• 締切済み

ニーチェから現代の思想への流れ

哲学素人です。 最近、ニーチェの入門書(初の哲学書)を読んで哲学に興味を持ちました。 ルサンチマン批判、禁欲主義の批判、善と悪の解体、超人思想、だと思っているのですが(違ったらすいません)。 私の母もキリスト教で幼いときから禁欲主義やユートピア思想を教え込まれました。そこで当然のように自己批判によってペシミスティックに陥り、信仰もしていないのでニヒリズムに陥っています・・・。 ニーチェは超人思想に生きようとして発狂していましたが、現代までに彼のいっているニヒリズムや禁欲主義からの自己批判を乗り越えた思想家はいるのでしょうか?? お分かりだと思いますが、自分自身への処方箋を探しています。 哲学に詳しくないので、間違っていたらすいません。

noname#132489
noname#132489

みんなの回答

回答No.4

漱石のご質問に回答した者です。 質問者さんの問題意識の所在が、なんとなくつかめてきたように思います。 つまり、質問者さんはいま、なんというか、生きにくさみたいなものを感じておられる。 それを、たとえば頭痛がする、この頭痛はいったいどんな種類の頭痛なんだろう、原因はなんだろう、と思ったときに、ネットでよく似た症状を検索して、いくつか見る中で、自分に一番近いものを捜して、ああ、疲れ目が原因なんだ、こういうときは目を休めるのがいいんだな、温湿布なんかも良さそうだ……と対策を立てるように、いまの自分の生きにくさを解決しようと考えておられるのかな、と思いました。 そうして、苦しんだ漱石とか、ニーチェとかの「生き方」が(漱石の作品やニーチェの思想ではなく)、自分の参考になるのではないか、と思っておられる。だから「処方箋」という言葉が出てきたのかな、と。 だとしたら、漱石の回答は、ピントがずれてましたね。 で、ニーチェの思想が現代思想にどう影響を与えているかを回答したら、ここでも外してしまうわけね(笑)。 あのね、こういうふうに考えたらどうかしら。 たとえばあることが起こる。その出来事はどういうことで、原因はなんで、どういうふうに対策を立てたらいい、ということがわかるのは、「出来事」が終わってしまってからなんです。 サッカーでフォワードの選手に球が出る。それがシュートに結びついたら「ラストパス」です。もらったフォワードの選手が、そこからさらに別の人に渡したら、単なる「パス」のひとつです。フォワードの選手がもらいそこねて、敵に取られたら「パスミス」になるし、たまたまそれがゴールまでいったら、結局シュートになって、その試合のヒーローになるかもしれない。 つまり、その時点では、ある選手が「ボールを蹴った」ということでしかない。その「蹴った」という行為が、どういう意味を持つかというのは、そのプレーが、あるいは試合が、あるいは「ワールドカップ予選」などという一連の試合が全部終わってみて、初めてあきらかになる。 だから、自分の生きにくさの原因を、いまの自分が過去をふりかえってあれやこれやに求めたりしても、それがほんとうの原因なのかどうかは、その人にはわからないんです。だってその人は、まだ試合を続けている選手と同じだから。 転んで足をケガする。そのケガのようすは目で見ることができます。目で見る、つまり、外側から見る、ということは、客観視するということでもあります。ものごとを、主体である自分から切り離し、客体として、主体の行為の対象(消毒するとか、ヨーチンをつけるとか、病院へ行くとか)とするわけね。頭の痛みは見ることができないけれど、やはり「頭の痛み」を自分から切り離して、その痛み具合とかを客観的にとらえることはできる。 けれど、生きにくいという「感じ」は、生きている自分の意識そのものですから、そういうものを客観的に、ほかの自分の意識からとりだして眺めることができるんだろうか、という問題が出てくるわけです。 ここで一気にニーチェに話を戻すんですが(笑)、ニーチェがなぜ現代思想の源流にあるかというと、あらっぽく言ってしまえば、いままで書いたようなことを初めて考えたのがニーチェだから、と言えるわけです。 ニーチェが言ったのは、客観的世界など存在しない、それは主体がただ解釈しているだけだということです。そうして、その解釈をさせているものは、力への意志である。ここがニーチェ独特のところね。 それまでは、主観の外側には、確固たる世界があった。まるで、足のケガを外から観察しているみたいに、人間は客観的世界を観察しているはずだ、というふうに考えられていたわけです。そのうえで、「世界」とか、「現象」とか、「表象」とか、「主観」とか、「意識」とかいうことをめぐって考えられていたわけです。 それをニーチェは、人間と世界との関係なんてそんなものじゃない、というふうに言ってしまったんです。 ほかに現代思想の源流としてあげられるのが、フロイトとソシュールなんですが、つまり、それまでいろんな人たちが「こういう問題があるがどうだろう」とみんなでああでもないこうでもないと言っていたところに、「問題を言っているおまえはだれなのか」とつきつけたようなものです(ちなみにフロイトは「それをおまえに問題と感じさせているものはなんなのか」と言って、ソシュールは「おまえが問題だといっている問題は「言葉」にすぎない」と言ったわけね)。 そういう意味で、現代思想はニーチェの影響のもとに始まったといえる。 けれども、それは以降の思想が、質問者さんがおっしゃるように、 > ニヒリズムや禁欲主義からの自己批判を乗り越えた思想家はいるのでしょうか?? というかたちでは問題にしてこなかった、といって良いでしょう。 そうではなく、ニーチェはニヒリズムの病因を、プラトン以降連綿と受け継がれた西洋の形而上学に見て取るのですが、この思考様式のもとでは、自然は神や理性による形成の単なる素材でしかない、そうではなくて、自然そのものにもういちど生成力を回復させてやることを考えた。 だからこそ、以降の哲学はハイデガーにしても、メルロ=ポンティにしても、レヴィナスにしても、身体ということが大きな問題になってくるんです。 だけど、こういうことは、たぶん質問者さんの聞きたいことじゃないと思う。 処方箋っていうのは、その病気を外から眺めることができる人に書けるものです。この人と自分は似てる、とたとえ自分が思っても、ほんとうに似てるかどうかは自分にはわからない。自分の意識は決して外側から見ることはできないから。わたしたちにできること、というのは、ただ、考えるだけ。それでも、きちんと考えてきた人の本を読むことによって、少しずつうまく問題を立てることができるようになると思います。だから、あまり自分の問題に引きつけすぎないで、いろんなふうに考えてみるといいかと思います。 いくつか参考文献をあげておきます。 哲学の入門書というよりは、むしろ、日本にいる哲学者たちが「生きる」ということをどういうふうに考えているか、にちかいものです。 お読みになったニーチェの入門書は、講談社現代新書から出ている永井均の『これがニーチェだ』でしょうか。もしそうじゃなかったら、これは読んでみて。 あと、永井さんの本はどれもおもしろいです。 ・『翔太と猫のインサイトの夏休み――哲学的諸問題へのいざない』(ちくま学芸文庫) ・『〈子ども〉のための哲学』(講談社現代新書) ほかには中島義道さんの本もいくつか。 ・『哲学の道場』(ちくま新書) ・『生きにくい……―私は哲学病。』(角川文庫) ・『哲学の教科書――思索のダンディズムを磨く』(講談社学術文庫) あと、わたしが個人的にものすごく好きなレヴィナスの入門書です。 ・岩田靖夫『よく生きる』(ちくま新書) 以上、何らかの参考になれば。

