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「言葉は物の名前である」は何故間違いか?

「言葉は物の名前である」は何故間違いなのでしょうか? 現実世界における物は、言語以前の段階で、既に(非言語の)意識によって区別されていると思います。その区別され切り取られた意識対象に対して、名前を付けたのが言葉ではないかと思います。従って、「言葉は物の名前である」は、正しいのではないかと私には思えます。しいて厳密に言えば、「言葉は、現実世界から、非言語の意識によって切り取られたイメージ(もの)に対して付けられた名前である」ということになると思います。 ところが、ソシュールの解説書などを読むと、それは、間違いだと書かれています。言語記号(シーニュ)は、現実世界に基づく区切りではなく、シーニュ同士の相互関係によって恣意的決まると言っているように思えます。 そんなことが本当にあるのでしょうか? 何故、「言葉は物の名前である」は間違いなのでしょうか?

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回答No.9

う~ん、難しいですね。 確かに、前回の回答は不出来ですね、最初の回答で、問題点は一点と指摘しながら、三点に広げ、結果、説明不足と、音と文字の混乱まで呈しています。 前回、私はソシュールの弁護人では無い、と書きましたが、決して否定しているわけではなく、了解できる部分と、どうなのだろうか、と疑問を持つ部分とがある、と言うことです。それと、ソシュールの解説書の類は、フランス語やラテン語といった言葉で、具体例の説明をしますから、実は私もチンプンカンプンのよく解らない部分が多いのです。 今回は、「記号は、聴覚像と概念を結びつける」「言葉は物の名ではない」この二つの言明から私の解釈に基づいて、再検討いたします。以下は私見で、正否は、ご質問者様がご判断ください。 一点、テレビに関する事だけです。 A「明日テレビを買いに行く」B「昨日はテレビを見ましたか」 Aのテレビは物の名と言ってよい表現ですが、Bのテレビは、電源の入っていない、黒い画面の四角い箱を見たのか、と聞いている訳ではなく、ニュース・野球と言った番組を見たかどうかを聞いています。つまり、テレビは四角い箱型・薄型四角形と言った形状ではなく、その意味と言いますか、使い方、楽しみ方の内容をテレビと言う記号で結びつけていると言う事です。前回の回答で、テレビをアルカイックな社会に紹介する件を例に取りましたが、テレビを持っていくだけでは説明不足でした、可能かどうかは解りませんが、ともかく、そのアルカイックな社会で、通用する内容のテレビ番組を放送しなければなりません、四角い箱がテレビと呼ばれる事を伝えても、それが何であるのか、その四角い箱の意味は、テレビを楽しむ経験によって、これがテレビと言うものかと、理解するのではないでしょうか。 そのような経験なしで、いきなりテレビを見せれば、原住民は逃げ出すか、槍を取って構えるのが関の山、彼らにとって、この四角い箱が、楽しんだり、情報を得たりするための便利な道具だと言う、意味や概念を把握して、テレビ(勿論、此処でテレビと名付けずに、持って来た人の名前を付けても自由です)と言う言葉を理解する事が出来ると思います。 無論、この様な事が、個人的ではなく、一つの言語領域での意味や共通認識又は習慣として波及していく必要があります。 つまり、テレビと言う音が、テレビの持っている意味内容に結びついている、そして、テレビと言う音は、偶然の産物で「レビテ」と最初に決めれば、それで言葉は通用することになる。この様な考え方を進めてみると、「言葉の前に概念がある」と言う言い方も、出来るのかもしれません、有効なものは模倣されますが、この点に関して、私にはよく解りません。 以前、ラジオで、中国ではテレビと言えば天気予報と言う反応が高いと聞いた事が有ります、想像ですがテレビで共産党の宣伝ばかりで、役に立つのが天気予報だとすると、テレビと言う言葉の意味は、天気予報を見る道具と言うことになるのでしょうか。 テポドンの件も、某国での意味と日本語の中で語られる意味は違うのではないでしょうか、日本で「テポドン」と発話されれば、日本と非友好的な某国が、日本に向けて発射される危険性の高い、ミサイルで、アメリカのミサイルとは違う。マズ有り得ませんが、アメリカのミサイルを何処かの組織が闇ルートで、某国へ売り渡した場合、そのミサイルに何と言う名を付けるでしょうか?。 川と河の件は、音と表意文字を混同しています、この件は撤回いたします、失礼しました。 最後にソシュールの弁護を。 『ある人々にとっては、言語(ラング)は、その本質的原理をつきつめれば、ひとつの名称目録にほかならない。いいかえれば、同数の事物に対応する用語のリストである。たとえば 樹の図柄/ARBOR  馬の図柄/EQUOS 等々 この考え方には、多くの点で批判の余地がある。それは、語よりも前に存在するすでに出来上がった観念を想定している。・・・それは、名称を事物に結びつける絆がじつに単純な操作であるかのように思わせるが、それは真相とははなはだしく遠いものである。それにもかかわらず、この速断的な見方も、われわれを真理へ一歩近づけることはできる。』 一般言語学講義『ソシュール言語学入門』フランソワーズ・ガデより孫引き それ程、決め付けてはいないようなのですが。 ついでに、日本語の例をとって解説した本が見つかりました、自分で読んでいない本をお奨めするのは如何なものかとも思いますし、私の解釈と全く違うかもしれませんが、一つ参考までに。 http://www.amazon.co.jp/gp/product/4327376914/503-1065858-7896719?v=glance&n=465392&tagActionCode=charmatwebryi-22 補足 アフリカ社会の文化に関する研究報書の中に ヨーロッパ文化に接触していない人々は、絵画を鑑賞する習慣がない、或いは、一部の文化では、花を美しいと感じたりする習慣がない、と言った記述を、複数の本の中で、読んだ事があります。

