人もいますが。これはこれで、かえって隙のある態度です(笑) ANo.8さまの >言葉だけに執着しているような場合には『問題解決能力が高い人』にはならないと このあたり鋭い示唆を含んでいると思います。 たとえば「命題の形になっていないから何も言ったことにならない、したがって相手になる必要もない」という考えを示す人もおられましたが、「命題の形になっているかどうか」など、ことに日本人である我々の日常の素朴なコミュニケーションにおいて何ほどの重要性がありましょうか。それを言った人が、では「命題の形になっていない」発言に対して常に無視を決め込むかといったら、そうとは限らないのです。相手と場合によるのです。要するに相手をしたくない人に対してだけ「命題云々」を持ち出している。(笑) ANo.9さまにおいて >無言の同調者に場を改めて個別に見解を聞いた場合には、同意していないあるいは事実関係について全く異なることを教えてくれることもある これも、自己主観に甘い人が用心しなければならないことです。なぜなら、こういう人は「無言は同意を示す」という解釈を固定させてしまうからです。ですから実は、そうでなかったということになりますと「裏切り!!」と糾弾し始めたりすることになりかねません。 御質問者さまの仰る >非現実的な解釈をしてしまうが故(トラブル等)余計に時間とエネルギーを浪費する事態を招いてしまうことも多いと思いますし事実無根の悪者扱いをした結果、殺されてしまうこともある。 これもそのように思い当たります。但し、「非現実的な解釈をしてしまう」人が他者に「時間とエネルギーを浪費」させたうえ「(精神的)殺人」を犯してしまうようです。 ANo.8さまより >{Aさんが事実無根の悪者扱いをされている状況を見た}と思った場合でも『問題解決能力が高い人』は、Aさんが悪者扱いされていることに目をつぶったり黙殺することも、状況によってはやるのではないか この御意見は確かに誤解を招き易いとは思いますが、その「問題解決能力」というのが誰にとっての?ということでしたら、なるほど「Aさんが悪者扱いされていること」が当人に何らか利益をもたらすという判断をしている場合には、目をつぶったり黙殺することが当人にとって「問題解決」のための行為なのでしょう。 画家のピカソは、しろうと目には、いかにも突飛な絵を描いているように思えますが、彼はバリバリの具象画を描いても、やはり優れた力量があります。基本ができていてこその実験的作品なのですね。こういうこと、他にも多いだろうと思います。 コミュニケーションにおいても同じようなことが言えるのではないでしょうか。 基本を疎かにしている者が一気にワープを試みたところで失敗するだけだろうと思います。自分の力でうまくやってると思う前に、実は周囲が大目に見てくれているだけじゃないかと振り返ることも大事でしょうね。                   

noname#90016
質問者

お礼

 お礼が遅くなってすみません。なんだか忙しくて。やっとログインできました。  経験から出てくる重みのあるお話、ありがとうございました。  お母さんとの思い出話は小説みたいで、グッと引き込まれました。 話の続きが気になるのですが(笑)  noname002さんのお話は、直接的な回答以外にも、いろいろと示唆に富んだお話が多く、たいへん参考になります。  noname002さんは被害の経験から色々と分析されているようなので、ぜひ伺いたいのですが、 現実的な根拠が無いのに、人を悪者扱いしたり侮辱したりする人間や、そのような人間が居る世の中に対して、 どのような精神状態や信念等を持って望むのが良いとお考えでしょうか?  まだまだお話したいこともあるのですが、実はさっきから、、、どんどん雷が近づいてきているんです!笑 落雷でPCが壊れてしまうと困るので、今日はこの辺りで失礼致します!

  • noname002
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回答No.16

学部で学んだわけでなく、その方面の書物も殆ど読まずにきた者ですので専門的知識は持ち合わせておりませず当然、専門用語も弁えておりません。私自身の実生活における観察を基にした考えに過ぎませんので、その旨、御了解くださいませ。 私は当初から、当御質問は、どちらかと言えばシンプルな質問内容のように思っておりましたものの、長い遣り取りで多少込み入った感じを受けたこともあり、参加を差し控えていましたが No.4での補足欄から >私がイメージしている状況は、利害関係に由来する悪者扱い等ではありません。 偶然その場に居合わせた利害関係の無い第三者が、Aさんが悪者扱いされている状況を見て直ちに「Aさんが悪い」と思い込んでしまうような状況を想定 及びNo.8でのお礼 >現実的な解釈にエネルギーが必要なのはわかるのですが、だからと言ってなぜ、非現実的な解釈に走ってしまうのでしょうか? 「現実的な解釈はエネルギーの無駄遣い」「事実でも事実じゃなくても、どちらでもいい」等と思うなら「私には判断できません」「判断しません」等といった姿勢で良いと思うのですが。 ~  現実的な解釈をする能力があるのに、なぜわざわざ事実無根の悪者扱い等非現実的な解釈をするのだろう?と思います。 このへんが御質問者さまの疑問を端的に表しているあたりであろうかと踏まえて述べさせていただきます。 またNo.11の補足・お礼から >Aが悪いと思い込む(そうだと固く信じる  >CがBを信頼できる人物(事実無根の悪者扱い等はしない人物)と思い込んでいるのであれば、おっしゃるようなこともわかります。その場合のCは、Aに対する誤認以前にBに対する誤認があり、それがAに対する誤認を招来した… >この問題は能力の問題だけでは片付けられないと私は思います。無実の人を悪者扱いしておいて「生活の知恵」などと言うような状況は、やはり能力の問題だけでは片付けられません。それは品性や人格レベルの問題だと 詰まるところ安易であり怠惰でもあるのでしょうが、 要するに無批判でステレオタイプ的固定的なんですね。個人レベルに立脚しようが世間一般レベルに立脚しようが、どちらでも当人にとって、よりラクなほうを選んでいるだけなのでしょう。ですから、こうした傾向性のある人というのは決して珍しいわけでなく、むしろ一般的かと思いますし私自身も、将来への深刻な不安に苛まれていた若い頃ほど思い当たるところが少なからずあったと自覚しております。こういうことは対象を他人に限ったことではありません。 御質問ではABC三者共に初対面という設定のようですが、我々は初対面の相手ほど、視覚から得る情報が大きいですよね。 仮に悪者扱いしている側のBさんが見るからに風采が上がらず、目つき顔つきも険しく陰気な雰囲気で、しゃがれ声を張り上げているのに対し、Aさんのほうは身なりも優美で面立ちも整った上品な雰囲気の人だったらどうでしょうか。何かの間違いではないかと思わないでしょうか。或いは、両者この逆だったらどうでしょうか。 はたまたBさんが自信満々の大声で糾弾する見るからに気の強そうな人だったら。 或いは、いかにも被害者然とした悲愴さをあふれさせて泣き叫んでいたら。 或いは、見るからに知性の低そうな締まりのない顔つきで、妙に舌の回らない喋りかたで稚拙な訴えかたをしていたら。逆に訴えられているAさんのほうが見るからにアホっぽい顔つきだったら。(笑) Cさんの受け止めかたも、Cさんなりに、皮相的表層的な条件によって、だいぶ干渉されがちではないかと思います。 世のなかには、声を荒げたりはしなさそうな上品で温厚そうな人ほど攻撃対象にしたがることもあるようです。また、押しの強そうな人に反射的にヘイコラしてしまう人も、なかなか多いようです。 しかし明らかに悪者扱いをされている人を、たとえ当然のこととはいえ、責め立てるその声が、いやが上にもヒステリックだと、悪者であるはずの人よりも、むしろ大音声で責め立てている人のほうに嫌悪を感じることもあるように思います。 或いはまた、オドオドと口ごもりながら抗弁を試みる人を見て、その話が筋の通った内容にもかかわらず(もっと言えば、誰が本当のことを言っているのかなんぞは、どうでもよくて)見るからに弱々しい人のほうを断罪したくなる人もいるかもしれません。 結局はCさん自身が、AさんとBさんのどちらに反感を感じるか親近感を感じるかということもあるのでしょう。 「類は友を呼ぶ」「相手のレベルが自分のレベル」とも言われますね。 あと、このような問題はマスコミ報道等にもあり得ることで、たとえば、長年意識不明のまま最近お亡くなりになった、例のオウム教団によるサリン被害を受けた女性の夫君を犯人の疑いありとした最初の頃の大手新聞報道を思い起こさせます。 世間で聞かれる「固定観念が強い人」という評されかたがあります。こうした人は自身の内面が不安定甚だしいゆえに固定的なるものを求めて止まないのだろうかと思います。それは仰るように、かえって問題を深くしてしまうことが多いと思うのですが、往々、それだけ余裕がないということではないかとも思います。 「誤認」し易い人は、出発点から終点まで「誤認」の連鎖続きではないかとも見受けております。その理由は、その「誤認」が、そもそも何によって誘発されているかということに潜んでいるのではないでしょうか。 そしてまた往々にして、こうした人は一度固定したものを新たに置き直すということに激しい抵抗をみせるようです。 めんどうだけど、かけ違えたボタンは、かけ違えた場所まで戻らないと最後までチグハグ。 同じ固定的思い込みの強さといっても、他者を疑って止まない人、逆に他者を信じて止まない人、或いは特定の相手によって偏りが激しいとか、いろいろありますが、他者を疑って止まないあまりに「痛くもない腹を探る」ようなことをしてしまうとか、敢えて自ら争いごとを仕掛けたり、特定の相手に対しては、どこまでも悪い立場に置いておきたいとか、そういったことをやれば相手の不快を誘って恨みを買い、事態が大ごとになってしまっても不思議はありません。対して同じ「思い込み」でも、良いように思い込む場合は、そのために失敗を招いてしまったとしても、俗に言う「信じた私がバカだった」ということで、本人ひとり悔しい思いを噛み締める程度で納まるでしょう。「裏切り!!」と叫んで報復行為に走るというようなことをしなければ。このあたりで、仰るように >能力の問題というよりも品性の問題ですかね ということが絡んできそうにも思えますね。 「レッテル貼り」とか言って、世間一般では、良い語感ではないようですが、しかし人間は分類能力によって発展してきたと言っても過言ではないだろうと思います。 問題とすべきは、どのようにして、どのレッテルを選択し貼るに至るのか、一度貼ったとはいえ必要とあらば何度でも貼り直すことを辞さないかどうかだと思います。 結局、柔軟性の欠如とか精神的怠惰とか、いろいろ指摘できることはありそうですが、私が注目するのは、レッテル貼りを 急ぐ 人です。何が急がせているのかな?と思います。こういう人はまた、一度貼り付けたレッテルを容易には剥がさない。急いで貼り付けて、貼ったが最後、剥がさなきゃならない事態は、とても困るみたいです。 No.12のお礼 >事実無根の悪者扱いは非常に多いであろうことが伺えます) だからこそ私は、そのような状況ではBの主張を鵜呑みにはしません。 >被害の経験を活かせないケース というふうにも仰っておられますが >同じ経験をしても、その経験から学べる人と学べない人、良い方へ向かう人と悪い方へ向かう人に分かれてしまうのは、なぜでしょうね? No.4における遣り取りでも指摘があったようですが、やはり防衛機制の問題は絡んでいるだろうと思います。 まあ一言で言ってしまうなら「自分(ひいては他者)を守る」ということについての理解度とコントロールでしょうか。 失礼ながらANo.10さまの御言葉を引用させていただきます。 >わからないことをわからないまま、そっとして置くのも、認識力かと >わからないことに、無理に出す答えは、100%間違っていると 「わからないことはわからないと解釈すれば良いのでは?」 わからないことをわからないとするのが解釈に相当するかどうかはともかく これは、科学の方面の専門家などですと良心的な人ほど、どこまでは分かったと言えるが、ここから先は、まだ断言はできない、という区別を重視した発言を心がける人が多いように思います。科学者の場合は基本的姿勢として、分からないことを分かるようにするために、それこそ現実的な手段を駆使して究明しようとするのでしょうし、その究明が、ある程度まで進んでから、やっと少し見通しや見解を述べようかという気になるもののようですが、逆に、科学的な視点や考察力、究明手段に甚だ乏しい人つまりは情緒重視、感情優先にならざるを得ない人ほど、分からないことを分からないからこそ、自分の情緒的主観一個でもって、これを切り札のごとくに解釈を施そうとします。いわば横着な「物語化」。と同時に、せっぱ詰まった「物語化」です。当たればいいのでしょうが、はずれると目も当てられないほどの散々な有り様となります。 >脳の問題で片付けてしまうのは無理があると 私の身近の人たちを見ていても実感することですが、同じ一つの出来事を巡っても、その捉えかたや解釈のつけかたには大なり小なり違いがあります。しかし一定の性向が窺える人どうしのあいだでは、基本的な部分での受け止めかたにも共通した傾向が窺えます。たとえば何事につけ楽天的に、善意に解釈する人、何事につけ悲観的に、警戒的に解釈する人。そのうえ、同じ個人においても、対象となる一定の人や物事によって極端な違いを見せることなどザラにあります。 同じ事象や現象を目の当たりにして、また、個別の事象や現象に直面して、いずれにおいても、ある一定の傾向性が個人において顕著に窺える場合、それは何によるものか。 環境(外界)の影響か脳の影響かとよく言われるようですが、そもそも環境(外界)の影響というものを、どのように処理するかということについて脳というものをどう評価するのか。脳が影響するのか影響を受けるのが脳なのか。難しいところだと思います。しかし、いずれにせよ脳の問題は非常に大きいだろうと思います。 「割合」のことについては私にはサッパリ見当がつきませんが、個人的経験による限り、ごく大まかには、「できる傾向にある人」のほうが「できない傾向にある人」よりも少ないかな?という感はあります。 最後に簡単にまとめますと、ある「思い込み」による安易な無批判なレッテル貼りは、飽くまで一般的には視覚情報等に大きく影響された怠惰な選択である。それはラクであるから選択される。 これが「わざわざ」というべきほどの積極的レベルの選択となる場合には、「わざわざ」なるエネルギーをもって選び取らずにはおれない動機が、何らかの経緯によって形作られてあるのではないかということ。そしてその場合には、レッテル貼りを急ぐ必要と同時に、レッテルの付け替え困難とがもたらされるのではないかということ。 その動機目的は大概、自己の安定への緊急性であるように見受けられます。

