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キリスト教徒にとっての聖霊

noname#80116の回答

noname#80116
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回答No.2

三位一体について 人間の言葉で明らかにすることを試みます。 父なる神は 子なる神を生みたまうた。また父なる神は 人間を生みたまうことが出来る。父は この権能を 子なる神を生むとき 子なる神が 量的・質的な差なくして 持ちたまうように 授けた。父が子を生んだというのであるから 経験的な概念で言っても 父は子を愛したまうた。子を愛したまうたと同じように 人間を愛したまうた。そして父は子に 人間を愛する権能をも 十全に 欠けることなく 授けたまうた。 父が子を生みたまうことと 愛したまうこととには 量的・質的な差異がないと考えられる。言いかえると 生みたまい得る存在ということは 愛したまう存在であることに等しく 父である権能は愛である能力と同じであり この愛は 子である権能にも等しい。 父が子を生みたまうたとき 何らの時間的なへだたりなくして そこに――つまり言いかえると 父から及び子から つまりさらにあるいは 父と子との交わりから――愛が 父や子と同じ存在・同じ力として 発出したまう。 子の父は 父の子を および 両者のまじわりである愛を 人間の世界に 派遣されたと考えられる。子は 人間となって派遣された。つまり みづからを空しくされ 肉となって現われたまうた。それは かれの神性を欠如させてではなく そのまま 父なる神の独り子なる神として現われたまうたと察せられる。言いかえると 第三の愛なる神を発出したまう神として この地上にやって来たまうた。 第二の子なる神が 人間となってやって来る前にも 父と子は 愛つまりは言いかえると第三の聖霊なる神を 同じくこの地上に派遣したまうたと考えられる。子なる神がやって来て 人間の言葉でこれらの神のみ心を 告知したのであると。つまり 聖霊は 人間に派遣され 人間の肉に宿りたまうのであると。子なる神は人間となられたが 聖霊なる神は そうはならなかった。聖霊も子も 互いに等しい神であられるが 聖霊が 固有の意味で神の愛として 人間に与えられ人間の内に宿りたまうのであると。(人間はこの神なる聖霊を分有すると言われる)。 この父と子と聖霊との三位格(ペルソナ)の一体性は 光にたとえられる。光の 光源(父)と発耀(子)とその明るさ・暖かさ(聖霊)の一体性にたとえられると。三位一体とは 各個が各個に等しく 各個が全体に 全体が各個に等しい存在であると。つまり 真実の光なる神は 一つなる本質(存在)でいましたまうが 三つのペルソナを持ちたまう。父とか子とかその交わりである聖霊とか これらの表現は 関係として言われるのである。言いかえると 子の父も 父の子も そして聖霊も それぞれ本質として 聖であり霊であり愛であるということ。(性の存在しない領域にかんして いわば親ということを示すために 父ということばを用いている)。 人間は この三位一体なる神に似せて造られた存在であると考えられた。 神は 光であり そのうちに関係として三つのペルソナを持ちたまう一つなる真実の神であると 人間は記憶する。この《記憶》は 記憶が記憶に帰るとき つまりあるいは 人間がその記憶に尋ねるとき そのようにその内容を知解する。つまり 記憶がこの《知解》を生む。そして なぜなら 記憶し知解するとき そこに これら言わば父のような記憶と言わば子のような知解とを結び合わせる第三の行為能力である意志を持っており この《意志》は 人間が神の愛を分有させられてのように 記憶と知解の行為の初めに はたらいたと 記憶され知解される。この人間の 記憶と知解と意志の一体性は 神の三位一体の似像(にすがた)なのであると考えられた。(ただし 残念ながら 人間の記憶と知解と意志との一体性としては それぞれのあいだに時間的な隔たりがある。むろん 神ではない)。 人間の 記憶は いわば精神の秩序であり 知解(知識)の宝庫である。記憶の宝庫から精神が知解するとき 意志が発出されていると考えられ この意志は人間の持つことが出来る愛である。自己の記憶と知解と意志なる三一性は 他者のこれらの三一性に 同じものであると考えられる。このとき 自己の意志 自己の愛は 他者の愛――他者への自己の愛 および 他者じしんの自己の愛――と同じであると考えられる。 人間は 三位一体の似像なる存在として 人格(ペルソナ)を持ち 一つの本質(=存在) 一つの生命である。 信仰の問題ですから ドグマではありますが。ですから われわれは おのおの聖霊を分有しているという姿で捉えます。もちろん 祈ることも あります。まったく自由です。

noname#43107
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