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「真の自分」は理性か?感情か?それ以外か?それは真実在か?

noname#254の回答

noname#254
noname#254
回答No.25

 Mori0309さん忙しそうだから…ちょっと待ってたんですが…いっちゃおうかな…なんか…止まってるし…  つーわけで、いきます。  まず、ユング問題から。  僕の知る限りで、mori0309さんの言う「真実在であるような真の自分」というものに、もっとも近いイメージを持つのが、ユングの語る「自己 Selbst」であると思われます。個人的な好悪は抜きにして、説明します。  「自己」は「元型 archetype(注)」の一つで、数ある元型のうち、比較的後年になって提起されたものです。特徴は、 ・数ある元型の中でも、「ペルソナ」「アニマ(アニムス)」「影」と並んで、人格の中で中心的な役割を果たすもの。 ・人格全体を組織的に統合する原理としての役割を果たすものであり、人格の目的である「個性化(自己実現)」に大きく寄与する要素である。 ・先天的な形で集合的無意識の中に刷り込まれているが、ある程度「個性化」が進展するまでは潜在的なものであり、これが顕在化するのは中年期以降であることが多い。 …といったあたり。  注目していただきたいのは、まず、「自己」が「自我 ego」とは区別されている点。自己は自我に対して、無意識のレベルから絶えず「個性化」へ向けた働きかけを行っていますが、自我がこれに気づかず、無視していると個性化が円滑になされない。逆に、自己と自我が親和的関係を結べている場合、人格は高いレベルで完成されていくのです。(仏陀とか、イエス・キリストがそういう人だったそうです。)  また、「ペルソナ」とも区別されます。「ペルソナ」は「仮面」という意味で、要するに「他人向け・社会向けの顔」、対外的人格の要素です。この「ペルソナ」という元型に、経験の内容が加わっていって、人格の「外面」が形成される。そういう意味では、フロイトのいう「超自我」に重なる部分が大きい。  言い換えれば、ふだん自覚できている「自我」とは別のもので、しかも「自分の中に内面化され再生産された他者」でもない、ということです。どうです? Mori0309さんの「真の自分」イメージに近いでしょ?  もし興味が持てるようでしたら、ユング関連の書籍でもひもといてみてはいかがでしょうか。日本国内では河合隼雄さんが第一人者で、信頼が置けます。わかりやすいし。簡便なものとしては、C・ホールとV・ノードバイ共著の入門書があります。ユング自身の著作も、たいてい翻訳されています。難解で、しかも高価ですが。  ただし、ユングに関して著述している人たちの中には、アヤシイ人たちもいっぱいいます(僕自身は、そもそもユングからしてアヤシイと思ってる)。懐疑的精神・批判的精神をお忘れなきよう。  さてしかし、「オッカムの剃刀」ってのがあります。「同じ程度に合理的に説明することができるのなら、余計な仮定や仮説が少ないものの方が正しい」という論法。これはこれで濫用すると危険なのですが、しかしいくらなんでも、ユングにはこの剃刀で切れる要素が多すぎる。体脂肪率50%超のデブデブであります。「中年期以降の《自己》の顕在化」にしても、 「あー、年とれば、誰だって人間丸くなるわなー」 …で、済むのではないか、と。それを、例えば、中年のオヤジになってただ単に世間に妥協して俗物になり果てた(ああ…なんか、自分で書いてて痛いぞ…)場合には、「うーん、あんまり《自己》じゃない…」と「診断」し、逆に、突然人間愛に目覚めて職をなげうって「国境なき医師団」に参加し、弾の飛び交う中で点滴チューブを運びまくる生き方を選んだりした場合には、「おお、これこそ《自己》!」とか「診断」する…。…要するに、後から取ってつけた主観的評価なのではないか。後から見て「うーん、立派だ」と思える要素を実体化・擬人化して「自己」と呼んでいるに過ぎないのではないか。  「説明のための虚構 explanatory fiction」が、これを糊塗するための別の「虚構」を呼び、かくして「虚構のための虚構」が暴走している世界、それがユング心理学の世界だと言ったら言い過ぎでしょうか。  ユングの話が長くなりました。すいません。頭の中で電波が「書け、書け」と言うもので…。  ここで少し話を一般化します。少々、視点を哲学よりにズラし、前にuploadした書き込みも踏まえて「自分」論の私見も示すことにします。ですから、Mori0309さんへの直接の回答からは、ちょっと逸れてくるところもあります。  まず出発点となる、そしてある意味で(僕なりの)結論でもある一言をば。 「《自分》とは、《自分》の、ある特殊な状態である」…です。  古来、多くの哲学者たちが指摘してきたように「知」の始まりは「驚き」です。当たり前に見ていたものが、何かの拍子に異形の姿で立ち現れる。で、「なんだこりゃ?」と「知」が働き始める。「自分」というものについても、同じなのではないでしょうか。おそらく、人間誰もが成長過程のある時期に問うていることでしょう。「おれって、何者?」「あたしって、誰よ…」と。  その時、何が起こっているのか。まず、強さの多少はあれ、「自分」というものについて驚いています。当たり前の自分が、当たり前でなくなっているのです。起きて、メシ食って、学校行って、帰って、遊んで、フロ入って、寝る。そういう、半ば自動化された日常の、単線的で平板な、しかし安定して危うさのない、そういう状態から、「自分」がどこかで逸脱しているわけです。  