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エホバの証人という宗教について、その2

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お礼率 88% (46/52)

ここで、彼がどのくらいエホバというものに接しているかというと。「聖書を勉強する」という程度です。よく表に出ている情報のように、個別に各家庭に訪問したりといったことはしてません。 長老という(神父のような存在ですが)その集会でいう一番上に人のところに週1で聖書を勉強しにいっています。(聖書はもちろんエホバの使っている聖書です)

あまりにも、悩みが漠然としていますので、まとめに。
・私自身、また両親とも彼の事はとてもいい人だとは認めているのですが、宗教に関してはあまり肯定的ではない。
・自分の考えているキリストの教えというものと彼らが考えているものとが違うのにとまどっている
・出来ることなら、エホバの証人というものから、脱会して欲しい(あくまで自分の感情です)
・明確なアドバイスでなくてもいいので、似たような心境、または、自分はエホバであった人の意見を聞きたい
カトリックの方からも意見を聞きたいのです。

本当に漠然としすぎていて申し訳ないのですが、みなさんがお持ちのエホバの証人に対する意見を聞かせてください。

*お互いの意見などで相手を傷つけるのが目的ではないので、感情穏やかに回答くださる方をお待ちしています。

最後に、今の自分としては、この彼との宗教の違いについて理解してあげられたらしたいし、この問題を解決して、しこりの残らないようなつきあいをしたいと思っているだけです。
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回答 (全16件)

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レベル9

ベストアンサー率 45% (38/83)

 私は日蓮系の某宗派の僧侶ですが、妻は浄土真宗の寺の娘です。宗教的には水と油ですね。でも、大学で出会い付き合いだした二人の実家がたまたま異なる宗派の寺であったというだけの事で、私たちは互いに拘りなく相手の宗教を認めています。もちろん、自分の信仰を相手に強要しようなんて気は昔も今もさらさらありません。  こういう関係が可能なのは、おそらく、イデオロギー信奉とはまったく異なるものとして私たちが信仰を捉えてい ...続きを読む
 私は日蓮系の某宗派の僧侶ですが、妻は浄土真宗の寺の娘です。宗教的には水と油ですね。でも、大学で出会い付き合いだした二人の実家がたまたま異なる宗派の寺であったというだけの事で、私たちは互いに拘りなく相手の宗教を認めています。もちろん、自分の信仰を相手に強要しようなんて気は昔も今もさらさらありません。
 こういう関係が可能なのは、おそらく、イデオロギー信奉とはまったく異なるものとして私たちが信仰を捉えているからなのでしょう。私たちにとって、それぞれの宗教は幼い頃から親しんできた空気のように自然な感覚であって、決してまなじりをつり上げて「これが真理だ、あれは虚偽だ!」と声高に叫ぶべきものではありません。
 人の数だけ違う顔があり、違う文化があり、違う宗教がある。その事を認めることができるかどうかは、互いに相手の人格を認めることができるかどうかとイコールなのだと思います。
お礼コメント
pobbit

お礼率 88% (46/52)

貴重なご意見ありがとうございます。

人の数だけ違う顔があり、また宗教もしかり。
という考え、私もあります。それは今もあるのですが、以前別の方が、やはりエホバに関して質問された際、輸血問題でもあるように、「子供の命や愛すべき人の命を、助けられるかもしれないのに、拒否するような宗教、認められますか?それでも尊重するんですか?」という厳しい意見がありました。 
1人1人の考えを尊重することは大変重要なことではありますが、必ずしも全てを認められるかどうか、やはり認められないような宗教は世の中に存在するということ。認めることができない人もたくさんいるんだということを知りました。

全くその意見は正しく、そうあるべきなのですが、現実はかなり厳しいようです。

fukuyoriさんのように認めあえる関係は、おなじ立場の人たちの理想でもあると思います。奥さんをこれからも、大切にしてくださいね(^^)
投稿日時 - 2002-03-27 00:42:58
  • 回答No.6

「エホバの証人」とは直接関係が無いことなのですが、私の経験をお話します。 私は小さいころから、プロテスタントの教会に通っていました。(洗礼も受けました)後、今の主人と知り合いましたが、主人は日蓮系の信者で、結婚の時には入信をするようにと主人からも、主人の実家からも強く希望されました。 私は、今までの自分の人生において自分の信じる神にどれだけ救われたか、また自分と言う人格は宗教なしには成り立たないの ...続きを読む
「エホバの証人」とは直接関係が無いことなのですが、私の経験をお話します。
私は小さいころから、プロテスタントの教会に通っていました。(洗礼も受けました)後、今の主人と知り合いましたが、主人は日蓮系の信者で、結婚の時には入信をするようにと主人からも、主人の実家からも強く希望されました。

私は、今までの自分の人生において自分の信じる神にどれだけ救われたか、また自分と言う人格は宗教なしには成り立たないのだと言うことを、主人と幾日も話し合いました。

現在、結婚十五年目になります。
家には仏壇があり、私は掃除をしお供え物も欠かしません。
また、私が日曜ごとに礼拝に出席することを主人は認めてくれています。
宗教とは押し付けるものでも、否定しあうものでもないと思います。

