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シニフィアンとシニフィエの基本的なこと

シニフィアンとシニフィエについて、基本的なことがよくわかりません。教えてください。 例えば、音声として発生された「ネコ」は、シニフィアンで、「猫」という観念は「シニフィエ」だと思っているのですが、そうだとすると、疑問は、「具体的に目の前にいる猫」は、シニフィエには成り得ないのかということです。 もう少し具体的に言うと、以下の会話(1)でAが語っている「猫」という音声は、シニフィアンで、それに対する、シニフィエは、一般観念としての「猫」だと思います。これに対し、(4)でBが語っている「そこに座っているその猫」と言う音声は、全体として、シニフィアンと考えて、「目の前に具体的にいる猫」がシニフィエと考えていいのでしょうか? それとも、やはり、シニフィエは、具体物では有り得ないのでしょうか?  (1)A「君のところは、猫を飼っているの?」 (2)B「飼ってるよ。」 (3)A「どんな猫?」 (4)B「そうだねー、黒と白の混じった....、あっ、今、そこに座っているその猫とそっくりだよ。」

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noname#19923
noname#19923
回答No.9

#1,3,5です(長くなってきた)。 >イスやネコと違って、幸福については、人類共通の理解がない >シニフィエの「個人性」を意味する >結局、言語の破綻ではないでしょうか? イスやネコに「人類共通の理解」があるかどうかも不明ですけどね。 私にはイヌとオオカミの区別はつきません。 植物の種類なんてさっぱりです。 魚と言ったらタイですか、マスですか、ウナギですか? イスはどこからどこまでがイスでしょうか? 石が風雨によって削られ、イスのような形(?)になったらイスでしょうか? みんながそれに座るようになったらイスでしょうか? ウチに持って帰って室内においたらイスでしょうか? 核となる意味(プロトタイプ)がある程度一致してたらよしとしておいて、細かいところは知識や推論などで補えばよろしい。 コミュニケーションは言語だけで行われるものではない、というのは#8さんのおっしゃるとおりです。 コミュニケーション全般に使える完璧な道具を脳内に備えるよりも、ある程度不完全でも単純な道具(言語や推論能力など)をいくつか組み合わせて使う方に、人間は進化してきました。 誤解は生じるかもしれない、訳が分からないと言うこともあるだろう、でもそれは受忍限度内だと思うしかないですね。 #わたしはチョムスキーは寝転がっても読めますが、 #ヴィトゲンシュタインは唐人の寝言です。 #でも受忍限度内です。 #ちなみに「変人度」でいえば、ヴィトゲンシュタインのほうがソシュールよりもはるかに上です。

kobarero
質問者

お礼

色々、教えていただき、大分理解が深まりました。 改めて、別スレで、<「言葉は物の名前である」は何故間違いか?>の質問をさせていただきましたので、そちらも、よろしくお願いします。 たびたび、ありがとうございました。

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その他の回答 (8)

回答No.8

シニフィエとシニフイィアン、どっちが、「聴覚映像」だったか、なかなか覚えられませんね、記憶に残らないのは、重要性が低いのだろうと、本能を信じているオバカさんです。 ご回答に対するお礼などを拝見すると、ソシュールの言う「ラング」と「パロール」の区別が、まだ曖昧なのだろうか、といった印象を受けました。なぜならご質問者は「会話」を例にあげておられます。「会話」には、語の意味とは別に、場の意味、会話の前提、等々、言語以外の表情やゼスチャーが絡みます、此処では、言語の正確な意味より、「あれを、あっちで、これ、お願い」で成立する事もあるのでは。 シニフィアンとシニフィエに関しては、お見事な回答がすでにありますから、屋上屋を架ける事も無いでしょう。 ソシュールからチュムスキーに至る言語学は、従来の比較言語学等の対象である「発話された言葉」は恣意的で、言語の本質を扱うに為には、一線を画すことを主張しているのではないでしょうか。つまり、言語学の対象は「言葉」でなく「言語」(ラング)だという事。人間や人間集団の脳のなかにある言語は、地域・民族により、「諸言語」の「言葉」は違ってくるが「言語」の本質は普遍的に同一なのか、それを問題にするのではないでしょうか。私の感想で表現すると『現実の表象を人間の脳が諸感覚を利用し言語的に分節・構成する形式は同一なのか?』おっと話がソシュールから脱線しました。 尤も、言語が現実に対応していない、言語は現実の名称目録で無いとする立場も一つの立場ですし、従来の言語学が無用なわけでもありません。 蛇足ですが、ソシュールは変人らしいです(笑。主著と言われる「一般言語学講義」も後で編集されたものです。 チョムスキーは難解ですが、ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム論」が面白そうですよ。