kobarero
質問者

お礼

ご紹介いただいた「ソシュールのすべて」をざーっと読んでみました。言語名称目録論への批判は、「人類がいない世界には、物の区別などあるはずがないのに、それに名前を付けるというのはおかしい」と言うことみたいです。言語名称目録論者が、本当に、そんなこと言っていたとしたら、それは、確かにおかしいと思いますが....。 色々、ヒントをいただき、どうもありがとうございました。

kobarero
質問者

補足

ご回答ありがとうございました。 >「記号は、聴覚像と概念を結びつける」 これは、その通りだと思います。 >「言葉は物の名ではない」 これは、間違いだと思います。「言葉は物の名である」が正しいと思います。 >Bのテレビは、電源の入っていない、黒い画面の四角い箱を見たのか、と聞いている訳ではなく、ニュース・野球と言った番組を見たかどうかを聞いています。 おっしゃる通りですね。ただ、「言葉は物の名である」は、「言葉は物質の名である」と言う意味ではなく、「言葉は、モノ(物質、事象、現象、概念などを含む全ての対象)の名である」という意味だと思います。従って、「言語名称目録論」に対する反証には、ならないと思います。 >それが何であるのか、その四角い箱の意味は、テレビを楽しむ経験によって、これがテレビと言うものかと、理解するのではないでしょうか。 子供の場合はそうだと思いますが、大人なら、経験しないものでも、理解できると思います。例えば、ミサイの現物を見たり、自ら発射したりしなくても、ミサイルの意味はわかると思います。 >つまり、テレビと言う音が、テレビの持っている意味内容に結びついている、そして、テレビと言う音は、偶然の産物で「レビテ」と最初に決めれば、それで言葉は通用することになる。 おっしゃる通りだと思います。 >この様な考え方を進めてみると、「言葉の前に概念がある」と言う言い方も、出来るのかもしれません、 おっしゃる通り、「言葉の前に概念がある」のだと思います。 >想像ですがテレビで共産党の宣伝ばかりで、役に立つのが天気予報だとすると、テレビと言う言葉の意味は、天気予報を見る道具と言うことになるのでしょうか。 私は、スカパーで、中国のニュースを見てますが、「共産党の宣伝ばかり」ということは全然ありません。日本のニュースと比べると、海外ニュースが多いのでびっくりです。日本では、親殺し子殺しの話にやたら時間を長くさくので、日本国民が国際情勢音痴にならないか心配です。ちなみに、中国の天気予報は、国内だけでなく、世界の主要都市のものも放送してます。 >日本で「テポドン」と発話されれば、日本と非友好的な某国が、日本に向けて発射される危険性の高い、ミサイルで、アメリカのミサイルとは違う。 シニフィアン「テポドン」に対する、シニフィエが、国や立場によって異なるということですね。以下のURLを見ると、「テポドン」のシニフィエが多少は変わるかも知れませんよ。 http://chokugen.com/ 増田俊男の時事直言第367号「北朝鮮によるミサイル発射を冷静に分析する」 >この考え方には、多くの点で批判の余地がある。それは、語よりも前に存在するすでに出来上がった観念を想定している。・・・それは真相とははなはだしく遠いものである。 「ソシュール」 加賀野伊秀一著 講談社選書メチエ P97にあるソシュールの言葉の以下の引用と同じことですね。 「あらかじめ確定された諸観念などというものはなく、言語が現れないうちは、何一つ分明なものはない」 この点が、「言語名称目録論」を最も直接的に批判する根拠になっているので、これについて、もう少し、私の理解を述べさせていただきたいと思います。 (1)人間の存在していない世界: ここでは、ソシュールの言うとおり、あらかじめモノの区別などありえません。 (2)人間が存在しているが、言語を必要としない世界: 人間が存在している以上、言語がなくても、あらかじめモノの区別はあると思います。それは、言語を持たない犬でも猫でも、モノの区別ができることから自明だと思います。 (3)人間が存在していて、言語を必要とする世界: コミュニケーションを通して、社会を形成する場合は、間違いなく、言語がないと無理だと思います。 もし、「言語名称目録論」を否定する根拠が、(1)に置かれているとすると、「言語名称目録論」で、モノに名を付けようにも、人間がいないのだから、名前を付けることができないだろうという批判になりますが、それは、話が違う気がします。あくまで、人間がいることを前提に話を進めないと意味がないと思います。 >日本語の例をとって解説した本が見つかりました、 今度、見てみます。ありがとうございました。

その他の回答 (8)