noname#90016
質問者

お礼

 ご回答ありがとうございます。  今までのやり取りを全部読んで頂けたのですね。助かります。 優れた洞察力にも頭が下がります。代弁して頂いた気分でスッキリしました(笑)  おっと、また文字数オーバーになってしまうと困るので本題に。。。 >私自身も、将来への深刻な 不安に苛まれていた若い頃ほど思い当たるところが少なからずあった  とのことですが、回答者様はお幾つくらいの方でしょうね? と言うのも、 『できる傾向にある人』と『できない傾向にある人』の割合は、時代によって変化するような気もするんですよ。  もし、回答者様の人生において、そのような変化を肌で感じ取った経験がありましたら、 また、そのような変化を示す知見がございましたら、その理由等について、ご教示を頂けたら幸いに思います。    また「脳の問題で片付けてしまうのは無理があると」につきましては、 「現に現実的な解釈ができる傾向にある人と、できない傾向にある人がいる以上、それを、すべての人間に共通する脳の問題で片付けてしまうのは無理があると思った為、質問を続けさせて頂いた次第です」ということです。  以前のやり取りにおける「脳の問題」とは「個別に備わった脳の問題(または傾向)」等という意味ではなく、 「すべての人間に共通に備わった脳の問題」等といった意味で用いられていた為、そのような話になったわけです。 「個別に備わった脳の問題(または傾向)」等という意味であれば、無理があるとは思いませんので、宜しくお願い致します。  誤解があるような気がした為、念の為に申し上げました。  急に寒くなりましたね。風邪をひかないように気をつけてくださいね。

