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もしも・・・ II

もしも、源義経が兄、頼朝をうらぎっって、 「奥州藤原氏vs鎌倉源氏vs六波羅平家」の戦いとなった場合、 どこの軍団が天下を統一したと思いますか?? このような質問がいやな人もいるとは思はれますが、ヨロシク!! また、これからも「もしも…」で出していくつもり。

みんなの回答

  • DieMeute
  • ベストアンサー率70% (571/807)
回答No.4

状況にもよりますが、義経を将として擁する奥州の藤原氏。 戦史を振り返ればわかるとおり、小数が大兵力を破る事は決して珍しい事ではありません。兵力で劣っても、経済力で劣っても、敵に対し有効な作戦を立案し、実行し、成功させる事ができれば勝利できます。つまり将の器量が重要な要素となります。 そういう事から当時、最も将才のあった義経と、「北方の王者」と呼ばれ政治力にも優れた藤原秀衡の治める奥州藤原氏を押します。 金と馬の産出地であり、中国とも独自に貿易して富を成し、(公称)奥州十七万騎と呼ばれる武力を保持していた奥州藤原氏に義経の軍略が加われば、天下統一の可能性は決して無ではありません。ただし、それは藤原秀衡が生きている間に義経が奥州軍を指揮するか、もしくは秀衡が亡くなる前に確固たる軍権を義経に渡して戦った場合です。 奥州藤原氏が源頼朝にああもた易く滅ぼされたのは、藤原泰衡が父の遺言を守らず、義経を殺害したばかりか、それに反対した弟の忠衡までも殺害した為、奥州の人々の人心を失い見離されたからです。 藤原秀衡が亡くならず長生きするか、もっと早い状況において義経が奥州に行き、秀衡の構想どおりに義経を将として、奥州軍を任せ鎌倉に対抗していたら事態は変わっていたでしょう。 なお、戦の大義名分は幾らでもつけられます。そもそも源頼朝は平氏追討の令旨を受けていたし、平氏は頼朝追討の宣旨を受けていました。木曽義仲も、義経も頼朝追討の宣旨を受けています。朝廷はその時の状況に応じて、どの勢力にも大義名分を渡しているのです。大義名分は建前にしか過ぎません。 各地の武将にしても己の利益や都合、野望によって動くものです。源氏の流れを汲みながら、平氏についた佐竹隆義、秀義親子。己が野望の為に頼朝に戦いを挑んだ源義広。平氏の流れを汲みながら源頼朝に味方した北条氏・・・みな己の利益で動きました。 そして勝ち馬に乗ろうとする武将も多いのです。義経が奥州軍を率いて勝ち進めば、当然、味方する武将は増えたでしょう。

  • imp-dsc
  • ベストアンサー率25% (57/222)
回答No.3

鎌倉が苦戦しつつも勝つでしょう。 どんなに頼朝が戦争下手であってもです。最大の理由は日本全国の武士が支持する理由と将来のビジョンがあるかないかが問題です。 奥州は支持しない理由はありません。だからといって支持する理由もありません。如何に勢力として巨大であってもそれは地方勢力としての巨大さです。そして巨大勢力はいくらでも内部崩壊・離間策を受ける立場にあります。 平家はどうか?確かに日本の政権を担う立場です。しかしながらそれまでの武士の反感をかってきた京都の貴族に抱きこまれて久しく地方の武士が付いても旨みは少ないでしょう。彼らの政権を認める事は武士の念願である土地の私有は原則として認められず私有は貴族の土地の管理人に甘んじるしかない事を肯定するに他ならないのですから。 源氏ですがこれは最初から武士による土地私有(財産保護)をはっきりと打ち出しています。共通の利害しかも切実な念願を共有している集団には内部工作は困難です。実行するとしても源氏以上に土地私有を保護することや直接的な利権(新たな恩賞を出すとか・・)や圧倒的に有利な軍事力を誇示する必要があります。 奥州は財産保護の概念は薄く。平家はする力はあってもヤル気はありません。となると消去法で源氏というのが私の結論です。例え義経がどう動いても結果は変らないでしょう。

noname#256814
noname#256814
回答No.2

鎌倉源氏。 欧州藤原家には、大義名分が無いですからただの地方の反乱。義経がついても正当な源氏の当主が鎌倉にいる以上義経についていかない者も多いと思います。 六波羅平家(京から逃げる寸前?結構負けた後?)も九州に落ち延びても、まさか九州に都を移すわけにも行かないでしょうし、義経がいなくてもすでに鎌倉の敵ではないと思います。 ただ三つ巴になった時、平家と藤原氏が組むと判りませんが、組むでしょうか? 結局は内乱が続き、モンゴル帝国に攻め滅ぼされる。に1票。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.1

六波羅平家 とある以上、平家が京都にあり、木曽義仲が上京する前となりますよね? そうなると、義経の軍事的カリスマが発揮される前となりますので、義経が頼朝を裏切ったらという、せっかくの質問者の意図(それなりの、軍事力を義経が持ちうる)という状況が発生しません。

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