noname#132489
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >>質問者さんの問題意識の所在が、なんとなくつかめてきたように思います。 なんか心配してもらったみたいで嬉しいです。身体の中から少しシャボン玉がはじけましたwww >>つまり、質問者さんはいま、なんというか、生きにくさみたいなものを感じておられる。 生きにくさ・・・う~ん、まぁそんなとこです。正確には、この世の中に価値を感じない&それを否定したい自分がいるが否定せざるを得ないことに苛立ちを感じるって感じです。 それで社会を見つめ自己を見つめた漱石の見出した価値を参考にしたかった。 また、西洋に『神は死んだ』と言われて、西洋人はどのように価値をみいだしていったのかが知りたかったのです。 出来事は終わってからしかわからないのは理解しました。また確かにニーチェがいったように、生物それぞれの力の意思によって解釈は異なるので根本的なところまでは到達できないでしょう。 しかし、自己の肥大化の葛藤、自己肥大と禁欲主義のジレンマ(善と悪の喪失)など共通項があったので・・・。 あまり、僕は神とかは興味ないんです。あまり信じてませんし、どうでもいいっていうか・・・完全にニヒルですね。 教えられた(神によって作られた)善悪の判断が今の世の中との矛盾を感じ、自分の人格&この世の全てを全否定しちゃいそうになるんですよ・・・。 今は何も救う手立てがないので、哲学や社会学、心理学の本を読んでいるのですが。結局、何も得られないのではないかと怖いです・・・。 たくさんの本を紹介していただきありがとうございました。