回答No.15

つまり話をまとめると、まず過去の経験から学べる人と、学べない人が居る。そして学べる人の中には、経験を活かして現実的に解釈する能力を高め、人として成長して行く人(良い方へ向かう人)も居るが比較的少なく、多くは(恐れて縮こまり不安に戦くような)異常に臆病なパーソナリティを形成し、発言できない人、行動できない人といった病的な症状を呈する(悪い方へ向かう)ようになる、という考えをお持ちなわけですよね? で結局は、現実的な解釈ができる人と、できない人の違いは、何なのでしょうね? 同じ経験をしても、その経験から学べる人と学べない人、良い方へ向かう人と悪い方へ向かう人に分かれてしまうのは、なぜでしょうね? また、現実的な解釈をできない人、人の主張を鵜呑みにしてしまう人が、大人の7割以上を占める、といったお話を以前に伺いましたが、残りの3割以下の中に、前述の『良い方向へ向かう人』と『悪い方向へ向かう人』が含まれると考えるわけですかね? それでは『良い方へ向かう人』の割合は、どのくらいになるとお考えなのでしょう?   ~~~~~~~~~~~回答です~~~~~~~~~~~~ 単なる質問と回答のOKwaveは違ってきているような気がするので、そろそろ失礼させていただきます。 自分で退散するのに失礼とは思いますが、総集編のつもりで、余分なことも加えて回答させていただきます。 1-1 人を単純に2分することは不適当と思います。いつも同じように考え、同じように行動するものではないし、程度の問題は重要です。 ,,,の人、,,,ではない人という区別をつけて、人を認識しラベルを貼り付けると、誤認識が増加する危険があるので、できるだけ避けるように努めようと私は思っています。 1-2 現実的な解釈や対応とは何でしょうか。 テストでも選択式のもので正解・誤答が決まるようなものであれば、いい加減に問題を読み適当に回答してもある程度の正答率はでます。 一生懸命に問題を読み選択肢の差を考えた結果誤答を選択することもあります。大学入試の出題者ミスで、正解がなかったり、複数の正解選択肢がある場合さえもあります。   http://www15.wind.ne.jp/~Glauben_leben/Nitiniti/Nitiniti145.htm テスト問題ではない現実世界ではもっと大変です。見方によって色々と変わるのが事実です。同じことに対しても、甲乙丙が[これが事実だ]と思っていることは違います。これが現実的な対応だと甲乙丙の三人がそれぞれ独自に考えたことがあれば、その現実的な対応の内容は同じではありません。[事実の客観的把握はこれだ][現実的な対応とはこれだ]という確定不変のことはありません。 ANo12で次のような回答をしました。{(1)(3)の状況下で、(2)のように短絡的に「Aが悪い」と受け止め・反応・行動する【こと】を、現実的な解釈ができないと[buhahaさんは]呼んでいます。(2)のように短絡的に「Aが悪い」と受け止め・反応・行動する【人】を、『現実的な解釈ができない人間』と[buhahaさんは]呼んでいます。私は、こうした場面での人(C)のとる態度は色々であり、簡単に、現実的な解釈ができる、現実的な解釈ができないという区分は難しいと思います} どこかにメジャーがあって、これは現実的な解釈、この人は現実的な解釈をする人、というより分けは難しいと思います。 1-3 努力とか方向性、姿勢について質問されているのでしょうか。 harrywithersさんは、{客観的な事実を把握する}、{事実にかかわり無く物事を現実的に対応する}という2つの例を挙げています。客観的事実の把握は難しい場合があることを指摘し、そのときの情勢等を判断して現実的な行動ができるようなケースを説明されています。 harrywithersさんは正解にヒットするかどうかということではなくて、その人なりに(表面的な受取で終わらせない)(事実の真偽はどうだろう)と考えようとする姿勢と、(事実の確定よりも優先すべきことがないかを、その場の状況に即して考える)という姿勢をharrywithersさんは言われているのだろうと思います。 そういう姿勢を持っている場合に、大事なこととして、1)客観的な事実を探り出す力、2)自分自身を知り、自分の心の傷や偏見などを投影しないこと、3)常識と知識を使いこなし様々な解決策を探る努力を怠らないこと、4)情報が間違いとわかった時にすぐに修正できる柔軟な姿勢を例として挙げて、(自分の頭の中に)選択肢を出来るだけ多くだせる、、、 こんなことが、現実的な解釈と、その先の解決力につながる】と言われていると思います。 buhahaさんは、『こうした方向を目指す人とこうした方向を目指さない人がいる』『こうした方向に分かれるのはなぜか』『それぞれの人は、全体の中で何割か』と重ねて質問されているのでしょうか。 私は、harrywithersさんの言われていること(と私が解釈していること)ができると良いなと思っています。 これができるならば、仮に失敗をたくさんすることがあったとしても、生き方としてすばらしいことだなと私は思います。 ただ、それを望み実現したいと思って努力しても、なかなかできないことだと思います。 なかなかできないのは私の能力が平均的なレベルよりも相当に低いからではなくて、それをいつもやるのは人間には難しいことなのだと私は思っています。 これを能力の所為にしても始まらないのです。かえってマズイのです。ちゃんとできない、事実を誤認した、誰かを傷つけた、自分が損害を被ったのは、能力がなかったと言われてもきついです。少なくとも、私が見聞きしている範囲では、ほとんどの人が多くの場合に、事実調査をしません、知っているはずの情報を総合して一番よい解決のために頭を使うようなことをしません。細かく調べたり、情報を整理したり、情勢分析や先行きの展開を考えるようなことは、ごくまれにしかしません。 ANo8では、{『現実的な解釈をする必要がないから、現実的な解釈にエネルギーの無駄遣いをしない』『会話として相づちを打ったりコミュニケーションをとることは大事なのでそうするが、会話の内容は忘れてしまってもいいようなことなので、適当に扱っている(賛成でも反対でもどちらでもいい)(Aさんが悪者でも、そうでなくても、事実があっても事実そのものが無根でも、どちらでもいい)』というのが、多くの人の生活の知恵になっているのではないでしょうか。}と回答しました。 buhahaさんから{現実的な解釈にエネルギーが必要なのはわかるのですが、だからと言ってなぜ、非現実的な解釈に走ってしまうのでしょうか? 非現実的な解釈をしてしまうが故、(トラブル等)余計に時間とエネルギーを浪費する事態を招いてしまうことも多いと思いますし、事実無根の悪者扱いをした結果、殺されてしまうことだってありますよね。 現実的な解釈をする能力があるのに、なぜわざわざ事実無根の悪者扱い等非現実的な解釈をするのだろう? と思います。}と質問を受けました。 私は{現実的解釈をしたり、他人により現実的な解釈をするように求める行動は一般的ではない、むしろまれな行動である。『なぜ』そうなのかについては解釈になりますが、人間の頭脳はフルには活動しない、日常生活を繰り返す範囲で普段の脳の活動を行い、特別な場合以外には深く考えたりしないようにできているのではないかと思います。諍い(いさかい)が誤解やコミュニケーションの不足、行き違いで起きることがわかっていても、「(2)事実にかかわりる無く物事を現実的に解決する」能力を発揮することがまれなのが、人間なのではないかと思います}と回答しています。 正しい事実をしっかり理解し、その場に応じた適切な対応をしたいかと問われれば、yesと答えるのが多くのケースですが、例外的な状態を除けば、私も、多くの人も、事実を把握するための努力や現実的な対応を実現させるために具体的な努力をすることはほとんどありません。 1-4 buhahaさんは『現実的な解釈ができる人と、できない人』がいると強く感じているようです。そのために私の回答とかみ合っていない可能性があるようです。もしもかみ合っているのならば無用なことですが、ちょっと次のように考えてみて下さい。 『授業を聞いて理解できる人と、できない人がいる』『学びを積み重ねてハイレベルの大学に入れる人と、どんどんドロップアウトしていく人がいる』『その結果、就職や所得、生活も自分で選択できる範囲が広がる人と、選択の余地がなくなっていく人がいる』この2つの人の違い、方向が分かれてしまうのは、努力不足あるいは生得の能力不足と考えるのでしょうか。前者は全体の何割いるだろうかと質問したいのでしょうか。 私は、こういう問題を考える場合に、色分け問題のように考えない方が良いと思っています。日常的に可能な方策が出てこないで、あいつは特別というようなことになってしまうと思うからです。 私は、どういうのが実際の中で多いのかを考えて、そういう行動や生活習慣を普通と考えようにしたいと思っています。医者や学者が正常と言うのを基準にはしないように考えたいと思います。道徳家や政府等が正しいというのを基準にしないようにしたいと思っています。 いい加減で適当に生きて、悪いことも良いこともやるし、正義感に燃えることも、ずるくやることもあるまぜこぜ状態を普通と考えます。普通とは違って見える人でも、あいつはおかしいとかあいつは特別とか、人の差とはできるだけ見ないで、同じような要素がほとんど自分にも同じようにあると思おうとしています。日常の中で少し程度が違うことを見て、自分もやろうという気が起きることを自分でも心掛けます。 そんなように見ようとしていると、人は2分類、3分類できるようなものではなく思えます。同じ人でも、いろんな時があり、いろんな対応や思考をしているのに気付きます。 [BさんがAさん悪者として扱っていた]という情報だけを見聞きした場合、Bさんの口調や様子が異常でなければ、多くの場合、Aさんは悪者なんだと受け取るのが普通です。その結果Aさんに対してどこまでの行動を取るかは別の条件で決まる要素が大きいですが、理解としてはAさんは悪者という理解をするのが一般的です。 AさんについてAさんは悪者であると理解をしていても、他の情報がDさんから入ってきたとき、あるいはBさんについて悪評を聞いたときに、Aさんは悪者であるという評価が揺らいだり、修正されることもあります。また自分がAさんとコンタクトするとか身近になる状況が発生した場合にも、Aさん評価の見直しが起きることがあります。 こういう評価の見直し、起きたことについての再評価を頻繁にやるか、ほとんど1回で定着させてしまうかにも、いくつもの条件があります。 同じような状況にあっても、見直しをしないビトもいるし、すぐに見直すヒトもいます。そのときも、単文形式思考主軸のヒトは評価を入れ替えるだけで終わることが多く、重曹入れ子型思考が主軸のヒトは色々とあちこち直さないと評価が入れ替わりません。それだって、程度の問題だし、同じヒトでも単文形式を取ったり、重曹入れ子型複文形式を取ったりします。 1-5 公平とか、私利重視とか、単文形式とか、重曹入れ子型複文形式とかは、みんなが持っている要素です。どれが多く使われるかは、習慣ではないかと思っています。ただし、脳をいつも使うことだけはほとんどのヒトはできません。(できるヒトもいるかも知れませんが、私は知りません)(ほとんどの時間を習慣的なパターンで過ごし、脳はほとんど使いません) 論理的思考とか、筋の通った考えとか、最適化(公平でも、私欲でも)には、論理性が必要です。通常論理性を追求しようとすれば、重曹入れ子型複文形式になってしまいます。多数の情報を整理分析するにも、矛盾や情報の欠落に気付くにも、論理性は必要です。日常生活ではほとんど論理的思考や情報の整理分析は無用ですが、こういう習慣をほとんど持っていない場合は、使わない能力は発揮しにくくなるので、だんだんと切れが悪くなってきます。Aさんが何々をしたからAさんは悪いとBさんから聞いても、Aさんは悪いという部分だけを聞いたり、Aさんが何々をしたという部分だけを聞くことが多くなります。 それが嫌であれば、普段から何かにつけて、情報や思考を[論理的に整理し、不十分な点や、限定できていないという見直しと確認]をするのが良いです。日常の会話やマスコミ情報は、論理的には条件不十分で結論を出せないか、出した結論は論理的ではないはずです。日常生活はそれでもかまいません。その日常の中で、入れ子の重層的複文を自分で考えておかしさの検証をたまにはして、論理性の要素をさび付かせないようにしていると、早とちりの間違い、一面だけを見る間違いで、極端な失敗をしないで済むように思います。 1-6 経験を活かして現実的に解釈する能力を高め、人として成長して行く人(良い方へ向かう人)も居るが比較的少なく、多くは(恐れて縮こまり不安に戦くような)異常に臆病なパーソナリティを形成し、発言できない人、行動できない人といった病的な症状を呈する(悪い方へ向かう)ようになることの、ヒトの割合の質問にお答えします。 単純に2分してヒトを分けません。ヒトを分けるのではなく、そうなることがあると言う意味であることを予めお断ります。 ナイーブな神経を持ってたり、大きな被害に遭うと、以降しばらく注意深くなったりするのは誰にもある傾向です。ですが、そのようなことがあると神経症的になることもあります。でもそうなる確率は10%にならないのではないかと思います。 大地震や火災、盗難等の被害者で、異常にガードが堅くなったり、心配で薬を飲むようになるケースは多くないと思います。 精神や行動の障害に色々な神経症生障害やパーソナリティ障害があるそうですが、その人でも、治った後に、同じような状況になっても症状が100%再発するものではなくて、平気でいたり、たいしたことなく済んだりすることも多いようです。結構タフで何があってもゴーイングマイウエイに見えていたヒトでも落ち込んで自信を失い縮こまることもあります。どちらにしても、何かの不都合があってそれを契機として退行現象(逃避、萎縮、沈滞)を起こすことはありますが、発生率はそう高くはならないでしょう。何度も詐欺被害を被るとか、投資と言われて何度も多額の損をすることもあるのでしょうが、毎回詐欺、毎回損のヒトはいないのではないでしょうか(わかりません)話しに載らなかったりしたことも多いのでしょうが、その無事に過ぎたときのことがカウントされない、本人も無事に過ぎたことをそのように認識していないと思います。 経験を活かして能力や判断力等を磨き上げるというのは、程度が問題です。多くのヒトが15歳程度までなら、能力アップ、判断力アップを続けているのではないかと思います。それより歳をとると、忘れる速度、記銘保持するに懸かる手間との関係で、個人差が大きいし、時々で一定ではないものの、経験を活かして能力や判断力等を磨き上げる上昇度は大きくダウンするように思います。30歳くらいまでなら上昇度が下降速度を遙かに上回るヒトもいますが、若いときよりもダウンします。総合的に上昇度が下がっているのでどんな経験をどう生かせるかは単純ではないと思います。ある意味では誰でも何歳まででも成長していけるでしょう。一方経験の中には『みんなそんなにまじめでも一生懸命でもない。自分もこれまでやってきた』という自信あるいは怠惰を支持する経験もあります。そうすると、何かの危険な情報を得てもその背景を考えなくても、事実かどうかさほど気にしないでも大丈夫だったという経験を活かすこともあります。このような経験の活かし方というのは成長とは普通は言わないかも知れませんが、世の中が安定し、不安で恐慌状態を起こさないで済む基盤を強固にしているので成長かも知れません。それらの上昇下降とそんなに考えなくてもいいという経験が教える『動じないこと』『大勢に準じていれば安心』のバランスがあるので、経験を積んだからといって分析と思考の能力がどんどんと高まるという方向に進むことは少ないと思います。総合的にはそうですが、一部自分の関心があることに注力してその情報を調べ考えるということを続けていると、その分野では鑑賞、解釈、創造的思考、調整能力等は勢いを鈍らせることなく成長することはあると思います。ただし、自分の関心領域以外でもどんどんと力をつけるのは無理なように思います。特に関心領域を持たず、情報も集めず、技能も発揮せず、日常生活の繰り返しに終始すれば、加齢と共に低下するのは避けがたいと思います。ただ、なるべく、重層した入れ子で考えるくせ(習慣)を持っているとアガサクリスティのミス・マープルのような情報分析力・判断力を持てると思っています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 別件  桃太郎のはなし 福沢諭吉の家族への教え 桃太郎の話しはめでたしめでたしで終わりで、だから何だということのないはなしとして記憶しています。 福沢諭吉が家族のために全部ひらがなで、桃太郎を題材に書いたものがあるそうです。  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B2%E3%81%B3%E3%81%AE%E3%81%8A%E3%81%97%E3%81%88 学問のすすめを書いたヒトですから、そのように解釈すると、桃太郎の昔話を聞くような場合でも、[本当に鬼は悪者だったんだろうか、鬼をやっつけて宝を持って帰ったというのは、妥当なことだろうか]と、自分なりに考えろよ、本に書いてある、年長者が得々と説明してくれるから、それをそのまま単純に自分の中に取り込んで終わりにするなよと、子供らに教えたかったのではないでしょうか。 しかし、いつもそのように考えていたら、とてもでないけれどやっていけないように思います。 時々は、常識を疑う、経験者や先達の教えを破る、その時々が大切なように思います。 もちろん、常識を大切にし、年長者、先生、先輩、上司、牧師、政府の言うことを大事にし、自分の信条として疑うことなく生きていっても問題はないです。 科学は過去の知見を覆すことがねらいと言っても良いような面があります。しかし、科学を追究せずに、技術を習得利用することでも社会経済の発展を支えることもできます。 えん罪は好ましくはないですが、えん罪を皆無にすることは、社会罰を続ける限りなくなりません。 合理性というのは、必ず真実ということではありません。いくつかの情報をある視点で検討したら、これが妥当だとうという(現実を処理するためのロジック)です。 BがAを悪者扱いしている状況やロジックがその範囲で妥当そうならば、それを聞いているCはそのように理解するのが普通です。 自分や身近な人間が事実無根の悪者扱いをされる経験を数え切れないほどしていていれば、世の中には事実無根の悪者扱いは非常に多いと考えるのは妥当だと思います。しかし、世の中に悪者扱いされるのが妥当なヒトはいないのでしょうか。すべての悪者扱いは事実無根なのでしょうか。 そのような状況ではBの主張を鵜呑みにはしないという方もいるでしょう。一方過去の経験からAが悪者扱いをされているのは相応のことがあるからだと推定でほとんどのケースで問題はない、問題があってもレアケースであるし、そうした場合には後で修正されている。Bの言うことは違っている可能性があるということを第一優先にしたら、とりあえずAは悪くない、いや悪い人と確実に指名できる対象者はいないということになると思うヒトもいるでしょう。 そんなに面倒な思考過程を踏まず、Aが悪いと言われていたからAが悪いのだと済ませてしまうことが多いと思います