きっかけはさまざまでしょう。かーちゃんに叱られてとか、カノジョにフラれてとか、職場の人間関係で悩んでとか、日本の将来に漠然と不安を覚えてとか、世界の現状に悲哀を感じてとか、宇宙百三十億光年の広がりに茫然としてとか…いろいろでしょう。Mori0309さんも、たぶん、「自分」をして「自分」を主題化せしめるような「何か」を、感じるか経験されるかしているのではないですか? SEとして多忙な毎日を送っている、その日常の間隙に、ふと入り込んだ不安の種…みたいなものを。  といって、僕も人生相談モードに入りたくはありませんので、そっちのことはmori0309さん自身に考えてもらいたいと思います。  とにかく、他の対象と同様に、「自分」なるものも、そうした驚きに媒介されて主題化されてくるということです。  ところが、その「自分」というヤツ自体は「他の対象と同様」ではない。他の対象と違って、「客観」の札を貼った棚に収めきることが、決してできない。「今、自分が何を考えているかを内省する」とか、ある程度はできます。でも、「内省されている自分」を「内省している自分」は、「客観棚」にはしまえません。もっとがんばって問いつづけても、しまいきれない「自分」は残ります。(山口雅也さん『ミステリーズ』所収の短編ミステリーに、似たような話があります。けっこう面白かったです。)  そうした、「自分」をどんどん削っていって「客観棚」にしまい込んでいくという「本当の自分」へのアプローチは、きりがありません。こういう感じに、問題が無限循環に陥ってしまう場合、たいていは問いの立て方自体が間違っているのであり、やり続けても意味のある結果は出ないものです。実際、この「削って削って」の結果出てくる「自分」なんて、抽象的で無内容な観念でしかない。「自分という、自分の一つの状態」にすぎない。まぎれもなく「自分」の一部であるものを捨象した残りかすでしかない。  じゃあ考え方を逆にしましょう。削っていく引き算ではなくて、全体をつかむ方に。つまり、「自分とは?」などとは決して主題化しようとしないような、ふつうの日常的な状態まで含めて「自分」と捉えてみましょう。  この状態では、「自分」は「自分」にとって透明な、「見えない」ものになっています。意識されないということです。周囲の世界と自分とが、ごく自然に噛み合っていて、まったく齟齬がない。ノーテンキに生きています。「自分」なんか意識しない。…でも、これだって、まちがいなく「自分」の一つの状態です。ここでは、いわば、もう「自分」なんていない。「自分」がそこに溶け込んでいる「世界」だけがある。つまり、「削って削って」をやって、凝視された一点としての「自分」とは、まったく対極的な様態の「自分」の在り方ということです。  さて、これで両極端が出揃いました。これら両極端の状態の間を、「自分」は行ったり来たりしているわけです。 こうした両極端の状態を取りうる存在としての「自分」は、「量子のようなもの」と比喩的に表現するのが一番わかりやすいのではないかと思います。「波動でもあるもの、粒子でもあるもの」と。「量子は波である」と表現すれば、それは間違いではないが、一つの抽象であり、「量子は粒である」と表現すれば、これも間違いではないが、やはり一つの抽象です。人間も同様ではなかろうか、と。例えば、横浜スタジアムの外野席で突然ウェーブが起こり、それが伝わってきたとき、愛するベイスターズが勝っているので気分がノリノリになっているozapanは思わず腰を浮かせてしまうわけです。また、ゆうべ殺虫剤で弱らせたゴキちゃんを、そのままにしておいて今日ふんづけてしまった。あーなんてバカなんだ、オレは…と、苦く深い自己嫌悪と共に「自分」と直面するozapanも一方にはいる。が、そのどちらか一方だけが「真のozapan」ではない。どちらか一方に固定して捉えることはできない。  そういう意味では、世界に溶け込んでいる間に「自分」の中に入り込んできた他者の要素も、広く捉えれば、やはり「自分」にはちがいない。 「みんな…僕の中にいるんだね…」 …なんだか、エヴァンゲリオンの最終回のようなオチになりましたが、そういうことだろうと思うのです。  要するに「自分」ってそういうものなんですから、ある考えを抱いたとき、「本当に自分の考えなのか、それとも、自分の中の他人が無意識的に影響しているのか…」とか、あんまり考えない方がいいのではないかと思います。考えるだけ無駄でしょう、おそらく。そんなこと考えるより、その考えを進めたり、検証したり、練り上げたりすればいいんです。何かうまくいっているときは、むしろ、その事柄の中に「自分」が溶けている方が普通でしょう。音楽家の故・武満徹さんも、「自分が」曲を「作る」のではなく、音が「向こうから語りかけてくるのを待つ」のだと言ってました。逆説的ですが、そうした形で「自分が消えている状態」のときこそ、「自分」が最高に輝くこともあるのだと思います。  さて、短く済ませると言いつつ、長くなりました。どうも…書き始めると止まらなく…で…電波が…みんな電波が悪いんです。電波のせいなんです。うう… 注:元型というのは、個人の意識レベルでの経験によって獲得された「内容」を得て発動する、集合的無意識に刷り込まれた「器」のようなもの。「老賢人」とか「大地母神」とか「永遠の少年」とか「悪魔」とか「英雄」とか「樹」とか「太陽」とか「風」とか、もう、やんなっちゃうくらいいっぱいある。これらの「器」が経験を通じた「内容」を得て発動するというのは、例えば、「英雄」の元型を持った人がネガティブな経験を重ねると、ヒトラーみたいな人になってしまうとか、そういうこと。…なんだかなあ…。