回答No.8

補足は意見しました。 楽しくなりそうですね、楽しむ為にも、共通のルールと大前提を確認いたします。 一つ、マナーを守って、安全運転。 二つ、回答者は、ソシュールの弁護人ではありません。 三つ、補足の要旨は、5点ですが、1は、二つ目の大前提や他と重なる部分があり、5は、ご了解いただけたこととして、2.3.4の関連に関して、再度検討いたします。 四つ、時々、お見受けする、現実世界という表現は、脳の中のイメージのいう共通理解を保持している事 最低でも、これ位の、意思統一が、ご質問者様と、オバカな回答者とのあいだで共有できれば幸いです。 2番目の客観的区別 例えば、「ルサンチマン」はニーチェの偉大な発見とシェーラーが称えた場合、「ルサンチマン」と言う心理的・感情的転換がニーチェの発見の前にあったのではなく、単に不満の一つの心理的・感情的発現の中に埋没していたものを「ルサンチマン」と言う言葉を適用する事で、その概念を顕にしたと言えるのではないでしょうか、此処では、ニーチェ個人ではなく、他者である、シェーラーや他の読者のように「ルサンチマン」と言う表現によって、その概念に気づく事があるのでは、と言った説明です、言葉は、公共的で、一定規模の領域で、共通の意味で通用しなければ、言葉として成り立たないのでは。それと、恣意性に関しては、正直あまり難しく考えていないのです。「イヌ」と発話された音が犬と言う動物ですが、漢字の犬には象形的意味はあっても、イ・ヌと言う「音」とは何の関係もなく、一旦繋がったので、そのまま使っている、と言う意味合いで「恣意性」と言う表現を使ってみました、解りにくかったり、他に適当な言葉があれば、特に拘ってはいません。 3番目の通時的 確かに、液晶テレビ・テポドンと言ったものの名前は、言語目録説を裏付けるように見えますね。 ただし、液晶とテレビは分離して考えた方がよそうです。 その場合、テ・ポ・ド・ンと言う音を、初めて聞いた人は、普通、何それと言う反応ではないでしょうか、テポドンと言う音が、某国のミサイルの名前と予め了解が必要です、この場合は、目録説が言葉に対して概念の区別が先行すると強調すれば裏付けるする要素ではありません、少なくとも、概念と言葉は同時に理解しているのでは。 テレビと言う音も同じでは、テレビのないアルカイックな社会に、テレビを持たずに、テレビと言う言葉を教えてもわからないですし、翻訳も出来ませんね。親が指さしながら「とり」「イヌ」と子供が言葉を覚える過程が、ちょうどよく似ています。 4番目の虹の色 これは、あれですね、大前提、私はソシュールの弁護人ではありません。 ただ、1との関係で少し申し上げれば、各国の諸言語の意味する概念領域と言いますか、川・河の違いが日本語にはあるが外国にはそのような区別がなかったり、フランスかドイツで、賃貸しする・賃借りすると言う二つの反対の動詞が同じ言葉で表されている、と言った説明を聞いた事が有ります。 >差異は、客観的に存在していることが前提ですよね。 私の個人的考えかもしれませんが、差異は脳の中で生成されると言い切ってもよいかと思っています、この件に関しては、補足を頂いても、人に説明するには、此処では無理でしょう。了解している事と、それを他者に納得できるように説明する事には、大きな開きがあるようです。あくまで大前提です。 如何でしょうか、私は、色々な人の言説から、是々非々で了解できるところを整合的に拾い出せばよいのではと単純に考えています。

kobarero
質問者

補足

ご回答ありがとうございました。 >「ルサンチマン」と言う表現によって、その概念に気づく事があるのでは ニーチェが、新しい概念を生み出し、それに対し、「ルサンチマン理論」という名前をつけることもできたわけです。実際には、そのような命名はしなかったので、ニーチェを知らない人は、シニフィアン「ルサンチマン」に対しては、日常用語の「ルサンチマン」の意味しか伝わらないことになると思います。これは、「もの(この場合、概念)に名前を付けない」から生じる混乱だと思います。 >イ・ヌと言う「音」とは何の関係もなく、一旦繋がったので、そのまま使っている、と言う意味合いで「恣意性」と言う表現を使ってみました。 特に問題はないと思います。 >少なくとも、概念と言葉は同時に理解しているのでは。 テポドンは、北朝鮮のミサイルに対して、アメリカが命名したものだそうです(先日、gooで質問して教えてもらいました http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2276841 )。モノが先ずあって、それに、名前を付けた。まさに、言語名称目録論を裏付けるものだと思うのですが。 >テレビと言う音も同じでは、テレビのないアルカイックな社会に、テレビを持たずに、テレビと言う言葉を教えてもわからないですし 逆に言うと、テレビを持って行って、「これが、テレビです」と言えばわかるわけですね。すなわち、先ずモノがあって、そのモノがテレビと名づけられていたことを知るわけですから、これも、言語名称目録論を裏付けるものだと思います。 >川・河の違いが日本語にはあるが外国にはそのような区別がなかったり、 「ソシュール」 加賀野伊秀一著 講談社選書メチエ P95に、「川と河」の話と仏語の川に相当する「リヴィエールとフルーヴ」の話が出てきます。この例を挙げて、だから、言語名称目録論は間違っていると言っています。しかし、その理由が変です。その理由というのは、以下の通りです。 翻訳で、「リヴィエール」は「川」と訳される。しかし、実際は、「リヴィエール」と「川」は同じものではない。もし、言語名称目録論が正しいとすれば、「リヴィエール」と「川」の実体は同じでなければいけない。しかし、実際には、同じでないのだから、言語名称目録論は間違っている。 これは、非常におかしいと思います。「リヴィエール」を「川」と翻訳したからと言って、「リヴィエールの実体」=「川の実体」だなどと、言語名称目録論が言っているとは思えないからです。むしろ、「リヴィエール」と「川」とは、明らかに異なったシニフィアンですから、それに対応するシニフィエも異なっていることの方が、言語名称目録論に合致していると言えます。言語名称目録論が正しいことを期さずして証明しているのではないでしょうか。

