• 締切済み

南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)

この言葉を唱えると良いことが起きると聞いたのですが。 この言葉には目に見えない不思議な力があるのでしょうか? 心の中で唱えるだけでも効果はあるんでしょうか?

  • Beeee
  • お礼率54% (17/31)

みんなの回答

noname#101110
noname#101110
回答No.28

大きな声で頻繁に唱えれば、呼吸器系統の活性化が起こり、健康が促進されます。いい事がある、と念じながら唱えれば更に効果は高まるでしょう。これは毎日、ある程度決められた時間に、隣近所の迷惑にならない範囲でなされた方が長続きすると思います。更に日本語で書かれた法華経の注釈書などを読まれ、内容の意味を理解されれば更に効果が持続すると思います。 心の中で唱えるのは余り効果は期待できません。

noname#75089
noname#75089
回答No.27

>この言葉を唱えると良いことが起きると聞いたのですが。 起きません。逆に、不幸が訪れます。 熱狂的信者が、毎日毎日執拗に自宅に訪れ、何時間も居座られ、夜遅くまで勧誘されます。 一度入信したら、最後。毎日折伏運動に駆られます。 選挙の時、電話代自腹で払い、知人友人へ1日何百件のノルマが課せられます。 昔、実家の母親に父の預金口座から多額の金額を勝手に下ろされて、とある宗教組織に「上納」?されてしまいました。 カネを上納すれば上納するほど、幸せになるような教えだそうです。 >この言葉には目に見えない不思議な力があるのでしょうか? 確かに、その言葉を信じ、上記のような犯罪まがいのことをやってのけた人間を造りだす、不思議な力がありますね。多額なカネを勝手に引き下ろして、罪を感じるどころか、逆に正義感達成、と思いこませる不思議な力がありますね。 >心の中で唱えるだけでも効果はあるんでしょうか? あると思います。 だからこそ、犯罪まがいのことでも平気でやってのけることができるのでしょう。本人は、反省するどころか、「カネを寄進して一体何が悪い!!」と開き直ってましたから(「寄進」する用語は、その教団独自の表現がありました)。 恐ろしい教えのようですので、その教団の他、日蓮正宗、その他日蓮関連教団と関わり持たぬようにしています。 関わりあったら、自分のおカネを根こそぎ持っていかれるような気がして恐怖心に駆られます。

  • 2kaku34
  • ベストアンサー率30% (101/329)
回答No.26

気持ちが良ければ、いいんじゃないでしょうか? 天台宗(密教なのに、法華経を取りいれた。自信がなかった?) http://www.e-sogi.com/arekore/bj1.html 般若心経 現代語訳(ひろさちや氏による) http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/religion/hirohannya.htm 蜘蛛の糸(芥川龍之介) http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/92_14545.html サンスクリットやパーリー語のお経を中国人が訳し、それを日本人をほとんどそのまま持って来た。 中身は仏さんや、お釈迦さんの弟子などのお話で、中身をあまり考えないほうがいい。 真言について(仏の言葉) http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/shingontoha.htm お経の流し読み(日本式の手抜き?これも信仰) http://sunday.comedywaltz.com/log/eid289.html

  • yonakan
  • ベストアンサー率21% (3/14)
回答No.25

あなたは、この上なき尊き聖典「南無妙法蓮華経」に 既に、興味をもたれた。 今度は必ず「大いなる幸福」の方があなたを探しに やってくる番だと思います。 『南無妙法蓮華経』のインドの原語サンスクリット名は 「ナモー・サッ・ダルマ・プンダリーカ・スートラ」と 発音します。 「原因と結果同時に備わる、不思議にして最勝、 永遠不滅の清浄なる白蓮華の如き、全き真実在 という仏陀の教えに私の全生命を明け渡します」 という意味です。