お互いの人格を認めあうなら、その人格を形成している(おそらく基盤になっている)宗教も認め合えないでしょうか。

私たち夫婦があまりに宗教に関して、寛容(アバウト?)過ぎて参考にならないかもしれませんが。

どうぞお二人が、愛情と信頼によってお幸せになられますように。
お礼コメント
pobbit

お礼率 88% (46/52)

ご意見ありがとうございます。

世の中には違う宗教であっても結婚される方がほんとうにたくさんいると思います。
私の家庭もそうですから(笑)父は仏教(よくわかりませんが、宗派は)、母はカトリックです。二人を見ているととても幸せそうです。
宗教がどうのこうのなんて、みじんも感じません。母はあまり熱心な信者とは言えませんが、心から大切に思っているようです、自分の宗教を。
そこにやはり父の理解があったというのはわかりますね。(というより、父は自分がどの宗派であるかも知らないというかんじなので)

難しいものですね、本当に。
彼の人格を形成している宗教、認めあえたらいいのでしょうけど、私にはやはり受け入れはできません。

彼の事は、認めます。でも、宗教には理解できない部分があります。
この複雑さ、もどかしさ、辛さ、わかりますか?

ありがとうございました。
投稿日時 - 2002-03-27 01:47:59
  • 回答No.7
レベル11

ベストアンサー率 20% (61/291)

firevalkyriesです。丁寧な返答を頂きましたので再投稿させて頂きます。 私は娘2人の父親で、どっちかというと「落第パパ」ではないかと自分で一人悩む「ふつうのおじさん」ですが、もし自分の娘が交通事故などに遭った時に妻が輸血を拒否したら、私なら妻を殺してでも娘の命を守ります。親にとって子供というのはそれくらいかけがえのないものです。 多分pobbitさんは親になったことがないでしょうから、どうか ...続きを読む
firevalkyriesです。丁寧な返答を頂きましたので再投稿させて頂きます。
私は娘2人の父親で、どっちかというと「落第パパ」ではないかと自分で一人悩む「ふつうのおじさん」ですが、もし自分の娘が交通事故などに遭った時に妻が輸血を拒否したら、私なら妻を殺してでも娘の命を守ります。親にとって子供というのはそれくらいかけがえのないものです。
多分pobbitさんは親になったことがないでしょうから、どうか自分の親に「こういう投稿があった」と質問してみてください。私が気楽に「殺す」などという言葉を使っていないことが理解できるかと思います。

pobbitさんが、その彼と一緒になって親になったとき、もし万が一子供がそのような事態になったら、その彼とそれからも一緒にやっていく自信はありますか?

私が言いたかったのは「人間というものをどうとらえるか」について残念ながら「エホバの証人」という宗教を信用できない。どんなにすばらしいものであったとしても一人の落第パパとしての自分と「エホバの証人」は、私の中では両立しない ということです。

一度この問題で彼と大激論してみても意外と楽しいかもしれませんよ。
お礼コメント
pobbit

お礼率 88% (46/52)

再投稿ありがとうございます。m(_ _)m

まだまだ社会に出たこともなく、世間の荒波なんて感じもしない、あまあまな大学生活を送っている、私です(笑)
自分が親の立場にたったとき、まったくの未知の世界で、なんと答えていいのか・・・。

きっぱりと彼とやっていける自信があるかどうかといわれれば、
無いでしょう。率直に言えば、「無い」です。
とても、悪い例えになってしまいますが、自分の夫、妻は、なんらかの事情で変わる事はあります、でも自分の子供、私の場合ならおなかを痛めた子供(ということになります)は、どんな事情があろうとも、私の子供には変わらないんです。「元子供」なんていう事は絶対あり得ないし。
そう思うと、無いですねぇ(汗)
しかし、そこで彼をそのままにしておくことも、出来ないと思います。

firevalkyriesさんの仕事柄、「エホバの証人」と接する機会があり、どんな思いをお持ちなのか、私なんかにはとても想像できるものではないと思っています。
大切な意見として、生かしていきたいと思います。

いつか、近いうちに大激論する日が来ると思います(^^;)えぇ、必ず。
投稿日時 - 2002-03-27 02:06:19
  • 回答No.4
レベル11

ベストアンサー率 9% (31/325)