kobarero
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 >「ラング」と「パロール」の区別が、まだ曖昧なのだろうか、といった印象を受けました。 「ラング」と「パロール」の区別が曖昧なのか、それとも、「パロール」と「エクリチュール」の区別が曖昧なのか、私には、よくわかりませんが、いずれにしても、シニフィエは現実界の具体物を直接指示するわけではないので、シニフィエと現実界の具体物を結合するのは、非言語意識(直観)の働きなのだろうと思うようになりました。 >言語学の対象は「言葉」でなく「言語」(ラング)だという事。 言語学の対象が何であるかはわかりませんが、「常に変化する現実世界」に柔軟に対応するためには、パロール先行で、ラングを変革するしかないと思います。 >言語は現実の名称目録で無いとする立場も一つの立場ですし、従来の言語学が無用なわけでもありません。 これについては、別スレで、<「言葉は物の名前である」は何故間違いか?>の質問をさせていただきました。よろしくお願いします。

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noname#177238
noname#177238
回答No.7

フランス語で考えると難しいです。 シニフィアンというのは、sound imege シニフィエというのは、concept のことです。 目の前の具体物はシニフィエではありません。

kobarero
質問者

お礼

そうですね。#1,3,5さんが、おっしゃっていることですね。ご回答ありがとうございました。

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noname#25818
noname#25818
回答No.6

晴耕雨読ということで 畑に行ってトマトだやららら茄子だやらららピーマンやららら採ってきて夕飯に備えたら言語破綻の前にしあわせ~な気持ちが湧いてきそうだな.

kobarero
質問者

お礼

そうですね。そんじゃまかさ、かんじゃまかさ、おまけに、どんじゃまかさで、ありがとうございました。

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noname#19923
noname#19923
回答No.5

#1,3です。 ややこしすぎると、単なる観念的な遊びになってしまいそうですね。それはそれでいいかもしれませんが。 >知覚像も概念の一種と考えておられますか? 言葉を定義なしに使うからいけない。(反省) 「概念」でも「知覚像」でも何と呼んでもいいのですが、とにかく言語外現実とは別物の、頭の中にある「心的イメージ」「心的存在」です。 脳の中に「知覚機能」と「言語機能」が別個に存在しており、さらに「統合機能」(意識?)があるとすれば、言語と外界との関係はかなり間接的となります。 その意味では >具体的な「猫の知覚像」は、”言語機能を通してではなく”、意識の働きによって、「猫の概念」と結合されるということになる といえるでしょう。 >客観的現実を全く無視して成り立つことはないのではないか 言語記号は言語外現実に対応物があっても構いませんが、必ずしもその必要はありません。 kobarero さんは名詞のことをお考えのようですが、そもそも名詞・動詞・形容詞・助詞などの区分に言語外の根拠などありません。 ヨーロッパ諸語の多くは理由もなく(?)疑問詞を文頭に動かします。SVO か SOV かという語順にも外界の理由付けはありません。 つまり言語機能をほとんどは、「客観的現実」とは無関係に存在しています。一部の名詞にたまたま外界に対応物がある(ように思っている)だけです。

kobarero
質問者

補足

ご回答ありがとうございました。お陰さまで、自分なりには、非常にクリアになりました。せっかくですので、私の理解を以下に整理しておきました。もし、間違っていたら、ご指摘ください。2つの場合に分けて考えた方がより明確になると思いました。 (1)外界の対応物がある場合: 「ちょっと、そのイス取ってよ」と言ったとき、相手がちゃんとイスを取ってくれた場合の「イス」というシニフィアン。この場合は、以下の3つを考える必要がある。 (1)シニフィアン: 「イス」という音声の抽象化されたイメージ (2)シニフィエ: 「イス」の概念 (3)外界の対応物: 「現実界のイス」 ここで、(1)と(2)は、言語の働きで結合するが、(2)と(3)は、言語の働きではなく、直観的(?)意識の働きで結合するという風に理解しました。 (2)外界の対応物がない場合: 「キミにとって、幸福とは何か?」と言ったときの「幸福」というシニフィアン。この場合は、言語外の客観的対応物がないので、以下の2つだけで説明ができる。 (1)シニフィアン: 「幸福」という音声の抽象化されたイメージ (2)シニフィエ: 「幸福」の概念 そして、この場合は、「幸福」の概念、すなわち、「幸福」のシニフィエは、人によって異なるという大問題があると思います。そのため、イスやネコと違って、幸福については、人類共通の理解がないのだと思います。しかし、これは、真面目に考えると、シニフィエの「個人性」を意味するので、結局、言語の破綻ではないでしょうか?

