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江戸時代
江戸時代も中條流という堕胎を扱う医者がいたということですが、望まない妊娠した際に全国的にみれば事前の「堕胎」と事後的な「間引き」、どちらの手段をとられることが多かったのでしょうか? 遊郭はともかく、一般の人に避妊という概念はなかったのでしょうか。
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- sammi-2837
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お礼
避妊の概念はなかったのですね。 今のようなゴムも経口避妊薬もない状況で、遊郭でも避妊しきれてなかったようですね。越前中納言松平秀康も梅毒を罹患していたとか… 昭和初期の産婆さんはそういう事もしていたのですね。 戦前も刑法は堕胎罪を規定していましたが、当時の社会通念としては優性保護の建前の下、産婆さんによる堕胎も黙認されていたところもあったのでしょうね。 現在の価値観で論じても意味ないですが、今でこそ社会的地位の高い医者や助産師という職業も、綺麗事だけでは済まない時代が長らくあったのですね。 ありがとうございました!