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真珠湾攻撃に間に合わなかった文書

宣戦布告が真珠湾攻撃開始より後になって、日本は卑劣なだまし討ちをしたと言われたそうです。 ところが駐米大使館の不手際で遅れたものは、宣戦布告ではないという話があるようです。過去の質問に出ていました。↓ http://okwave.jp/qa2795640.html あの文書は何だったのでしょうか。教えてください。

noname#52029
noname#52029
  • 歴史
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みんなの回答

  • buf
  • ベストアンサー率33% (4/12)
回答No.4

アジア歴史資料センターのインターネット特別展が詳しく、開戦にいたるまでの経過に関する解説も親切です。本物の資料もデジタル画像で見られますので、おすすめします(参考URL)。 少々難解かもしれませんが、まずは後世の解釈が入った「意見」ではなく史料そのものを読んでみるのもいいのではないでしょうか。 No.1の方がおっしゃる「対米最後通牒」および「日本側最終案(乙案)」も見られます。

参考URL:
http://www.jacar.go.jp/nichibei/index.html
noname#52029
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

回答No.3

以前、その質問に回答した一人です。 『文藝春秋』2006年7月号の記事「外務官僚たちの真珠湾攻撃」を参考に回答しましたが、今回もこの記事を基に回答します。 「あの文書は何だったのか」と問われると、日米交渉の打切りを通告した単なる外交文書だということになります。 東郷外相自身、手記『時代の一面』で、「これが形式的には宣戦の通告とは異なるものなるは明らかである。」と述べています。 以下、『文藝春秋』2006年7月号の記事の要約です。 山本亜米利加局長が起草した12月3日付「帝国政府ノ対米通牒覚書」には当初、宣戦布告を含む文面が盛り込まれていた。 東郷外相の手記『時代の一面』によれば、 「12月4日の大本営政府連絡会議で出席各員に配布して同意を得た。翌5日の閣議では、自分から通告案の要旨を説明して承認を得た」と述べている。 ところが東郷は、宣戦布告の意をこの文書に含める必要はなく、交渉打切り申入れの要件を備えていればよいと考えていたようである。 最終的文面は外務大臣に一任され、6日付最終文書では単なる交渉打切りの対米「覚書」に修正された。 外務省は軍の奇襲作戦に全面協力することで、「外交を犠牲」にしたのである。 つまり、ハーグ国際条約にある「事前通告の遵守」、「開戦宣言の明記」という点で二重の逸脱をしている。 記事の要約は以上ですが、東郷外相が文面を修正した具体的な理由は、記事では不明です。 私は、最後通牒を意味する文言を故意に抜いたのは、奇襲作戦を成功させるためだと思っています。 「覚書」を14通に分割して暗号で打電し、それを受電して解読し、タイプ打ちに要する時間を見込んで、日本時間6日の午前6:30から打電し始めています。 こんなに早い時期に打電するのですから、万一にも米国に暗号を解読されて、これが最後通牒であると受け取られる危険性を排除したのだと思います。 なお、東郷外相は戦後、「日本の通告は、法律的見地から見てあれで充分であったのである」と弁明しています。 また、この記事では「最初から無通告開戦を企図していたのだから、ハルへの「覚書」手交が遅れたことなど、彼ら(外務官僚)にとってはさしたる問題ではなかったはずだ。」と結んでいます 「騙し討ち」と言われる不手際を招いた寺崎、奥村の両名は戦後、事務次官に出世しています。

noname#52029
質問者

お礼

結局 正式な宣戦布告書ではない(当たり前だ) 非公式な宣戦布告(条約のいう最後通牒)でもない ただの外交文書(宣戦を意味しない)ということでしょうか。 詳しい説明ありがとうございました。

  • caesar-x2
  • ベストアンサー率46% (251/542)
回答No.2

もう詳しくは書きませんが、そもそも日本側は真珠湾攻撃の開始より前に 宣戦布告の外交文書を手渡すような考えはなかったというのが実際のところです。 海上で長期作戦行動中の南雲艦隊と、大使館員が時間調節するのは不可能であり 非現実的です。また宣戦布告の宣言の時期に関して国際法には罰則はなく、 ただの外交儀礼に過ぎませんでした。 外交官の不手際というような、認識は当時の日米で全く存在せず、 日本側ではアメリカが問題意識を持っていたという認識すらなく、 日本帝国が起こした全ての戦争で、宣戦布告前あるいは宣戦布告無く 軍事行動を起こしてきたという実績から、まったく気にも留めていませんでした。 「卑劣な騙まし討ち・・」等は、アメリカの戦時パフォーマンスというか、 軍備拡大のための資金集め・世論操作に利用したプロパガンダです。 宣伝戦略のなかでは単純な図式が好まれ、善悪論という、 戦争には全く縁の無い構図が取り入られこうなったというわけ。 また極東裁判において、いわゆるA条項、平和の罪を設定するにあたって この宣戦布告なき戦争が、問題化したのは、全く政治的な理由であり、 国際慣例を破ったということを日本の戦争犯罪の根拠のひとつのようにしたために 大使館員の不手際だったんだというようなことを日本側が言うようになりますが、 これもまったくおかしな話で、大使館員は普通に仕事して昇進・栄転してます。 これは責任転化にほかならない。 実際のところは、これは倫理の問題や、不手際や失敗の問題ではなくて、 政治的な問題なのです。つまりは作られた問題というわけですな。

noname#52029
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 宣戦布告をする気はなかった。あの文書の意味はなかった。最後通牒でもなかった。 宣戦布告は結局開戦の詔勅ということですか。 ありがとうございました。

  • mable2006
  • ベストアンサー率35% (214/598)
回答No.1

ソースについては失念しましたが、「対米最後通牒書」だったという文を見たことがあります。

noname#52029
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。

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