noname#90016
質問者

補足

 あらあら……^^;  何にしても、まずはお礼を申し上げます。毎回詳しい説明を頂きまして、誠にありがとうございました。最後まで噛み合いませんでしたが(笑) 良い勉強になりました。  さて、、、 どのようなお返事を書けば良いのか悩むところですが。。。汗 1-1 それを踏まえた質問であることは説明済みです。当初から「(現実的な解釈ができる人 できない人 ではなく)現実的な解釈ができる傾向にある人、できない傾向にある人(の方が適切)」等と申し上げております。その件に関してはご理解を頂けたように思いますし、同意もして頂きました。  回答者様が、誤認識を避けようとしているのか、生活の知恵として受け入れようとしているのか、よくわかりませんが、以前から申し上げているように私は「すべての現実を正確に解釈できないから馬鹿!」等と言っているわけではなく、「わからないことはわからないと解釈すれば良いのでは?」と言っているわけです。(詳細は、これまでのやり取りを参照のこと)  人を単純に2分するのは不適当で、人を単純に悪者扱い(善悪正邪に関する2分)してしまうのは生活の知恵、というのも理解に苦しみます。 1-2 これにつきましても説明済みです。  それに「現実」の意味が摩り替わってますよね。人間が主観の世界、解釈の世界に生きているのは当たり前の話です。 1-3 専門的な見解について色々と教えて頂きたく質問をさせて頂きました。努力や方向性等に限定した狭い質問等ではございません。  ここで他の回答者様の回答を持ち出すのは話をややこしくさせるだけですので、その辺りには触れませんが、hatenasateさんの回答に対する質問等に関しては、hatenasateさんの理論の整合性に疑問を抱いた為、確認をさせて頂いた次第です。  hatenasateさんがそのような考えを持っていることは理解できました。(その理論の整合性は別にして)おっしゃるような人もいると思います。否定しません。どこかで書きましたが、この問題は能力の問題だけでは片付けられないと私は思います。無実の人を悪者扱いしておいて「生活の知恵」などと言うような状況は、やはり能力の問題だけでは片付けられません。それは品性や人格レベルの問題だと思います。  現に現実的な解釈ができる傾向にある人と、できない傾向にある人がいる以上、それを、すべての人間に共通する脳の問題で片付けてしまうのは無理があると思った為、質問を続けさせて頂いた次第です。 「能力がなかったと言われてもきついです」←この辺りの心理が、話が噛み合わない原因なのかもしれませんね。   1-4 『現実的な解釈ができる人、できない人』に関しては、1-1に記述したとおりです。  「[BさんがAさん悪者として扱っていた]という情報だけを見聞きした場合~」につきましては、hatenasateさんは、それが「普通」「一般的」等と考えていることは理解できました。 1-5~別件 hatenasateさんのお考えは承りました。  hatenasateさんの解釈が現実的な解釈なのか、それとも(合理化等種々の防衛により歪められた解釈等)非現実的な解釈なのかはわかりませんが、そのような主張をされる方と会話ができて、良い勉強になりました。本当にありがとうございました。  すべてを言い尽くすことはできませんが、以上をもってお返事とさせて頂きます。(乱文、走り書きでゴメンナサイ)