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noname#31063
noname#31063
回答No.4

又お邪魔します。 気分転換で読んで下さい。 記憶は覚えた、所得したイメージの再現という現象で、 本来はこの現象といういうものの方が 主観で納得するものであるかも。 所有は人間以外の者(生命体を含むあらゆる物質)が 他の自然に対してまで所有の権利を主張し 悩んでないからです。 動物も本能的に威嚇したり防御するものの、 義務感でしていないようなのだから。 人間だけが自然の存在にまで義務を負うという 精神活動があると思います(違うかもしれませんね)。 ネコの原子も自然から一時的に借りているもので、 精神も肉体に付随するものとして、 自然からの借り物ですよ。 だからネコの存在も、 「ネコ」と発せられた音波の現象も、 自然の精神内(謎)での流れの一部 という見方はどうでしょうか。 >潜在的権利を主張して、「ボクのものはボクのもの、アナタのものもボクのもの」と言い出すと、混乱するので、法律を定めて、便宜上の交通整理をしているのではないでしょうか? アナタが所有したものを、ボクは見て満足するなら 主張して責任をとる義務もなくなるので、 主張しないで納得するなり、 満足するなら楽になりますよ。 だから結婚という隷属の形式を選択するより、 お互い独身なままで楽しくいる関係もあって、 所有を主張しないのが便宜でもズルイのではなく それで満足しているからで。 法律は満足を保証する為にというより、 所有権を守るためにあるような気がします。 話しが命題から反れてしまっていそうですが、 反れてますね? 実は私も言っててよくわかりません(逃)。

kobarero
質問者

補足

ご回答ありがとうございました。 >本来はこの現象といういうものの方が主観で納得するものであるかも。 私にとっては、現象以外には何もないように思います。 >人間だけが自然の存在にまで義務を負うという精神活動があると思います(違うかもしれませんね)。 それは、人間だけが世界を現象化するせいではないでしょうか? すなわち、この世界全体が「我が心の中の現象」であり、すなわち、「我自身」だと思っているのではないでしょうか? 少なくとも、自分の体は、自分のものだと普通の人は思いますよね。自分の体の範囲は何を根拠に決めるかというと、神経が到達している範囲と考えるのかも知れませんが、それだと、髪の毛や爪は自分のものにならないので、実は、神経の到達範囲なんかではなく、この世界全部が自分の一部だと心の底では思っているのではないでしょうか? だから、自然を大切にしましょう。 >「ネコ」と発せられた音波の現象も、自然の精神内(謎)での流れの一部という見方はどうでしょうか。 「自然の精神内(謎)での流れ」=「我が心の世界での流れ」なのではないでしょうか? だから、自然を大切にしたほうが、やはりよさそう。 何が何だかわからなくなりました。 シニフィアン「何が何だか」のシニフィエは何でしょう? 「何が何だか」の概念でしょうか? 自分で支離滅裂な文章を書いていて気付いたんですが、シニフィエなきシニフィアンっていくらでもありそうですね。思わせぶりなシニフィアンを勝手に作って、受け手に、いかにも重要なシニフィエがありそうだと錯覚させるというのも面白いかも知れません。例えば、「自然精神の内在化」というようないい加減なシニフィアンを私が作ったら、それに対応するシニフィエを想像できますか?

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noname#19923
noname#19923
回答No.3

#1です。 だんだんややこしくなってきましたね。 こういうのは言語哲学者の大好きなテーマではあるんですが。 さて、 >「そこに座っているその猫」というシニフィアンが >直接指すもの というのがくせ者です。 シニフィエそのものは頭の中にある「概念」であり、具体性はありません。 ではシニフィエと「言語外現実」の「指示対象」とはどういう関係にあるのか? 言語外現実は境目のない連続体をなしたカオスであり(ひよことニワトリの境目は? 親族はどこからどこまで?)、それを言語というシステムによって区分けしたものが記号である。 なお、その区分け自体には根拠はない。色は何色に分けてもよいし、姉と妹を区別する必要もない。 根拠は不要であればこそ、抽象概念も操ることができる。言語は現実とは独立して存在するのだ。さらに言えば、我々が「現実」と呼んでいるものは言語によって構築された仮構物(心的存在)に過ぎない。 シニフィエは「指示対象」ではなく、現実とは無関係に成立しうるものである。その意味であれば、 >まさに目の前にいる具体的なその猫を >指しているのではない。 したがって、 >「言語によっては、結局、具体物を直接指示することはできない」 そのとおりです。

