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源氏物語の持つ意味ってなんでしょう?

starfloraの回答

  • starflora
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回答No.5

    藤式部の『源氏物語』が、今日伝わるようなまとまった形の作品として、ほぼ欠落なく残っているのは、12世紀から13世紀にかけての歌人で、『新古今和歌集』の選者でもある藤原定家が、世に流布する『源氏物語』の手稿本の乱れを嘆いて、自分がここで「正しい版」をまとめておかなければ、この傑作大作が、素人や無知な者や教養のない人々の手で、本来の素晴らしさが歪められて、やがて価値が下落し、湮滅する惧れもあると考え、多数の写本を収集して、編集したので、現在、かなり綺麗な形で残っているのだとも云えます。      (その代わり、定家解釈の『源氏物語』が成立し、原作は大分違う可能性があるという指摘があります。定家は、原作の「再現」ではなく、自己の美意識に従って、「編集」を行ったので、写本系統が、ここで「定家本=青表紙ヴァージョン」に決められてしまったのです。定家が編集のため集めた古写本が、全部そっくり残ってくれれば、よかったのですが、一個人の蒐集ですから、彼の死後、散逸し、定家本以前の古写本は、定家ヴァージョンによって、駆逐される結果になったということもあります)。     定家が何故そこまで高く評価したのか、そもそもこのような歴史的経緯も知らないで、エロ小説も何もないでしょう。原作を少しでも読んでみたら、「エロ小説」どころか、現代人の文章感覚だと、何が何か分からないということになるでしょう。光源氏が紫上と最初に契ったときのエピソードは、原文では、どこにも具体的に書かれていません。話の場面が切り替わると、突然、「ある朝、《女君》は」という風に、これまで、紫上を呼んでいたのと違う呼び方で、紫上を呼び、源氏自身は「男君は」という風に出てきます。その後、何かすねてているとか、餅がどうしたとか、そういうことが書いてあるだけで、どこにも、源氏が紫上と最初に交わったとは書いてありません(二人が読んだ歌を読めば、何があったかは、明白この上ありませんが。しかし、歌も多義的で、婉曲に述べています)。ただ、「女君」と紫上が呼ばれた時点で、それまでの源氏との関係が変化して、具体的な「男女の関係」になったということが分かるのです。     こういう感じなので、当時の「文体」や「表現法」を知らないと、エロも何も、そもそも何が起こって何がどうなっているのかもさっぱり分からないはずです。現代語訳でも、よほど意訳した場合は、分かりますが、原文に忠実に訳している、円地文子の訳では、すでに知っていないと、何が起こったかよく分からないようになっています。また、原作中では、男の主要登場人物は、その官位で呼び、女の場合は、通り名で呼ぶので、話の進行を敏感に把握していないと、誰と誰が何をどうしているのか、原作では、さっぱり分かりません。確か、明治時代に、明治政府が、さる教養ある有名な閨秀文学者に、『源氏物語』の現代語訳を依頼した所、「あのようなけがらわしい話は見るもいやです」とはねつけられたという話がありますが、これは、平安最高級貴族階級の生活習慣の常識が、その後の儒教的な「貞節」とか、そういう時代や社会背景を異にする文化慣習のなかで、誤解されたのだということでしょう。     と前置きが長いですが、『源氏物語』は、「小説」ではなく、あくまで「物語」なのですが、世界的な文学史上の金字塔でしょう。ホメーロスの『イーリアス』などにも比肩できるでしょうし、ローマ古典詩人たちの作品にも負けないでしょう。     >「女性が書いたはじめてのかな文学の長編小説である」という歴史的意味     というのは、最低限の評価で、日本文学史上の傑作というだけでなく、世界的スケールの文化遺産なのです。     あの作品は膨大な長さがある訳で、全体構成から言うと、三つぐらいに分かれ、調和していない面が幾らかあるのですが、敢えて調和させていない可能性があり(最終ヴァージョンつまり、第三ヴァージョンは、藤式部は十分推敲する余裕があったはずだからです)、また、大長編として、入れ子構造で、色々な物語が入っていて、バランスを考えていると、それが幾らか気になりますが、そういう構成もまた、大長編の結構というか、作り方の技法とも言え、これは、藤式部に先行する物語文学などで、すでに類例があるのですが、『源氏物語』ほどに完成した形で提示されたものは皆無なのです。世界的に見ても、あの時代において、あそこまで完成度の高い、近代小説にも近い構想と展望を持つ大長編物語文学が成立したというのは、たいへんなことだとも云えます。ダンテ・アリギエリの『神曲』に匹敵するでしょうし、それを越えている可能性があります。     物語文学、歴史物語、縁起譚などの様式を持ちつつ、しかし、登場人物の心理洞察において、近代小説の心理描写を先取りしているのですし、何よりも、「人間の生き方」という「実存の課題」を中心主題に据えて描かれているというか、構成されているのが、時代的にみると、想像を絶して、素晴らしいことなのです。     光源氏という大金持ちで尊い身分の大プレイボーイが、一生涯プレイボーイで、大ハーレムを造って、遊びまくり、その息子の世代も、また色事に狂って遊び回った話などではないのです。     まだ、「教養小説(Bildungroman)」などという概念のなかった時代です。