回答No.14

これは「詐欺やインチキ商法等の注意や警告を受けとる類の経験と、実際に事実無根の悪者扱いをされる経験とは分けて考える必要があると思う」ということです。 前者は「被害にあわないように気をつけましょう」という注意や警告を受けたレベルの経験ですが、後者につきましては、ほとんどの人が実際に被害者になって傷つくなどした経験があるわけですよね?(ここでいう「被害者になった経験」とは、単に「事実無根の悪者扱いをされた」という意味だけではなく、「自分が事実無根の悪者扱いをしたが故、何らかの損害を被ってしまった。(大恥をかいてしまった、激情した相手にボコボコにされてしまった等)」等といった意味も含みます) 詐欺に関する注意や警告を受けとっていたのに被害にあってしまう人と、実際に詐欺の被害にあった人が何度も同じ手口に引っかかってしまう人を、同等に位置づけることはできないのでは? ということです。 詐欺に関する注意や警告を受け取っていた人間が被害にあってしまうケースに、私は大きな疑問を抱きませんし、さほど興味もありません。私が興味を抱いているのは、被害の経験を活かせないケースです。 このような事柄について、専門的な見解を頂きたく、質問をさせて頂いた次第です。(割合に関しては、個人的な見解でもかまいません)    ~~~~~~~~~~~ 回答です:順不同です ~~~~~~~~~~ 専門家ではありません。 私はまったくの素人の回答です。 {Bの言葉を信じたためにAを傷つけた経験やAから強い抗議や反撃を受けた経験を何らかの被害をしても、誰(B’)か誰か(A’)を悪者扱いしているのを聞くと、それを事実であるように理解してしまう人}と、{過去の経験から容易にはB’の言葉を信じず、事実を疑う人}がいるのではないか、ということならば、その通りだと思います。 なお、その場合、過去に手痛い経験をしていると、行動が臆病になると言う傾向は強く出るかも知れません。何事も信用せずに疑っているのに似た状況に見えますが、疑問点を明確に持っているのではなくて、おそれて縮こまった状態となります。不安におののくのと若干似ています。 B’の言葉を事実無根ではないかというように考えたり、A’に言い分があるのではないかと考えたりするというような理解に関する慎重さが生じることは比較的少なくて、自分が先頭を切ってB’に同調行動をとることをしなくなるということが多いように思います。 何度も手痛い目に遇うとか、強烈な失敗と感じている場合には、発言しない人、行動しない人、あるいは非常に臆病になることはあると思います。 これらは失敗の受取り方の(心理とかメンタルの)問題であって、論理的な理解の仕方とか、現実に対する理解の仕方とはやや違うような気がします。

noname#90016
質問者

お礼

 毎度ありがとうございます。  こちらは天気が良くて気持ち良いです。暑いけど。。。 >専門家ではありません。 私はまったくの素人の回答です。  了解致しました。そのように受け取らせて頂きます。  つまり話をまとめると、まず過去の経験から学べる人と、学べない人が居る。そして学べる人の中には、経験を活かして現実的に解釈する能力を高め、人として成長して行く人(良い方へ向かう人)も居るが比較的少なく、多くは(恐れて縮こまり不安に戦くような)異常に臆病なパーソナリティを形成し、発言できない人、行動できない人といった病的な症状を呈する(悪い方へ向かう)ようになる、という考えをお持ちなわけですよね?  で結局は、現実的な解釈ができる人と、できない人の違いは、何なのでしょうね?  同じ経験をしても、その経験から学べる人と学べない人、良い方へ向かう人と悪い方へ向かう人に分かれてしまうのは、なぜでしょうね?  また、現実的な解釈をできない人、人の主張を鵜呑みにしてしまう人が、大人の7割以上を占める、といったお話を以前に伺いましたが、残りの3割以下の中に、前述の『良い方向へ向かう人』と『悪い方向へ向かう人』が含まれると考えるわけですかね? それでは『良い方へ向かう人』の割合は、どのくらいになるとお考えなのでしょう?

回答No.13

(1)[絶対的にAは悪いことをした人間だ]と確信する人と、[Aは悪いことをした。それをBが発見し告発している]と理解する人(等、Aが悪いと思い込む人)の違いが今ひとつわかりません。もし宜しければ、その違いを教えて頂けたら幸いです。 回答: Bから聞いたのであっても、[Aは悪いことをした人間だ]ということだけが頭を占領してしまう傾向のある人と、[Aは悪いことをした人間だ][そのことをBから聞いた]という2つの内容を頭の中に保有する傾向がある人がいると、経験的に思っています。私はこの2つの傾向はかなり違うタイプを表していると思っています。 メタ認識とは違うことのように思います。前者は単文構造型、後者は複文構造型という言い方が少し、似た感じです。もっと言うと、後者は重層的な埋め込み構造で認識する傾向が強いと思います。ことを[Bから聞いた][Aは悪いことをした人間だ]と2つにばらばらにせずに、できるだけセットで[Aは悪いことをした人間だとBが言っていた]と一つの情報としてて扱う傾向のある人です。この方法で認識すると、記憶する情報量も増えてしまうし、論理包含しているために情報としての汎用性が欠けてしまいます。一見不都合な認識方法となります。単文型で[Aは悪いことをした人間だ]という認識を保有する方が、必要な記憶容量も少ないですし、Aについて裁定しなければならないときに[Aは悪いことをした人間だ]という1つの情報ですべてを裁定できる簡単迅速さを得ることができます。 前者(単文型)の方が個別の対応の効率を良くします。しかしこれは、短慮とか、一面しか見てない、馬鹿の一つ覚えという批判を招くようなミスを犯す危険を高めます。 後者(重層埋込構造の複文型)の方が、記憶領域を多く使用してしまうだけでなく、個別の裁定を必要とする場面でも裁定不能を頻繁に引き起こすので、はなはだ現実的でない状態を起こす危険が高くなります。 後者であっても、[Aは悪いことをした人間だ]という要素の認識を持っているという意味では同じようなものだともいえますが、私は前者と後者の差は大きいのだと思います。 前回の回答で『AさんについてのBさんの評言を聞いて、それだけでAさんを判断するということばかりの人は、AさんについてDさんの評言を聞いて、それだけでAさんの評価を変えることがありますが、そうした変節に関しても、自分の内部で葛藤を起こさないことが多いようです』と書きましたが、単文型の人には、こういう形の人が多いように思います。(重層埋込構造の複文型)でもそのように変節する人もいますが、(重層埋込構造の複文型)の場合は、自分が変節したという自覚(メタ認識)をする可能性が高いです。(内部葛藤を起こさないにしても、変節というか、意見や見方を変更した自覚があると思います) 単文型の中には、自分がAさんについての見方を変更したという自覚もはっきり認識していない場合があると思います。 15歳以上であっても、単文型の方が多いように思います。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (2)「えん罪で誤認逮捕のようなことを多く見聞きしている場合は別として~」とのことですが、多くの人は人生を歩む中で、多かれ少なかれそのような経験 ――自分や身近な人間が事実無根の悪者扱いをされる経験をするわけですよね? 私には数え切れないほどあります。(友人等に訊いても「ある」と言いますし、hatenasateさんのご回答の内容からも、事実無根の悪者扱いは非常に多いであろうことが伺えます) だからこそ私は、そのような状況ではBの主張を鵜呑みにはしません。(もちろん「100%しない」等と断言するようなことは致しません。そのような傾向にあるという話です) そのような前提があり、質問のような疑問を抱いた次第です。 (そのような状況から、事実無根の悪者扱い等誰もが経験するであろう身近な問題と、自分が疎い事柄についてオピニオンリーダーに同調してしまう類の問題や、未知の事柄について大学の教授等から学ぶ類の問題等は分けて考える必要があると思います) 回答: 質問点がよくわかりません。 なお、私が「えん罪で誤認逮捕のようなことを多く見聞きしている場合は別として~」と書いたところは、『BのAに対する発言を聞く前に、Cが強く印象づけられている形でえん罪で誤認逮捕のようなことを多く見聞きしている場合は別として~』と書いた方がよかったかもしれません。 誤認逮捕やえん罪のことをCが知っていたかどうかというのではなくて、強く印象づけられた形で頭の中に生き生きとその情報が思い起こされる場合はという意味で書きたかったのです。 振り込め詐欺で被害に懸かる方でも、そうした詐欺があり注意が必要だということは何かの形で聞いているのでしょうが、それもまだ忘れない程度の最近に聞いた注意なのかもしれませんが、生き生きとその情報が頭の中に想起されるようなものではなければ、電話が懸かってきたときに詐欺のことは思慮の外になると思います。 詐欺やインチキ商法、事実誤認、うわさをそのまま信じてしまう等の危険があるという注意や警告を繰り返せば、少しはそうしたことは減るかもしれません。しかし少ししか効果は出ないと思います。 元々 単文型で認識する生活、思考を基本にしていれば、『Aが悪いという情報は、Aが悪いという情報としてインプットされる』のだと思います。それ以上に複雑な条件や重層構造で入れ子になった情報としてインプットするのは、その人の生活習慣から外れたことになるので、あまりやらないことになると思います。Bの主張をそのまま自分の頭の中にコピーするでしょう。Bの主張が(何々をしたのはAである。何々は悪者でなればやらないことである。Aは悪者である)という重層構造を持っている場合でも、Cが(Aは悪者である)という部分だけを単文で自分の頭にコピーすることは、Cにとっての生活習慣かもしれません。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%96%E7%90%86%E5%8C%85%E5%90%AB%E6%BC%94%E7%AE%97
noname#90016
質問者