参考URL:
http://ikiyoro.blogspot.com/
  • yoyoji
  • ベストアンサー率0% (0/3)
回答No.24

あんまり質問とは関係ない答えになりますが 私はよく心のなかで「南妙法蓮華経」と唱えます。 善いことが起きる、とか思いませんし 宗教的な意味もよく存じ上げません。 ただ私の好きな宮沢賢治さんが好きな言葉だったから、いつからか唱えるようになりました。 そして気が付くと、どうしようもない気持ちのときなど自然に唱えるようになってました。 ただ、それだけです。 宗教的な意味や、効果とかは分りません ただ唱えたいから唱えるといった感じです。 以上

noname#115004
noname#115004
回答No.23

あります。

  • majimekun
  • ベストアンサー率20% (14/68)
回答No.22

良いことが起こることは期待しないほうがいいですよ。 法華経に、法華経を信じ実行することは修行です。 そして教えの中には、本当に法華経を実践しているものは、 必ず迫害に遭うだろうと。 日蓮の生涯は波乱にみちたものでした。

  • zyaba
  • ベストアンサー率12% (1/8)
回答No.21

皆さんいろいろ教義的なことを書いてらっしゃいますが、科学的見地から言って、「母音を発音することは健康にいい」そうです。 どの唱言よりも母音の数が多いですね。

  • t-shioka
  • ベストアンサー率37% (12/32)
回答No.20

うちの父がこの宗派の熱心な教徒なので 色々質問をぶつけたことがあります。 「南無」というのは「~にすがりますよ」という意味らしく、 妙法蓮華経というのが題目だったと思います。 で「妙法蓮華経を信じます」みたいな意味です。ここまではうろ覚えです。 で、これを唱えることによってお釈迦さんの悟りを呼び出すのだそうです。 これで効果があるというのはどうやって証明したのかと問うと、 「日蓮が龍の口の法難で証明して見せた」と答えました。 効果があるかどうかはよく分かりません。 父が人間として本当に救われているとはなんとなく言い難いからです。 本人には性格以外には問題ないんですが、家族が・・・ 家族がろくにやってないから、とかかも知れませんが・・・ 全体的には医学的に説明の付かないような症状の回復なども聞きますが。 うちの母が重病で死にそうなときに始めてそれで直ったから、それだけ 信心深くなったんだと思います。勉強も相当した上で信じているようです。 まあ日蓮自体は何回も死にそうになって助かってます。 首を切られそうになったが刀に雷が落ちたとか、 沖に流されても運良く漁船に助けられたとか。 日蓮の人生を、マンガでもいいから簡単に読んでみると面白いですよ。

noname#3096
noname#3096
回答No.19

 申し訳ありません。創価学会のことは以後は書きません。 >日蓮が他宗を排斥したことは知っていましたが、「殺せ」とまで言っていた >というのは初耳です。それは例えば日蓮の著書の中に明記されているという >ことなのでしょうか? >あいにく歴史の先生に知り合いはいませんので確認はできませんが……。  この質問に対して回答します。  日蓮自身が書き残した『撰時抄』に次のようにあります。 「日蓮は日本国の棟梁なり、予を失わば日本国の柱橦を倒すなり、只今に自界反逆難とて同士討ちして、他国侵逼難とて此の国の人々他国に打殺さるのみならず、多く生け捕りにせらるべし。  建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をば焼き払いて、彼等が頚を由比の浜にて斬らずば、日本国必ず滅ぶべしと申候了」  建長寺・寿福寺、等々は健在ですし、浄土真宗も禅宗も日本中におおいに栄え、信徒が大勢いますが、別に日本が滅びる様子はありませんよね。日蓮の言うことを真に受け、念仏信者の首を斬ったりしたらとんでもない日本史の汚点になるところでしたね。  また、こんなことも言っています。  やっぱり日蓮自身が書き残した『秋元御書』 「不殺生戒と申すは、一切の諸戒の中の第一なり。(中略)蟻子を殺す者・なお地獄に堕つ況や、魚鳥等をや青草を切る者・なお地獄に堕つ況や、死骸を切る者をや。是の如き重戒なれども、法華経の敵になれば、此れを害するは第一の功徳と説き給う也。(中略)阿育大王(仏教を保護したアショカ王のこと)は十万八千の外道(他宗教の者)を殺し給いき。(中略)阿育大王は得道の仁なり」  不殺生戒は非常に大切だ。蟻を殺しても、青草を刈っても、死骸を傷つけても地獄に堕ちる。けれども法華経の敵を害する(前後の文脈から見て、どう見ても“殺す”の意味)のは第一番に功徳のある素晴らしいことだ。アショカ王も10万8000人の異教徒を殺したそうだ。仏道にかなった素晴らしい王様だ。 「日蓮聖人御書全集」でもなんでも調べて下さい。本当にこう書いてありますから。  この「蟻を殺しても地獄に堕ちるほど殺生は悪いことだ。しかし法華経の敵を殺すのは素晴らしく善いことだ」というレトリックは、実にいやらしく、反吐が出そうです。こういう言葉を口にする人の、心根の貧しさを表していますよね。  こんな日蓮の言うことを、貴方はまともに信じるのですか?