  • tyr134
  • ベストアンサー率51% (851/1656)
回答No.3

ニーチェ哲学の凄さは、「キリスト教的伝統が後退したことにより人は自由を手に入れた。しかし、人はその自由を上手く使いこなせない」という事を鋭く指摘し、それをルサンチマンやニヒリズムとして体系化し説明した事ですね。 ニーチェ哲学の根幹は、ルサンチマンやニヒリズム以前に、「神の死」であろうと思います。 「神の死」というのは、結構有名な言葉なのですが意外と理解されてない言葉でもあります。 ココで言う「神」とは、当然伝統的なキリスト教の神なのですが広く一般に宗教と置き換えても差し支えがない気がします。 彼の後継ともいえるハイデガーは、ニーチェの言う神を「神とは、さまざまな理念と理想との領域を示す名前」であると指摘しています。 つまり、宗教的なモノが担っていた分野(自然法則、倫理・道徳など)を「人間の理性」が担うようになった。(これは主に近代啓蒙思想に依るところが大きい) 結果として、「神の国、ユートピア、イデア界etc,,,」など人が逃げ込めた「彼方の世界」が崩壊し、(彼方の世界に逃げ込むことは)「現実から目をそむけた退廃した生であった」と喝破された状態へと置かれることになりました。 また、これは同時に「絶対的な価値基準の喪失」をも意味します。 中世を通してキリスト教社会の価値基準は神にあった。(或いは神の名を借りた教会) しかし、その「絶対的な価値基準」は人間理性によって崩壊し(神の死)、人の理性に委ねられることになる。 「絶対的価値基準」が喪失したという事は、善悪の判断も道徳心も「蠣の好き嫌いのようなモノ」になってしまったとラッセルは言ってます。 結果として、人の欲望は抑制されることはなく増大する一方である。 そして人は「目標もなく”何故?”に対する答えも欠けた」状態に陥り、「至高の価値が無価値」になってしまう。(これがニヒリズム) ニーチェはニヒリズムに晒された人間は二つの道しか残されていないとしました。 一つは「おしまいの人間」。 これは、簡単に言えば群衆に埋もれ個を滅却した群衆の一部、畜群である。 自由を自ら放棄して他者に委ね、他者に埋没し安全のみを図るのである。 もう一つは「超人」である。 こちらは、ニヒリズムを素直に受け入れ、自ら価値を創造していく生き方である。 しかし、その末路はエゴスティックな個人主義へと走り、無慈悲、無信仰、無感情という非人間への転落である。 ティーリケは、「ニヒリズムは自我の崩壊へと導く」と指摘している。 しかし、人は第三の道を生み出した。 神に変る新しい信仰対象(支え)を生み出したのである。 その典型的なのが「資本主義=お金」である。 現代の我々は、ニヒリズムから逃げるために「資本主義」を打ち立て、社会にとっては「経済成長」が、個人にとっては「豊かで便利な暮らし」が神に変る「添え木」となった。 しかし、今はその「虚構」さえも暴露されようとしている。 今は、正にニヒリズムから逃げる為の道具、「資本主義」に変る道具が必要であろう。 ・・・と、以上は稚拙な私のニーチェ理解です。(って、前置き長すぎましたね、すみません) >ニーチェは超人思想に生きようとして発狂していましたが、現代までに彼のいっているニヒリズムや禁欲主義からの自己批判を乗り越えた思想家はいるのでしょうか?? どうでしょうか、、、。 「神の死」を乗り越えた人は居ないんではないかな~と推測します。 個人的には、捨て去ったモノ=宗教を今一度再構築し直すことしかない気がしますけど。 以下は、上記のニーチェ理解に至った書です。 参考になれば幸いです。 「神の死」理解に、、、 ヴィルヘルム・ヴィンデルバント著『歴史と自然科学・道徳の原理に就て・聖―「プレルーディエン」より』 (岩波文庫) ハイデッガー『ニーチェの言葉・「神は死せり」,ヘーゲルの「経験」概念 』(多分、全集に入ってたと思います) ※因みに、「神の死の始まり=神に変って理性が取って代わる」はヘーゲルの影響大なようです。 ニヒリズム理解として、、、 ホルスト・E. リヒター著『神コンプレックス』(白水社) エーリッヒ・フロム著『自由からの逃走』(東京創元社) H.ティーリケ『ニヒリズムの時代』(創林社) でも、手っ取り早く理解できるのは、、、 松木 真一 編『神の探求―現代のニヒリズム・科学文明・宗教紛争の世界の中で (現代キリスト教思想講座 1) 』 の中にある、「第一章・死んだ神の追悼会」ですね。 大学の授業の教科書として買わされたんですが、参考書が今まで読んだ本と結構重なってたり、自分の考えに近かったりしてビックリです。 で、この本で知ったんですが 「超人」理解のお薦めとして ドフトエフスキー著『悪霊』『罪と罰』など だそうです。 これらの著作の主人公が、超人の典型としてあげられていました。 では、長文で失礼しました。