kobarero
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 おっしゃっていることは、一応(?)わかったような気がしますが、再び、新たな疑問が沸いてきてしまいました。 よろしければ、教えてください。 <疑問1> <シニフィエそのものは頭の中にある「概念」であり、具体性はありません。>とおっしゃっていますが、ここで言う「概念」という言葉の意味が、今ひとつはっきりしません。というのは、私が「そこに座っているその猫」と言うとき、意識にあるのは、「猫の概念」というよりは、「猫の知覚像」です。知覚像は、具体的であるが故に、概念ではないような気がするのですが、知覚像も概念の一種と考えておられますか? それとも、「猫の知覚像」とは別に、意識の中に、「猫の概念」を思い浮かべているということでしょうか? もし、そうだとすると、具体的な「猫の知覚像」は、”言語機能を通してではなく”、意識の働きによって、「猫の概念」と結合されるということになるのでしょうか?  <疑問2> <シニフィエは「指示対象」ではなく、現実とは無関係に成立しうるものである>についてですが、ここで、「無関係」というのは、「切り取り方が無関係」という意味と解釈して良いですか? この疑問の意味は、「無関係」とは言え、客観的現実を全く無視して成り立つことはないのではないかという意味です。例えば、天空にある無数の星を見て、どの☆とどの☆をどう結びつけて一つの星座と見るか(そして、その星座を何と呼ぶか)には、恣意性がありますが、一個一個の☆の位置まで、言語が勝手に決めることはできないという意味では、恣意性はないと思うのです。 ややこしくて、済みませんが、よろしくお願いします。

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noname#31063
noname#31063
回答No.2

難しい質問で答える能力もないのにお邪魔します。 音声による「ネコ」は共有するデーター(記憶) があるから通じるのですが 空間と区別されるべき異なる抵抗を有する 「具体的?なネコ」というのも、 主観で都合良く解釈したネコであるでしょう。 必ずしも 部分のデーターの総和が全体を示すもの になるとはならないで 全体は部分の総和以上を含んでいそうですもの。 ネコとCatでは唯一の同じものを示していたとしても 違う言語、音声信号であるが、 同じ空間に位置する他の空間と区別されている のが確認されている点において 理解し合えるものになります。 言語は所有できないものの一つと思いますが、 物質的な存在は所有したくなればすることも出来ます。 所有するということは責任が付随しますから 言語というものが所有できないものであるから 責任をとる必要もないのではないか? ということで 「シニフィアンとシニフィエの基本的なこと」 など全然知りませんでした。 それに調べてもいません。 これには自信と責任を持てます(笑) しかしとにかくあてずっぽで書いてみました。 (削除可)

kobarero
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 猫は特定の空間を占める物質であるという前提がありますか? 猫は分子や原子や電子でできていることになっていますが、その分子や原子や電子は、実は、精神に直接作用を及ぼす数学的関数なのではないかと最近思うようになりました。もし、そうだとすると、猫は、物質でないばかりか、精神の外にある何者かでさえなく、結局、精神内出来事ではないかと思えるのです。 ただ、ちょっとひっかかるのは、もし、精神内出来事なら、私と他の人が、同じ猫を見ることができるのは何故かということですが、それは、多分、私と他の人が、同じgooの画面を見ることができるのと同じではないかと考えています。 ですから、「言語というものは所有できないが、物質的存在は所有したくなればすることも出来ます」について考えてみると、物質的存在なるものが、精神内出来事であるとすると、潜在的には、初めから所有していると考えられるように思います。ただ、その潜在的権利を主張して、「ボクのものはボクのもの、アナタのものもボクのもの」と言い出すと、混乱するので、法律を定めて、便宜上の交通整理をしているのではないでしょうか? 自分で書いていても、何を言っているのかさっぱりわかりませんが、なんとなくこんな感じです。

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noname#19923
noname#19923
回答No.1