お礼

 お世話になっております。いつもありがとうございます。  さて、(1)については了解致しました。そのような違いを念頭におかれているのですね。参考にさせて頂きます。  次に(2)についてですが、「質問点がよくわかりません」とのことですので補足をさせて頂きます。(説明が悪くて申し訳ありません;)  これは「詐欺やインチキ商法等の注意や警告を受けとる類の経験と、実際に事実無根の悪者扱いをされる経験とは分けて考える必要があると思う」ということです。  前者は「被害にあわないように気をつけましょう」という注意や警告を受けたレベルの経験ですが、後者につきましては、ほとんどの人が実際に被害者になって傷つくなどした経験があるわけですよね?(ここでいう「被害者になった経験」とは、単に「事実無根の悪者扱いをされた」という意味だけではなく、「自分が事実無根の悪者扱いをしたが故、何らかの損害を被ってしまった。(大恥をかいてしまった、激情した相手にボコボコにされてしまった等)」等といった意味も含みます)  詐欺に関する注意や警告を受けとっていたのに被害にあってしまう人と、実際に詐欺の被害にあった人が何度も同じ手口に引っかかってしまう人を、同等に位置づけることはできないのでは? ということです。  詐欺に関する注意や警告を受け取っていた人間が被害にあってしまうケースに、私は大きな疑問を抱きませんし、さほど興味もありません。私が興味を抱いているのは、被害の経験を活かせないケースです。  このような事柄について、専門的な見解を頂きたく、質問をさせて頂いた次第です。(割合に関しては、個人的な見解でもかまいません)  これで伝わることを願って、ちょっと出かけてきますね。  まだ私の説明に至らぬ点がありましたら、お手数ですがご指摘下さい。宜しくお願い致します。