 教義として、既存のキリスト教と異なる点について、いくつか挙げてみる。  まず、第一には既存のキリスト教は堕落している、本当の神の教えに従っていないとして原始キリスト教への回帰を強調している点にある。それ故、聖書に書かれている戒律を異常なまでに遵守(じゅんしゅ)しようとするのである。  また、第二には、旧約・新約のどちらの聖書も依りどころとしている点である。一般的には、旧約聖書を重んずるのはユダヤ教で ...続きを読む
 教義として、既存のキリスト教と異なる点について、いくつか挙げてみる。
 まず、第一には既存のキリスト教は堕落している、本当の神の教えに従っていないとして原始キリスト教への回帰を強調している点にある。それ故、聖書に書かれている戒律を異常なまでに遵守(じゅんしゅ)しようとするのである。
 また、第二には、旧約・新約のどちらの聖書も依りどころとしている点である。一般的には、旧約聖書を重んずるのはユダヤ教であり、新約聖書を重んずるなはキリスト教である。この両者は互いに相違なる教義を立てているが、それはそれぞれの聖書の違いによるのである。ところが、エホバの証人と称する彼等は両方の聖書を用いている。それ故、通常では矛盾が生じてくる、が彼等は、巷に溢れている聖書は正しく翻訳されておらず、正しい神の教えを伝えていないとして、独自に、聖書を翻訳、発行しているのである。
 第三として、本尊がない点である。本尊といっても、仏教でいうところの本尊ということではなくして信仰の対象、すなわち既存のキリスト教にあるような十字架上のキリストや、マリア像などを拝んだりすることも、偶像崇拝であるとして堅く禁じている。
 一方、他の外道と共通した点について挙げてみると、神を信ずる故に、根本の因果が説かれていない。すべて、神の手による創造物であると説くのである。ここにおいて、彼等は世間の学者の説を切り文し都合の良い所だけ自説に組み込み、彼等の機関紙「ものみの塔」を通じて、さも彼等の説が正しいように訴えるという、無節操きわまりないことを平然とやってのけているのである。
 また、彼等は、聖書の中に歴史的事実が記述されていることをもって、聖書が正しい証拠であると決めつけ、その上で、キリストが数々の奇跡を起こしたとの記述等を挙げ、それらも全て真実の出来事であるかのように主張する。しかし、これでは、新聞のニュース面に実際の出来事が報道されていたからといって、同時に掲載されている四コマ漫画や小説の世界をも事実と思い込むのとそう大差はない。それ自体に、道理も根拠もない奇跡なるおとぎ話をさして、
「これは、凄い!神でなければこんな事はできるわけがない」
といって、本気で崇めているのだから何をかいわんやである。
 宗教における正邪の基準として三証(文証・理証・現証)があるが、「ものみの塔」に挙げる学説の内容は聖書のどこにも説かれておらず、彼等が拡大解釈をしているだけで、文証にもなっていない。しかも、人道的に外れる行い(輸血拒否等)を平然とやり、また、そもそも筋道・根拠の立たないことを奇跡と称するのであるから、理証も現証もない。こうした教えを、まともに信じられるという人は、もはや、気が狂っているといわれても仕方のないことであろう。
お礼コメント
pobbit

お礼率 88% (46/52)

なかなかきっぱりとご意見くださいまして、ありがとうございます。
宗教というのはなかなか難しい問題ですね。

こうした教えを、まともに信じられるという人は、もはや、気が狂っていると言われても仕方のないこと。
といいますが、そう一概に言えるような気はしませんね。

確かに世界中にはたくさんのいろんな宗教があり、間違っていること、正しいこと
はっきりわかるものと、なかなか判断できないもの、たくさんあると思います。
その宗教の外から考えてみないと、本当の姿って見えないと思います。
彼らだって、なんかのきっかけで、その姿を見いだせるかも知れないんですよ。
はじめから否定してしまっては、なにも解決にはならないと思います。
確かに宗教における基準はわかりますが、彼らにただ、「間違っている」という意見だけを述べても仕方ないんです。
彼らもまた、自分と同じ、弱さを持った人間であること、忘れて欲しくはないです。
正しい生き方をしているなんて、どれくらいの人間が確信できるんですか?
投稿日時 - 2002-03-27 00:15:57
  • 回答No.3
レベル11

ベストアンサー率 20% (61/291)

もしpobbitさんや彼氏を結果的に傷つける発言がありましたら申し訳ありません ということから始めたいと思います。 私は職業柄「エホバの証人」の信者さんへの対応に苦慮することがあります(輸血拒否の問題です) これまでに私自身が出会った信者さんは「自分で判断できる」大人の方であったので、インフォームドコンセントの段階で緊急の輸血は承認される方もいましたし、「どんな場合でも輸血を拒否する」方もおられま ...続きを読む
もしpobbitさんや彼氏を結果的に傷つける発言がありましたら申し訳ありません ということから始めたいと思います。

私は職業柄「エホバの証人」の信者さんへの対応に苦慮することがあります(輸血拒否の問題です)
これまでに私自身が出会った信者さんは「自分で判断できる」大人の方であったので、インフォームドコンセントの段階で緊急の輸血は承認される方もいましたし、「どんな場合でも輸血を拒否する」方もおられました。幸い私自身はこの問題で致命的な事態に陥ったことはありません。
私が学生時代に「エホバの証人」の信者さんの家に家庭教師に行っていたとき、教え子(中学3年)に輸血の問題を尋ねてみたところ、現世よりも来世で神の前に出たときに問題があることのほうが問題である、というような回答をもらいまして、「なるほど」と思った記憶があります。