  • dulatour
  • ベストアンサー率20% (327/1580)
回答No.2

私も素人です。文学部哲学科は出ていますが (^^ゞ ニーチェって、近代的な自我の発見者というように私は位置づけています。ただ、あまりに問題提起が激しすぎて、徒花のような存在でしょう。 近代的自我の発見によって、様々な哲学や思想が開花しましたが、ニーチェの思想そのものを受け継いだものは、何もないでしょう。 ならぬ徒花 ましろに見えて 憂き中庭の夕顔や そんな感じです。

noname#132489
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 全ての事柄は解釈だけが存在するだけだ。人間の解釈が世の中を決めている。その解釈は人間の力の意思(喜怒哀楽を表す根本的な源)だ。と書かれていたような気がするのですが、その力の意思の解明も進んでないのでしょうか?? 何か処方箋になりそうな本などありましたら、教えてほしいです。

  • ishi310
  • ベストアンサー率42% (6/14)
回答No.1

僕の個人的見解では、ニーチェの思想はものすごく辛いです。 伝統の秩序や価値観に疑問を投げかけ、結局破壊してしまう。 かと言って救いを残してはくれない。 粉々になった伝統のかけらの中で、精神的支柱を失ってしまう。 人間そんなに強くありません。 強くないからこそ何かにすがる。 それを否定してしまえば、社会からの孤立と精神崩壊も 予想できる結果です。 ハイデガーやデリダがニーチェの後継にあたるかと思いますが、 どちらも精神的にはきついです。 ニヒリズムを結局は乗りこえていないのでは、と思います。 特に自分への処方箋を探している時期にはこのような思想は 劇薬にすぎるかと思います。

noname#132489
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >>ニヒリズムを結局は乗りこえていないのでは、と思います。 >>特に自分への処方箋を探している時期にはこのような思想は劇薬にすぎるかと思います。 そうなんですか。 何か処方箋としてお勧めな本などがあれば教えてほしいです・・・。

関連するQ&A

  • ニーチェの思想について

    哲学についてド素人なのですが、ニーチェの思想について教えてください。ニーチェのニヒリズムとキリスト教の関連がよくわかりません。  いろいろ調べてみたのですが、よく理解できないです。 できるだけ簡単にニーチェの思想について教えてください。

  • ニーチェ思想とヒトラー

    最近ニーチェを読み出した者ですので質問内容が意味不明でしたらご指摘下さい。 ニーチェが後の帝国主義やユダヤ人差別を予測して強く批判しているのにもかかわらず、「ヒトラーがニーチェ思想を利用した」とはどういうことなのでしょうか? ニーチェの著書を読む限りでは、本人の意図することと言葉自体の意味はしばしばかけ離れていて、矛盾しているようにも思える部分がありますが、そういうことなのでしょうか? また、このことについて、「ヒトラーはニーチェを曲解したに過ぎず、ニーチェには負うところが無い」という説もききました。(名前は忘れました) 以上について、できれば関連する著書名とともにお教え下さい。