シニフィエであれシニフィアンであれ、具体性はありません。 シニフィアンは実際の音声ではなく、「聴覚映像」です。 シニフィエは具体的な事物ではなく、頭の中の「概念」です。 実際の発音は人によって違うし、同じ人でも物理的に全く同じ音声を発することは不可能です。あくまで頭の中にあるイメージ(映像)に過ぎません。 具体物といっても、正円や正方形は存在しません。ましてや「一角獣」「シニフィエ」「理論」といった想像上のものや抽象物は存在し得ません。あくまで頭の中の概念です。 さて、ご提示の会話ですが、「猫」はすべての場合において共通の概念を表し、シニフィエは共通です。 ただ、(1A)の「猫」は不定(indefinite)でかつ不特定(unspecific)の「猫」です(一般観念ではない!)が、(4B)の「猫」は定(definite)でかつ特定(specific)の「猫」です。 個々の単語の意味・シニフィエが文脈の中で広がったり狭まったり、あるいは全く別物になったりするわけです。つまり、意味・シニフィエは固定したものではないし、変化もするものだ、ということです。

kobarero
質問者

補足

ご回答ありがとうございました。 >シニフィエであれシニフィアンであれ、具体性はありません。 シニフィアンについては、よくわかりました。シニフィエについては、新しい疑問がわきましたので、よろしければ、教えてください。 (4B)の「猫」は定(definite)でかつ特定(specific)の「猫」であることは、わかりますが、それにも関わらず、「具体性」はないとおっしゃっているのだと思うのですが、「具体性」がないという意味は、以下のように理解してもよろしいでしょうか? Bが発話する「そこに座っているその猫」というシニフィアンが直接指すものは、一般的な「そこに座っているその猫」のことであって、まさに目の前にいる具体的なその猫を指しているのではない。 なぜならば、「そこに座っているその猫」というシニフィアンは、「今、ここで、B」が具体的に発話した音声を指しているわけではなく、「色々なときに、色々な場所で、色々な人」が具体的に発話するであろう全てに共通した音声イメージを指しているので、その結果、そのようなシニフィアンに対応したシニフィエも、「今、ここで、B」が示す具体的な猫に対応しているのではなく、「色々なときに、色々な場所で、色々な人」が指す具体的な猫(ども)に共通のイメージを指しているから。という理解でよろしいでしょうか? そして、もし、そうだとすると、大変面白い結論になるような気がします。それは、「言語によっては、結局、具体物を直接指示することはできない」という結論になりそうですが、そう理解してもよいでしょうか?文字の場合は、その通りのように思いますが、音声の場合、あるとき、ある場所で、ある人によって話された言語の場合は、具体物を指すものと思っていました。