私が問題にしたいのは数年前に名古屋(だったと記憶しています)で起こった「子供への輸血拒否」と「その後の対応」です。
あくまで私は「エホバの証人」の信者ではないので、マスコミや医療現場での人づての情報しかもっていません。ですからもしかしたら私の記憶のほうが間違っている危険はありますのでその点はどうかご指摘ください。
あの事件のとき、子供自身は「もう一回お父さんやお母さんに合いたいからがんばる」と言っていた と医療関係者は主張しています。
また、子供の死亡後、「エホバの証人」の信者さん達の会見では「子供は手術が成功しても手足の切断は避けられなかった」ということを主張したと言われています。
私が「エホバの証人」だけでなく全ての宗教に問いかけたいのは、
1:「もう一回お父さんやお母さんに合いたいからがんばる」と言った子供の生存権を、親の宗教で奪っていいのかということです
本来
「もう一回お父さんやお母さんに合いたいからがんばる」
この言葉が最も重い言葉であるべきではないのでしょうか?

2:「子供は手術が成功しても手足の切断は避けられなかった」ことが何のエクスキュースになるのか?
ということです。
実際にはこの子供のご両親にどれだけの葛藤があったかと思うと、この言葉はその全ての苦悩を汚す許せない言葉ではないでしょうか?

あくまで私個人の意見でしかありませんが、親が
「どんな姿であっても子供は生きて欲しい」
と願うのは当然であると私は思っています。
医療関係者(特に小児外科医、小児救急医)は、もし「エホバの証人」の信者さんの子供に緊急輸血をおこなって、その結果が育児拒否であったり子供の虐待であったりすることに心の底から恐れています。

あくまで私個人の意見ですが、宗教は人間に対してその時代に合致した寛容さを持っていなければいけないのではないでしょうか?

魯迅(だったと思う)の言葉に「宗教は阿片である」というのがあります。

私は、「エホバの証人」だけでなく全ての宗教に時代に合致した寛容さを求めますし、それを見失った宗教は「宗教は阿片である」という言葉と向かい合う義務があると思います。
また、時代に合致した寛容さと「救い 理念」を両立できない宗教に対しては「なぜ寛容になれないのか?なぜあなたの神は人間の弱さを否定するのか?」と聞いてみたいと思っています。
お礼コメント
pobbit

お礼率 88% (46/52)

ご意見ありがとうございます。

全くその意見に同意します。
よく、エホバと言えば輸血の問題というあまりにも知りすぎているところがありますね。私の母も医療関係の仕事なので、彼らのいう教えが理解できないと言います。

輸血を拒否すること血に関しては敏感のようですが、たとえ子供であろうとも、1人の人間にはかわりありません。それが、大人であるならば、もっとわかるはずですよね。 聖書に他の血を体の中に入れることを禁じているという彼らの教義。それによって、もし命が奪われるのであれば、その聖書の解釈は間違っていると思いますね。 それによって、救われないんでしょうか? 規則を破ったことになるんでしょうか? むしろ反対だと思います。 生きることより死を選択してしまうような宗教、おかしいです。 そんなことを教えるために聖書はあるのではないと思いますね・・・。 生きて、人の為に自分の為に、感謝を込めて生きていくべきだと思います。「輸血問題に関しては」
投稿日時 - 2002-03-26 23:55:09
  • 回答No.1
レベル11

ベストアンサー率 38% (114/297)

こんにちは。 子供の頃に母がエホバの証人になり、自分の意志とは関係なしに連れて行かれたものです。 私には兄が2人いますが、兄も否応なしに連れて行かれていました。 うち1人はエホバの証人になりました。 お話から推測するに、彼はまだエホバの証人の中で「エホバの証人」と呼ばれる立場ではないと思います。 勉強し始めの「研究生」と呼ばれる立場なのではないでしょうか。 私が彼らの中での勉強会「 ...続きを読む
こんにちは。

子供の頃に母がエホバの証人になり、自分の意志とは関係なしに連れて行かれたものです。
私には兄が2人いますが、兄も否応なしに連れて行かれていました。
うち1人はエホバの証人になりました。

お話から推測するに、彼はまだエホバの証人の中で「エホバの証人」と呼ばれる立場ではないと思います。
勉強し始めの「研究生」と呼ばれる立場なのではないでしょうか。

私が彼らの中での勉強会「集会」に行かなくなったのは、もう15年は昔の話ですので、教義等については少々違ったところがあると思います。
ですが、集会に行っていて漠然と感じたことは、彼らは偽善者である要素が非常に多い、ということです。
教義がころころ変わりますし、教義を自分の都合のいいようにすり替えます。
そもそも教義が矛盾だらけなのですが、教義の変わった理由すら「教義の研究の結果。間違いがあったら間違いと認められる進んだ宗教」などと言うくらいです。
また、エホバの証人内で「特権」と呼ばれる様々な地位があり、その争いは一般社会同様醜いです。
ごますり・えこひいきも日常茶飯事であり、どこが宗教なものか、と思うくらいです。
「信心深い人たち」は思い込みが激しく、少しの違いも受け入れようとしません。
意見と言いながら陰口悪口激しいです。
そのような人ばかりではありませんが、かなり問題のある宗教だと思っています。
訴訟問題等もたびたび起きています。