  • ニーチェが流行りですが……

    ニーチェが流行りですが…… ニーチェ、ブームですよね。ブームであれ、過去の異人の思想にふれるのはよいと思っている、本屋さんです(事務方なので今日はお休みです)。 私は雑読なのと、基本的に古典を含むフィクションをよむほうですが、ニーチェを読んだ、という人間から、言いがかりをつけられました。 ・フィクションばかり読んでいて、現実逃避だ。好きな作家の名前を多々挙げているが、読んだ数だけ自慢しているのだろう。フォレスター、ヒギンズ、ハシェク、志賀直哉、と名前を列挙して悦に入るな。 ・そのなかに、阿川弘之、サン・テグジュペリのような軍人・貴族がいるが、支配者の理屈でものを考えている。 ・ゴールデン・エイジSFなんて、絵空事 まあ、おおむねこのようなことを、ニーチェの読者さんはいいます。 事実、哲学は興味がないジャンルだったので非難はハイハイと聞きますが、多用される「ルサンチマン」という言葉を、よく理解できません。 私は、はしょって「弱者の強者に対するねたみの鬱積」とおもっていました。昔、この言葉にはじめてあったときに広辞苑引きました。そこの記述がモトネタです。 が、そのニーチェさんは、 「あわてて『ルサンチマン』のことをウィキペディアで調べてきたんだろう。無為な読書の結果がこれだ」 と、意気軒昂です。 私のニーチェに対する理解、いや、それ以下の印象、は ・工業化、複雑化が進むこれからの世では、人間は自分に厳しくなければならない。いまや神に寄り添うより、自立し、人間の中の「超人」が頂点に立つべきである。ただ、その重すぎる使命をおった頂点に立つ超人をささえるのには、幅広いすそ野が必要であり、堕落していない凡人の存在は、良いことである。 書いていて、自分の背筋が寒くなるような文章ですね。 聞き流せばいいと思うし、皆さまも「バカ同士のののしりあい」とお思いでしょうが、無視以外に、うまくこのようなニーチェさんをあしらう一言は、ありうるのでしょうか。 ニーチェも人間の幸福を考えて、思想を重ねたのだとおもいますが、ニーチェさん、にちょっと困っています。ご助言ください。

  • 【哲学思想・構造主義】今の主流は何主義ですか?

    【哲学思想・構造主義】今の主流は何主義ですか? 古代ギリシャのプラトン(イデア)→ニーチェ(ニヒリズム=虚無主義)→サルトル(実存主義)→構造主義→? 今は構造主義の時代? もう構造主義は古い? 構造主義ってどういう思想なのか簡単に分かりやすく教えてください。 今の主流主流思想も教えてください。 どういう思想の流れですか? 思想の歴史の流れも簡単に分かりやすく教えてください。

  • ニーチェの「永遠回帰」とは?

