• ベストアンサー

諸葛亮死後の武将

諸葛亮が死亡した後に活躍している武将を知っているだけ教えて下さい。 あまり活躍しておらず知られていない人物でも構いません。 ちなみに現在私が知っている諸葛亮死後に活躍(?)していた武将は 【姜維・夏侯覇・鐘会】 のみです。

  • 歴史
  • 回答数4
  • ありがとう数3

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.1

nanamidesuさん、はじめまして。 「死せる孔明、生ける仲達を走らす。」 なんて言葉があります。 参考URLをご覧下さい。

参考URL:
http://okwave.jp/qa1097413.html

その他の回答 (3)

  • Pinhole-09
  • ベストアンサー率46% (597/1294)
回答No.4

蜀の鎮北将軍 王平がいます。   244年魏軍十数万の侵攻を三万の兵で追い返しました。  その功で鎮北将軍になりました。 蜀の右車騎将軍 寥化(りょうか)もいます。  彼と一緒に戦った 張翼、董蕨(とうけつ)もいましたが、奮戦むなしく蜀は滅びました。

noname#21331
noname#21331
回答No.3

鐘会と言えば魏の鄧艾です、姜維と最後まで戦ったのは鄧艾ですし、蜀を落としたのも鄧艾です。最後は、姜維と鐘会にはめられて、失脚しますが。 後、張翼という武将は地味ですが、姜維につき従っていたかと思います。 孔明の息子、諸葛瞻も忘れてはなりません。鄧艾に蜀が滅ばされた時、最後まで戦い、殺されました。 諸葛といえば、諸葛の従兄弟、諸葛誕がいます。 最後は司馬一族に逆らい殺されます。

回答No.2

諸葛亮が死亡したあと・・というのは直後も含めるのか、直後を抜いて数十年に渡るのかで定義が若干変わってくると思います。 >姜維・夏侯覇・鐘会 と書いてあるので、直後を抜きにして見てみますと・・ 陸抗、羊祜、杜預、陳寿、司馬昭、司馬炎、王濬、賈充、諸葛恢 まだまだいますが、主要なのはこんなものでしょうか? 詳細は下記のサイトでご確認ください。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97%E4%BA%BA%E7%89%A9%E8%A8%98%E4%BA%8B%E4%B8%80%E8%A6%A7

関連するQ&A

  • 諸葛亮死後、姜維の北伐について

    234年に諸葛亮が死に、その後に姜維が北伐を開始しようとしますが、費イがそれを止めようとしますよね。 思ったのですが、姜維は諸葛亮が死んでからどれくらいに北伐を行おうとしていたのでしょうか? 諸葛亮が死んで、一年もしないうちでしょうか?それとも、何年か経ったあとでしょうか?

  • 諸葛亮の軍事能力は低かった?

    演義では諸葛亮がまるで天才軍師のように書かれています。 しかし、諸葛亮は政治家としては一流ですが、軍事能力は低かったのではないでしょうか? 司馬徽が「伏龍・鳳雛の二人を得れば、天下を取れる」と諸葛亮とホウ統をさして言ったといわれる台詞があります。 それは、つまり二人揃って初めて意味があると言うことで、 実際に劉備軍で軍師として軍事面で策を立てていたのはホウ統と法正です。 諸葛亮は内務担当です。 劉備が益州方面へ進出したとき、ホウ統が軍師として劉備につき、諸葛亮は荊州に残りました。 劉備は諸葛亮を「内務の人間」と見ていた。 一方、ホウ統を益州攻略に連れていったということは、劉備はホウ統を軍略家と見ていた。 ホウ統は益州攻略の途中で戦死します。 しかし、その後、軍師としての役割を果たしたのは益州出身の「法正」でした。 夷陵の戦いにおいて、諸葛亮は参戦すらしていません。 劉備は、あくまで諸葛亮を、「国の方針を決める人間、内政能力の優れた人間」と見ており、決して「戦争に優れた人間」とは見ていなかったことが読みとれます。 ホウ統・法正が死んだ後、劉備軍は軍事面でなかなか勝てなくなります。 演義で関羽を殺され、呉に出兵した劉備を止められなかった諸葛亮が、 『法正が生きていれば諌められたろうし、諌められなかったとしても負けることはなかったであろう。』 という台詞があります。 演義しか知らないと、その場面では『なぜ法正?諸葛亮がスーパー軍師として参戦すれば勝てたんじゃないの?』と思います。 劉備の死後、諸葛亮が軍の実権を握ったが、北伐は失敗に終わっています。

  • 「三国志」といえば誰が好き???

