• ベストアンサー

木彫の仏像に虫食い(宗教的価値観とは)

mikenekoyaの回答

回答No.8

「鰯の頭も信心から」と言いますよね。 『鰯の頭』に価値があるのではなくて、それを信じることに価値があるのではないでしょうか。 たとえば『お金』にしても、生まれて間もない赤ん坊にとってはたとえ一生贅沢に暮らせるほどの金額であっても見向きもしないでしょう。 ブランド物のバックにしても、関心も無く使う機会も無い人にとっては邪魔なだけでしょう。 価値観とは、人によって異なるものだと思います。 すでにいろいろなご意見が出されていますが、『虫に食べられた仏像』に諸行無常を感じる人もいれば、虫に対する仏様の慈悲の心を感じる人もいるでしょう。あなたのように感じる人もいると思いますが、どれが正論でどれが間違っているとはいえないと思います。 最後にひとつ、自分が感銘を受けた言葉を・・・ 「下駄も仏も、元は同じ木のかけら。刻まれ方によっては人に拝まれる仏となり、あるいは人に踏まれる下駄となる。」

noname#32495
質問者

お礼

魂の持ち方によって、ものごとはえらく変化してしまう。それは真実だと思います。そのことを体現しているようです。虫のとっての真実と人間にとっていかに違うということの悟りでもあります。

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