    ニーチェはスイスの保養地、シルスマーリアの近郊の山々を散策している時、突然、人類と地上を遥か超える3000フィート!と叫んで「永遠回帰の思想」を懐胎した、と、「悦ばしき知識」の中で言っています。 「永遠回帰の思想」はニーチェにとって、キリスト教の「福音」に代わる、新しい「福音」でした。 どういう意味で、それが「福音」なのかといえば、古代ギリシャ以来の哲学と形而上学に代わって、自分の「力への意志」が、これからの哲学でなければならない、と言ったものでした。 ニーチェは言っています、存在に対して生成の優位を唱えること、それが「力への意志」であると。 存在に対して生成の優位を唱えることは、アリストテレスの目的論と、キリスト教の終末論に対して、古代ギリシャの円環的な時間の考えを対抗させること。 直線的な時間の考えに対して、円環的な時間の考えを対抗させること。 時間が直線的と言ったのは、キリスト教とその終末論です。 最後の審判に向かって、時間は直線的に進行する、という。 アリストテレスの目的論も、有機体をモデルに、歴史には、その目的がある、という。 ニーチェは、このアリストテレスとキリスト教の「目的論」を否定するために「永遠回帰」の思想を唱えました。 すでに、ニーチェの前のショーペンハウワーは、世界の根源は「生きんとする意志」で、「生きんとする意志」は目的を持たない、盲目である、と言っていました。 だから人間が救われるためには、この「生きんとする意志」を否定しなければならない、と言っていました。 ニーチェはショーペンハウワーの思想を受け継ぎましたが、ショーペンハウワーとは違い、逆に意志を肯定すべきだと言いました。 それはこれまでの、最高価値であったキリスト教の価値観、人類は終末に向かって、最後の審判で人々が天国に迎えられるために、人生は意味のあるものでなければならないと言ったことへの否定でもありました。 ニーチェはそのようなキリスト教の価値観を「ニヒリズム」と言って、断罪します。 それは存在を優位に考える思想であり、それは「ニヒリズム」である、と。 (この場合「ニヒリズム」とは日本で「虚無主義」と訳しているのとは逆の「存在主義」という意味で) ニーチェはキリスト教のみならず、古代ギリシャ以来の哲学と形而上学は「ニヒリズム」であり、西洋の哲学の歴史は「ニヒリズムの歴史」であり、キリスト教は「ニヒリズムの宗教」と言って断罪します。 彼らは、存在だけを論じ、無を無視してきた、それが西洋の哲学の歴史であり、キリスト教なのだ、と。 この「存在を無視する」というのが「ニヒリズム」です。 事実、西欧世界に仏教の「無の思想」が知られたのは、19世紀の半ばでした。 それを知って西欧の人々はびっくりし、そして畏怖しました。 「なんと、東洋には無を唱える宗教がある!」というわけです。 ニーチェは「神は死んだ」と宣言しましたが、それは文字通り、神、すなわち超越的な存在がいなくなったということと同時に、西欧の哲学と形而上学の歴史が終わったことを宣言するものでした。 天に超越的な存在としての神があり、地上に私たちの世界がある、そして天の世界こそ、ホンモノの世界であり、地上の世界はニセモノの世界とキリスト教は言ってきましたが、その「二元論」、有と無の対立を否定し、生成の世界を対抗させなければならない、とニーチェは言います。 ニーチェの「同一物の永遠回帰」を、無が回帰する、無意味が繰り返す、と解釈する人がいますが、それは誤解です。 「存在に対して生成へ!」を唱えるものです。 直線的な時間に、円環的な時間を対置することです。 直線的な時間はキリスト教の終末論と、アリストテレスの目的論につながり、歴史の「進歩発展」につながりますが、ニーチェの円環的な時間は生成ですから、目的を持ちません。 そして「力への意志」は目的を持たず、その強化と増大を目的とします。 目的よりも「力へ!」です。 それこそが、ニーチェにとって、「永遠回帰」の思想が、新しい「福音」であるゆえんです。 どうですか?

  • ニーチェとカントの出会い って?

     ニーチェとカントの出会い?  ▼ (三島憲一:ハーバーマスとデリダのヨーロッパ) ~~~~~~~~   デリダの〔ハーバーマス七十五歳の誕生日に際しての〕お祝いの手紙が 《我々の誠実さ》というニーチェの引用で始まっていることを忘れてはならない。デリダとハーバーマスにおいて(ひょっとしてハーバーマスは多少ともいやいやながら) ニーチェとカントが出会っているのである。  理性の欺瞞を告発し 個性と差異を情熱と芸術の名によって擁護したニーチェと 人間を目的として扱うことを哲学的社会論・政治論へと翻訳し 世界市民権を説いたカント 理性と力の癒着の告発がともすると力の理不尽な肯定という迷誤に陥ったニーチェと 理性の哲学がときとして謹厳実直な特定のライフスタイルへの固定化を誘引しがちな道徳主義的カント 政治的にはこれまでまったく違った陣営に位置づけられていた両者が デリダとハーバーマスの《翻訳》を通じて二一世紀にもっと激しく出会うならば――そして すでに二〇世紀の最後の一〇年で確実に出会っているのだが―― それぞれの迷誤と誘引をもう知らない世代の希望が出てくるというものである。  そうすれば ヨーロッパ憲法の挫折はエピソードに終わり 国際秩序の立憲化という《ユートピアなき理想主義》への道がひょっとすると見えてくるかもしれない。  これがデリダとハーバーマスのヨーロッパ つまりエアバスと武器輸出のヨーロッパではない ヨーロッパの自己像である。  そして ひょっとすると 日本の思想の世界でも 《なんとか大学なんとか学会》の習慣も 〔* 日本の学者たちがそれぞれ自分たちの奉じる外国の学者や思想家をそれにたてまつったところの〕神様や偶像を引くだけの《神々の戦い》の時代も終わるかもしれない。ヱーバーがこの表現を使った経験は もう過去のものに属するのだから。  (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 終章 ハーバーマスとデリダのヨーロッパ p.227 )  ~~~~~~~~~~~~~~~  ハーバーマスおよびデリダについて知りません。どなたか解説してくださいませんか。  そのほか ご感想やご見解をも述べてください。  質問者の物言いは わづかに《世界市民権》が 市井の一市民にあるというだけではなくそのことが 社会制度としても――つまり 国家やあるいは国際連合などに必ずしも頼ることなく 地域のムラ(市町村)じたいの体制としても――成っているということ このことを必須の条件とすると考えられることである。    自由なご批判をどうぞ。  