mori0309
質問者

補足

ozapanさん、たいへん詳しい解説と持論の展開、本当にありがとうございます。 私はここ十年ほど変わり映えのしない生活をしていたので、このまま年老いていくのかと 寂しく思っておりましたが、OKWebを知ってからというもの、世界が急に広がった ようで毎日が新鮮です。ここを通じて未知の方と語り合うことは、本を読んで知識を得る のとはまったく違う新しい興奮と喜びです。(おかげで仕事に集中できませんが、、、) 素人ですので初歩的な質問や反論をお許しください。 ●> 監視の獄吏を内面化して「自分で自分を見張るようになる」ということです。これが > 主体。 ozapanさんご自身はフーコーの説を認めておられるのですか? 私は他の回答者の方の補足 にも書きましたが、そういう保身のための自己防衛意識が「真の自分」の形成基盤である はずがないという意見(直感)の持ち主です。人間って、そういう「個」としての存在じゃ なくて「情愛でつながった集合体」としての存在なのではないでしょうか。 ●> 集合的無意識?あるわけねーじゃん、んなもん。シンクロニシティ?ぐーぜんだよ > ぐーぜん 文学趣味の小生としては、この種の話の誘惑にいつも負けそうになります。でも、電磁波 だって真空中を『無媒体で』伝わりますから、人類や民族が深いところで何かを共有して いて無意識裡に連絡を取りあっているという仮説も許されるのでは? それと自分にとって は「正銘の奇跡」としか思えない偶然の一致(神の導きと警告)が今までの人生で二度あり ました。(40年以上も生きていれば、そういうこともありますよね。やっぱり安直はいけ ないですよね。自戒、、、) (この「奇跡的偶然の一致」が人間の心のなかに神を作ってしまうのでしょうか?  だとしたら、何だか虚しいです。真理はもっと深いと思うんですけどねえ、、、) ●>「真実在=高め導くもの」という捉え方で言うとユングが挙げた元型の一つ > 「自己(Selbst)」や、あるいはエリクソンの言う「自己同一性(アイデンティティ)」 > でしょうか。「生きる目的」みたいなものを提示しています。一言で言えば「自分らし > さを作っていく」みたいなことですが 「自己実現」ということですか? 私の感じでは「真の自分」を深めていくということは、 「自分らしさを作っていく」のではなくて「より普遍的な存在に近づいていく」という ふうに思えるのですが。 ●>「存在は本質に先立つのだ!自分の本質は自分で作れ!」というわけです。でもこれっ > て先に挙げた「文学的主題としての自分」と同じようなものですね。 私も自分で質問しておきながら議論の困難性を感じはじめています。結局、私の問いは文 学的な主題にしかなりえないのでしょうか? 「存在は本質に先立つのだ!自分の本質は 自分で作れ!」と言われると「ん!そうにちがいない!我々人間は自由なのだ!」と思っ てしまいます。そしてまた、個々の人間が勝手に自分の本質を創っていくのではなくて、 人類全体(さらに言えば生物全体、宇宙全体)で、本質を模索しているのだ思ってしまい ます。「宇宙史は宇宙の自己認識(自己創造)の旅なのではないか」と、ときどき思います。 それは何か数学の発展史と似ていて、そこでは発見と創造が同じ意味を持っていて、である から無秩序でアナーキーな(音楽的でない)発展は許されない。「真理」は「創造」されて いくのではあるが「発見」された時点で、それが「先験的」なものであったと知らされる。 (私の言ってることメチャクチャですね。素人はこれだから困る。