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デカルトの矛盾

デカルトは実践面においては物心合一論を説いていますね。エリザベート王女への手紙のやり取りなどにおいてもも明らかにしています。 この矛盾はどう考えればよろしいのでしょうか?

noname#21336
noname#21336

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回答No.3

この「矛盾」は、ボヘミア王フリードリッヒ王女エリザベートが書簡で聞いて以来、「心身問題についてのデカルトの矛盾」とされてきたものです。 ご質問の答えは『省察 情念論』(中公クラシックス W21)の前書きに、その時代の要請とも合わせて非常によくまとまった形で書いてありますから、それをごらんになってください。 で、さわりだけ(笑)書いておくと、 ----(p.13からの引用)----- すなわち形而上学的原理(※人間は身体から独立した「精神」として存在すること、いわゆるデカルトの「コギト」)は、神と精神の認識をわれわれにもたらしてくれるものであるゆえ、一生に一度はそれを十分理解しておくことは極めて必要であるが、同時にその種の原理を省察するためにしばしば知性を用いるのは、感覚や想像力の機能をあまり休ませることにならず極めて有害である、と。彼によれば、知性によって一度到達した形而上学的な原理上の結論は、記憶や信条の中に留めておくのがよいのである。そして我々は、むしろ日常的生の中に生きるべきなのである。 -------- つまり他人との交わりと会話(この言語を用いての会話は、ほかの動物と人間を隔てる大きなポイントです)する、生身の人間の生きる次元、道徳の次元は、心身合一の次元である、として、この問題意識は『情念論』に引き継がれていきます。 ただ、デカルト自身がいう「心身合一の次元」というのは、十分に追求されたわけではない。デカルト自身も、矛盾を解消したわけではない。 だからこそ、心身問題というのは、哲学史を通じて、いまにいたるまでの大きな問題としてあるともいえるわけですが。 (※この回答に関してわからないこと、わかりにくい点などありましたら、補足をください。 ただし、ほかの方の回答について意見を求められても、わたしはそれに対して何らかのことが言える立場にはありませんので、どうかご容赦ください。 加えて、ほかの回答者の方が、「回答」という形で、わたしの回答に対して「質問・意見」を書き込まれても、当サイトの規則に抵触することでもありますし、お答えできません。)

noname#21336
質問者

お礼

どうもご回答いただき誠にありがとうございます。 最大のアポリアは、延長を持たない精神がたとえ松果腺を介してであってもいかにして身体に運動を起こさせることが出来るか、ということだと思いますが、引用文の内容からするとこういった質問は愚問である、というのが結論のようですね(苦笑)。 どうもありがとうございました。

noname#21336
質問者

補足

当初、回答ゼロも予想して質問させていただいたのですが、3件もご回答をいただき有意義でした。 もうすぐ締め切らせていただきますので、次回も宜しくお願いいたします。

その他の回答 (3)

回答No.4

>引用文の内容からするとこういった質問は愚問である とんでもない! 大変重要な問題です!! だって、デカルト以降、多くの哲学者みんなが頭を悩ませてきたんですから。 引用の仕方がまずかったかもしれない。 ここは薄幸の王女に対して、デカルトがお父さんっぽく振る舞ってる部分でもあるみたいです。 だから、二元論ことは、一回一生懸命考えればいい、あとは、心身合一として日々の実践を考えたらいいんだ、って言ってるの。 どうも引用の部分がまずかったみたいで、ですからどうか『省察・情念論』の前書き、あと、このデカルトの考察が不十分に終わった心身合一の部分を受けて、身体論を展開していった市川浩『精神としての身体』、ぜひ読んでみてください。 身体論はね、奥が深いですが、やっぱりすごいおもしろいよ。

noname#21336
質問者

お礼

どうもご回答いただきありがとうございます。 愚問云々は半分冗談です(笑い)。 ただ原理上の問題とno1,2様が仰います道徳面を別個にしろというのはどうも釈然としません。 これは行動の自由と自由意志の問題にも似た面があります。 ご紹介いただいた市川浩『精神としての身体』、是非読んで見ます。 次回もお時間がありましたら宜しくお願い申し上げます。

