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大名の地位

6dou_rinneの回答

  • 6dou_rinne
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回答No.1

江戸時代中期以降はともかく、前期には嫡子がいないければ取り潰されるのがふつうでしたので、1家だけではなく分知して家系の存続をはかるという考え方もありました。 大大名なら支藩とすることも可能ですが、小大名であれば大名の地位よりも家系の存続を重視したのかもわかりません。 大名の命令や意向を無視するというのはしばしばみうけられることです。江戸時代初期の大名はリーダーシップがとれないとつとまりませんでしたが、平和な時代になると藩主は一代、家は末代ということで、家臣の意向に沿わない藩主が押し込められたり、隠居されられたりする例はしばしばありました。

noname#30350
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 旗本に転落しても無嗣改易に備えての安全装置を作る方が重要だったということでしょうか。 確かに、末期養子が許されるまでは青年藩主が世継ぎを定めていなかったばかりに改易となるケースが多かったので、そうなるくらいなら8千石の大身旗本となる道の方が良いと考えたのかもしれませんね。 大名の身になってみれば、一年ごとに出羽の田舎に参勤交代するよりは江戸に定住した方が遥かに楽、というのもあったのかもしれません。 家の存在について、毛利・鍋島の支藩のような形や○○新田藩のように蔵米支給、あるいは高直しで分家(旗本)を創設という形はなかなかとれなかったのでしょうか…

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