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     ソシュールの《言語記号の恣意性》説については まだ或る程度の《定説性》が残っています。これが ただの神話であることを次のように証明します。当否・成否を問います。  まづ先にその例証となる言語現象をかかげます。   / nVgV /という形態素を取り上げます。( V は母音のことです。アイウエオなどが入ります)。これは 子音の / n / や / g / が同じというようにシニフィアン(≒音素)が同じ語であるなら その意味すなわちシニフィエ(≒意味)も同じだという語例になります。  すなわち この / nVgV /という語の形態においては いづれの場合も《障害や邪魔の除去》という意味を帯びて 共通であるという例です。  (1) / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ   すなわち    《 nagi=薙ぎ》は 伐り払うべきものが障害・邪魔と見なされている。   《 nagi=凪ぎ》は 波風が同じくそう見なされている。   《 nagi=和ぎ》は 心の動揺などがそう見なされている。   そうして その障害ないし邪魔と見做されたものを 除去する。またはそれらが除去される・消滅する というシニフィエとなっている。   ちなみにここで例証の中身を示すならば ソシュール・といより丸山圭三郎の仮説では ここで言えば子音の / n / や / g / は それとしての意味はまったく無く 恣意的に / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎといった語として成ったと言っています。   / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ といった語例において 子音の n や g といったシニフィアンと 語義の《薙ぎ・凪ぎ・和ぎ》とのあいだに 何ら自然でかつ論理的なきづなは無いという説です。  (2) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれています。  けれども ここでも  / nVgV / というシニフィアンには いづれの語でも同じシニフィエ(≒意味)が見られます。《障害の除去・邪魔の消滅》というシニフィエが共通です。ソシュール≒丸山の説では そんなことはあり得ないというものです。   nage-ru  投げる  (障害なく 延びて行かせる)   naga-su  流す   (障害を避けて 延びて行かせる)   naga-reru 流れる  (障害を避けて 延びて行く)    naga-i   長い   (障害なく延びた状態にある)  さらに語例を伸ばします。  (3) 《和ぎ nagi 》関連で 母音の交替をも加えて この / nVgV / なる音素には 共通の意義素が潜んでいるという語例です。   nago-ya-ka 和やか    (障害が消滅した状態)   nago-mu   和む     (障害が消滅していく)   nagu-sa-mu 慰む     (障害を除去させる)   negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜   (障害の消滅を希求)   nega-u   願う      (障害の消滅を希求)    *  どうでしょう。言語記号の恣意性なる仮説によれば こんな現象はあり得ないことになります。    ちなみにその仮説によれば 例外なる事態は 次のようだと言います。  オノマトペつまり擬音語や擬態語では 音素(シニフィアン)と意義素(シニフィエ)とのあいだにつながり(きづな)があると言います。  郭公は その / k / の音素を鳴き声に合わせてどの言語でもというほどに同じ音素から成る語として持たれているようです。    日本語で 光がピカッとかがやくという様態に合わせて ひかり・光るという語が得られています。  あるいは例外としては いわゆる派生語の場合が挙げられます。これは 同じひとつの語根から派生するのであるからには 当然だと考えられます。  つまり   nagi 和ぎ   nago-ya-ka 和やか      nago-mu   和む  これらは じつは派生語として / nVgV / なるシニフィアンに同じ共通のシニフィエがあっても 恣意性の説の反証にはなりません。という考察は すでに成されています。  (ナグサメ=慰めも 派生語であるかも知れませんね)。  例外を別とすれば じんるいが言語を獲得したのは その語彙の全体を――その時点で―― 一気に得たのだと言います。個々の語は互いにその語としての差異によってのみ 関係しあいつつ 使い分けされているというものです。(語としてというのは 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》とが一体となったそれぞれの語としてです)。  あとで造語される語を別として 或る時点で語彙の全体を ひとつの体系として 得ることになったのだと説いています。  そうであるにせよ無いにせよ 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》として成る語には その関係性(つまり ∽ として示したそのつながり方)が 自然で論理的なきづなを持つと例証によれば考えられます。  さらにくわしい議論をおぎなわなければならないのですが こういった問題が ソシュール≒丸山圭三郎の理論にはあると言ってよいと考えます。  * おぎなうべき議論の一端として:    音素・・・・=・・・・意義素    _______________   / n /  = 同定相・否定相   / g /  = 反出相;反定相・疑問相・変化相  といった仮説を前提としています。  いま   / n /=否定相 + / g / =変化相(変化ゆえ 過程相・移行相)  といった複合によって   / nVgV /なる音韻(シニフィアン)     =《障害の除去・邪魔の消滅》なる意義(シニフィエ)  といったじっさいの語例が作られているという見方を 例証(反証)として提出しました。  ただしここで 否定相の子音 / n / が 薙ぎにおいてはなぜ《伐採すべき草や木》を内容とする《障害・邪魔》として認定したか? それは 分かりません。それは 恣意的に決められたとしか言いようがありません。  つまり 凪ぎや和ぎにおいてはそれぞれ《波風》や《心の不安》を 何故ほかにも数ある障害や邪魔の中からえらんだのか? それは 分かりません。  * すでに問うたことがあります。けれども ジョウシキが間違っているなら 何度でも問うべきかと考えます。