西欧にも中国にも、世界中のどこにもそういうスタイルの文学はなかった中で、ああいう壮大な規模で、ビルドゥングロマンを構成したというのは、素晴らしいとしか云えないということです。「物語」は、普通、登場人物の経験による「成長」というものを主題にしていません。結果的に「成長」が描かれている場合でも、それは付随的に現れているものだと云えるでしょう。しかし、『源氏物語』の場合、長い期間に渡り、作者の人生の歩みと共に描かれたことも理由の一つでしょうが、登場人物がそれぞれ近代的な心理的成長を行い、「教養小説」になっているのです。     主人公光源氏は、年齢と経験により成長して行き、人生の課題や困難に直面して行きますし、紫上の生涯などは、その心理の深みからいうと、千年以上、時代を先取りしているのではないかとも云えるのです。紫上は、絶望して死んで行ったのか、または何かに救済を見いだして死んでいったのか、ということが、今日でも問題になるのは、藤(紫)式部が造形した紫上という人物が、作品のなかから抜け出てるというか、それ独自の存在を感じさせるからです。また、「実存」の問題を正面から扱っているとも云えるのです。     それは、「宇治編」でも、もっと洗練された形で出てくる訳で、絢爛豪華な王朝物語・伝奇小説という感もある本編に比し、光源氏没後二十年ほどの宇治を軸とした物語では、紫上の実存的苦悩というものが、もっと先鋭に、鮮明に、大君、中君、あるいは浮舟などによって描かれているとも云えるのです。     登場人物の多彩さであるとか、物語の複雑さとか、総合性とか完成度とか、当時の王朝文化を伝えているとか、そういうことは、当然のことで、このような物語構成者としての壮大な力量を持つ藤式部が、自己の文学的能力を結集して、実存的主題を、現実の政治や、社会のありようを背景に構築したからこそ、世界文学史上の傑作ともなったのです。     それぞれの登場人物の心理の綾の深さ、それについての作者の洞察の深さと描写の見事さは、もう何とも言いようがないでしょう。代表的な女性登場人物を考えても、それぞれに経験を通じて成長して行き、それぞれの人生の苦悩や喜びを、生き生きと作品のなかで表出していると云えるのです。あるいは男性の登場人物には、かなりな類型性があるとはいえ、それでも男性主要登場人物は、生き生きした実在の人間であるようにも思えるリアリティがあるのです。何より、彼らの心理の綾の錯綜や、経験による成長の物語が素晴らしいのです。     (また、藤式部は、宮廷政治や、権力と地位、勢力と経済的力量、政治力をめぐる、「男達の闘争世界」の実態を知っていたので、それが作品に反映されており、単なる架空の恋愛小説とか、そういう次元を越えているのです。「安和の変」で、政治的実権を藤原氏に奪われた源氏一族が、藤原一族を凌駕して繁栄するという話を、安和の変の陰の策謀者の直系の子孫に当たる、藤原の氏の長者・藤原道長に仕える藤式部が書いたというのも、「昔物語」と道長や、他の多くの人は受け取ったのかも知れませんが、どうも違う可能性があるように思います)。     なお、当時の人が、この長編物語をどう受け取ったかということは、この作品の価値とはまた別にあります。歴史物語・意外なことが次々に起こる伝奇物語、高級貴族の豪華絢爛な生活や恋愛を描いた王朝物語、あるいは、胸ときめかせるスリルとサスペンスに満ちた恋愛物語というか、……読者は色々な受け止め方をしたのですし、色々に評価したのでしょうが、そのことと、作品の価値は別問題です。     >あの物語の凄さについて、友人を納得させられるよい回答がありましたら教えて下さい。     実際に翻訳であっても読んでみていない人に、どうも納得させようがないと思います。映画では、(見ていませんが)、おそらく原作の持つ主題の10%も表現できないでしょう。現代語訳で読んでみて、原作も一応眺めてみて(というのは、文体の流麗さは、現代語訳できないのです。イメージを忠実に現代語訳すると、極彩色のような晦渋な文体、イメージになるのですが、原文は、流れるように軽快に美しく進んで行くからです)、また、『源氏物語』について色々な人が書いていること、指摘していること、あの長編をどれだけ多数の視点から眺め評価することができるのか、また、何が卓越しているのか、こう言った経験をしなければ、分からないことだと思います。     >「女性が書いたはじめてのかな文学の長編小説である」     こういう評価そのものが、申し訳ありませんが、紋切り型だと思います。     芸術作品が素晴らしいというのは、そういう「体験」であって、体験していない人に、訴える言葉が、この場合ないと思います。(とはいえ、以上に色々書きましたが)。     「宇治編」の最後のシーンは、浮舟が、手紙を持ってきた弟を、そのまま帰らす情景ですが、何か唐突に終わっているような気が昔しました。まだ話は続いているはずだが、と思ったのですが、どうも、あそこでやはり終わりらしいのです。これについて、二十年近く前、国文学の研究をしていた人と話したことがありますが、その人は、あれで終わっているのだ、と断言しました。全体の構成がどうなっていて、とか色々話した記憶がありますが、しかし、どうも、終わっているように思えなかったのです。しかし、時間が経過して行き、訳などを読み返すと、段々、確かに、あそこで終わっているのだという実感が湧いてきました。     「物語」だとすれば、いささか不自然な終わり方なのですが、壮大な「教養小説物語」だと考えると、あそこで藤式部が、筆を擱いたのも自然であると思えてきたということです。  

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