    古代中国を舞台に、天下統一を懸けて三つの国が争った興亡の歴史絵巻「三国志」。 史実と物語が入り交じった逸話の数々が今日に伝えられています。 勇猛無双の武将たちが登場するエピソードは日本でも人気が高く、人生の手引き書として愛読している人もいるようです。 あなたが憧れる『三国志』に登場する武将は誰ですか? できれば、その理由も教えて下さい。 ↓↓↓↓↓結果発表↓↓↓↓↓ 「あなたが憧れる『三国志』に登場する武将ランキング」で最も人気が高かったのは「諸葛亮(孔明)」。 三国志随一の軍略家で、「彼が“天下三分の計”を唱えなければ、三国志は成立しなかった」とまで言われています。 また政治の面においても、蜀の丞相として多くの制度や法律を整えたことが知られています。 ちなみに“まんじゅう”も孔明のアイデアから生まれたものだそうです。 この諸葛亮(孔明)を“三顧の礼”で迎え、蜀を繁栄させたのが2位の劉備(玄徳)。 3位に入った関羽(雲長)、6位の張飛(益徳)と“桃園の誓い”によって義兄弟となったことをきっかけに、その後も多くの優秀な人材を得て活躍したとされています。 一騎当千の武人として知られる関羽雲長は、中国では商売の神様“関帝”として親しまれています。 横浜の中華街にも、関羽を祭った“関帝廟”があるので、一度訪れてみてはいかがでしょうか。 蜀の武将たちが上位の人気を誇る中、4位にランクインしたのは魏王「曹操(孟徳)」。 優れた武人であったのと同時に文筆家でもあった曹操は、兵法書『孫子』を現在の形に編纂し直したことで知られています。 また、“赤壁の戦い”の際に詠んだ“短歌行”は中国の南北朝時代にまとめられた『文選』にも残されています。 「三国志」を大衆向けの文学作品としてまとめた『三国志演義』では悪役とされる曹操(孟徳)ですが、その功績から近年では優れたリーダーというイメージが強いようです。 「三国志」の世界を描いた小説やコミックは数多く発表されているので、機会があれば触れてみることをお勧めします。 好きな「三国志」の武将ランキング順位 1、諸葛亮(孔明) 2、劉備(玄徳) 3、関羽(雲長) 4、曹操(孟徳) 5、趙雲(子龍) 6、張飛(益徳) 7、呂布(奉先) 8、周瑜(公瑾) 9、馬超(孟起) 10、司馬懿(仲達) 11、張遼(文遠) 12、姜維(伯約) 13、陸遜(伯言) 14、張角 15、孫権(仲謀) 16、夏侯惇(元譲) 17、孫策(伯符) 18、甘寧(興覇) 19、徐庶(元直) 20、黄忠(漢升) 21、孫堅(文台) 22、荀彧(文若) 23、徐晃(公明) 24、典韋 25、呂蒙(子明) 26、太史慈(子義) 27、魯粛(子敬) 28、郭嘉(奉孝) 29、夏侯淵(妙才) 30、孟獲 http://ranking.goo.ne.jp/ranking/999/sangokushi/&f=news&LID=news

  • 三国志の世代ごとでの人の特徴

    三国志で漢が滅亡するところから三国が鼎立して、晋の成立あるいは歴史はその後もしばらく動乱が続きます。 三国志あるいは三国志演義で語られるのはすべての期間ではないですが、登場人物もかなり初期から違う人たちになります。期間も長いですので世代も変わるのではと思います。 董卓・袁紹・呂布・曹操・劉備・周瑜・孫権・諸葛亮・鄧艾・姜維・陸抗・司馬炎.... という感じですが、有能あるいはその時代に適応しているや求められているなどで変化もあるのではとおもいます。 時代や世代ごとの特徴など特徴もあるように思いますが、もしでているとしますとどのようにだったのでしょうか?

  • 死んでも、死後硬直しないこともあるの?

    死についてですが、死の基準とは一体何でしょうか? 医師から死亡診断が下された後、火葬場へ行く直前に なって生きかえったという話があるそうですが、 そういう人は死後硬直はなかったのでしょうか? それとも、死後硬直したが生き返った? 腐敗が始まったが、それでも生き返った? これは非常にまれな現象だから、データは少ないと 思うが、ご存知の方はいるのでしょうか? ちなみに、頭部を銃で射殺すると直ちに死後硬直が 始まるそうです。死後硬直って一体どんな化学変化が 起こっているのでしょうか?

  • 死後の世界を否定するならこれは?

