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仏になるとは?

2つほど全く別の質問があるのですが宜しくお願いします。 まずは仏教に関してなのですが 「仏の心(仏になるともいうのでしょうか?」 という言葉がありますが、仏の心とはどういう意味なのでしょうか? 阿弥陀如来の誓いなどを見ても分かる通り慈愛の心 を持つことが仏になるという事だと考えることも出来ると思いますが 元々の、お釈迦様も、やはり慈愛の心を持って人々に般若心経などを 説いたと考えれば良いのでしょうか? ただ、お釈迦様の教えに比較的近いのではないかと思われる 禅宗などでは慈愛の心を得ることは目的にしていないと感じたのですが 禅宗では仏になるとは、どう言う事だと捉えてているのでしょうか? また話は別になりますが ユダヤ教→キリスト教→イスラム教の順で、これらの宗教は発生 したんですよね? 聞いた話だと、この順番が別になっていて驚いたので・・・

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回答No.5

>>仏になるとは?  私自身悟りを開いたことはありませんので、何ともいえませんが少しばかりお話させていただきます。 >>阿弥陀如来の誓いなどを見ても分かる通り慈愛の心を持つことが仏になるという事だと考えることも出来ると思いますが元々の、釈迦も、やはり慈愛の心を持って人々に般若心経などを説いたと考えれば良いのでしょうか?  歴史学的に経典類がどのように成立したかはさておきまして、信仰学的な見地から説明させていただきますと、お釈迦様は慈悲の心をもってお経様を説かれたことになるかと思います。  お釈迦様は菩提樹の下で成道されました。そして、この悟りを誰にも説かずに悟りの境地を楽しみながら、入滅してしまおうとお考えになっていました。そこへ、梵天という神様が現れお釈迦様にその悟りの境地を皆に説いてくださいと頼まれます。そうした梵天の頼みによって、お釈迦様は五比丘の元へ向い初転法輪(初めての説教)となるわけです。  この梵天勧請のお話をお釈迦様の心の中の葛藤としてしまえばそれまでですが、出来上がった説話だけ見てみると、お釈迦様としては成道してすぐには悟りの境地を人に説くという事は考えてに入っていません。ということは釈迦様の「悟り」の境地には、他者に教えを説く、もしくは他者を救済するという要素は含まれていないことになります。  しかし、梵天勧請によってお釈迦様の中に「悟り」とはまた違った要素が与えられます。それは、他者に教えを説き、他者を救済するという要素です。それを仏教的に言えば「慈悲」や「大悲」と表現するものといえるでしょう。梵天勧請以後のお釈迦様の中には「悟り」と「慈悲」という二つの異なった理念をもって行動されます。しかし、結果を見てみれば「悟り」と「慈悲」は異なる境地であるかもしれませんが、そこに矛盾がなかったからこそお釈迦様はそれを一生涯続けることが出来たとも考えられます。  つまり、お釈迦様が説法をしたという時点で他者を救済する「慈悲」の要素を含んでいることになります。 >>ただ、お釈迦様の教えに比較的近いのではないかと思われる禅宗などでは慈愛の心を得ることは目的にしていないと感じたのですが禅宗では仏になるとは、どう言う事だと捉えてているのでしょうか?  それもちょっと違いますねぇ。禅宗さん確か道元禅師のお言葉であると記憶していますが、このような言葉があります。「自未得度先度他〔自らは未だ得ていなくても、まず先に他に得させよ〕」という言葉です。これはまさに慈悲の心であると思いますよ。これは菩提心という「悟りを目指す心」を起こした方の境地を述べたものだと理解させていただいております。この菩提心を起こすということは、別の言い方をすれば「四弘誓願」を誓われるということです。「四弘誓願」とは、 1、衆生無辺誓願度・地上にいるあらゆる生き物をすべて救済するぞ 2、煩悩無量誓願断・煩悩は無量だが、すべて断つぞ 3、法門無尽誓願智・法門は無尽だが、すべて知るぞ 4、仏道無上誓願・成仏の道は無上だが、かならず成仏するぞ というすべての菩薩がもつ目標であり誓いです。「慈悲」ということを中心に考えたとき、この一番目の誓願が注目すべき点になります。このように菩薩は「すべての者を救う」という慈悲の行を誓うのです。このことは『華厳経』の中には 「この菩薩摩訶薩は一切の諸々の功徳を修するとき、かの善根をもってかくのごとく廻向し、この善根功徳の力をして一切の処を至たらしむ」 と説かれています。この「菩薩摩訶薩は一切の諸々の功徳を修する」ものが自分ひとりが悟ろうとするのではなく、自分のつんだ善根をもって「一切の処(すべての生きとし生くるもの)を(悟りへと)至たらしむ」と説かれています。これは先に述べた道元禅師の言葉にも通じると思いますよ。 >>「仏の心(仏になるともいうのでしょうか?」という言葉がありますが、仏の心とはどういう意味なのでしょうか?  私も悟りを開いたわけではありませんの私の経験からは何とも言いがたい所ですが、ある人がお釈迦様に「仏教やるとどうなるんですか??」と聞いたことがあるそうです。そのときお釈迦様は 「不幸にして、矢に打たれた人があるとしよう。ここで、次にどうするのかに関して、二種に分かれるだろう。一人は、慌てふためき、第二の矢を受けてしまう人。もう一人は、矢に打たれても痛みに耐え動揺せず、第二の矢をかわすことの出来る人である」 と答えられたそうです。  たとえば、悪口を言われてムカッとする。これが「第一の矢」です。つまり仏教をも学ぶものでも、基本的な感情や生理的な欲求は発生します。けれども、「何が何でも復讐してやろう」という「第二の矢」は受けないということです。(やっぱり私ではあまり善い喩えが思いつきませんね。すみません。)  このように仏教していますと、第二の矢を受けなくなる。これは「絶対復讐してやる」という心を抑えることができるということではなく、起きなくなるということでしょう。このような心を抑えることは「我慢」と呼び人間の慢心の一つとされます。このような心が起きずに、いつでも誰にでも悪口を言ってくる人にでさえフラットにいられるのが「空」と呼ばれる境地であるかもしれません。 >>ユダヤ教→キリスト教→イスラム教の順で、これらの宗教は発生 したんですよね?聞いた話だと、この順番が別になっていて驚いたので・・・  教科書通りでしたらこのような形でよいかと思いますが、どんな風にかかれてたんですか??気になる所ですね。  まぁ、長々書き連ねましたがこんなところです。急ごしらえのため誤字脱字乱文どうぞお許しください。  合掌 南無阿弥陀佛