冷たいことを言うようですが、宗教の違いを理解して、お互いの宗教を信じながら付き合っていけるとは思えません。
なぜならエホバの証人の中では、結婚後に入信した場合、未信者の配偶者がいることは責められませんが、その配偶者も入信させようという強引な活動がありますし、いつまでも配偶者が入信しなかった場合、その信者の努力が足りないと誹られます。
また、未婚で未信者と付き合うことは許されないことであり、内部では淫行と呼ばれて排斥されてしまうのです。
また、フルタイムで会社に所属されるのも非難されます。
生活最低限の仕事をしながら、伝道活動に出来るだけの時間を割くよう求められますが、判断基準が時間数でしかありませんので、時間が少ないと長老に呼ばれて説教されたりします。
結婚まで考えて付き合うことは難しいのではないのでしょうか?
実際、若い頃から「世の終わり」(ハルマゲドンってヤツですね)を信じてパートしながら活動されていた人で現在中老年くらいの方は、かなり生活に困っている方も多く、「いつまでたっても終わりは来ない」と離教される方がたくさんいます。

かなりに独断と偏見入ってますので、「エホバの証人」で検索されると、配偶者が入信した方や現信者のホームページがありますので、ご覧になってみてください。
お礼コメント
pobbit

お礼率 88% (46/52)

早くもご意見ありがとうございます。

後半の「結婚後に入信した場合、~」以降に関しては知っています。
彼の母親がプロテスタントから、教会に疑問を抱き、エホバに入ったそうです。
彼も幼い頃は訪問をしていたそうですが、中学とかになると、反抗してやらなくなったそうです。
しかし、私と付き合うようになり、もう一度自分の宗教について勉強してみようと思ったようで、それがいまとなっています。

彼を見ていると、排斥という思いはないようです。現実、そのような信者さんは多い?のかな。しかし、彼の友達のお兄さんは「たばこを吸っていた」というのをある信者に見られ、排斥させられたという話です。

私も理解は難しいように思います、いくらそうでありたくても現実は厳しいような。だから、まだ、研究生と呼べるようなうちに、せめてエホバに対して疑問を持って欲しいと思っているのです。
ありがとうございました。
投稿日時 - 2002-03-26 23:26:06
  • 回答No.2
レベル14

ベストアンサー率 25% (624/2491)

彼という存在を与えてくれた神に感謝すべきですね。 貴方は今、試されているのです。 すべてを受け入れ、判断は神にゆだねましょう。 ...続きを読む
彼という存在を与えてくれた神に感謝すべきですね。
貴方は今、試されているのです。
すべてを受け入れ、判断は神にゆだねましょう。
お礼コメント
pobbit

お礼率 88% (46/52)

ありがとうございます。(笑)
そう思っていますよ、自分も。

中学・高校とあまり教会には行かず、大学生となったいま、もう一度
自分の宗教(カトリック)に関して勉強し直そうと考えています。
一応、学校では日々聖書に触れてはいました。
ただ、きちんと勉強していなかったことが後悔してます。

彼を大事に思うが故に、失いたくないんです。
彼にはある意味感謝していますよ^^
投稿日時 - 2002-03-26 23:31:10
  • 回答No.8
レベル14

ベストアンサー率 30% (2593/8599)

身近にいくつか事例を見てきましたが、現代文明をかなり否定しているようです。 (1)せっかくの休日に勧誘にこられますが、断ると「なんとかわいそうな人」という扱いのようですね。 (2)輸血禁止問題。 (3)スポーツとしての格闘技は認めない。 (4)正業につく事も好ましくない。 (5)その他 義妹、甥,姪が信者ですが、仏教とことごとく相入れません。 実の親の葬式でも、出席はするのですが、焼 ...続きを読む
身近にいくつか事例を見てきましたが、現代文明をかなり否定しているようです。
(1)せっかくの休日に勧誘にこられますが、断ると「なんとかわいそうな人」という扱いのようですね。
(2)輸血禁止問題。
(3)スポーツとしての格闘技は認めない。
(4)正業につく事も好ましくない。
(5)その他

義妹、甥,姪が信者ですが、仏教とことごとく相入れません。

実の親の葬式でも、出席はするのですが、焼香はもちろん、祭壇に手を合わせる事もしないのです。

その上、絶対に自分の論理が正しいと回りにおしつけてきます。自信満々ですね。
話し合いをしようという気が全く感じられません。
お礼コメント
pobbit

お礼率 88% (46/52)