回答No.12

私の説明が良くないために混乱してしまったようです。 もう一度整理させて、回答させてください。 質問の条件設定 (1) Bが相対しているAを悪者扱いしているのを、Cが目撃した。【BはAが悪い理由を言葉に出している。例:Aが盗んだ。Aが痴漢した。Aが壊した】【Aは自分が悪いことをしたと言う明言はしていない】【CはBの言葉を聞いた】 (2) CはBの主張(態度等含む)を鵜呑みにしてしまい、短絡的にAが悪いと思い込んでしまった。(CもAに対して直接的に悪者扱いをした)【Cは思いこむだけでなく、Aを悪者として扱った。例:CはAを取り押さえ、警察・駅員・店員にAを突き出そうとした】 (3) A,B,Cともに初対面である。【A、B、Cは、普通の服装をしていて、言動や外見は異常な人には見えない】 質問の内容  (ハニ)は今回追加) (イ) 人間には『現実的な解釈ができる人間』と『現実的な解釈ができない人間』が居るように思います。 例えば、Aさんが事実無根の悪者扱いをされている状況を見て、短絡的に「Aさんが悪い」等と思い込んでしまう第三者は多いと思いますし、逆に、そのような状況であっても、適切に現実的な解釈ができる人も居ます。(もちろん、どのような状況においても現実的な解釈ができるような完璧な人間は居ないと思いますので、現実的な解釈ができる傾向の人、できない傾向の人、等と言った方が適切かもしれません) (イー2) そこで質問ですが、まず、現実的な解釈ができる人と、できない人の違いを、専門的な立場から、うまく説明して頂きたいと思います。(自分でも更に調べたいので、専門用語等も教えて下さい) (ロ) 次に、現実的な解釈ができる人と、できない人の割合はどのくらいなのか、教えて頂きたいと思います。 (ハ) Bの主張だけを鵜呑みにして出来上がった論理が正当な論理と言えるのか疑問に思います。 (ニ) CがAの目の前でAを悪者扱いするようなケース(Aを直接傷つけるようなケース)については、どのような見解をお持ちでしょうか?   ~~~~~~~~~~~~~~ 以下が 私の回答です ~~~~~~~~~~~~~~~~~ (1)(3)の状況下で、(2)のように短絡的に「Aが悪い」と受け止め・反応・行動することを、現実的な解釈ができないと[buhahaさんは]呼んでいます。(2)のように短絡的に「Aが悪い」と受け止め・反応・行動する人を、『現実的な解釈ができない人間』と[buhahaさんは]呼んでいます。 私は、こうした場面での人(C)のとる態度は色々であり、簡単に、現実的な解釈ができる、現実的な解釈ができないという区分は難しいと思います。 また、(1)(3)が同様でも、他の条件が異なると、同じ人(C)でも反応の仕方は異なり、いつも同じにはならないと思うので、こうしたケースの反応で人を[~~できる人][~~できない人]と色分けするのは」難しいと思います。 buhahaさんが、[できる傾向の人、できない傾向の人]という見方をされるのであれば、傾向としてどちらに傾くことが多い人というのはあると思います。 具体的な言い方をすると、(1)(3)の条件で[絶対的にAは悪いことをした人間だ]と確信する人は多くはないと思いますが、[Aは悪いことをした。それをBが発見し告発している]と理解する人は相当数になると思います。[あれがそんなことをした人間か。どんな顔をしているのか]と興味本位でAを見ようとする人も多いと思います。(このCの行動の裏には、Aが悪いことをしたんだろうという推定があります) 一方、Bの告発の声や音質、行動によっては、[Bは不愉快なやつだ。遠ざかっていよう][Aも悪いけど、Bもいやなやつだ]と思う人も出てくるはずです。 積極的にBに荷担するあるいは社会的正義を実現するために[Aが犯人として扱われるように、Aを拘束し、警察や店員に引き渡すことに協力行動をとる]人も少数(10人中数人)はいると思います。逆に、(1)(3)の条件で[絶対的にAは白で濡れ衣だ]と理解する人は皆無に近いと思います。また、えん罪で誤認逮捕のようなことを多く見聞きしている場合は別として、通常状態で、(1)(3)の場合、AがBから事実無根の悪者扱いされているのではないか、その可能性も高いと思う人はかなり少ないでしょう。 {Bの告発が正しいか、Aは事実無根で被害を受けているのか、その実態を検討しよう}として、実態解明のための行動や質問をしていく人も皆無に近いと思います。(Cは、AにもBにも、事件にも無関係な第3者で、警察などでもないとします) 傾向からすれば、多くの人は、Aが事実無根でBから指弾されているという可能性を少しは残しながらも、Aが悪いことをしたのだろうと解釈して済ませます。 Aが事実無根であるにもかかわらずBから悪者扱いされているという可能性を[あるレベル以上に心に留める人]もいます。 上記のような事案で、Bのような人が事実誤認していることもあるかもしれない、あるいはBが悪意をもって意図的にAを糾弾していることもあるかもしれないということを何回も考えた経験が多い場合、悪事が現実的に起きたことの糾弾としてはBの指摘している内容がCには不自然に感じられてしまう場合、BがAの悪事を指摘糾弾する場面や方法がCには不自然に感じられてしまった場合などでは、Aが悪事を働いたというBの指摘それ自体にCが疑問を持つ可能性が高くなります。 これは、Cの経験や思考のパターンに関わることです。 なお、Bの指摘や糾弾におかしいところがたくさんあっても、そのことはAがやったということが事実無根であるかどうかとは別のことです。Bが事実を誤認してAを糾弾していたとしても、Aが実際に悪いことをしていたということもあります。 Cが、冷静に色々なケースを考えるというのは、単に可能性として色々なケースを挙げるということではないはずです。その場の状況、Aの態度、Bの態度をできるだけ客観的にみて、Bの指摘していることが起きたとしてつじつまが合うかどうかを感じようとする姿勢をCがどの程度持っているかによります。また最近身近で起きていることについてのCの情報収集や情報分析の状況も大きく影響します。 しかし、(1)(3)のような状況では、Cがいくらその案件に関心を持ち、Cが頭脳明晰であっても、判断材料が少なすぎるはずです。Bも調書を読み上げているのではないので、重要な事実の立証をせずに、単に非難・糾弾しているだけという場合が多いでしょう。そうであれば、Cも推理を続けることはできません。Bの言い方、Aの態度などを参考にするしかないです。Aが無罪を強く主張していれば、Bの主張を鵜呑みにはしないでしょうが、Aが強く否認する発言をしていなければ、Aがやったんだろうという推定をCもすると思います。 公平な人と言われる人の中には、少ない情報で良い悪いを決めつけない人が多いと思います。また、一部のうわさや前評判で人にラベルを貼ってしまわない人が多いと思います。 また単に決めないというだけ、判断力がないという場合には公平な人とは言わないと思います。 一般的には、相応の理解力判断力があり、世間常識も多くて、その場の雰囲気に惑わされず、ある程度冷静で、納得性の高い判断をする人を、公平な人と言うのだと思います。 公平という言葉は、偏らない、えこひいきしないというのが原義ですが、公平であるためには単に天秤でバランスを取るということではなくて、きちんと諸関係を把握し、関係者の納得のいくような解決に導くということを同時に実現することを含んでいると思います。 専門家でもないし、専門の立場での説明はわかりませんが、私は、次のように思います。 その案件を検討するにあたって何が大事な情報かを判断し、大事な情報を集めようとする人、この状態で何を解決することが大事なのかわかる人、基本と例外の区別を考えることのできる人、論理的とかつじつまとか、人の行動は発言の癖、偏り、変動とかについて考えたことが多い人であれば、公平なジャッジができる可能性が高まると思います。 自分で考える習慣のない人は、公平なジャッジはできません。自分で情報を評価し総合しないので、他人の意見を取り入れるか、単にあまのじゃくを言うことになります。 人に異論を立てないという生活習慣、他人志向・集団志向で生きている人は、誰かが自信を持ってAさんを悪く言えば、それを自分の考えとする傾向が強くなります。 大衆心理は、権威的という説もあるようですが、多くの人は自分で判断するよりも、他人の言説を取り入れることが多いので、声高に何かの主張がされていて、多数からそれを否定する言説がなければ、声高の主張を取り入れます。 AさんについてのBさんの評言を聞いて、それだけでAさんを判断するということばかりの人は、AさんについてDさんの評言を聞いて、それだけでAさんの評価を変えることがありますが、そうした変節に関しても、自分の内部で葛藤を起こさないことが多いようです。 人の善悪とは若干違うかもしれませんが、組織のトップ(担任の先生、校長、部長、社長、大臣、首相)についても、それまでは立派な人として、その人の言説を受け入れていたのに、世間から失格だ、ダメだ、あの人の所為でおかしくなったという方向に評価がぶれ出すと、そのトップを悪者にしてということで終わり(それ以外に複雑な分析や評価判断をしない)というのは、非常に多いパターンです。 自分で多くの情報を整理して、分析し、矛盾していることが少なくなるようにしようとすると、時間も掛かるし、単純に誰が悪い、これが悪いという言い方はできなくなることも多いです。 そんなことよりも、誰かの尻馬に乗って、良いやつ、悪いやつという方が簡単です。 旗幟鮮明に見えて理解しやすいです。 自分で情報を集めて分析整理することはせずに、先行する発言者の結論と同調する方法で発言するのは、非常に多い手法です。  こういう方法は珍しくはなくて、ごく普通のことです。公平なジャッジをしてくれることで多くの人からの信頼が高い人でも、Aさんについての情報が一つ方向のもので、内容も貧弱な情報しか得られなければ、その範囲でAさんを見るはずです。 公平な見方ができる人か、現実的な解釈ができる人か、は、決まり切ったものではなくて、流動的でその時々、問題毎に変わりますが、傾向として(他人の意見を取り入れて自分のもののようにしてしまうことが多い人)は、大人でいえば、7割以上になると思います。(根拠はありません。個人的経験です) (他人の意見を取り入れて自分のもののようにしてしまう)のは、行動の傾向あるいは、思考の傾向です。 Cが取り入れた他人の意見(Bの意見)が論理的におかしくないか、現実的にも妥当なものであれば、Bから取り入れた意見をCが述べたとして、それを聞いた人は、論理的におかしくない、現実的にも妥当な意見として聞くでしょう。 [Bの主張だけを鵜呑みにして出来上がった論理が正当な論理と言えるのか]この質問・疑問は難しいです。 先生から新しいこと(見解)を教わって、生徒・学生がいかにも自分の意見のように誰かに言ったとします。 そんなのは、学生の意見じゃないという言い方もできるでしょうが、ピュアに自分で考え出すことは非常にまれです。 ほとんどの場合、過去に聞いた論理やものの見方を、その時々で適宜はき出しているのが、ごく普通なのです。 [Bの主張だけを鵜呑みにして出来上がった論理を、拡声器や録音再生機のようにリピートしているだけであったとしても、その内容自体を見たときに(貧弱、根拠薄弱、大きな矛盾がある)のでなければ、筋の通った論理であるというしかないと思います。  なお、ただ尻馬に乗ってBの主張の結論に同調しているだけの人の場合、詳しく聞こうとするとつっかえて、説明できなくなるなど馬脚を表すこともあるようです。 CがAの目の前でAを悪者扱いするようなケース(Aを直接傷つけるようなケース)については、どのような見解をお持ちでしょうか? 【Cは思いこむだけでなく、Aを悪者として扱った。例:CはAを取り押さえ、警察・駅員・店員にAを突き出そうとした】というようなケースでは、通常社会正義実現の協力者として認めることが多いと思います。 Aが事実無根で捕まったのであれば、Aからすれば、Cは事情も真実も知りもしないで、何を正義面しているんだ。私はCに乱暴な扱いを受けたと訴訟したくなるかもしれません。 通常 (3)のような状況下で、(1)に遭遇したCは、Bの主張である(Aが悪いことをした)ということの真実性に論理的な判断はできません。(BがAを無実と知っていてAを糾弾している)可能性は少ない=Aが悪いことをした可能性は高いという状況判断のみが可能です。 そういう状況判断の中で、警察に行く必要を認めないで帰ろうとしているAを拘束し、警察に連行あるいは通報するのかどうか、結構微妙ですね。 単純に自分が遭遇したCであるとしたら、私は、何もしないことが多いように思います。もちろん、Aが悪いことをしているのを私が目視したりしている場合は、Bに協力する可能性があります。 通勤のホームで、電車から降りた女性Bが男性Aを捕まえていて、Aを痴漢だと言い立てているところに出くわしたらどうするでしょうか。AがBの手をふりほどいて立ち去ろうとしていたら、、、、   一見難しそうですが、身動きできないような満員電車ならともかく、私の乗っている程度の混み方であれば、AはBにさわったのかもしれないけれど、Aの取り押さえに私が協力しなければならないようなことではなかったはずだろうと勝手に思って、Aが立ち去っても黙認するような気がします。(なってみないとわかりませんが)

noname#90016
質問者

お礼

 おはようございます。  何度もありがとうございます。  きっと頭の良い人なんだろうなぁ、と感心しながら拝読しました。  それにしても、どんどん回答が長くなりますよね。どこまで読んでも終わらないので不安になってしまいました(笑) こんな私の為に大切な時間と労力を使って頂けるなんて…… 世界観が一変するほどの感動を味わいました。(ス、スミマセン。。。 ちょっと大げさでした;)  7割という具体的な数字も出して頂き、ありがとうございました。別に驚く数字ではありませんが、それだけ居るのですから、世の中は生き難いはずですよね。  さて、疑問に思ったことでかつ重要と思われることを以下に記しますね。 (1)[絶対的にAは悪いことをした人間だ]と確信する人と、[Aは悪いことをした。それをBが発見し告発している]と理解する人(等、Aが悪いと思い込む人)の違いが今ひとつわかりません。もし宜しければ、その違いを教えて頂けたら幸いです。 (2)「えん罪で誤認逮捕のようなことを多く見聞きしている場合は別として~」とのことですが、多くの人は人生を歩む中で、多かれ少なかれそのような経験――自分や身近な人間が事実無根の悪者扱いをされる経験をするわけですよね? 私には数え切れないほどあります。(友人等に訊いても「ある」と言いますし、hatenasateさんのご回答の内容からも、事実無根の悪者扱いは非常に多いであろうことが伺えます) だからこそ私は、そのような状況ではBの主張を鵜呑みにはしません。(もちろん「100%しない」等と断言するようなことは致しません。そのような傾向にあるという話です) そのような前提があり、質問のような疑問を抱いた次第です。 (そのような状況から、事実無根の悪者扱い等誰もが経験するであろう身近な問題と、自分が疎い事柄についてオピニオンリーダーに同調してしまう類の問題や、未知の事柄について大学の教授等から学ぶ類の問題等は分けて考える必要があると思います)  ぎゃっ 約束の時間に遅刻してしまうので、とりあえず行ってきます!