回答No.2

ふむ。 「精神と物体が固く結びついて一体をなしています」 という下りが不用意だったかもしれませんね。 ただよく読んで頂きたいのですが、 1.物体と精神の二つに分ける(二元論的思考) 2.物体と精神が相互に影響し合い、作用し合っている 3.その結果、人間においてのみ物体と精神が分かちがたく結びつく(統合論的思考) この流れは全く矛盾していないと思うのですが? たとえて言えば(あくまで比喩ですが)、 1.水は酸素と水素に分けられる 2.水において酸素と水素は一体化している ではいかがでしょう。 (もちろん、水において水素と酸素が相互に影響しあうとか、水における道徳とかは論外ですが) >不合理ゆえに我信ずといったところですか。 デカルトにとって神の存在証明は重要なテーマですから、宗教が関係ないとは言いませんが、ここでは無関係です。あくまで論理的な話です。

noname#21336
質問者

お礼

どうも再びご回答いただき誠にありがとうございます。 以前このカテゴリーでの質問、 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2352889 の良回答no2に、 {デカルトは「精神」と「物体」(身体)を厳しく峻別します。 精神と物体は、それぞれに独立した「実体」(まったく独立に存在するもの)であり、互いに依存しないと考えました。} といった記述がありますがこれは間違いでしょうか? 問題はデカルトが精神と物体を実体としているところにあります。 (実体の概念をご存知かと思いますが、) 両者それぞれが実体であるということは、何ら共通した性質を持たず、相互に作用しあうこともなく、したがって一方が他方の原因であるともないということです。 また、水素と酸素が相互に影響しあうことがないのであれば比喩にはならないのではないでしょうか。 >あくまで論理的な話です。 とのことですが、 >人間も動物ですから >人間は動物と違って これ排中律に反しませんか?

noname#21336
質問者

補足

どうも再びご回答いただき誠にありがとうございます。 以前このカテゴリーでの質問、 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2352889 の良回答no2に、 {デカルトは「精神」と「物体」(身体)を厳しく峻別します。 精神と物体は、それぞれに独立した「実体」(まったく独立に存在するもの)であり、互いに依存しないと考えました。} といった記述がありますがこれは間違いでしょうか? 問題はデカルトが精神と物体を実体としているところにあります。 (実体の概念をご存知かと思いますが、) 両者それぞれが実体であるということは、何ら共通した性質を持たず、相互に作用しあうこともなく、したがって一方が他方の原因であることもないということです。 また、水素と酸素が相互に影響しあうことがないのであれば比喩にはならないのではないでしょうか。 >あくまで論理的な話です。 とのことですが、 >人間も動物ですから >人間は動物と違って これ排中律に反しませんか?

回答No.1

矛盾というか。 まずデカルトにとって、人間も動物ですから、きわめて精巧な自動機械にすぎません。 一方、人間は動物と違って精神をもっています。 しかも人間においては本来は区別されるべき精神と物体が固く結びついて一体をなしています。 その意味で人間は、単なる精神でも物体でもない第三の独特な世界を形づくっている、ということになります。 さらに精神と肉体は相互に影響し合い、一方が他方に働きかけ、他方が一方を動かすという関係にあります。両者がともに能動と受動の関係にあると言ってもいい。 すなわち、欲望や情念は生理学的に説明される一方、意志の働きによって情念や欲望を統御することができる。 これがすなわちデカルト的道徳なわけです。 要するに人間は特別ってことですな。

noname#21336
質問者

お礼

>人間も動物ですから >人間は動物と違って 不合理ゆえに我信ずといったところですか。 どうもありがとうございました。

noname#21336
質問者

補足

>しかも人間においては本来は区別されるべき精神と物体が固く結びついて一体をなしています。 以前このカテゴリーでの質問、 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2351769 の良回答no8に、 {感覚的なものは私を間違わすことがあるので、切り捨てます。だからこの「われ」は肉体ではなく精神です。(デカルトは肉体と精神を思いっきり分けて考えます)} といった記述があります。 どうも矛盾を感じますね。

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