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本物からはどうしてオーラが出る?

arayata333の回答

回答No.41

ほんとうは、とても書ききれるようなものではない事を、ここにてまとめておきます。 * その後も いろいろありましたし、 もうすっかり私は九十九里浜の飯岡(出身地)のことなんて、忘れていました。 其の地を、その時、訪れたのも、たんなる旅行気分でした。  「「「「おっ、 もしかしたらこの近くだったのかな?    あれ、 そうだ。 知らない間に こんなとこまで歩いてたよ。 そーだよ。 あの角をまがったとこだよ。  そこを曲がれば 家のある細い坂道の上り坂があとすこしだったんだっけ。   ん? 」」」 (其の時に私の心の中の描写です。) 「「「 ん?   いや違うな。 もうひとつ、こっちだ。 この角だ。」」」と その角を 曲がったとたんのことです。  一二歩で、私の足は止まり、 まわりを見回していました。 うわああああ。 ここだよ。ここ。  妹といっしょに、はだしで海まで走っていった、 この道だ!    奥に のぼり道も見えました。 其の細い、竹やぶの中の細道もそのままでした。 人足ごとなつかしさをたしかめながら のぼってゆくと、 ちゃんと あの屋根が あの時と同じに見えてきました。  そこで私は もう感極まって しばらくそれを眺めていたのですが、 ふと、其の家の向こうにさらに小高いところがあり其の裏の そこでよくみんなと転げまわりすべりまわって大自然の創ったままの砂の滑り台があったことを思い出しました。 そうだ、丘の下からも 回る道があったっけ。まだ同じようにあるのだろうか? 私は また人足ごと懐かしさをかみ締めつつその坂を引き返しましたが、ありました。 その道は確かに同じようにまだあったのです。 その大自然の滑り台にたどりつくと、私はどたっと身を投げ出していました。 其のとたんです。 私の背中は 歌を歌いだしました。 あれは歌です。 生きてる!!♪  生きている♪   生きていたんだ♪  生きてる生きてる♪♪ 背中の砂が、どんなになつかしかったか。  文章では、ここまでですね。  これ以上書きようがありません。 やがて、夕焼けが空をおおい、高く高く赤い雲が流れてゆき、荘厳な一番星を見、 静かな夜がおとづれるのですが、  其の静寂をいったい言葉でどうこれ以上表現できるのでしょか? たった 15年ぐらいの時間の差、その重み、が、私の命にとっては、それはたったの15年なんていえる世界ではなかったのです。 やがて、気がつきました。 気がつく時がやってきました。 わたしは、鉛筆を握っていました。 線は砂を書いていました。 其の光を、其の上の空間を 一本の其の線は其の時たしかに、私の「感じる側の心」も写し取って 確かに引かれていました。 以上です。 あとは、私の方からは 書かないほうがいいのかもしれません。 長くなりすぎます。 でも、オーラについて(そちらのオーラについてです。)書きたかったのは何かについて、すこしだけ やっぱり触れてまとめておきます。 “本物性”の手ごたえは 其の砂の線だけでは訪れませんでした。 其の線によって其の線の上に遠近法からではない光の空間を書く技術がくわわってもなおその手ごたえはありませんでした。  おそらくそれだけでは、まだそちらが見ても其の「淡い光」は見えなかったでしょう。 その安らかな世界は、やがて人類にどうやっておとづれるのかのなにがしかとかかわる まさに人間性の世界についてのはるかなる先の思索の地点にある明るさが訪れるまでは、 そのたしかな手ごたえや自信はやってきませんでした。 そちらの直感(感じる光)の世界は 何か落ち着いた生活と懸命の研鑽と何かの真実の希求により、生じた それは奥の深い深い簡単にはとても書けない そんな貴重な貴重な直感の世界だとおもいます。 いや、そんなことは、もはや自明のことでしょう。 それよりも、其の先の 私の人間性への長い苦悩の闘いの道の方に やっぱり興味があるのだろうと思います。 でも、ここでは、 一応ですが、 そこから導かれた「明るさ」という概念は、いつか 細胞の中の動きとして科学が実験で捕らえる日がくるでしょう。  いや、もしかしたら 今回のノーベル科学賞の方の発見こそ、すでにそれを目で見れるものなのかもしれない。   もしそれが可能ならば、 其の「淡い光」と 其のたんぱく質の奥に見られるなんらかの動きとの照合が可能な日はもう来てるのかもしれない。    というふうにまとめたかったのです。 こちらの方からは一応 ここまでとしますが、 お互いがんばりましょう。 これからこそよりタフにです。

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