関連するQ&A

  • 南無妙法蓮華経の「経」が意味するものを教えてください

    南無妙法蓮華経 について「経」が意味するものはなんでしょうか この7文字は ・ひとつにはお経の名前であり、仏の名前であり・・・ ・この7文字はすべてのエッセンスを凝縮した結晶のようなものであり・・・ ・私たち一人の人間そのものをあらわしていて・・・    (頭が「妙法」で胸と腹が「蓮華」で足が「経」(手足?四肢?)     というような説明を聞いたことがあります、詳細は忘れましたが     もしこれについての詳しい情報があれば知りたいです・・・・) ・「南無」= 宇宙、仏の世界、ひとつであること、帰依すること ・「妙法」= 不思議な力、「妙」は死で「法」は生、        生死の理(ことわり)        また「妙」は師、信じる対象、「法」は生、信じる自分 ・「蓮華」= 原因と結果は必ずひとつであること        泥の世界で綺麗な花を咲かせられること        仏の原因(種)もすべての人・生き物にあること ・「経」= 足 行動すること、実際に実践すること       足でもあり、手でもあり、       大きな意味では「身口意」の三業をあらわす ・・・と、おおまかに理解しているのですが  「経」の部分についていまいち定かではなく、  「経」の意味するもの、事を詳しくご存知の方、     詳しい説明のあるページなどご存知でしたら教えていただきたく     よろしくお願いいたします。  また、上記の大まかな解釈についても、もし間違っていたら   ご指摘などいただければさいわいです・・・   日蓮さんの「ご書」に記載があれば、具体的に教えていただければ   さいわいです   日蓮さんの教えですが、宗教、宗派は問いません   

  • 南無妙法蓮華経 って唱えるのは何教?

    先日ある葬儀に参列しました。 そこで、お経や出棺時すべてが『南無妙法蓮華経』 だけの繰り返しなのですが、これは何宗教でしょうか?

  • 南無妙法蓮華経について

    なぜ,日蓮聖人は「南無妙法蓮華経」というお題目をお唱えすることそのものが肝心かなめとされたのでしょうか?釈尊御自身がお唱えになったとも考えにくいですし,わかりやすく教えて下さいませんでしょうか。いろいろな書籍やサイトを読んでみましたが,なかなかうまく理解できません。よろしくお願い致します。

  • 『南無妙法蓮華経』、、、て?

    『南無妙法蓮華経』、、、て、どなたが最初に言いはじめたのですか?? 日蓮正宗では、御存知の様に日蓮大聖人が、立教開宗時より自行化他にわたる『南無妙法蓮華経』を唱え始め、“竜の口の法難”以降、御本尊として文字として残されたようです。その後、“佐渡流罪”を経て“熱原の法難”時に本門戒壇の大御本尊として定められました。 『南無妙法蓮華経』は、日本天台宗・比叡山延暦寺の最澄も自行のために題目として唱えていました。それをさかのぼること中国天台宗の智顗も自行のために題目として唱えていました。 法華経はインドより中国にわたる段階で、鳩摩羅什により漢訳されていますが、いったいどなたが『南無妙法蓮華経』を唱え始めたのでしょうか? 鳩摩羅什による漢訳の時点で、既に存在していたのでしょうか? お分かりになる方がおりましたら、教えていただけますでしょうか? また、その際文献も一緒に載せていただけるとありがたいと思います。 宜しくお願いいたします。

  • 南無妙法蓮華経について教えてください。

    付き合い始めた彼の母親が、毎朝となえているそうです。 これって創価学会員ってことですか?

