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フッサールの現象学について理解するには

学生の時に心理学を専攻し、ロジャースの来談者中心療法からジェンドリンのフォーカシングなど、経験も少しかじっていました。卒業後、現象学という言葉から、フッサールに興味を持ちました。イデーンを読んでみましたが、哲学の基礎知識が足りなく、理解できませんでした。ロジャースのいう現象学とフッサールの現象学では異なるものなのだと思いますが、フッサールの哲学に対する姿勢に感銘し、少しでも理解したいと思うのですが、もうだいぶ昔の話で、理解するのに哲学用語などのスキーマーを会得しないといけないとう現状なんですが、哲学全般には明るくないので、どこらへんから手をつけたら良いのでしょうか?よろしくお願い致します。

みんなの回答

回答No.1

フッサールを読み込んで評論家&哲学者になった竹田青嗣の書籍にあたってみてはいかがでしょうか。読みやすく分かった気になれる「哲学への誘い」は定評がありますね。フッサールのことはよくわかりませんが、あまり複雑ではない哲学だったと思います。古来からの哲学史を知っていなければ読み解けない著作でしたっけ。

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質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。  フッサールのイデーンを読んだときに、哲学を専攻していたわけでもないので、哲学用語事典を参考に読んだ記憶があります。だいぶ前の話なんですが、よく理解できなかったと思います。実存主義が日本に入って来たときに文学界が好んで取り上げて、実際の実存主義とは異なる内容になったということを読んで、なるべく本人の意図するモノを理解したいという気持ちがあります。

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