なるほど。
ご意見ありがとうございます。

私の周りには、彼とその母親しかいません。
その他の信者と接するということはありません。
彼は、日曜の集会?には参加しておらず、週1の勉強です。(それでも、私はあまり快くは思ってはいませんが)

たぶん、義妹、甥,姪さんは熱心な信者さんなのでしょうか?
私はカトリックですが、焼香も手を合わせることもします。(他の宗教を崇拝することになるとはとても思えません。)その人の事を考えれば、そのスタイルを望んでいればします。気持ちが重要であって、形式では無いんですから。

細かいことになりますが、彼らは年賀状という事に関しても否定的だそうです。
なぜなんでしょう?他の宗教を拝むことになるからですか??
年賀状って、「これから始まる新しい年を、みな幸せに過ごして欲しい」という気持ちなんじゃないですか?挨拶というか。

なんというか、あれも駄目、これも駄目。という考え方はよく新興宗教にありがちな傾向だと思います。それも、行き過ぎた考え方の。
彼らのいう聖書の言葉を研究している姿には驚かされるばかりですが、
やはり、解釈を曲げすぎだと思いますね。

彼らの言い分も聞いてみたいです・・・。
投稿日時 - 2002-03-27 03:32:19
  • 回答No.9
レベル13

ベストアンサー率 61% (647/1050)

    参考URLに、「エホバの証人」について、少しまとまったことを記しています。彼らが、自分たちに都合のよいように、「聖書原文」を改竄している事実なども書いています。また、参考URLのわたしの回答文書は、彼らに対し、かなり「好意的な」表現になっています。この理由は、多くのエホバの証人は、(と言って、そんなに大勢知りませんが。せいぜい数人です)、「良心的な人」で、「真面目」で、そして困ったことに「視野が ...続きを読む
 
  参考URLに、「エホバの証人」について、少しまとまったことを記しています。彼らが、自分たちに都合のよいように、「聖書原文」を改竄している事実なども書いています。また、参考URLのわたしの回答文書は、彼らに対し、かなり「好意的な」表現になっています。この理由は、多くのエホバの証人は、(と言って、そんなに大勢知りませんが。せいぜい数人です)、「良心的な人」で、「真面目」で、そして困ったことに「視野が狭く」、「性格が硬直ぎみ」かつ「潔癖性」であるので、一旦信仰に入ると、それを撤回するのをよしとしないと言う頑迷な性格を持つことです。
 
  「潔癖性」であるので、矛盾した教義であっても、一旦信徒になると、教義が矛盾しているのではなく、「矛盾を感じる自分が未熟なのだ」と考えます。自分自身で疑問を持っても、自分の未熟さや信仰の足りなさで答えにするのですから、一旦、信徒になると、他人の批判など、何とも思いません。というより、批判され、否定されると、逆に、本当に「憐れみの心」で「神に救い」を祈ったりしています。つまり、正しい信仰が分からないで、エホバの証人を否定している人たちが、救われないことは、悲しいことなのです。
 
  「潔癖性」と「自分自身への正直さ」や「視野の狭さ」「人間的な正直さ」が輻輳すると、横から見ると、「欺瞞・虚飾・支離滅裂・利己主義・ご都合主義」としか、見えないことが、少しもおかしいことに見えなく、思えなくなって来ます。エホバの証人の人たちは、非常に哀れな人たちだとも云えます。貴重な人生を、「妄想」で無駄にしていると極論しても差し支えありません。しかし、彼らがそれで納得しているなら問題はないのですが、参考URLのなかて記したのですが、近所迷惑なのは、まだ大人として色々な人がいるのですから、それはましとして、子どもとか、判断能力がない状態の人について、その人の個人の尊厳を蹂躙する行動があるということです。
 
  こういうことは、実は、他の宗教でもあるのです。例えば、カトリック信者の人は、普通、自分の子どもを「幼児洗礼」させますが、「洗礼」というのは、わたしにしてみれば、もの凄く重要な意味を持ちます。本来、子どもが受けるものではないのです。判断力ができて、自分で信仰を選べる時になって、初めて、この信仰を受け入れるかどうか、決定し、そして「洗礼」とするべきなのですが、慣習的に、幼児洗礼が行われています(キリスト教国では一般にそうです)。
 
  しかし、カトリックは、「信仰の自己による選択」ということを、確認するため、相応の年齢になると、「堅信」を行います。幼児洗礼の場合、プロテスタントも同様です。
 
  エホバの証人の場合、子どもに対する「洗脳」は普通の宗教の比でないので、大体、エホバの証人になりますが、しかし、やはり大勢、おかしいと思う子どもがいて、離教するようです。だから、問題は、まだ、信仰を自己判断し、自己決定で選んでいない未成年について、親が生殺与奪件など持ってはならないということです。幼児洗礼によって、子どもは別に死ぬことはありませんし、死亡の危険性もありません。
 