そろそろ退場かなあ) でも、時間の前後(因果関係)とか空間的な内在・外在という人間の単純な二分論的認識特 性の限界を超えないと、新しい文明段階には入っていけないという気がするのですが、、、 ●>「自己 Selbst」は人格全体を組織的に統合する原理としての役割を果たすものであり、、、 > 自己は自我に対して無意識のレベルから絶えず「個性化」へ向けた働きかけを行って > いますが、自我がこれに気づかず、無視していると個性化が円滑になされない。逆に、 > 自己と自我が親和的関係を結べている場合、人格は高いレベルで完成されていくのです。 > Mori0309さんの「真の自分」イメージに近いでしょ? はい。近いような気がします。 『集合的無意識のなかの自己(Selbst)が自我に(ego)対して「個性化」を働きかける』 『「個性化」とはegoに見出されることによって自己(Selbst)が「集合」から「個別」の 状態になること』と理解してよいでしょうか? 「個性化」の意味がいまひとつ分かりま せん。ozapanさんは集合的無意識自体の存在は否定しておられるのですよね? ということは「自己 Selbst」などは無いというお考えですか? ●> 要するに、後から取ってつけた主観的評価なのではないか。後から見て「うーん、 > 立派だ」と思える要素を実体化・擬人化して「自己」と呼んでいるに過ぎないのでは > ないか。 そういうもの言いに、どうしても不毛なものを感じてしまうんです。私にとっては「真の 自分」は後からでっちあげたものではなくて、いつも、つねに存在している、何かしら 大きな存在です。 、、、でも、こういう文章を書いていると、「真の自分」は出て来ないんですよねえ。 これを書いている人は、私の「真の自分」ではないです。 ●>「本当に自分の【考え】なのか、それとも自分の中の他人が無意識的に影響している > のか」とかあんまり考えない方がいいのではないかと思います。考えるだけ無駄で > しょう。そんなこと考えるより、その【考え】を進めたり、検証したり、練り上げた > りすればいいんです。何かうまくいっているときは、むしろ、その事柄の中に「自分」 > が溶けている方が普通でしょう。逆説的ですが、そうした形で「自分が消えている状 > 態」のときこそ「自分」が最高に輝こともあるのだと思います。 「人生相談モードはゴメンだよ」ということなので、聞き流してください。 私は今の会社に入った初めから、一流のSEになろうと思って、それなりに努力もしてきた のですが、仕事が終わって外に一歩出ると、SEの仕事への興味は彼方に去ってしまって、 好きな本を読んだり、好きな音楽を聴いたり、そちらのほうに夢中になります。何事も中途 半端なままなので、いっそのことモノ書きになろうと思って、それなりに準備や勉強を始め ようとすると、決まって違う自分が現れて「それはダメだ」というのです。そして考え込ん でしまうのです。「オレはいったい何者なのだ」「オレが本当に、本当に望んでいることは いったい何なのだ」という果てしない自問自答に陥ってしまうのです。「その【考え】を進 めろ」と言われても、その打ち込むべき【考え】の対象が決まらないのです。いつも「真の 自分」に禁止されてしまうのです。(以上、独り言でした。突っ込まれても回答は不可能です) ●> 頭の中で電波が「書け、書け」と言うもので…。 その正体は何者なのですか? ユングのことを笑えませんよ。(^o^)(愚問でした) ●このQ/Aの中盤以降で話題になっている「理性(論理)と感性(感情)と自己」論、 「良心・倫理心」論についても、お考えを聞かせていただければうれしいです。 (01-12早朝に、みなさんの回答への補足をさせていただいております) ●これを書いた時点でstomachmanさんの回答はまだ読んでいませんでした。

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