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無限大の素敵とは?

先日、会社の先輩とお泊まりをしたのですが、先輩に 「同じものでも時間帯によって、まったく違った顔を見せてくれたり、季節が変わることで空気や色合いが移ろっていく。そして何より、その時、その場に居合わせる気持ちひとつで見えてくる世界が変わってしまう。もう大変よ、素敵なものは無限大なんだから。」 と言われました。 私は哲学には疎いので、未だにこの「無限大の素敵」という意味がわかりません。 誰か、先輩の言いたかったことを教えてくれませんか? よろしくお願いします。

みんなの回答

  • K_Snow
  • ベストアンサー率0% (0/0)
回答No.4

もう見られていないかもしれませんが アニメのARIA NATURAL 9話でほぼ同じセリフが出てきます。 たぶんこのアニメの言葉の受け売りではないでしょうか。 youtubeなどにあがってるので一度見てみてはいかがでしょうか。

  • h1r0s13
  • ベストアンサー率12% (61/497)
回答No.3

その人の心の持ちようで、姿かたちが、いく様にも変わってゆく。 達観ですね、その先輩は。 また、この一瞬この一瞬は、もう味わうことが出来ない、貴重な時間であるとも仰っておられる。そう思います。

noname#71522
noname#71522
回答No.2

【「同じものでも時間帯によって、まったく違った顔を見せてくれたり、 季節が変わることで空気や色合いが移ろっていく。 そして何より、その時、その場に居合わせる気持ちひとつで見えてくる世界が変わってしまう。 もう大変よ、素敵なものは無限大なんだから。」】 この言葉は、先輩の価値観から出る言葉ですね^^ 【見せてくれる】とか【移ろっていく】と言っていますね、そしてそのあと、 ご自身で【その場に居合わせる気持ち1つで・・・】と言っています。 つまり、自分の気持ちで全てが変わる・・・って言っているんだと思いますよ。 そして、【もう大変よ】の言葉は、私が察するに、 ご自分の心がそれほど躍動し、次々と感動しているって事に思えます。 【無限大の素敵】は、あなた自身の心が決める事、決めて良いんです。

回答No.1

季節は春、夏、秋、冬と四種類しかありません。 けれども、一年一年、木の紅葉の色具合、見る景色の角度など。 季節は同じだけれども、まったく同じ景色などありえないのです。 時間帯によっても景色は変わって見えます。 また、そのときの気持ちによっても空の大きさに悩みが ちっぽけにみえたり、感動することもあるでしょう。 そのように、素敵なものは限りはなく、無限にあるということでしょう☆ 無限大に素敵なものは存在し続けるということを、 あなたの先輩は「無限大の素敵」と表現したのでしょう。 同じ窓から見る景色にしても、季節、時間帯、もっている感情で 感動が違います、つまり同じ感動はないということです。 似たような感動はあるかも知れませんけれど。 そのように素敵なものは無限大に存在するということでしょうネ☆ 「無限大の素敵」とは素敵なことは無限大に存在するものだよ☆ ということではないでしょうか☆

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