  • ソシュールの《言語記号の恣意性》は 神話である。

     ソシュールの《言語記号の恣意性》については まだ或る程度の《定説性》が残っていますが これが ただの神話であることを次のように証明します。当否・成否を問います。  まづ先にその例証となる言語現象をかかげます。   / nVgV /という形態素を取り上げます。( V は母音のことです。アイウエオなどが入ります)。これは 子音の / n / や / g / が同じというようにシニフィアン(≒音素)が同じなら その意味すなわちシニフィエ(≒意味)も同じだという語例になります。  すなわり この / nVgV /という語の形態においては いづれの場合も《障害や邪魔の除去》という意味を帯びて 共通であるという例です。  (1) / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ   すなわち 《 nagi=薙ぎ》は 伐り払うべきものが障害・邪魔と見なされている。   《 nagi=凪ぎ》は 波風が同じくそう見なされている。   《 nagi=和ぎ》は 心の動揺などがそう見なされている。   そうして その障害ないし邪魔と見做されたものを 除去する。またはそれらが除去される・消滅する というシニフィエとなっている。   ちなみにここで例証の中身を示すならば ソシュール(ないし丸山圭三郎)の仮説では ここで言えば子音の / n / や / g / は それとしての意味はまったく無く 恣意的に / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎといった語として成ったと言っています。   / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ といった語例において 子音の n や g といったシニフィアンと 語義の《薙ぎ・凪ぎ・和ぎ》とのあいだに 何ら自然でかつ論理的なきづなは無いという説なのです。  (2) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれています。けれども ここでも  / nVgV / というシニフィアンには いづれの語でも同じシニフィエ(≒意味)が見られます。《障害の除去・邪魔の消滅》というシニフィエが共通です。ソシュールの説では そんなことはあり得ないというものです。   nage-ru  投げる  (障害なく 延びて行かせる)   naga-su  流す   (障害を避けて 延びて行かせる)   naga-reru 流れる  (障害を避けて 延びて行く)    naga-i   長い   (障害なく延びた状態にある)  さらに語例を伸ばします。  (3) 《和ぎ nagi 》関連で 母音の交替をも加えて この / nVgV / なる音素には 共通の意義素が潜んでいるという語例です。   nago-ya-ka 和やか    (障害が消滅した状態)   nago-mu   和む     (障害が消滅していく)   nagu-sa-mu 慰む     (障害を除去させる)   negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜   (障害の消滅を希求)   nega-u   願う      (障害の消滅を希求)    *  どうでしょう。言語記号の恣意性なる仮説によれば こんな現象はあり得ないことになります。    ちなみにその仮説によれば 例外なる事態は 次のようだと言います。  オノマトペつまり擬音語や擬態語では 音素(シニフィアン)と意義素(シニフィエ)とのあいだにつながり(きづな)があると言います。  郭公は その / k / の音素を鳴き声に合わせてどの言語でもというほどに同じ音素から成る語として持たれているようです。    日本語で 光がピカッとかがやくという様態に合わせて ひかり・光るという語が得られています。  あるいは例外としては いわゆる派生語の場合が挙げられます。これは 同じひとつの語根から派生するのであるからには 当然だと考えられます。  つまり   nagi 和ぎ   nago-ya-ka 和やか      nago-mu   和む  これらは じつは派生語として / nVgV / なるシニフィアンに同じ共通のシニフィエがあっても 恣意性の説の反証にはなりません。という考察は すでに成されています。  (ナグサメ=慰めも 派生語であるかも知れませんね)。  例外を別とすれば じんるいが言語を獲得したのは その語彙の全体を――その時点で―― 一気に得たのだと言います。個々の語は互いにその語としての差異によってのみ 関係しあいつつ 使い分けされているというものです。(語としてというのは 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》とが一体となったそれぞれの語としてです)。  あとで造語される語を別として 或る時点で語彙の全体を ひとつの体系として 得ることになったのだと説いています。  そうであるにせよ無いにせよ 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》として成る語には その関係性(つまり ∽ として示したそのつながり方)が 自然で論理的なきづなを持つと例証によれば考えられます。  さらにくわしい議論をおぎなわなければならないのですが こういった問題が ソシュール≒丸山圭三郎の理論にはあると言ってよいと考えます。  * おぎなうべき議論の一端として:    音素・・・・=・・・・意義素    _______________   / n /  = 同定相・否定相   / g /  = 反出相;反定相・疑問相・変化相  といった仮説を前提としています。  いま   / n /=否定相 + / g / =変化相(変化ゆえ 過程相・移行相)  といった複合によって   / nVgV /なる音韻(シニフィアン)     =《障害の除去・邪魔の消滅》なる意義(シニフィエ)  といったじっさいの語例が作られているという見方を 例証(反証)として提出しました。  ただしここで 否定相の子音 / n / が 薙ぎにおいてはなぜ《伐採すべき草や木》を内容とする《障害・邪魔》として認定したか? それは 分かりません。恣意的に決められたとしか言いようがありません。  つまり 凪ぎや和ぎにおいてはそれぞれ《波風》や《心の不安》を 何故ほかにも数ある障害や邪魔の中からえらんだのか? それは 分かりません。    * すでに問うたことがあります。けれども ジョウシキが間違っているなら 何度でも問うべきかと考えます。  【Q:《言語記号の恣意性》は 神話である。】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5664705.html

  • この手何目?

    どちらが先に、黒が3-Aと打つか、白が2-Aと打つか、という状況です。 中盤の177手目ぐらいに発生した状況で、その後、226手目まで黒も白も放置したままでした。 普通に戦っていれば大石が死ぬようなこともなく、まだ、10目以上の手もいくつかある状態でした。 計算が苦手なので、この2目はどのタイミングでとっていいのかわかりません。 出入りで10目ぐらいありそうだと思うのですが、どうでしょうか?