  • 哲学・現代思想は科学や芸術をどうとらえているのでしょうか??

    初心者です。 哲学はある意味、主観と客観の一致の問題を考えてきたと捉えています。(違ったらすいません) (真理は存在するか??客観視は可能か??など) そこに近代哲学批判のニーチェが出てきて・・・ 「真理などはない、すべてあるのは解釈だけだ」と述べ、その考えが現代思想の根本にある気がします。 ポストモダン思想などは懐疑状態に陥ってしまったと思っているのですが(すべては差異だとか戯れだとか)、哲学・現代思想は、ある程度法則が見つかったとされる物理学(運動が説明できる)や生物学(遺伝子など)などをどう捉えているのでしょうか?? また、最近は「人それぞれ」というのが流行っていますが、何処までが人それぞれなのか?? 美しさや善悪の判断など、微妙にそれぞれといえないものがあるのはどのように説明されるのでしょうか??(芸術や道徳がなぜ存在するのか?人それぞれだと存在している意味がない) 気になったので質問させていただきました。よろしくお願いします。 あと、根本的に解釈が間違っていたらご教授して頂きたいです。

  • ニーチェとカントの出会いって?

     ニーチェとカントの出会い?  ▼ (三島憲一:ハーバーマスとデリダのヨーロッパ) ~~~~~   デリダの〔ハーバーマス七十五歳の誕生日に際しての〕お祝いの手紙が 《我々の誠実さ》というニーチェの引用で始まっていることを忘れてはならない。デリダとハーバーマスにおいて(ひょっとしてハーバーマスは多少ともいやいやながら) ニーチェとカントが出会っているのである。  理性の欺瞞を告発し 個性と差異を情熱と芸術の名によって擁護したニーチェと 人間を目的として扱うことを哲学的社会論・政治論へと翻訳し 世界市民権を説いたカント 理性と力の癒着の告発がともすると力の理不尽な肯定という迷誤に陥ったニーチェと 理性の哲学がときとして謹厳実直な特定のライフスタイルへの固定化を誘引しがちな道徳主義的カント 政治的にはこれまでまったく違った陣営に位置づけられていた両者が デリダとハーバーマスの《翻訳》を通じて二一世紀にもっと激しく出会うならば――そして すでに二〇世紀の最後の一〇年で確実に出会っているのだが―― それぞれの迷誤と誘引をもう知らない世代の希望が出てくるというものである。  そうすれば ヨーロッパ憲法の挫折はエピソードに終わり 国際秩序の立憲化という《ユートピアなき理想主義》への道がひょっとすると見えてくるかもしれない。  これがデリダとハーバーマスのヨーロッパ つまりエアバスと武器輸出のヨーロッパではない ヨーロッパの自己像である。  そして ひょっとすると 日本の思想の世界でも 《なんとか大学なんとか学会》の習慣も 〔* 日本の学者たちがそれぞれ自分たちの奉じる外国の学者や思想家をそれにたてまつったところの〕神様や偶像を引くだけの《神々の戦い》の時代も終わるかもしれない。ヱーバーがこの表現を使った経験は もう過去のものに属するのだから。  (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 終章 ハーバーマスとデリダのヨーロッパ p.227 )  ~~~~~~~~~~~~~~~  ハーバーマスおよびデリダについて知りません。どなたか解説してくださいませんか。  いい線を行っている内容であると思います。  わたしの言葉では 《あやまちうるスサノヲ人間語 と あやまち得ざる〔とみなされた〕アマテラス普遍語(科学語および人格語)とのえも言えない融合》ではないかと。  質問者に物言いがあるとしたらそれは わづかに《世界市民権》が 市井の一市民にあるというだけではなく そうではなくそのことが 社会制度としても――つまり 必ずしも国家に頼ることなくあるいは国際連合などといったメタ・アマテラス普遍語次元の機関に頼ることなく 地域のムラ(市町村)じたいの共同自治の体制としても――成っているということ このことを必須の条件とすると考えられることにあります。(インタムライズム)。    自由なご見解・ご批判をどうぞ。  

