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映画「蒼き狼」を見ました。チンギスハーンの第一子のジュチの死

今日映画「蒼き狼」をみました。チンギスハーンが諸部族を統一しモンゴル国を作った後、最初の外国遠征で金国を攻略する前にチンギスハーンの第一子、ジュチが毒矢に当り死にました。金国攻略でこの映画は終わるのですが、モンゴル帝国はその後、四汗国に分かれるのですが、確かこの中にジュチ(キプチャック)汗国がヨーロッパ近くにあったと思うのですが、ジュチが死んだ後のジュチ汗国の建国時、誰が国王になったのですか。 ずうっと以前に中国史、東洋史、ヨーロッパ史を勉強したのですが、よく思い出せません。どなたか解説願えませんか。

  • 歴史
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  • koon1600
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回答No.3

まず、映画の知識を鵜呑みにしてはいけません。脚色は少なからずありますからね(今回の文を見る限り結構脚色が多いようで)。 まず、ジュチの出生ですが当時の資料によってもさまざまです。しかし、モンゴル史の重要な資料である集史では、さらわれる前にすでに懐妊していたとし明確にチンギスの子であるとしています。もっとも、小説などでは捉え方はさまざまですけどね。 また、決して疎まれていたわけではなく、他の兄弟とほぼ同等の待遇を与えられています。ただ、彼の城攻は都市の破壊を嫌ったためか長期にもつれ込むことが多く進軍が遅延することが多々あったため、その点ではあまり良くは思われていなかったようです。 なお、彼が死んだのもすでに言われているように金ではなく(こっちの方面はムカリが主に活躍していましたね)はるか西、アラル海から南ロシアあたりでして、現在の地図で言うところの旧ソ連領カザフスタン西部あたりですね。 しかし、チンギスの召喚があった際、彼は病で赴けないと返答した為、それが「謀反」の準備ではないかと疑われ、チンギスは実際にチャガタイをらを派兵させる準備を進め、出兵寸前までになりますが、寸前に訃報が到着します。 さて、キプチャクハン国を作ったのは、すでに言われているとおりジュチの子であるバトゥです。もっとも、あのあたりを領していたのはジュチの代からで、集史でもジョチ・ウルスと書かれています。以後ジュチ家はここを基盤として活動していきます。 バトゥはオゴタイの治世中にヨーロッパに侵攻、その活躍は有名ですが、オゴタイ死後のクリルタイは紛糾の様相を呈していたので、サライ(カスピ海沿岸低地とも呼ばれる地域にあった都市で、現在のロシアとカザフスタンの国境近くです)に首都を構え兄弟にウルスの土地を分けて自立します(キプチャクハン国)。なお、このクリルタイは長いことかかった末結局グユクに決まるのですが、バトゥは結局参加に間に合いませんでした。

kazu632501
質問者

補足

貴方も映画を見てください。私は松竹の回し者ではありませんが。貴方の回答の固有名詞や攻略のやり方は全部思い出しました。しかし集史というのは後世の人が、断片的な史実を集めたものを集史と呼んでいるのでしょうね。ですからそれがそのまま史実であるかどうかは、わからないのでしょうね。 有難う御座いました。

その他の回答 (2)

回答No.2

チンギスハーンの長子ジュチはチンギスの中央アジア遠征後、父親とは袂を分かち、キプチャク草原に残ってモンゴル本土には帰還しませんでした。 これは、弟のチャガタイと仲が悪かったためであるとされています。 すでにこのときにキプチャク汗国の礎は築かれていたと思われます。 ジュチがチンギスより先に死んだのは映画どおりですが、死因は病死です。 結局、モンゴルへ帰ることも父親と再び会うこともありませんでした。 もしかして謀反をたくらんでいるのではないかとわが子を疑っていたチンギスは、病気で帰ることができなかったという事情を知って後悔し、涙を流してその死を悲しんだといいます。 その後、2代目のオゴデイ・ハーンのときの東ヨーロッパ遠征の総指揮官だったバトゥ(ジュチの第二子)が、やはり遠征後もモンゴルへ帰らず、亡き父の遺領にキプチャク汗国を建てました。

kazu632501
質問者

補足

映画では、チンギスハーンはジュチの遺体を抱いて死を悲しんでいましたが、あれはつくり話ですか。ジュチはモンゴルではなく、メルキト族ですから(略奪婚)、チンギスに疎まれた様です。バトウは英雄ですね。 有難う御座いました。

  • suzuko
  • ベストアンサー率38% (1112/2922)
回答No.1

参考URLにあるように、キプチャック汗国の建国はジュチの子バトゥです。

参考URL:
http://www.educ.cc.keio.ac.jp/~te04811/page1-1-2-1.htm
kazu632501
質問者

補足

バトウの名前は知っていました。英雄ですね。 貴方のURLにあるアレクサンドル・ネフスキイはロシアを建国した人でしたか。まったく同じ名前で、大正から昭和の初めにかけて日本に滞在したロシア人歴史学者がいるのですが、帰国後処刑された様ですが、その人のことはご存知ないですか。 有難う御座いました。

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