  • 南無妙法蓮華経について

    南無妙法蓮華経を挫折しようと思います。 罰当たりますか??

  • 南無妙法蓮華経~南無妙法蓮華経~法華経?

    数ヶ月前、家を出ると坊さんの声で南無妙法蓮華経~南無妙法蓮華経~と繰り返し大きな音?声?で聞こえました。近所はお寺もなく一軒家ばかりなので近所の家からしていたお経だと思います。 今も、家から少し離れたマンション(近くにお寺はない住宅街)の一室で同じお経(南無妙法蓮華経)が繰り返し聞こえました。 かなりおおきな音、声で同じテンポよく流れているのでおそらくテープだと思いますが、どういうつもりで流しているのでしょうか? 近所の人は気持ち悪くなるような結構な音量です。 法華経でしょうか? これは何の為に流しているんでしょうか?  

  • 南無妙法蓮華経・・・?

    「南無妙法蓮華経」を毎日のように何人かが集まって唱えている宗教って何ですか? 知人がこういう会合の「司会をやらなければいけないので・・・」といっていたんですが。

  • 《南無妙法蓮華経》は 真実の神ではないのか?

     特には創価学会としての見解をたずねます。  次の日蓮氏の著わした文章の中から ふたつの主題を取り上げます。   (ε)と(η)のひとまとまり および(κ)です。  ◆(日蓮:当体義抄) ~~~~~    http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.php?n=512  (α) 南岳釈して云く     「一切衆生・法身の蔵を具足して仏と一にして異り有ること無し」、  (β) 是の故に法華経に云く     「父母所生 清浄 常 眼耳鼻舌身意 亦復如是」  (γ) 文、又云く    「問うて云く      仏・何れの経の中に眼等の諸根を説いて名けて如来と為や、    答えて云く    (γ‐a) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして     清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す」  (δ) 文、他経に有りと雖も 下文顕れ已れば 通じて引用することを得るなり、    大強精進経の同共の二字に習い相伝するなり   (ε) 法華経に同共して信ずる者は 妙経の体なり    (η) 不同共の念仏者等は 既に仏性法身如来に背くが故に 妙経の体に非ざるなり、  (ι) 所詮妙法蓮華の当体とは 法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身 是なり、  (κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩業・苦の三道〔が〕・法身・般若・解脱の三徳と転じて 三観・三諦・即一心に顕われ 其の人の所住の処は常寂光土なり、  (λ) 能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは 日蓮が弟子檀那等の中の事なり  (μ) 是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり 敢て之を疑う可からず 之を疑う可からず、  ~~~~~~~~~~~~~~~  (1) まづ(α)から順に説き進むその内容は     ○ 一切衆生 悉有仏性  ということだと理解します。《ひとは誰にあってもブッダター(仏性)がやどる》と。  (2) ところが その《任意の或る人》が ここではふたつの種類に分かれます。    (ε)  法華経に同共して信ずる者    (η)  不同共の念仏者等  すなわち 前者は《仏性を宿すひと》であるが 後者は  ◆ (η) 既に仏性法身如来に背くが故に妙経の体に非ざるなり  と言います。この一文の意味を問います。  (3) 《妙経の体に非ず》というのは      (3-a)  《仏性を宿すひと》一般であり続けているが 《その仏性の発現が妨げられているだけ》というのか? それとも    (3-b)  人と生まれて宿していた仏性が真実のブッダ(ないしダルマ)に背くがゆえに 《腐った種や煎られた種のように》  もはや芽を出し得ないというのか?  (4) もし後者=(3-b)だとした場合  それでも 法華経・如来寿量品第十六の《文底における独一なる本門》としての南無妙法蓮華経なるチカラは 真実の神――(μ) 《自在神力》――であって 普遍であり遍在であり 一方で依怙贔屓をすることはあっても 他方で基本的に言って 人にやどった仏性の発現をわざわざ抑えることはしない。