  「エホバの証人の宗教」は、端的に言って「カルト」に当たります。彼ら個人個人は、上に言ったような、善良な視野の狭い、潔癖性の極端に強い人たちなのですが、それ故、一度、妄信・狂信に陥ると、カルトからの脱洗脳の困難さという問題になります。
 
  質問されている「彼」については、現在の段階は、「学習中」ということで、信徒でも何でもありません。また、学習期間が終わっても、彼の考え方や性格によりますが、カルト宗教の典型である、強引な勧誘や入信の極度に大げさな称賛などの誘惑状態を乗り越えて、入信しない場合は、別に問題はありません。
 
  闘う相手は、彼が学んでいるエホバの証人と、その背後の王国会館の人々です。エホバの証人の集会というのは、信徒にとっては、非常に快いものになっています。そして、人間は、そう極端におかしいことを信じ、それに従って生活していて、矛盾が出てこない訳はありませんから、それを乗り越えている信徒たちは、みな、或る意味で、矛盾した、ご都合主義の塊のような人たちなのですが、彼らの教えの世界のヴィジョンのなかでは、非常に善良な人で、実際に、上でも述べたように、善良な人が、エホバの証人になってしまうのです。本当に狡猾で、ご都合主義な人は、エホバの証人などにはならないのです。全然、得なところがない宗教ではないかと、大抵の世間的に狡猾な人は感じてしまうのです。
 
  彼が、証人になるとすると、彼が潔癖性でナイーヴで、性格が硬直して、正義や真実や美を、文字通り信じようとし、信じたいと切実に願っているからです。こういう場合、信徒になるのを引き留めるのは、もの凄く難しいです。また、エホバの証人と結婚して、エホバの証人に自分もならない場合、破綻します。あまりにおかしいので、破綻せざるを得なくなります。(例えば、5歳ぐらいの子どもが、王国会館に通っているうちに、信徒でない親に向かい、「貴方は間違っている」などと説教します)。
 
  もし、そういう性格や人格でない場合は、信徒になるかどうか、迷います。多くの人は、信徒になりません。子どもでない場合、世間を少しでも知っていると、エホバの証人のシステムは、正気と思えなくなります。中世のカトリック教会は、信徒が信仰のあまり、極端なことをし、庶民生活、家庭生活をないがしろにしないように教えました。聖フランシスコは、世俗信徒が、信仰熱心のあまり、日常生活が破綻しないよう考慮して、「第三会」を承認し設立しました。第三会員となり、修道士に準じて戒律を受け、その戒律には、日常生活をおろそかにしないと言う規定が入っていたはずです。
 
  エホバの証人は、世俗信徒でありながら、日常生活を破綻させるようなことを勧め、そういう信徒を称賛しています。
 
  彼らにとっては、新しい信徒を目覚めさせることが、地上の王国での榮光に繋がるので、極端に熱心に伝道し、現在の「彼」のような人は、容易に、信徒からこぼれないよう、入信させるため、色々なことを行うはずです。
 
  だから、いま勉強中なら、貴方のカトリック信徒としての考えを大いに述べ、「視野」を広くするよう説得し、「完全は神にはあるが」、「人間には完全はない」ことを、大いに訴えねばならないでしょう。カトリックの教皇でさえ、おそらく信仰を疑う時があり、その試練を受けて、あらためて、考え直し、自分は人間であって、真理を知ってなどいないという「限界性」を痛感するはずです。
 
  教皇ヨハネスXXIII世は、そのような寛容な広い心を持っていたからこそ、第二ヴァティカン公会議を開くことができたのでしょうし、カトリック教会は、二十世紀を乗り越え、二十一世紀へと、進んで来たのでしょう。
 
  信仰とは、疑いがあり、試練があり、反省があり、学習があっての信仰だと思います。エホバの証人の場合、一旦、信徒になると、協会の発行物しか読まなくなり、それが純粋な信仰だということになります。しかし、外部の違った意見や、違った知識を知り、その上で、自己の信仰を問いかけて、信徒であることを続けるというのが、現代では、健全な宗教のありようです。
 
  地上の楽園があるとか、最終解脱があるとか、誰がそんなことを知っているのでしょうか。ダンテの『神曲』のなかでは、当時有名であって、逝去した教皇の霊が、煉獄にあって苦しんでいるという描写があったはずです。
 
  エホバの証人というか、ものみの塔協会は、それに向いた性格の人を信者にして取り込み、その人の人生を台無しにしてしまうカルト宗教だというのが、その姿でしょう。簡単に信徒をやめるような人は、元々信徒にならないとも云えます。また、信徒を続けて、疲労困憊して離教した頃には、被った被害があまりに大きく、何と時間や色々なものを無駄にしてしまったのかという後悔しか残らないでしょう。カトリックを離教しても、信徒であった期間は、それなりに有意義なときであったと評価できますし、信者であることをやめても、中世ではなく現在は、信者に留まっている人と交際しても別に問題はありませんし、教会も、離教した人が、礼拝に来ても、これをとがめることはしないはずです。しかし、エホバの証人は違うところがあります。
 