    ”瀕死の状態から回復した患者が、臨死体験中に「まだ生存しているはずの親類や友人に出会った」と発言することがしばしばある。周囲の者は、最初はその話を信じないが、患者が瀕死の状態に陥る前にその人物がちょうど死亡していたことを、後から知って驚くという。つまり、瀕死の患者が臨死体験を通じて、知るすべもない遠方の人の死を誰よりも早く知ったのである。” このような話は様々なところで(研究者)よく聞きます。この際、これがデタラメの可能性は捨てて下さい。 これって死後の世界(もしくはそれに類するもの)の証明(証明ではありませんが重大な可能性)になりませんか? 科学者が死後の世界(もしくはそれに類するもの)を否定する人が多いです。 それは「普通に考えて無いと思うからそれを無理やり証明しようとしている」や「科学で証明されていないからない」や「そんなの考えてる暇ないんだよ」っていう感じで否定しているのではないでしょうか? 上に載せたのはあるサイトの引用文です。これはどう説明するのですか?私は死後の世界があるような気がします。これ以外にもこれに類するたくさんの事例がありますから。(臨死体験)

  • 諸葛亮と諸葛亮孔明

    おはようございます。 私はこの教えて!goo(OKWave)の質問や回答に 疑問を感じています。 それはタイトルの『諸葛亮』と『諸葛亮孔明』です。 『諸葛』は中国では珍しい二文字の苗字で、 身分の高い家柄では名乗る事が出来るそうです。 『亮』は名です。 我々の名前と一緒。 英語ではファーストネームです。 『孔明』は字(あざな)です。 日本では珍しいミドルネームみたいなものです。 この『字』を使う時は、『名』は使わず『諸葛孔明』と 名乗ります。 しかしこの教えて!goo(OKWave)では 『諸葛亮孔明』と名と字を一緒する質問者・回答者が いらっしゃいます。 このような方々はご自分の誤りに 気付いていらっしゃるのでしょうか? 皆さんからのご意見を賜りたいと思います。

  • 諸葛亮なら・・

    三国志に出てきた中国の諸葛亮が、 もしビジネスに目覚めていたら、 ビルゲイツ以上の大金持ちになっていましたかね? 確かに頭が良ければいいってものではないかも知れませんが、 彼ほどの天才で頭が良ければ、 その才能をビジネスに12分に生かせませよね? 金よりも知識ですか?

  • 三国志の劉備軍はなぜ強かったのか?

    過去にも似たような質問があったかもしれませんが、質問よろしくお願いします。 小説「三国志演義」が好きで、子供の頃から何度も読み返しています。 原作の羅漢中という人物は、中国の明の時代の人物で、三国志の時代から1000年以上経っているにもかかわらず、まるで現場を見てきたかのように、人物の会話まで詳細に描いていますよね。 時代をへだてた作品なので、かなり脚色は多いだろうな、と大人になるにつれて思うようになったのですが、それでも激動の時代を描いた作品として、やはり謎な部分が多いです。 僕がよく疑問に思うのは、作品の主人公になっている、「劉備」という人物に関する謎です。 劉備は20歳を過ぎるまで貧しい農村で育ち、母一人、子一人の家庭でむしろやわらじを編みながら、細々と暮らしていた、と小説の中では描かれています。 なぜそのような人物が、突如として戦場にたち、人並み以上の功績を挙げることができたのでしょう? おそらく、義兄弟とされている、「関羽」「張飛」の働きが大きかった(というか、ほとんどその二人が功績を挙げていたのでしょうが…)、その「関羽」や「張飛」にしても、かなり素性が知れないですよね。 戦国時代に戦上手として知られた武将というのは、曹操しかり、信長しかり、幼い頃からかなりの英才教育を受け、それでいて多くの部下を従えながら、野山を駆け巡る、といったやんちゃをしていた人物が多いようです。 あるいは、孫子(孫武)や諸葛亮のように、書物を多く読み、自然観察を楽しみ、静かな暮らしをしながら時期を待つ、といったタイプもいますが、このタイプは軍師として活躍することが多いようです。 少しわき道にそれましたが、要するに僕の言いたいことはこうです。 曹操がもっとも恐れていた、この劉備(+関羽&張飛)という人物は、かなり非凡な才能を持っていたのではないでしょうか? そうでなければ、常にわずかな兵力で、大きな兵力を持っている相手と互角、もしくはそれ以上の戦いをしてきた、ということの説明がつきませんよね。 諸葛亮や司馬懿、曹操もすごいと思いますが、僕は最近では、この劉備という人物もまた、かなり明晰な頭脳を持っていたのでは、と思うようになっています。 人間的な魅力ばかりが注目される劉備ですが、皆さんはどう思われますか?

  • なんで諸葛亮じゃなくて、諸葛孔明なの?

    三国志を読んでいて、疑問に思ったのですが、 諸葛孔明は、姓を諸葛。名を亮。字を明なんですよね? で、普通によく使われる名称って、諸葛孔明じゃないですか。 最初はなんで諸葛亮って言わないのか疑問だったのですが、 劉備玄徳も玄徳が字だし、名を言わないで、姓と字をいうものなのでしょうか? では、劉備の名はなんなのでしょうか? 劉が姓で名が備なのですか?教えてください!