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やらないといけないのに出来ないについて(太宰治「正義と微笑」の主人公)
カテ違いかもしれませんが答えてやろうと思う方は答え下さい。 自分は今、高校三年生なのですが太宰治の「正義と微笑」を読んで主人公に非常に共感しました。 優れた人物と自分を比べて落ち込んだり、その反面心の中では自分の芯の薄い正しさの基準で他人を評価し見下だす。 その中で特に共感したのは「何かをしなければならないのに何も出来ない」とい主人公の心境です。 主人公は作中で何度も頑張ろうと意気込みます。 しかし行動的でない事(勉強だったり読書だったり)が実行出来なくて後悔し、反省し、次こそは、という描写が何度も出てきます。 ここは、まさに僕のことを書いているのか?と思う位に共感し少し安心もしました。 これをやらないと人生に関わる、今の自分を変えるにはがんばるしかないんだ。 こういう場合、普通の大人ならウジウジしたりせず、すぐその作業に取り掛かると思います。 しかし作中の主人公や僕の場合それが出来ない。 これは僕の勝手な想像ですが、どうしても出来ない、どうあがいて出来ない、のは面倒くさいとか怠惰とか惰眠をむさぼる様な原因はそんなところではなく、もっと内面的なところ(もっと言うと思春期的な何か?)にある様な気がするのです。 或はそう思い込むことによって本当に怠けているのか。 そこで質問なのですが、このやらないといけないのに出来ない、という心理は一体どういう状況なのでしょうか? どうすれば解決できるのでしょうか? 教えてください。
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