  「人間には、究極的な真理を知ることはできないのだ」という、常識で説得して、駄目なら、或る程度、同じ説得を行ってもよいでしょうが、信徒になってしまって、やめることがないのでしたら、もう人間の力では、難しいということになると思います。
  
  >No.154249 質問:エホバの証人について-白内障手術ー
  >http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=154249
  
お礼コメント
pobbit

お礼率 88% (46/52)

お返事送れまして、すみません。

一度、参考URLは覗かせていただきました。
そこまで、深く読んではいなかったのですが、思うことありまして
ちゃんとした時間がとれれば、またお礼をしたいと思います。

まずはご意見ありがとうございました。
投稿日時 - 2002-03-29 19:53:24
  • 回答No.14
レベル11

ベストアンサー率 17% (31/182)

イエスは俺の中にいる。どの様に言われたかよりも、何が言われたか、が大事。俺はあなたを心配してゆってる。だから、あなたは、あなたの心配をすればよい。 「子どもや娼婦が、真っ先に天の国に入る」 何故か? もう一度、子どもの「純粋な心」を取り戻して、イエスの言葉を聞きなさい。俺の言葉の一部はイエスの言葉だから、俺の言うことを聞くこともいいことです。 「隣人を愛する」「神を愛する」この二つ、解釈は必要ない ...続きを読む
イエスは俺の中にいる。どの様に言われたかよりも、何が言われたか、が大事。俺はあなたを心配してゆってる。だから、あなたは、あなたの心配をすればよい。
「子どもや娼婦が、真っ先に天の国に入る」
何故か?
もう一度、子どもの「純粋な心」を取り戻して、イエスの言葉を聞きなさい。俺の言葉の一部はイエスの言葉だから、俺の言うことを聞くこともいいことです。
「隣人を愛する」「神を愛する」この二つ、解釈は必要ないだろ?
 
 ちいさいころは 神様がいて 
 毎日愛を 届けてくれた
 心の奥に しまい忘れた大切な箱
 開ける時は今
 カーテンを開いて 静かな微笑を
 やさしさに 包まれたなら
 きっと
 目にうつる すべてのことは
 メッセージ
 
うろ覚えのユーミンの唄です。
純粋さを取り戻す方法。一つは苦しむこと。一つは子供心を取り戻す事。
 
:俺の言葉づかいは気にすんな。
信仰の薄い聖職者は、科学と衝突する。信仰の薄い聖職者は妥協を好む。
信仰あるものの障害は、障害にならん。
そのエホ証のおばさんは、信仰が薄い。蛇を嫌がったりするんだろう?
地動説にやられた当時の教会信奉者のようだ。
あと、解釈を議論する愚かな聖職者達は、当時の忌まわしいパリサイ人、律法学者のようだ。
子供心を取り戻してよ、。
祈ろう
メッセージがあなたの目に うつるよう
子どもの心 取り戻されよう 
お礼コメント
pobbit

お礼率 88% (46/52)

3度もご意見を頂いてありがとうございます。

あなたが一時の感情だけで回答くださった訳ではないということは分かりました。
確かにあなたが言っていることは正しいと思います、純粋さを取り戻すというのもそうなのかもしれません。頭ではなく、心で見るということは自分でも分かっているつもりです。

では、私は私だけの心配をしていればいいのでしょうか?
彼やその母親にもイエスがいるのなら、それはどうなのでしょう?
あなたや私だけにキリストはいるわけではないのではないのでしょうか?
こんなことまで聞いてしまって悪いと思いますが、気になったので質問してみました。
それと、信仰の薄い者ということには若干捉え方が違うと思います。
何に対して信仰が薄いのか、それをきちんと定義してやらないと
彼らの信仰する「キリストは神の子ではない、預言者である」という事。
「唯一の神はヤーウェである」という、そもそも神というものに対して
対象がずれているんですよ。彼らにとっての信仰の薄さというのは私たちから見た
ものさしでしか測っていないんだと思うのですが・・・。

私自身、信仰の無さや薄さや、これで本当に良いのだろうかと考えることはたくさんありますよ。 でも、貴方も言っているように「隣人を愛する」ということは、つまり、貴方が思っている愚かで、信仰の薄い者という人たちをも愛することなんじゃないんですか? 彼らに目を向け、自分自身を顧み自分の罪を認め、また彼らの罪も認め、愛することだと私は考えてきました。
私はちゃんと勉強したわけでもありませんし、しっかりとした信仰を持っているとは自分は思っていません。
ただ、感じたことは「愛」というものはそういうものではないだろうか?ということです。偽善に聞こえるかも知れないし、あまりにも理想すぎるという方もいらっしゃると思います。それを実行できるかどうか、なんじゃないでしょうか?

ほんとうにこんなことを言ってしまってすみませんm(_ _)m
ただ、私の一言に目を触れ、よかれと思って言ってくださった事は
感謝しています、ありがとうございました。
投稿日時 - 2002-03-30 02:54:55
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