のではないだろうか?  (5) この疑問は (κ)の文章につながります。    ◆(κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人  (6) ひとつに確かにここで《正直に方便を捨て》とあります。つまり 先ほどの念仏者等は《方便のオシエを捨てていない》。  けれどもそれにもかかわらず 当人は《真実の神》だと信じている。  《方便を捨てていない》のではなく 《方便をとおして――そのオシエは〔特に親鸞にあっては〕どうでもよいとして捨てており――真実の神に就いている》。のだとしたら その真実の神である南無妙法蓮華経なるチカラは 念仏者等の仏性の発現を押さえて いぢわるをするといった気遣いはない。のではないであろうか?  (7) ◆(κ) 但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる  ☆ とは どういうことか?    (7‐a) 《法華経を信じ》というのは そのオシエを信じることは出来ない(オシエなる教理は 考えるものである)。ならば 南無妙法蓮華経なる神――(μ) 《自在神力》――を信じるということにほかならない。  (7‐b) ならば 念仏者等が――名はアミターバやマハーワイロ―チャナなどなどとして違っていても―― 真実の神〔(μ) 《自在神力》〕を心にいだくのであるゆえ 《妙経の体》と同じであり 仏性の発現も何ら妨げられることはない。  (7‐c) 《南無妙法蓮華経を唱える》こととは どういうことか? 次項につぎます。  (8) ◆(κ) 南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩・業・苦の三道〔=三障 が〕 法身・般若・解脱の三徳と転じて・・・  ☆ つまりこのように 《題目を唱える》ゆえに 《妙法の当体》となる。のであろうか? ほんとうにそうであろうか?  つまり――唱題が 称名念仏と同じように わるいと言おうとするのではなく―― 仏性の発現は 人間の努力によって 実現するのものなのか? という問い。  親鸞の言うには 念仏は 《非行非善》であるらしく これだと 念仏をおこなったから浄土に往生するとはさらさら言っていない。  (9) すなわち   ◆ ~~~~     (γ‐a) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして         清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す」    ~~~~~   ☆  この仏性ないし《自性清浄心》なるわれわれの身と心とは 自然本性として生まれたときからそなわった仏性の発現を――わづかに《信じる》ことをとおして・という意味は 人間の能力も及ばざるがごとく一切の努力を超越して――自然史過程として・自然史過程において(具体的にはヒラメキなどをとおして) ありがたいことに 見ることになる。のではないであろうか?  (10) 《南無妙法蓮華経》なる場ないしチカラは 真実の神ではないのか?

  • 南無阿弥陀とか南無妙法蓮華経は唱えるだけで良い?

    出来れば、経験者やおわかりになる方にお答え頂きたいのですが 昔、歴史物のアニメや漫画で、よく、ただ、南無妙法蓮華経と唱えれば良いのじゃ!とか、南無阿弥陀仏と唱えれば救われるぞよ、みたいなシーンがありました。アニメでは村人がひたすら、たたりじゃー!南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏〜と言ったりするシーンはよくあります。 鬼滅の刃でも不死川玄弥が、集中する時は南無阿弥陀仏ということにしているといったり、悲鳴嶼行冥も南無阿弥陀仏と言いまくってますよね。 確かに親戚のおじさんとかも南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経〜と、それだけを一心に唱えていました。おそらく、昔のお坊さん以外の一般の人もそうだったのでは?と思うのですが、実際は、経典があるので、きっと法事では南無妙法蓮華経とか南無阿弥陀仏だけではなく、ちゃんといわゆるお経を読んでいると思うのですが、仏教の世界では、ただ南無妙法蓮華経とか南無阿弥陀仏と唱えるだけというのは、手抜きにはならないのでしょうか?非常に素朴な疑問なので、自分で調べてくださいとか、冷やかし?とかの回答は御遠慮下さい。