回答No.7

>ソシュールをちゃんと勉強した方からみると、とんでもない間違った考えだということになると お断りしておきますが私はソシュールを勉強なんてしたことないですよ。それどころか哲学を始め、どんな学問の専門書も読んだことは殆んどありません。ただ御質問者様が前回お出しになった御質問を見かけてシニフィアンなどと聞き慣れない単語を調べたついでにウィキペディア等2,3の要約をサッと流し読みしただけです。従って先に「哲学的にも哲学でなくても回答不能です」と申し上げたとおりです。ただ本気で解答をお求めなら哲学のカテゴリーよりも効率良く接近できる方面があるように思っただけです。生理学等諸科学は何のためにあるのか? どうも前回の御質問時にANo.3様がお答えになった ~我々が「現実と呼んでいるものは言語によって構築された仮構物(心的存在)に過ぎない というくだりを、もしかして、あまり理解できておられないのか或いは反発しておられるかもと感じました。それは >この世界を切り取る という表現が「言語に先立って」切り取られるべき現実世界がある、ということを仰っているのかと。 >現実世界の諸部分に差異があるからこそ この「差異」は誰が・何によって「ある」ことにしているのでしょうね。 >ソシュールの考えによれば「虹=七色」とコトバで言われているから現実の虹が七色に分かれているのだと言っているように思えますが 「虹」という連続した現象に対して、どの差異を意味あるものとし、どの差異を無視するのか、その行為によって区切る つまり虹を七色としてとらえているに過ぎないからこそ「七色」と表現しているに過ぎない→虹は七色なんだと改めて確信する→定着する。 たとえば信号が青と言うとき実際は緑色であったり、黒目と言っても実際はこげ茶であったりすることはあります。これは個人の感想をさておいて世間の言い表しかたに従っているわけですね。 虹を七色以外の数で感じ取った小児もオトナになったら「七色の虹」という表現に従う。このへんはランガージュ→ラングへの変容が示唆されているところでしょうか。 ソシュールが晩年、古代民族神話の方面に入れ込んだという理由が何となく分かるような気もします。(もしかしたら関係ないのかな、よく知りません) 犬の概念ということが挙げられましたが、さて犬はどのようにして「現実の主人を抽象化」しているんでしょうね?「犬小屋」の概念も「えさ」の概念も、どこかで繋がってはいないのでしょうか? 昔、実家で飼っていた犬を思い出します。 彼女は私が新入学で新しい制服を着用したおりなど異様なくらい興奮して、しきりに手招き(?)そばへ寄ると満遍なく匂いを嗅いでは鼻先や前足で、そのテクスチャーを確かめたものでしたが ある年のお正月でした、私と母が垣根越しに我が家の庭を覗き込んだところ彼女は大声で吠えました。 そのあと、そばへ寄って行くと、とても照れくさそうなバツの悪そうな表情をしたのです。 私はその時、髪を桃割れに結い上げ花かんざしを装い和服をまとっていました。もちろん普段のかっこうとは大違いです。 >人間以外の動物は、シニフィエしか持ちませんが それなら彼らは(シニフィアンなき彼らは)どうやって仲間とコミュニケーションしているのでしょうね。それとも、していないのでしょうか。 >シニフィエなきシニフィアン これは何ですか?? >ある一つのシーニュのカバーする範囲は、シーニュ同士の相互関係で決まるのではなく、現実世界に対応したシニフィエの概念の範囲で決まる。 現実世界に対応した?シニフィエの概念の範囲?分かるような違うような。。。 >シニフィエとシニフィアンは初めから一体ではなく、独立に存在し得るところに シーニュ(単語)はシニフィアンとシニフィエで構成されるものであり「いずれかだけを対象とするなら、それはすでに言語を対象としていることにならない」のではないのですか? >「言葉は物の名前である」は何故間違いか?>との関連では、「現実世界のものを元に、シニフィエが作られ、それに対応付けてシニフィアンが生み出された コトバはものの名前としての役割を確かに持たされています。しかし、「ものそのもの」を表しているのではない。 やはりシーニュとレファランの関係を、もう一度よく御考えになるべきかと。 一つの印象的な話を思い出しました。 昔、或る雑誌で読んだのですが イギリス人だかアメリカ人の幼児が暖炉に近づいたりしたときに「熱い(hot)からダメよ」と何回となく両親が言い聞かせていたところ、或る日のこと冷たい飲み物をいっぱいに満たしたグラスに触れた、その幼児は得意気に言い放ったそうです。「オット」と。 >要するに風船は箱一杯には膨らまないと思います そのとおりだと思いますが? いずれにしても前回も申し上げましたがソシュール自身がシニフィアン・シニフィエに関して、あまり満足いっていたわけではないそうですし、彼の理論の限界は、こんにち、すでに指摘されているそうですよね。

kobarero
質問者

お礼

<補足からの続きです> >やはりシーニュとレファランの関係を、もう一度よく御考えになるべきかと。 「物=シニフィエ」、「物の名=シニフィアン」でないことは、よくわかりますが、シニフィアン/シニフィエのレベルで考えても、やはり、まず、シニフィエの差異があって、その差異に対してシニフィアンを対応付けるという意味では、基本的な関係は変わらないのではないかと思うのですが。ソシュールが「シニフィアンとシニフィエは同時に生まれる」と言っているとすれば(言っているかどうか、今ひとつ、掴めてません)、私は、異論があります。 >その幼児は得意気に言い放ったそうです。「オット」と。 親が子供にどうやって、シニフィアンとシニフィエの関係を伝授できるのかというのは、意外と謎に満ちてるように思います。結局は、直観に頼っているのだと思いますが。 >彼の理論の限界は、こんにち、すでに指摘されているそうですよね。 そうですか。では、ソシュールの解説者たちが、追いついていないのかも知れませんね。例えば、#5,6の補足で挙げた本などでは、「言語名称目録論」を真っ向から否定しているように思えます。

