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認識(現象界)を超えて、他者を感じ、了承する方法は無いでしょうか。

『道徳形而上学の基礎付け』、『プロレゴ-メナ』を読み、 現在、『純粋理性批判』を読んでいます。 論理構成が非常に綺麗で、理路整然として非常に読みやすく面白いのですが、 読めば読むほど、 「認識を超えて、他者を感じたい」 という欲求に駆られます。 しかし、いく考えてみても、その方法を思いつきません。 哲学の入門書を二年前に読み、 その問題はずっと考えているのですが、 未だに答えが見つかりません。 もちろん、答えはないのでしょうが、 方法論や、こう思う、という様な考えでも、 もちろん非常に嬉しいので皆さんの意見をお聞かせ下さい。

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回答No.5

他者問題というのは、心身二言論とならんで、いわゆる認識論のアポリアというやつです。 主体の意識の明証性を拠りどころに始まった認識論は、自我があるように他我があるはずだ、ぐらいしかいうことができない。「独我論」の問題はつねについてまわります(ここらへんは中島義道の『哲学の教科書』にわかりやすく書いてあったと思います)。 それでも人間は「意識」としてあるだけではない。 身体としてあるわけです。ここらへんから「他者問題」に切り込んでいったのがメルロ=ポンティです。 ----- わたしがある風景を眺めながら、風景についてだれかと言葉を交わすだけで、他者の経験しているものを、たんなる観念やイメージや表象としてでなく、自分の差し迫った経験として所有することができるのである。そうすれば、他者の身体とわたしの身体の間の一致した働きによって、わたしが見ているものが相手に移行する。わたしのまなざしのもとにある草原のわたしだけの緑が、わたしの視覚のもとにありながら、相手の視覚に入りこむ。わたしはわたしの見る緑に、相手の見る緑を再認する――税関吏が、はっとした瞬間に、前を通る人物のうちに指名手配の人を見いだすように。ここには他我(alter ego)問題は存在しない。見ているのはわたしでも、彼でもないからであり、わたしと彼に、ある匿名の可視性、視覚一般とでもいうものが住みついているからである。この一般的な視覚という原初的な特製は、〈肉〉に属するものであり、今ここにあるものでありながら、いたるところで永遠に光を放ち、個別的なものであると同時に、次元そのものであり、普遍でもある。 (「絡み合い―キアスム」『見えるものと見えないもの』所収、引用は『メルロ=ポンティ・コレクション』) ---- このメルロ=ポンティが考える、「自」と「他」が融合した〈肉〉(キアスム)の領域、これと微妙に似ていながら異なるのが、レヴィナスの〈イリヤ〉です。 レヴィナスは他者ということを「他者の顔」としてとらえる。 ただしレヴィナスにとって他者とは「絶対的に他なるもの」、「認識の外にあるもの」なのですが。 レヴィナスに関しては http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2942833.html で回答していますので、もしかしたら参考になるかもしれません。 もうひとり、バタイユを。 バタイユの「他者」は「他者」一般ではありません。〈愛する存在〉です。 引用は湯浅博雄『バタイユ 消尽』から。 --- だが、〈愛の関係〉は独特の他者経験である。〈愛への愛〉という経験は、私が生きる経験として完了するということのありえない経験なのだ。〈愛の関係〉における主体はもう判明に対象を区切る意識のままではない。いわばパッションであり、揺動であり、外へと出る運動だ。イニシアティブを発揮する能力とその活動ではない。むしろつねに未知へと導かれ、一種の秘密伝授的な試練(イニシエーション)を受けるような受動性となっている。強力な内奥的生の動きに運ばれつつ、自己を消尽しようと欲望している。留保なくエネルギーを消尽するために、他者のうちにも消尽の欲望を目覚めさせたいと願っている。  もし双方の側からこういう欲望が高まると、「主体(ひと)は即座に宇宙のなかにいるようになる」とバタイユは書く。さらに「〈愛する存在〉は、それを深く愛す主体にとって、主体自身の留保のない消尽へとさし出された宇宙のイメージである」、「〈愛する存在〉は、それを愛し、欲望する主体を宇宙へと開くのであり、主体がいわば在るものの総体――宇宙的な無窮性――によって呑み込まれるような感覚で満たす」と語る。こうした無辺際な連続性に近づく瞬間は、原初の時代以来〈宗教性〉が願望してきた――そして宗教の作用と効力を継承する文学・芸術が探求してきた――聖なるものの顕現に重なる」 ---- 「他者問題」はこうした思想家が参考になるのではないでしょうか。

rai317
質問者

お礼

経験の中に顕れる、超自然的な現象、感覚、 または、自己の外ではなく、内在に目をむけよ、 ということでしょうか。 確かにそういう方法もありですね。

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その他の回答 (13)

回答No.3

認識を超える、とか、認識を超えた世界、認識の向こう側の他者、というような言明は、認識の限界の外側ことを表しているように思えますが、 認識の限界の外側というのは、原理的に不可能のように思えますし、そもそもいまいち何を表しているのか、よくわからない言明のように思います。 もしかしたら丸い三角がナンセンスな言明のように、認識を超える、という言明もナンセンスな言明なのかもしれません。 もしそうだとすると、「認識を超えて他者を感じたい」という言明もまた、馬をサンカでトライアルしたい、 という言明が意味不明、ナンセンスであるのと同じように、ナンセンスな言明という事になりそうです。 そうだとすると「認識を超えて他者を感じる」という事は不可能(というか意味不明)なので、どうしようもない事になりますが、 それでもなおrai317さんが「認識を超えて他者を感じたい」という言明に何か意味があるように感じるならば、それは本当は 「認識を超えた他者」という表現ではない何かを意味しているのかも知れません。 その何かが何であるかを探求すれば「認識を超えた他者」ではないものの、rai317さんが「認識を超えた他者」という言い方で言わんとしていた 何かを得ることはできるかもしれません。 つまり、どうやったら認識を超えて他者を感じれるのか、という風に考えるのではなく、 認識を超えて他者を感じるとはいかなる意味なのか、という風な方向で探求していくということです。 以上のようなアイデアはどうでしょうか。

rai317
質問者

お礼

認識できる=感じる とすると、確かに意味の無い考えなんですよね。 認識できない事には沈黙しないといけない。 そう割り切れれば確かにいいんですが。

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noname#35986
noname#35986
回答No.2

自らの心が導くままに

rai317
質問者

お礼

ありがとうございます。 その結果、二年間、さ迷っています。

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  • oo14
  • ベストアンサー率22% (1770/7943)
回答No.1

six sense

rai317
質問者

お礼

ありがとうございます。 それしか方法が無いのでしょうか。

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