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日本はなぜ後進地域だったのか?
様々な文献によると、かなり古い時代から海洋交易は盛んで、海に囲まれていることが、文化の発展にとって大きなハンディキャップとは言えないように思います。 また日本は、狭い列島の中に高山地方、寒冷地方、温暖地方、降水量や地質学的に見ても、バリエーションが豊富で、そのため地方ごとに特有の文化が生まれやすく、それらが情報交換することで高度に文化を発展させる下地は充分あると思います。 ところが、中国が三国史の時代、日本はまだ卑弥呼が生きる弥生時代… 人口が少ないにしても、後進地域という感がぬぐえません… これは単に政治の仕組みが遅れているのか、技術的な分野もやはり遅れていたのか…? このギャップがなぜ生まれたのか、皆さんのご意見を伺えると嬉しいです。
- mof
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- 考古学・人類学
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四大文明という定説が崩れさってから久しいですが、 私はやっぱり、多くの人口を支えられる肥沃な平原を欠いたことが、 その条件を満たしていた他地域に遅れをとった大きな理由だと思います。 すっごく稚拙で、なんの裏付けもないお口汚しな回答で申し訳ないんですけど。 つまり、「人口が少ないと、文明の発展は遅い」ということです。 平原がないということは、大きな人口が定住できないということです。 大きな人口が定住できないと、そもそも 文明が発展する必然性を満たさないと思うんです。 私が思う、文明が発達する必然性とは、秩序と戦争です。 人口が大きくなると、その人口を問題なく運営する 新しい制度が必要になります。 そうなると、身分の差が著しくなります。 役割分担もできます。役割分担は、専門家を生みます。 専門家が生まれると、技術が発達しやすくなります。 身分の差があって専門家がいて技術が発達すると、 富の蓄積ということが起こります。 そうすると、戦争です。 戦争が起きると、技術の発達は著しく進みます。 もちろん、戦争が起きすぎると人が減って、 文明は後退するかもしれません。 でも、隣国との戦争に勝つために一所懸命 技術を磨くとすると、技術は発達すると思うんです。 中国もイスラムも14世紀まで、世界的にすごく進んだ地域だったと思います。 でも、どちらも広い地域を統一して戦争があまり起きなくなると、 絢爛豪華な文芸が興隆しますが、科学技術力の発展・・・ という点では、大航海時代で外に目を向けていた欧州と 差がついていくような気がします。 貿易に関して。 たとえば、海洋貿易で身を起こした国、というのはいろいろ思いつくんですけど、 自分が好きなのはフェニキアです(なんの脈絡もなくw)。 ローマと戦いさえしてなければ、カルタゴは・・・とか考えてしまいますけど、 ただフェニキア人も、独自の文明を持っていたとはいえ、 ギリシャやメソポタミアやエジプトなどすでに興隆していた「平原の文明」間の貿易者であったような気がするんです。 日本では海洋貿易があった、といっても、やっぱり、 卑弥呼以前の時代の技術では遠洋航海は無理だったのではないでしょうか。 それから、貿易で技術が伝わるか、というと、 簡単にはいかない面もあると思います。 もし、自分の村でしか作れない青銅の剣を作って、 よその村の特産品と交換することで、生活を成り立たせているとします。 あなたは、自分の村の特産品であり、生活がかかっているその技術を、 よその村の人に教えますか?(^^; どっちかというと、「その特産品に目をつけた有力者が、 その村を侵略して併合し、技術を吸収しました。」 というのが普通ではないかと思います。 で、有力者が生まれる背景には、豊富な食料を背景にした 富の蓄積というものがあって、その豊富な食料を得るには平原が・・・ というオチでいかがでしょうか。
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- jumbokeskusu
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NO.4です。 縄文時代でも、相当人の行き来きや、交易は盛んだったと推察します。 日本沿岸・北海道辺りの黒曜石・石器が傍証かもしれません。 新モンゴロイドである弥生人も、縄文後期と重なって何派にも何百年にも渡って渡来した可能性が強いですし。 ただ、物の交易と違い、高度な文明が伝播され、新しい土地に根付くには相当時間がかかると思います。漢字や仏教のようなものを考えれば、軽く100年や200年はかかったはずですよね。相当しっかりと根を下ろした日本の文化になるまでは。古代における、物の伝播と、高度な文明の伝播では、そのスピードがかなり違うのではと思います。 後は、高度な文明を支える、大きな人口になるまでにも、時間がかかったかもしれません。縄文時代が狩猟・採取だけでなく、それなりの文明をもっていたらしいことが三内丸山からも推察されますが、大都市を形成するような大繁栄ではなかった。(もちろんどっちがいいかは別ですが) こう考えると、古代からずっと日本は中国の先進文化を取り入れてきて、明治・戦後は、欧米の文化を取り入れてきた、ずうとそういう傾向がありますね。日本は島国で一時期の鎖国で独自の文化を育んできた面もありますが、外国文化を取り入れて独自文化に消化していくというか。 最近は日本の食文化等日本がずいぶん海外でも評価されるようになりましたが。すみません脱線しました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 表面上の技術だけなら、伝播は早いかもしれませんが、異なる風土で生まれた言葉や思想を受け入れるには時間がかかるかも知れませんね。 灌漑や農作、金属加工技術といったものは、それを理解するための言葉の理解、思想の理解が必要だったかもしれません… そう考えると時間がかかったのかも知れません。 もし、中国が隣国なら、その脅威は大きなものですが、日本は中国から侵略される心配は少なかったですし、焦らなくてもよかったのかも知れませんね。 色々とご意見を頂きありがとうございました。