kobarero
質問者

補足

ご回答ありがとうございました。 >~我々が「現実と呼んでいるものは言語によって構築された仮構物(心的存在)に過ぎない、というくだりを、もしかして、あまり理解できておられないのか 多分そうなんだと思います。だからこそ、疑問がわいてくるんでしょうね。 >この世界を切り取る、、という表現が「言語に先立って」切り取られるべき現実世界がある、ということを仰っているのかと。 この世界には、言語によって文節される以前に既に「ものの差異」があると考えています。 >現実世界の諸部分に差異があるからこそ、、この「差異」は誰が・何によって「ある」ことにしているのでしょうね。 それぞれの地域に住む人々が、自分の生活の必要によって、「ある」ことにしているのだと思います。ただし、「ある」ことにしている差異以外の差異が、「現実世界にはないぞ」などとは考えていないと思います。 >虹を七色以外の数で感じ取った小児もオトナになったら「七色の虹」という表現に従う。 言語を法律みたいなものと考えれば、おっしゃるとおりですね。 >?「犬小屋」の概念も「えさ」の概念も、どこかで繋がってはいないのでしょうか? 済みません。質問の意味がよくわかりません。「犬小屋」と「えさ」は犬から見れば、関連があるという意味ですか。そうかもしれませんが....... >私と母が垣根越しに我が家の庭を覗き込んだところ彼女は大声で吠えました。そのあと、そばへ寄って行くと、とても照れくさそうなバツの悪そうな表情をしたのです。 そうそう、犬も「勘違いする」というこの現象。私も経験あります。で、問題は、これが何を意味するかです。今回挙げられた例では、犬は「服装や髪型などの外観によって主人を識別していた」ということにならないでしょうか? 抽象化というのは、多様なものの中から共通性を見出して、その共通する性格をもったものを一つのカテゴリーとして認識することだと思うのですが、少なくとも、「外観」が抽象化にとって重要な要素だったということですね。当然、臭いや態度などの他の要素も合わせて考慮せれていると思いますが。そうでないと、桃割れにしていると最後まで、主人と思ってくれない可能性がありますからね。 >人間以外の動物は、シニフィエしか持ちませんが、それなら彼らは(シニフィアンなき彼らは)どうやって仲間とコミュニケーションしているのでしょうね。それとも、していないのでしょうか。 これについては、全く、異論がないですね。動物もシニフィアンを持っていると私は思っていますし、人間のシニフィアンを理解する事もできます。私が、「この場合、犬は、シニフィアンなきシニフィエを持っていると考えられます。」と書いたのは、「主人」というシニフィアンはないだろうという意味です。でも、「おい、腹が減ったぞ」、「ウンチしたいから、家の外へ出せ」、「たまには、オレのことを構ってくれ」とかのシニフィアンは持ってますよね。外で、別の犬に会うと、「ここは、オレの縄張りだから出て行け」というシニフィアンもあるし、「この女、なかなかいい女だな」とか「この男、なかなかいい線いってる」とかのシニフィアンもいっぱい持ってますね。 >シニフィエなきシニフィアン、これは何ですか?? シニフィアンが先行して、後付で、概念やものを創りだすような場合です。例えば、海のタコとイカというシニフィアンから、「イカタコ」というシニフィエなきシニフィアンを考え、そこから、逆に、それに対応するシニフィエを考え出すような場合です。「イカの格好した凧」を発案したりする場合です。これは、かなり変な例ですが、今の世の中、シニフィエなきシニフィアンが横行していると思いませんか? >シーニュ(単語)はシニフィアンとシニフィエで構成されるものであり「いずれかだけを対象とするなら、それはすでに言語を対象としていることにならない」のではないのですか? 言語とは、そういうものだと定義してしまうなら別ですが、現実には、「シニフィアンなきシニフィエ」や「シニフィエなきシニフィアン」がいっぱいあるのに、そのように定義する意味があるのでしょうか? <あっさり、2000文字を超えてしまったので、続きは、お礼に書かせていただきます>

回答No.6

補足、有難うございました。 丸山さんですか、困った。実は、丸山さんの本とは相性が悪いし、近くに無いですね。図書館はリクエストしても大抵一ヶ月以上は時間が掛かります。あまり時間ないのに、迷っているうちに一週間、困った。 ご質問文の内容はさておき、ご質問者様の問題点は、 言語目録観が間違っているのは本当か?言葉と概念はどちらが先か?そして、この問題は殆ど同じ問題だという事でしょう。丸山さんの意図は解りませんが、ソシュールの言語相対主義に対して、記号(シーニエ)発話されたり聞かれたりした物質的な刺激とは別に、内的記号の構造を評価しながら、相対主義に反対して、記号以前に概念(差異)がある場合もある、と反対する方も見えます。また、パロールとラングを分けて、パロールを言語学の対象から外す事に反対する方も見えます。丸山さんは、ソシュールを構造主義の思想的先駆者として扱う為に、強調されているのでしょうか。 ところで、言語目録観にしても、言葉にする前に、客観的区別が存在しているとすると、言語の起源や生成に関して、言葉の創造性や比喩的置き換え等々、困ったことになるようです。 現実世界を数字を含めて言葉が「わける」「はかる」訳ですから、その言葉は、現実世界に対応するはずです、ただ、此処で、現実世界も、静止しているわけではなく、変化しているわけです。単純に考えても、言葉は最初から有った訳ではなく、社会が複雑になるにつれ、言葉の種類は増えてくるわけです。「通時的」と「共時的」の違いでしょうか、共時的には言葉の実践により、社会の中で受容されれば、新しい概念として、生き残りますが、流行語のように、一瞬輝いて、消え去るものもあるのでは。通時的に考えても、自由という言葉はどのように生成したのか、最初から自由という対象が有って、それを言葉にした、とは単純に考えられないのではないでしょうか? さらに、虹の例えを考えれば、虹の色には区別の境界は無いとも言えるかも、虹の色は連続していて、決して七つの段階で差異があるわけではありません、そこへ、七つの区別を付けることは、現実世界を言葉によって恣意的に区切ったと言っても間違いではないのではないでしょうか。言葉の生成は、受動的、つまり、他者の発話と他者の了解が不可欠です、現実の差異は、正確に他者と共有出来るわけでは有りませんから、大まかな同一性が、対象の分節に言語による分節として、重なり合っているのでしょうか。 共時的には、その言葉の使用されている領域内において、言葉は、現実を表現するように生成しますが、現実も常に生成していますし、言葉にすることにより、概念がいっそう際立つ事もあり、どちらの立場に拘り過ぎても、問題が起きるのではないでしょうか。 ただ、最後に言えるとしたら、言葉は現実の世界の生起や現象を空間に並置して、固定する傾向はあるように思います。 「言葉はあらゆる非具象的関係を空間的ななものに翻訳する。・・・例えば、クリスマスの前後にとか二年以内にというように時間関係は空間的に表現される」『言葉の不思議』ポルツィヒ 折角、補足頂いたにもかかわらず、ヤケクソ気味の不出来な回答で失礼しました。