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    結構深刻な悩みです(>_<) 最後まで読んで頂けるととても嬉しいです。 私は元々の性格が理想がとても高く夢見がちで、 完璧主義なところがあります。 それが最近強く現われてきていて、今20代前半なんですが 例えば恋愛面だと完璧な人とじゃなくちゃ付き合いたくない、 と思ってしまったり少しでも嫌な所を知ると嫌いになってしまいます。 勿論人に要求するだけではなくて自分も人間として魅力のある人になろうと私なりに日々努力はしています。 悩みというのは、上に書いたこともそうなのですがもっと深刻で…。 ネットでしか相談出来ません(;_;) 現実に存在している人を好きになれないんです。 男性・女性関係なくです。。 好きな芸能人ならいます。でもそれは完璧で良い面しか見えないので ある意味好きになったり憧れて当然かもしれません。 私の場合もっともっと重症で漫画に出てくるキャラクターに 熱をあげたりしてしまうんです。 気持ち悪いと思った方はこれ以上読まない事をオススメします!(>_<) 他にも、いい大人なのにキャラクターグッズをたくさん集めたり、夢小説(自分の名前に変換して好きなキャラクターと恋愛出来る小説です) を読んだり、好きなキャラの妄想もよくします。 自分でも自分がたまに気持ち悪いと思ってしまう程です。 キャラクターは私を裏切らないし、綺麗な面しか見えないし完璧です。 だから実在している人間の汚さのギャップに苦しんでいるのだと思います。勿論汚いと言うのは外見をさしているわけではなく内面です。 私は小学生の頃ひどいイジメにあっていました。 イジメにあうまでは周りから明るい子だとよく言われていました。 それがイジメられてから性格がガラリと変わってしまったんです。 暗い・大人しい、そんなことばかり言われるようになりました。 それからもう人間が大嫌いになって人間不信にもなりました。 今はだいぶ明るさを取り戻して笑うことも増えましたがふとした瞬間蘇ってきたり夢にでてきて苦しくなります。 長々と書いてしまいましたが、どうしたら現実と向き合って人を好きになれるでしょうか?変わりたいです! 今は心療内科に通っています。 どんな回答でも有難いので待っています。 よろしくお願いします!

  • あることないこと言いふらす人

    あることないこと言いふらす人 仲良くしているグループの中の一人、Aさんの話しです。 精神的な病もあるせいか、情緒不安定であり、あること無いことを言いふらします。 自分が少しでも嫌いと思うと、その人の悪口を陰でいいます。 自分の悪口に賛同しない場合、今度はその賛同しなかった人を攻撃対象とし、悪口の陰口が始まります。 私もされています。 彼女は表向きとてもいい人を演じているのでもっともらしいことを回りに言うため、彼女の本性を知らないで居る人も多いため、結局は事実無根の悪口を言いふらされている身が悪者とされてしまいます。 私が本当のこと話せば、それこそ逆に私が彼女の悪口を言っているような気がしてきてしまうので、言えません… Aさん以外の人とはこれからも仲良くしたい友人が居るのに、こういう状況…どうしたらいいでしょうか

  • 人を悪者にする人の心理

    人を悪者にできる人たちの心理を知りたいです。ある人が大きな失敗を犯したりなどすると噂が広がり、みんなで悪者視したり、無視したり軽蔑したりします。よく友人、知人同士で、あいつはどうだとか、バカだとかよく聞きます。誰でも過ちは犯すし、その償いは個人の問題のはずです。関係ない人が責める権利はないでしょう。ほかにもある人を誰かが狂言などを働いて、あるいはささいなミスを誇張して悪者にしたてることだってあります。本当に自分達はミスのない完璧な正義の側の人間だと思ってやっているのでしょうか?それとも心の中の矛盾に気づいているのでしょうか?それでも気に入らないやつはこのチャンスに悪者として排除したいのでしょうか?

  • 夢が現実になったとき

    夢が現実になることがごくまれにというか 「あ!これ確か夢の中で経験した」と感じることがあるのですが なんでしょこれ? ただ経過時間がやたら長く4・5年スパンあるのですが 妄想でもたまに起こるのですが妄想していると勝手に ストーリーが進んでいきその感覚や感情性が数年後の未来に 現実に起こるのです 例えば 自分は塾のアルバイトを遣っていたのですが 「この状況確か夢で見た!と思ったのですここに居る人の感覚とか 完全に一致してるぞ!そうそう確かこんな感じの人たちだよ(全員)」と感じたりとかこんなのです。 ただビジュアルがおぼろげで確かなものではないです。 これを自分なりに解釈したところ感覚性や感情性などが夢 や妄想の中で収束化される。 現実でもその収束化される可能性があるのでそれと同一化 されたものである (確率で言うと物理的に可能性のある確率と心理性が一致し たということです。こっちのほうが分かりやすいかなw) と理論化してみたのですが本当にこれだけの理由なのでしょうか? なにかもっと他の理由があるような気がしているのですがご教授お ねがいします。

  • もっと現実的になりたい

    いまいち抽象的なタイトルかもしれませんが、これくらいしか考え付きませんでした。すみません。 私は、20代後半女性、事務の仕事をしています。 小さい頃から本を読んだり雑誌を読んだりするのが大好きでした。 そのせいなのかなんなのか、雑誌を読んではこういう華やかなOLさんが いるんだ、とか思ったり、小説を読んではこんなドラマティックな 人生があるんだ、と思ってきました。大人になってからは、そういう 思い込みは大体なくなってしまったのですが、いまだにどこか雑誌に 出てくるような華やかなOLさんのような生活があったり、小説に 出てくるようなドラマティックな人生があるのではないかとどこかで ちらりと思っているような傾向があります。もちろんそんなことはありえない、と自分に言い聞かせてはいるのですが・・・。 今まで出会った人たちのことをよく考えてみると、彼ら、彼女らは 現実的なことに長けていたような気がします。雑誌に出てくるような 高級レストランに詳しいのではなく、現実的に自分らの小遣いで 行けるような、適当にカジュアルだけどおいしいレストランに 詳しかったり、人間関係や会話の技術が長けていたり、地域や身の回りなどの身近な情報に詳しい、などです。例えば、ここのスーパーではこれが安い、とか、ここの服のお店では安いけどかわいい服が買える、とか色々な無料で利用できるサービスがある、などです。人の心のうちはわかりませんが、他にも精神面で私などとはもっと違った面があるのかもしれません。 しかし、なにかに憧れ、それに近づく努力をしたり、夢見ることにも 一分の理があるような気がして、雑誌や小説を読んでは夢見ることも やめられません。現実的でありながらも夢見ることを忘れたくないような気がするのですが、この二つを間を上手に渡っていく術とはなんでしょうか?でも私はもっと現実的であったような方がいいような気もするのですが、現実的であればいい点とはどのようなことでしょうか?

  • 事実と解釈

    事実と解釈に対して、自分の中で一定の解が出たので質問させて頂きます。 事実があった時、人はそれを解釈します。 その解釈は事実とは無関係です。 人は自分が信じたいものを信じます。 例えば幽霊や霊魂の存在を信じている人と信じていない人がいた場合、 双方とも自分の「経験」や「知識」に基づいて意見を言います。 実際に幽霊や霊魂が存在するかしないかは関係ありません。 もう一つ例を出します。 AとBが食事をする約束をしました。 しかしBが急に風邪をひいて来れなくなりました。 この時AがBを疑います。本当に風邪をひいたのか、ひかなかったのか。 しかし事実はBは「食事に来れなくなった」という事のみです。 風邪をひいたか否かは関係ありません。もっと言えば理由さえあれば風邪でなくても良いはずです。 Bがなぜ来なかったかは、Aの解釈次第です。 AとBの関係や人格に様々な前提を持たせれば、更に事実は見えにくくなります。 以上2つの場合を考えた時、事実と解釈の関係が見えてきます。 事実は1か0か、ですがそこに意味を持たせるのは人間です。 事実は解釈から生まれますが、解釈は事実とは無関係です。しかし生まれた解釈から更に事実が生まれます。 この事実と解釈に対する自分の見解が完全とは思えませんが、現状幾ら考えてもこれを超える解が見つかりません。 自分は今新たな見地を見出したいと考えています。 漠然とした質問内容になってしまいましたが、どんな批判・意見・感想でも結構ですのでご教示頂ければ幸いです。

  • 人と人との関係は、対して利用し合うもの?力を合わせるもの?

    最近私は、人は人を利用する(感謝の念が無い、または感じない。ただの物のように扱う、思う)だけのようにしか思え(感じ)ません。 私自身の意見としては、 動物ではなく、ヒトが集まる人間社会では、 (ぶつかりあうことがありにしろ、本来の姿として) 他人とは力を合わせて発展し問題を解決しながら、 助け合っていくものだと考えています。 「そうは言っても、現実はとは違うよな」というようにも思えます。 その人達の関係、その人達の状況により変わるのかもしれませんし、 一方的、短絡的に考えるものではないのかもしれません。 皆さんはどのようにお思い(お考え)でしょうか? (答えの無いような、意見を求めているような質問で申し訳ありません・・・)