  • 「なぜ人を殺してはいけないのか」という問題はなぜ倫理学で問われるのか?

    「なぜ人を殺してはいけないのか」といった 問題が倫理学の問題でたまに問われるようですが この問題は政治哲学の問題ではないかと私は思ってます。 永井均という哲学者は ニーチェを使って、人を殺すこともやむを得ない旨を 巷で論じてます。 しかし、私からすれば 永井均のニーチェ解釈は誤りではないかと 考えます。 その理由はそもそも その問題は政治哲学において問われるべきだと 考えるからです。 ニーチェは「アンチ・キリスト」において 以下のように述べます。 「善とは何か  人間において権力の感情と  権力を欲する意志を高揚するすべてのもの。  悪とは何か  弱さから生ずるすべてのもの。」 そして、ニーチェは遺稿集において 友人宛に自己の思想とスピノザの思想との類似を 論じています。 そして、スピノザも ニーチェと同様に喜び=善、悲しみ=悪と 考えます。 しかし このように考えれば 当然、2者間の権利・利益の調整上 問題が生じます。 そこで、スピノザは 社会契約説を採用することを通じて 殺人の禁止を採用します。 一方、ニーチェは社会契約説を採用せず 位階秩序を採用する旨を「力への意志」で論じています。 とするならば 「なぜ人を殺してはいけないか」といった問題は そもそも倫理学の問題ではなく政治哲学の問題であると 言えるのではないでしょうか? 永井均はニーチェを利用し 殺人の是認を論じてますが、私の眼から見て 永井の解釈はどう考えても誤解にしか思えません。 確か前に読んだ書によれば ルサンチマン理論を使って殺人の肯定を論じていたように 思えます。 もしそうだとしても 力への意志は支配欲を含まない以上 永井均の解釈は誤りであると私は考えますが その点についてはどう思いますか? 皆さんのご意見をお聞かせください。

  • 真理への意志

    ~~~~~~~~~~~~~~ 解説[編集] この言葉が公刊された著書に初めて出てくるのは『ツァラトゥストラはこう語った』第2部「自己超克」の章である [2]。 そこでニーチェは、「賢者」たちが全ての物事を思考可能なものにしようとする「真理への意志」の正体が、一切を精神に服従させようとする「力への意志」であると批判している[3]。すなわち、力への意志はルサンチマンと当初密接な関係があり、否定的なものとして記されていた。しかしやがてニーチェは力への意志を肯定的な概念としてとらえ直す。あえて積極的にニヒリズムを肯定し、ニヒリズムを克服することが力への意志となり得るのである。 力への意志 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%9B%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%84%8F%E5%BF%97 ~~~~~~~~~~~~~~~ ニーチェの話題をするとなぜか わけのわからない人が出てくるので話題にしたくないのですが、 真理への意志というか力への意志について 質問してみます。 力への意志をニーチェはツァラトゥストラを書いていた頃は批判していたのでしょうか? すると、ツァラトゥストラの思想は力への意志とは異なりますか? ところが、ニーチェは後で、力への意志を肯定するような考えになるのでしょうか? それはどうしてですか?