kobarero
質問者

補足

ご回答ありがとうございました。 >丸山さんの本とは相性が悪いし、近くに無いですね。 以下の本は、どうでしょうか? 「ソシュール」 加賀野伊秀一著 講談社選書メチエ この本のp93に「言語名称目録論に注意せよ」という節があります。「言語名称目録論」の間違いの説明として、「言語名称目録論」に基づけば、日本語の「川」とフランス語の「リヴィエール」は、同じ「川というもの」に対する命名のはずなのに、実際には、この二つは異なったものを指しているではないかと言っています。でも、それは、反論としては、おかしいと思います。というのは、「言語名称目録論」が、日本語の「川」とフランス語の「リヴィエール」が同じ「川というもの」を指しているなどと言っているとは思えないからです。確かに翻訳の便宜上、同じように扱わざるを得ないことは多いかも知れませんが、実際には、別のものを指していることは、了解の上での話だと思います。従って、「川」と「リヴィエール」は、正確に言うと、異なったものに対する異なった名称だと思います。 >ところで、言語目録観にしても、言葉にする前に、客観的区別が存在しているとすると、言語の起源や生成に関して、言葉の創造性や比喩的置き換え等々、困ったことになるようです。 この意味は、「客観的区別」が固定的なもので、人間の自由な発想ができなくなるという意味ですか? もし、そうなら、以下のように考えることができると思います。 この世界の差異は、無限にある。従って、どの差異に注目するかは、人間が自由に選らぶことができる。自由に選ぶことができるという意味で、それを恣意的と呼ぶのなら一応理解はできます。ただ、差異はもともと世界の側にあるということと、自由に選べると言っても、人間が生活していく上で必要な選択ですから、当然基本は大きな制約の中での選択です。それを「恣意的」と表現するのは、誤解を招く表現だと思います。 >通時的に考えても、自由という言葉はどのように生成したのか、最初から自由という対象が有って、それを言葉にした、とは単純に考えられないのではないでしょうか? 「言語名称目録論」が、この世界に最初からあったものにだけ名前を付けると言っているわけではないので、新しいものが出てきたら、その都度、それに名前を付けるというのが、ごく自然なことだと思います。液晶テレビでも、テポドンでも、新しく出てきたものに名前を付けるというのが、現実の現象だと思うのですが、これは、「言語名称目録論」を裏付けているのではないのでしょうか? >虹の色は連続していて、決して七つの段階で差異があるわけではありません、そこへ、七つの区別を付けることは、現実世界を言葉によって恣意的に区切ったと言っても間違いではないのではないでしょうか。 これは、おっしゃるとおりですね。ただ、「虹の色は連続していて」と書かれているように、差異は、客観的に存在していることが前提ですよね。そうだとした場合、ソシュールの以下の言葉は、どう解釈したらよいでしょうか? 「あらかじめ確定された諸観念などというものはなく、言語が現れないうちは、何一つ分明なものはない。」(上述の本、P97に引用されています) 言語がなければ、虹が非常に多くの異なった色からなるということすら認めないという立場のように思えるのですが。 >ただ、最後に言えるとしたら、言葉は現実の世界の生起や現象を空間に並置して、固定する傾向はあるように思います。 これは、まさに、おっしゃるとおりですね。この傾向が強まるほど、保守的になり現実を直視した変革が難しくなるのではないかと思います。

回答No.5

前回のご質問の継承かと思いましたが、どうも違うようですね。 「言葉は物の名前である」は何故間違いなのでしょうか? 一般的に言って、間違いではないですね。 もの名前が「対象」を指示する事は、当然です。 問題となるのは、言語名称目録論が、客観的な事実が先に存在するとして そこに、レッテルを貼って区分すれば、客観的な事実・世界が解明できるとする点ではないでしょうか? 一般的に言葉は変化し続けていると言ってもよいでしょう、現実と言語の対照は追いかけっこで循環しているのかも知れません、言葉が対象を正確に捉えることもあれば、捉えられないこともある、曖昧な部分もあるということでは。 ただ、このタイトルは、サピア=ウォーフの仮説に対する反論かなと考えてしまいました。 「私たちは言語を、考えたこと、思ったこと、して欲しいことを誰かに伝えるための道具、あるいは、何か難しい問題を解く際に心覚え的に、考えたことを一時的に記録にとどめるために使用する道具に過ぎないと考えがちである。実際、私たちが言語を使用するのは主としてそのような場合のように見える。しかし、この発想の背後に、言語にする前にすでに、言語とは独立に、考えや思いなどが存在しているのだという、もうひとつの発想があるとすれば---そして、しばしばそのような発想があることが多いのであるが---、そのような見解は決して自明ではない。それどころか、そこには深刻な問題があるのである。」『言語哲学入門』服部裕幸 この仮説は、検証過程に問題があるらしいですが、表面的には、ソシュールの考えと似ていますね。 この辺りの、ご質問の意図がもうひとつ理解できませんので、タイトルの出典、頁数など教えていただけないでしょうか。 私も参考に読んでみたいと思っています。 タイトルの件は、そのようなことで、一先ず横に置いておきます。 次の段落ですが、 (1)言葉の起源、(2)言葉の生成、(3)個別の個人の言葉の獲得等の解釈が一応可能ですが、(2)が本線だと理解したいところですが間違いないでしょうか。もう一点(4)言葉と意識の関係、さらに(5)言葉と意識の後先が、質問の要点になるような気がしますが、如何でしょうか? 3段目は最初のタイトルと同様で、出典を宜しくお願いします。 以上が補足のお願いですが、質問の意図が(1)(4)(5)辺りですと、ご回答できるか自信が有りません。 なお、この様な補足の要求は、言語・文法・文字の恣意性による、誤解を出来るだけ避けるためです。 恣意性に関して少しだけ 言語の恣意性に関しては、前回のご質問で#9様がご指摘された虹の話が解り易いです。 「虹の色」で検索すると「言語的転回」?と言う質問に、良回答がありました。 それと、「馬」「ウマ」は当然、動物の「馬」ですが、「じゃじゃ馬」と前に言葉がつくと、女性に変わってしまいます。 「愛」「アイ」これも、最初「ア・イ」と発話されても、その後に「シ・テ・イ・ル」と続く場合と、「ラ・ブ・ユ・-」と、続いた場合、偶然言葉の意味は同じでも、個々の言語の意味は変わってしまいます。 さらに、言葉(パロール)ではなく、言語(ラング)に注目すると、聴覚記号と視覚記号・その他の諸感覚の結合つまり、全く違う刺激を、脳の中で翻訳して、同一性と差異を決定できるようです。 不思議なことが、沢山有ります。長々失礼しました。 PS #4様への補足拝見しましたが、最初に示唆いたしましたように、この文章は2作目ですので、没にするのも残念で変更せずに、投稿しておきます。