siniti009
質問者

お礼

返事が遅れ大変申し訳ありませんでした ありがとうございます。 キリスト教などの成立過程は私の見間違いかもしれません。 また詳しく勉強した後分からないことがあれば再度質問 させていただきます

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その他の回答 (11)

回答No.1

ご質問の文章を読んでいて、ぱっと頭に浮かんだ言葉が「如来蔵」「仏性」という言葉です。この言葉をキーワードに検索すれば、たくさんのサイトがヒットすると思いますし、これらに関する書物もたくさん出ています。 簡単に言えば、我々人間は、仏になれる素質を生まれながらに持っています。その素質は、様々な煩悩によって覆い隠されています。その煩悩を修行によって取り除いていき、本来生まれながらにして仏であるということを自覚していこう(=成仏しよう)というのが、本来の仏教であると思います。 禅宗は、このような教えに基づいて坐禅修行などを行なっていると言えるのではと思います。 おっしゃるように、禅宗では「慈悲の心を得るために修行すること」を第一義として説いてはいません。 慈悲の心を得るために修行するのではなく、「本来、我々は仏の心(仏になるための素質)を持っているのだから、その本来の姿に立ち帰ろう」と説いています。悟りが開けさえすれば慈悲の心はちゃんと現われているはずなので、慈悲の心を得ることを目的にしているのではないのです。 などと偉そうに書きましたが、「如来蔵」や「仏性」については様々な説があり、私の書いたこととは違う説も多々あると思います。また禅宗でも、実は「磨くべき仏性などはない」というのが本来の考え方です。このようなことを説明するには、ここのスペースでは書ききれませんし、もちろん、その説明をするだけの力量を私は持ち合わせていません。 これらのことについては、各々について詳しく説かれている書物を読んでいただければと思います。 あと、ユダヤ教→キリスト教→イスラム教の順番についてですが、全くの門外漢ですので最新の研究等がどうなってるのかは存じませんが、一般的には書かれている通りの順番で成立したと言われていると思うのですが……。 こちらに関しては全く自信はありません。

siniti009
質問者

お礼

返事が遅れ大変申し訳ありませんでした

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