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本物からはどうしてオーラが出る?

arayata333の回答

回答No.33

ANO32からの続きです。 今回は、書ききれませんでした。 そのへんのそちらのコメントで 私の胸にぐさっときたのが、 >arayata333さんは芸術家になるべきでしょうね。<という文章です。 ゴッホにしても、自分の中での確信はあっても、人が評価しない事からの客観的な審美眼は存在するのかということへの疑問は深かったでしょうね。 だから、気が狂ってしまったとかいうような弱い精神の人ではなく、むしろ通常よりはるかに正常だったと私は思っています。 耳をそいだのも 自殺も 精神の病からだとは私は思っていません。 何にも惑わされない健康さからでた判断によるものと思っています。 自殺についてだけ少し触れますが、 おそらく役に立つ人間ではないと思ったからこその、弟夫婦にこれ以上の迷惑をかけるのならばという気持ちからの自殺ということなのだと思います。 どんなに確信があっても、 ゴミ箱行きとなる絵ともなるのであれば 弟達の生活のほうが大切だ という強い人間だったからこその自殺は最大の罪などという観念を超えた時点での自殺だったと思うのです。 が、ゴッホはぎりぎりまでは、藝術家としての道を貫きました。 わたしは、 まだ未完成だという理由から 現実の方を絵においては特に最初から選んで生きてきてしまいました。 今 声がでにくくなっていますが、まず歌は歌い始めるべきかと もう一度思っています。  公にです。 むしろ声が出なくなった分だけ 精神が問われる形にて、ゴッホのように誰からも相手にされなくても歌うべきところと思えてきました。 絵も鉛筆画を 30年ぶりぐらいにその気で動かし始めています。時間が無いことの言い訳を30年もしていた? のです? 踊りに関しては 問題もありますが、 これも一番大きな問題は、実は身近な人たちへの配慮の問題です。  そういう事情をわたしも抱えてはいるのですが、  今、ある完成の世界に近づいているというふうにも言える地点で、  そちらの筆に 勇気をいつしか失ってもいることに気がつかされました。 まず、このへんを告白させていただきました。 今回、最後に質問しておきたいことは、ピカソについてです。 このへんピカソは ゴッホとは逆とも言える 確信性を持ってビジネス化もしていて、かつ成功もしています。   私は ピカソの絵は、まだ解っていないわけですが、 でも論じる観点は無いわけではありません。  当然、そちらにお聞きしたいことはたくさんあります。  この「確信」と 藝術の道のあり方のあたりについての論議としてです。 (これは、こちらがそちらにお聞きする形となる部分ですが、 哲学の質疑では、このOKウェブ上でも、双方向的な教え教わる形の歯車のゆとりが必要となる世界だと思うのです。 つまり質問者の方が教える立場となることも部分的には認める必要があるということです。 そのユトリがあって哲学という車は快適に本来の走りを見せるのであり、自覚された形での規則破りは それなりには認められると思っているわけです。 どうか自由に真剣にコメントしてください。) 詳しくは知りませんが 初期の頃にピエロを描いたかなり表情とかのリアルな 悲しみの中の穏やかさとも言えるようななんともいえない確かに私にも迫力が感じられる絵がありますが、 その「時代」のピカソの鉛筆画とかにも同じ光が見えますか? それを今回の質問とさせていただきます。 * けして、そちらの能力は 消さないでください。 さらにさらに磨いていってください。 すばらしい絵は たくさんあると思います。 写真もすばらしいものはすばらしいのですが、 直接の感性の結果そのものではないわけです。 絵の審美眼と関わる能力は 深い意味での社会的な力(パワー)だと思います。 今回は以上にて。

jojo-jojo-jojo
質問者

お礼

(つづき) さて、おっしゃるように、売れなかったゴッホと売れたピカソは生存中ということであれば雲泥の差ですね。芸術的価値を社会的なものに全て還元することは僕の好むことではないのですが、確かに時代の超越性を有した芸術はありますし、だからこそ偉大と呼べるわけですが、優れた芸術は見る人が見れば一発で本物だとわかるんだと思います。ゴッホがあまりにも例外的なので、それを一般論に当てはめすぎ、ゴッホ神話・・・天才と社会の無理解・・・の形成は、かなりモダニズムだとおもいます。近代芸術の枠がそれまでの美の規範から外れて、芸術が大衆から批評家と学者の手へ移ったことは、まあそれほど間違いはないでしょうけど。 ですから、ゴッホもピカソも確信はあったと思います。確信がなければ途中で止めるでしょうし、途中で止めたその作品が今でも評価されている、なんて話は、文学ではランボー以外、聞いたことがありません。はっきりいいますが、確信がなければ芸術は成立しません。その確信に揺らぎが生じたとき、作品に揺らぎが生じるのです。作品に揺らぎが生じるから、確信が揺らぐのです。 客観的な審美眼は存在するのか? はっきり言いますが、存在します。間違いのない完璧な審美眼は存在しませんが、見る人が見ればそれがわかるのです。わからない場合は単なる勉強不足か、好き嫌いの問題です。僕はゴッホの偉大さはわかりますが、好き嫌いでいえば、晩年の作品は最悪です。あんな絵を直視できる人の気が知れません。ですがそれは好みの問題でしょうね。 というわけで自由に真剣にコメントしました(笑)。ただ、僕が求めているのは質問内容の答えであって、それについての議論でもあり、何か別のことを議論することではありません。規則以前の問題です、ご了承ください。もし質問があれば、どうぞあなたがここのカテゴリーに質問してください。必要であれば、僕がそこに回答を寄せます。 最後に質問の答えですが、初期の作品に同じ光が見えるか? 見えます。だからピカソは天才なのです。ですが中期以降から晩年では適当に描いたとしか思えないものもあり、そこにはなんら芸術的価値を見出せない場合がありますが、これも僕の勉強不足かもしれません。これでよいでしょうか?

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