参考URL:
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1352141
kobarero
質問者

補足

ご回答ありがとうございました。 まず、私の質問に引用した「言葉は物の名前である」の出典と頁数は、以下の通りです。 「ソシュールの思想」丸山圭三郎著 岩波書店 P116(言語目録観の否定) このページでは、「言語目録観」という表現が出てきます。また、同書のP144では、この「言語目録観」が、「言葉は物の名前である」という考えの前提であり、共に間違った考えとして否定されています。P116以降にその理由が書かれています。私には、その説明がどうしても正しいようには思えないのです。 何故正しいように思えないかと言うと、同書が傍証に挙げている例として、仏語のboeufと英語のoxの意味の範囲が違う例、犬と狼の例、そして、虹は言語によって7色だったり、6色だったり、3色だったりする例が出てくるからです。これらの例から、コトバが世界を切り取るのであって、現実世界の事物が最初から分かれているわけではないという結論を出しています。 この説明が、私には、納得がいきません。何故かというと、現実世界の諸部分に差異があるからこそ、別のものとして認識でき、別のものとして認識できるからこそ、それらに違った名前を付ける必要が出てくるのだと思うからです。では、何故、ある言語は、虹の色が7色で、他の言語は、3色しかないのかいうと、それは、民族の違いや、生活習慣の違いで、ものの差異をどこまで細かく分ける「必要を感じるか」の違いだと思います。ソシュールの考えによれば、「虹=七色」とコトバで言われているから、現実の虹が七色に分かれているのだと言っているように思えますが、そんなことは、有り得ないと思います。そもそも、「虹が七色だ」などと、誰も、信じてはいないと思います。子供に、本物の虹を見せて、何色あるか数えさせればわかると思います。常に現実の差異が先行すると思います。 次に、(1),(2),(3),(4),(5)の件ですが、やはり、上述の本に書かれていることに対して、私の異論を述べたものです。上述の本のどの部分に対する異論かは、以下の通りです。 上述の本の、P124から「シニフィアンとシニフィエ」の説明があります。この中で、シニフィアンとシニフィエは一体で、切り離せないものとして述べられています。しかし、現実には、シニフィアンなきシニフィエ、シニフィエなきシイニフィアンがあると私は思います。その異論を述べたのが(1)、(2)、(4)です。また、(3)と(5)は、上での述べた「言語目録観の否定」に対して、別の形で、異論を提示したものです。要するに、現実世界の差異--->シニフィエの差異--->シニフィアンの差異という形で、言語が構成されているのではないかと私は思っているということです。 よろしくお願いいたします。

回答No.4

『言語が正常に機能しなくなり自身の無に気づいた瞬間、人は精神を病む』~ラカン       ・シニフィアン シーニュ:       ・シニフィエ この図式はソシュールが定式化したとして知られていますが実際はソシュール自身、この図式を、あまり積極的には好んでいなかったのだそうです。 >箱に詰めた風船の図 とはシーニュの構造を示す表現ですね。 構造とは二項の存在(概念と音響)及び両者の関係であり、その関係の把握を言う(グレマス)そうですがシニフィアンとシニフィエの繋がりによってしか存在不可であり片方だけを考えるなら実体は消え、残るは純粋な抽象のみ―『非言語的領域対象を分析するにしても言語の媒介なくして行えない』(バルト) そして 『記号が存在するときは思想も存在する』 レファランの成り立ち自体を探っておられるのでしょうか? 多分ソシュールも、このあたりを探ろうと頑張っているうち死んじゃったのかもね。 生理的知覚→知覚像→概念 概念の前駆体とも言うべき知覚の記憶が、どのように積み重ねられていくかは究極は個体差があるものでしょう。 それだからこそ我々は、ためつすがめつしながら、このコトバという欠陥だらけのシロモノをやり取りするのでしょう。 『意味は受動的に吸収されるのではなく解釈という能動的過程のなかでのみ生じてくる』 貴方のここでの御質問は、いつも哲学の範疇からは逸脱しているのではないかという印象を受けるのですが今回も、やはり生理学的な方面で追究されるべき議題かなあと感じました。 御質問の本文よりもNo.1~2様への補足文が質問としての御本意であろうかと受け取りました。 で、それなら結局、哲学的には(というか私的には哲学でなくても)回答不能です。回答不能というのが回答です。スビバセンね。 >言語外意識(直観)が現実世界から切り取ったものだと思う 仮説でしか捉えられないことなのでしょうね。早く実態が分かればいいのになと思います。 認知のゆがみ、とかも絡んできそう。

