ヘーゲル流の対置とは?

このQ&Aのポイント
  • テュービンゲン派の人々は、宣教の中心地と内容、対象、担い手を対置して「ユダヤ人キリスト教」と「異邦人キリスト教」と捉えた。
  • 質問者は「ヘーゲル流の対置」とは、観点の選定の妥当性ではなく、対置する際の観点の選び出し方を指しているのではないかと考えている。
  • 著者の意図は明確ではないが、この対置はヘーゲル哲学の特徴を表現している可能性があると思われる。
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「ヘーゲル流の対置」とは?

半田元夫、今野國男著「キリスト教史」 このようなところから、テュービンゲン派の人々は、宣教の中心地=イェルサレムとアンティオキア、宣教内容=律法主義と福音主義、宣教対象=ユダヤ人と異邦人、宣教の担い手=直弟子とパウロに分け、前者を「ユダヤ人キリスト教」、後者を「異邦人キリスト教」と対比的に捉えた。この彼らのヘーゲル流の対置によって、錯雑として理解しにくい発生当初のキリスト教の動きは、明快な見取り図の下に整理、分析されることになった。 さて、質問です。 「ヘーゲル流の対置」の意味が分かりません。1、2のどちらかだと思うものの、どちらもしっくりしません。 1 観点の選定の妥当性は問わずに、「ユダヤ人キリスト教」と「異邦人キリスト教」の違いを4つの観点で対置したこと自体がヘーゲル流だというのか 2 対置する際の4つの観点の選び出し方がヘーゲル流だというのか 常識の範囲で言えば比較検討する際にはヘーゲルであろうとなかろうと対立点を鮮明に明示するでしょうから、1ではぴったりしなそうです。一方、対置する観点は誰が選んでも上の記述と大同小異になりそうで、ヘーゲル特有の観点とは言い難く、2ともぴったりしなそうです。著者は何処に着眼して「ヘーゲル流の対置」といっているのでしょうか。 日頃から「ヘーゲル哲学は難しいらしい」ということだけが念頭にあって、ヘーゲルの何たるかを全く知らずにほったらかして来た私が、この文章に出合って「この対置は誇張があるにせよ、図式化し過ぎているにせよ、ただの比喩であるにせよ、何らかの意味でヘーゲル哲学の特徴を表しているらしい」と察知したことから生じた質問です。つまり、この引用文を教材としてヘーゲル哲学を端的に、かつ実感を伴った印象として残せるよう解説して下さる方が居られまいかという(虫のよい?、無謀な?)お願いです。ヘーゲルの全体像を述べるという無理ではなく、著者がここで「ヘーゲル流の」と入れておきたくなった気分を代弁して下さるだけでも結構です。 よろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

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  • harepanda
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回答No.1

ヘーゲル読みですが、分かりません。 一般論として指摘できるのは、なんでも中間値を取ればヘーゲル式だという短絡的な思考の人がいること、マルクス主義の縮小再生産の先に正・反・合によるスキームのみが残る傾向があることだと思います。 > 1 観点の選定の妥当性は問わずに、「ユダヤ人キリスト教」と「異邦人キリスト教」の違いを4つの観点で対置したこと自体がヘーゲル流だというのか いいえ、これはヘーゲル的ではありません。違うものを2つ並べ立てただけであり、その2つの要素が真の和解に達していないからです。和解どころか、議論も発生していない状況では、弁証法が稼動していません。2つの立場の間に議論が稼動してこそ、弁証法が動き出すのです。 > 2 対置する際の4つの観点の選び出し方がヘーゲル流だというのか いいえ、これはヘーゲル的ではありません。単に物事の要素を並び立てるだけの思考様式は、ヘーゲルが嫌うところのものです。要素が4つだろうと、5つだろうと、6つだろうと同じです。3つの場合についても、ある種の哲学者が若干の三分法を使うからと言ってカントに似ているなどとするのは、笑うべき浅薄な考え方だとヘーゲルは言っています。 ところで、この半田氏の本を読んだことがないので分からないのですが、かなりの疑問がいくつかあります。 *ヘーゲル本人の一番弟子ガンスがユダヤ人であることをどう思っているのか? *ヘーゲル本人はプロテスタントだが、プロテスタントとカトリックを分けずに議論していいのか? *半田氏はどこから「ヘーゲル的」という言葉を仕入れてきたのか?ヘーゲルの影響を受けた人物に、「宗教は麻薬だ」と述べたマルクスや、物象化論で著名なフォイエルバッハがいることを、どう評価しているのか? *チュービンゲン派という語を、純粋にヘーゲルの後の世代のキリスト教概念として使っていると考えて良いのか?まさか、ヘーゲルやシェリングと友人だったヘルダーリンを念頭においていることはないと断言してよいのか? というわけで、半田氏の文章を読んでみないと、回答いたしかねる部分や謎が多数あります。

sono-higurashi
質問者

お礼

引用した文章にはヘーゲルらしさが少しも表れていないことが分かりました。 著者としてはヘーゲルと結びついた何かしらを認識していたものの、文章の上に具体的には表れなかったのかも知れません。 きちんと腰を据えて勉強しようとせず、他の用件から安直に行けがけの駄賃のようにしてヘーゲルの雰囲気を分かっちまおうという横着は通じないことが分かりました。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。 本日中に何方様からも新たな寄稿がないときは当方の都合次第で締め切ります。

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     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて 子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼ 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。ユダヤ民族内部で そのような神と人との関係がととのった。(だから そのことが 理論どおりに実現するとまでは言っていない。神が要らなくなると言っている)。  (γ‐4) そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神の名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  ご教授・ご批判を俟ちます。賛成票をもどうぞ。

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     聖書の伝えるヤハヱーなる神は   みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて 子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  けっきょくイエスによって  そしてそれがルカおよびパウロをつうじて  成就したと語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ▲ (ルカによる福音書 22:17-20) ~~~~~~~~  そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。  ・・・       「この杯は〔十字架じょうのはりつけにおいて〕     あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシヘ〔を人間のチカラのみによって守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼ 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシヘ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシヘは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシヘは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。ユダヤ民族内部で そのような神と人との関係がととのった。(だから そのことが 理論どおりに実現するとまでは言っていない。神が要らなくなると言っている)。  (γ‐4) そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神はそれぞれの名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  (δ) ならば 宗教という宗教 オシヘという〔それを守るべきという意味での〕オシヘ そしてその組織・教会・聖職者 これらはみな・すべて・いっさい 要らない。  なぜ存続しているのか? おしえて欲しい。

  • 神がみづからを揚棄しちゃった:エレミヤ書31:31

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて   子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▼ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    ▲ (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)~~~~~~~~~     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書・同上) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼(パウロ:コリント後書 3:6) 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると考えられる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと じんるいの全体としてひとつである。無い神も同じひとつの神である。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれることとなって〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神の名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神 と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  ご教授・ご批判を俟ちます。賛成票をもどうぞ。