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持統天皇(天の香具山)

「春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山」 この歌ですけど、私は「白妙の衣」を喪(高市皇子)と解釈しました。 つまり、高市皇子の喪で、白い衣を着ている香具山の皇子の館を見ながら、持統天皇は春(高市皇子)が過ぎ去り、夏(新しい時代)が来たと、万感の思いを込めて歌っている情景。 気になって調べて見ますと、  1.単なる初夏の風習  2.卯の花を白妙の衣と見立てた。(藤原定家)  3.冬の情景を見ながら、敢えて初夏の到来を歌った(中西進) こういった解釈もあるようです。 ただ、冬の情景を見ながらというのも不自然な気がしますけど、彼女はどういう気持ちでこの歌を歌ったのでしょうか。 里中満知子の「天上の虹」でも描かれていたようですけど、私は読んでいないので・・・。 有名な歌の割には、いろいろな解釈があると興味を持ちました。

noname#113190
noname#113190

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回答No.3

稲作にとって、田植えはもっとも重要な作業で、神聖な早乙女(五月処女)は、一定期間山に隔離して物忌の生活をして田植えに備えたといわれております。 米の豊凶は、国家にとってもっとも重要な事項であることから、祭の儀式として神々に対しての呪術的な歌ではないかと思います。 そのため、天の香具山に早乙女たちの干すコウゾの祭用の斎衣の白い布が見える、今年も神々よ、夏になりましたので、豊作をお願いします。 という意味であろうと思います。 又この歌は万葉集第一巻にあり、挽歌は第二巻にまとめてあるので、挽歌とは考えにくいかと思っております。

noname#113190
質問者

お礼

>挽歌は第二巻にまとめてあるので 言われてみればその通りで、天皇として豊作を祈る気持ちを力強く歌い上げたと言う見方が自然そうですね。

その他の回答 (2)

  • toko0503
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回答No.2

一般には、夏のならわし、と言われていて 私もそのように習いました。 「春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山」 これを直訳しますと 「春が過ぎ行き、夏が来たらしい。天の香具山には (夏のならわしの)真っ白な衣が干されているという」 ということで、「来にけらし」とか「干すてふ」は 「~らしい」とか「~とかいう」のような伝聞の 表現ですよね。 ただ、何かで香具山には水にまつわる伝承があると 読んだことがあります。 香具山で禊ぎ(みそぎ)をする乙女達が衣を木に掛けて干したのだそうです。 干したってことは、衣は濡れているわけですよね。 香具山にいた明神さまは、衣を濡らして 人の言葉のうそかまことかを糾したとも言われているというのです。 王朝の人もそういう伝承を踏まえて 「衣ほすてふ」としたのかもしれないな、と 思ったりしています。 私見ですが、参考までに書いてみました。

noname#113190
質問者

お礼

>禊ぎ(みそぎ)をする乙女達が衣を木に掛けて干したのだそうです これはどこかで読んだ気もします。 持統天皇、皇子たち、藤原氏、何かおどろおどろしい闘争もあるようで、私の深読みのし過ぎかも知れませんね。

  • yuyuyunn
  • ベストアンサー率41% (20359/48651)
回答No.1

こんにちは 里中先生は1で白い布を干す画が描かれていたと思います たしか季語でもあった気がします

noname#113190
質問者

お礼

漫画喫茶で確認してみますね。 「天上の虹」では、持統天皇と高市皇子が信頼関係があるように書かれているようですけど、どうも権力闘争もあったようで・・。

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