kobarero
質問者

補足

ご回答ありがとうございました。 私の質問自体に問題があったみたいですね。 哲学の問題か生理学の問題かも含めて、結論の白黒が付けやすいように、私の考えを以下にまとめさせていただきました。いづれも、私の偏見と独断なので、ソシュールをちゃんと勉強した方からみると、とんでもない間違った考えだということになると思います。そして、私の希望は、私の考えが、どのように間違っているかを教えていただきたいということです。 1.言語がなくても世界は切り取れる  人間に限らず、全ての動物は、自分の生存に有利なように、この世界を切り取る能力を持っている。犬が、エサや主人を識別することからも、それは明らかであると思います。 2.言語を持たない動物も、シニフィエを持っている 犬が、主人を識別する場合、その主人の個別具体的な視覚像をいちいち記憶して識別しているわけではない。「主人」という抽象化された「概念」を持って識別しているわけですから、これは、「主人」のシニフィエであると考えられます。従って、この場合、犬は、シニフィアンなきシニフィエを持っていると考えられます。 3.人間は、シニフィエにシニフィアンを与えることで、互いのコミュニケーションが可能になった。 人間以外の動物は、シニフィエしか持ちませんが、人間は言語能力、すなわち、シニフィエにシニフィアンを与える能力を持つことで、人間同士のコミュニケーションが可能になった。 4.人間は、シニフィエなきシニフィアン(あるいは、その逆)を創りだすことで、創造能力を獲得した。 人間は、想像力によって、シニフィアンなきシニフィエや、シニフィエなきシニフィアンを創りだすことができ、このことが、新しい物や概念を作り出す基礎になっていると思います。従って、シニフィエとシニフィアンは、初めから一体ではなく、独立に存在し得るところに人間の創造力の源泉があると思います。 5.ある一つのシーニュのカバーする範囲は、シーニュ同士の相互関係で決まるのではなく、現実世界に対応したシニフィエの概念の範囲で決まる。これは、犬にとっての「主人」の概念は、現実の主人を抽象して作られるわけであって、「主人」とそれ以外の概念、例えば、「犬小屋」とか「エサ」の概念との相互関係で決まるわけではないからです。要するに風船は箱一杯には膨らまないと思います。 以上なのですが、哲学か生理学かの話では、上記の1,2が生理学の話に関連し、3,4,5が哲学の話になると思います。ただ、これは、相互に切り離せないので、全体としては、哲学の範疇だと私は思います。 また、当初の質問<「言葉は物の名前である」は何故間違いか?>との関連では、「現実世界のものを元に、シニフィエが作られ、それに対応付けてシニフィアンが生み出されたわけ(上記1,2,3)ですから、そのように言ってもいいのではないかということです。 以上ですが、よろしくお願いします。

noname#18882
noname#18882
回答No.3

どうのように切り取られたか? は謎です。 知覚の換喩作用という説もあるし、カントで言えば構想力と言うことになりますが、いずれいしろあるモノが言葉になる前にどのようにして意味が与えられるかははっきりとしたことは分かっていません。 私にはお手上げです。 構造主義は体系に価値を置きますので、記号自体には意味は内在しておらず、メルロ=ポンティの表現では言語というのは意味の差異のみを担うと言うことらしいです。

kobarero
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

noname#18882
noname#18882
回答No.2

表象から切り取った意味を言葉で表現したものを名前と言います。シーニュが何らかの意味を表現できるのはそれぞれのシーニュが異なった意味を持つような差異の体系があるからです。 モノの意味を言葉で表現したものが名前である、が正しいと表現だと思います。

kobarero
質問者

補足

ご回答ありがとうございました。 >モノの意味を言葉で表現したものが名前である ここで、「モノ」というのは、どのように切り取られた「モノ」でしょうか? 私は、言語外意識(直観)が現実世界から切り取ったものだと思うのですが、ソシュールは、そうではないと言っているように思うのですが。

回答No.1

カラスは俺が白いといったら白い。 カラスという言葉は「"現在はカラスと呼ばれている生物"を見た人間が、非言語・無意識に"カラス"と誰かが思った」からカラスと名づけられたのではありません。別にこの世にスズメという動物がいなければ、スズメでもよかったわけです。それを回りの人に推し進めていけば、カラスは現代はスズメと呼ばれているはずでした。 白いという色も、別に"現在は黒と呼ばれている色"を白いと言ってもよかったわけです。白い色というものは"白意外の色"の区別をしているだけ。言葉上の区切りでしかありません。物の名前が言葉になっているわけではないのです。 漢字の場合は絵記号なので、物がそのまま言葉になっているようにも見えますが…烏(カラス)と鳥(とり)似ている漢字は適当な組み合わせで作られているだけで、誰かが考え出した漢字の意味が、多くの人に広まっただけで、物を見て感じた非言語が言葉を構成しているとは言いがたいです。 カラスは白い。 これは大衆的に間違いですが個人的には間違いではありません。よくある哲学入門書に似たようなことはいっぱい書いてありますが、それではダメなんでしょうか。ソシュール入門を読むのが手っ取りばやいと思いますよ。

kobarero
質問者

補足

ご回答ありがとうございました。 おっしゃっているのは、シニフィアンとシニフィエの関係の恣意性の話ですね。これは、私も100%了解です。 私の質問は、その恣意性の話ではなく、もう一つの恣意性、すなわち、シーニュがどのように決まるかという点に関してです。ソシュールは、シーニュ同士の価値のせめぎ合い(箱に詰めた風船の図)で決まり、言語外現実とは恣意的な関係になると言っているように思えます(私の読み違いかも知れませんが)。でも、実際は、そんなことはないのではないかというのが私の疑問です。

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