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大坂の陣と毛利について
毛利輝元は、大坂の陣の際に家臣の内藤元盛を「佐野道可」として大坂城に入城させていたとのことですが、どうしてこんなに危険な行動をとったのでしょうか? 発覚すれば御家存亡の危機となるのは必定でしょうし、現に幕府にバレて大きな問題になっているみたいです。 聡明だったとされる長府宰相秀元や現当主の秀就も承知の上だったというのが信じられません。
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毛利輝元について3つの「もしも」について予想を聞かせてください 1)もしも毛利元就の「天下を狙うな」との遺言を無視して天下取りを狙っていれば、成就したでしょうか。 2)もしも関ヶ原の戦いにおいて、大坂城から出て戦場で指揮していたら西軍は勝利していたでしょうか。 3)関ヶ原の後、史実では従兄弟の吉川広家の進言に沿って、大坂城を退去しましたが、もしも同じく従兄弟で養子となった毛利秀元の進言に沿って大坂城に居座っていたら毛利家は安泰だったでしょうか。
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ご回答ありがとうございます。 タイミングが違ったという事もありうるのですね。 豊臣恩顧大名の出方次第ではまだまだ天下が動くと考えていたのかもしれませんね。 後に加藤・福島は些細な口実で改易の憂き目にあっていますが、西軍総大将だった毛利家の境遇を鑑みたら、かなり捨て身な保険だったように思えます。