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水戸
徳川光圀は在任期間が長いのに権中納言に叙任されたのは隠居後で、在任中の官位は長らく従三位参議だったようです。 約三十年という、当時としては大変長い間、水戸藩主の地位にありながら、どうして在任中に権中納言となることは出来なかったのでしょうか? 父・頼房は早々に正三位権中納言となっていますし、歴代の藩主にも在任中に権中納言となっている者も多いです。 頼房や次の綱條は権中納言とっても正三位なのに対し、光圀は従三位と格下です。 光圀の叙任が遅れた背景には将軍家との軋轢などがあったのでしょうか?
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同時代のほかの御三家も見てください。 徳川光友 1650年 尾張藩主となる。 1653年 正三位中納言 1690年 権大納言 1690年 従二位 徳川綱誠 1667年 従三位右近衛権中将 1691年 参議 1693年 尾張藩主となる。 1693年 正三位中納言 1699年 従二位権大納言(死後) 徳川光貞 1653年 正三位中納言 1667年 紀伊藩主となる。 1690年 権大納言 1690年 従二位 徳川綱教 1676年 従三位左近衛権中将 1690年 参議 1698年 紀伊藩主となる。 1698年 権中納言 1705年 従二位権大納言(死後) 徳川綱吉 1653年 従四位下右近衛権中将兼右馬頭 1653年 正三位 1661年 参議 1680年 将軍後継者となる。 徳川綱條 1690年 右近衛権中将 1693年 従三位参議 1705年 正三位権中納言 上記を見ると各藩とも二代目は時間をかけて極官に昇ったが、三代目は比較的に昇進が早いが、水戸藩を除くと極官は死後に贈られていることが判る。また、昇進の年がほとんど同じであるので光圀の叙任が遅れた背景に将軍家との軋轢はなかったのではないでしょうか。
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