- aburakuni
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進歩は競争により生まれます。 戦争技術の発展がその典型ですが、産業においても新技術の有無は死活問題であり、有用な技術が長く独占された事はありません。 その様な技術・文化交流を考えると、大陸の突端や離れ島は交流に不適な場所で、イギリスもある時点までは蛮族の住む未開地で、その後はフランスの植民地でした。 半島といってもギリシャ・ローマやスペインは地中海の交流の中にあり、ヨーロッパ自体は半島として世界的には後進地域でした。 イギリスを例に採ると、科学技術の伝播が終わり応用の段階に入り、ヨーロッパの陸続きの国際紛争から離れていられたた事が、今度はイギリスの発展に寄与しています。
お礼
ご回答ありがとうございます。 島国であり、四季を持つ自然豊かな国土として、イギリスも良いモデルになると思います。 イギリスも長い間未開地だったことを考慮すると、やはり当然の帰結と言えるのでしょうか? オーストラリアとニュージーランド辺りの関係も似ているような感じがするのですが、あちらはさらに遅れていたと言えると思います。そもそもオーストラリアでは大きな文明の痕跡がありません…。それも不思議です。 南半球であっても、条件はそれほど違わないでしょうし、アメリカ大陸でもマヤやインカ帝国が存在したのに、なぜオーストラリアはダメだったのでしょう? 偶然なのでしょうか?
- jumbokeskusu
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文化を育む自然環境と、先進文化が生まれた地域からの文化の伝播と分けて考えたらいいと思います。土地や自然環境が整った地域で高度の古代文明が生まれ育まれ、その周辺に広がっていくという図式とを思い描いてください。やはり中国(黄河流域等)で発展した文明が周辺に広がっていくにはそれなりの時間がかかるということです。もちろん、何百年、何千年のレンジでみれば文明の発達した地域の地図も相当変わるでしょうが。
お礼
ご回答ありがとうございます。 その点について私なりに考えてみました。 確かに黄河文明から見れば、日本は僻地かもしれません。 でも中国→朝鮮→対馬→九州、中国地方への人の流れはそれほど少なかったのでしょうか? あるいは沖縄を中継した移動も考えられます。 私のイメージでは人の移動は意外と盛んだと思うのですが… 縄文時代の黒曜石のルートはかなり広範囲だったと聞きますし…。 何も一人の人間が中国から日本まで来なくてもいいわけです。 また、自分より進んだ技術を目にしたときには積極的に受け入れることは当時の人も考えたと思います。 遣隋使などでもそうですが、進んだ文明の存在は常に心の中にあったと思うのです。 それとも私が考える以上に、当時の人は保守的な考えに染まっていたのでしょうか?
- kensan39
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日本は自然環境が過酷なのです 日本みたいに普通でも4っも季節がある国は珍しいです そしてその間も毎年くる台風 数年に来る地震と噴火と世界の半分の 自然災害は日本で起きています だから縄文時代で進歩は止まりました この時代は1万年も続いたのです 米を水田で作る方法が広まるには暦の管理が出来ないと難しいのです そしてこれが出来ないと人口が増えないのです 日本で一人で生活できる時代は第二次大戦以降ですからね それまでは家族の助け合い生活していました だから縄文時代は世界最高までに達していますが文字の文明まで 行かなかったのです
お礼
ご回答ありがとうございます。 確かに日本は変化と災害の多い国土です。 私のイメージでは、だからこそ技術の進歩が起こりやすいとおもうのですが…これは誤解なのでしょうか? 暦の管理が必要なら、それについて調べた人がきっといると思うのですが、それほど簡単な話ではないのでしょうか? 厳しいけれど、協力し、知恵を共有することで克服できる自然を前にすれば、あらゆる技術が自然と育っていくような気がします。 また地域ごとの生活の知恵が、交易を通して新しい発明の契機になると思います。 なぜ文字は生まれなかったのでしょう?可能性としては有り得たのではないでしょうか?
- Cupper
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長い間、平和で恵まれていたから それまでの生活環境・習慣を大きく変える必要が無かった。 簡単に言えば、こういう事だと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 弥生時代に入るまではそうだったのかも知れないですね。 日本は食糧の種類が豊富なので、知恵を使えば色々な食物を一年を通して得られるようです。 でも弥生時代に入ると、戦が盛んに行われたようです。 対人間用と思われる防衛設備や矢の刺さった人骨などが発見されてますし… 国家に近い概念もあったのではないでしょうか? やはり人口の少なさがネックだったのでしょうか?
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