  • 猫の毛(1本)の色

    トラネコやぶち猫など何色かの色が混ざっている猫の毛を 1本で観察した時、どのような色になっているのでしょうか。 家のグレーと白のトラ柄の子は、根元の方がほとんど白で 毛先のみ黒です。 だから全体的にはグレーと白にみえるようです。 例えば、茶トラも先っちょだけ茶色で根元は白なのですか? 以前飼っていたサバトラは根元が茶色で先が黒になっていた ような気がするんですけど... それから、トラネコ以外のぶちとか白黒の猫は 色のついているところの毛は1本全部が黒とか茶色なんでしょうか。 それから、家の猫は一般的な日本猫より少し毛が長いのですが 短毛の猫でも1本が黒(または茶)と白にわかれている猫がいるのでしょうか。 遺伝的なことは自分で調べられましたので できれば実際にどうなっているかを にゃんこを飼っている方や専門の方に 教えていただけますとうれしいです。

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  • 猫の毛の色について(黒とグレー)

    実家で、母が保護した子猫2匹を3ヶ月前くらいから飼い始めたそうで 先日私も初めてその子たちを見てきました。 猫の模様とかよく分からないんですが、ブチっていうんでしょうか 1匹は全体が黒で、鼻の周りからお腹にかけてと足先が白、 もう1匹も同じような感じで、全体の毛の色がグレーです。 で、その子たちを見ていてちょっと疑問に思ったことがあります。 1.黒い方の子をナデナデしていて、何気にちょっと毛を掻き分けて地肌の方を見てみたんですが  毛が黒いのは表面(先)の方だけで、根元の方は薄い茶色~グレー(白っぽい)感じでした。  黒い猫は根元の方まで全部黒いと思ってたので意外でした。  うちの子は雑種だし、よーく見ると黒い毛の部分も黒1色ではなくて  黒と濃い(かなり黒に近い)茶色のしましま模様みたいになっています。  背中は黒1色ですが、両サイドだけうっすら柄がある感じです。  雑種の子だと一見黒い毛に見えても、根元の方は茶色とか白っぽいことも結構あるんでしょうか?  黒猫の毛は根元まで真っ黒なんでしょうか? 2.兄が自分のブログに実家の猫たちの写真を載せたそうなんですが  グレーの猫について『この模様でこの色の猫はとっても珍しいですね。日本猫なんですか?』  とのコメントをいただいたそうです。  グレーの子の毛の色はそんなに濃い感じではない、白っぽい感じのグレーです。  病院の先生の話では普通の雑種猫ですよ、とのことだったのですが  本当にこの柄でグレーの毛色って珍しいんでしょうか? ふと、気になりました。あまり猫に詳しくない私に教えてください。

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  • 19路の根拠とコミ6目半の根拠

    囲碁は19路の碁盤を使い、終局後に白(後手)の陣地を6目半加算します。これでイーブンだそうです。 さて、、、 質問A:18路盤を使うと、黒が有利ですか? 質問B:20路盤を使うと、白が有利ですか? 質問C:9路盤を使ってコミ7目半だと、どっちが有利ですか?黒が有利ですか? 質問D:25路盤を使ってコミ5目半だと、どっちが有利ですか?黒が有利ですか?

  • 行を挿入してもリンクしている表が変化しないのはなぜ

    リンクさせている表で片方の表に行を挿入するとリンクされているシートにも行は挿入さないのはなぜ 2つのシートがあって、1つめのシートにはリストが、2つめのシートには1つめのシートのリストを3行表示にさせたく思っています。 1つめのリストに空白の行挿入すると2つめのシートには空白の行が挿入されないのです。どうすれば2つめのシートに空白行を挿入できますか 例 <シート1>  赤1 リンゴ 赤2 ミカン 赤3 柿 赤4 梨 赤5 栗 白1 スイカ 白2 メロン 白3 イチゴ 白4 トマト 白5 バナナ 黒1 ブドウ 黒2 パイン 黒3 桃 黒4 マンゴー 黒5 キウィ <シート2> 赤1 リンゴ  白1 スイカ  黒1 ブドウ 赤2 ミカン  白2 メロン  黒2 パイン   赤3 柿    白3 イチゴ  黒3 桃 赤4 梨    白4 トマト   黒4 マンゴー 赤5 栗    白5 バナナ  黒5 キウィ <シート2>のセルには =シート1!A1 =シート1!B1 =シート1!A6 =シート1!B6 =シート1!A11 =シート1!B11 =シート1!A2 =シート1!B2 =シート1!A7 =シート1!B7 =シート1!A12 =シート1!B12 =シート1!A3 =シート1!B3 =シート1!A8 =シート1!B8 =シート1!A13 =シート1!B13 =シート1!A4 =シート1!B4 =シート1!A9 =シート1!B9 =シート1!A14 =シート1!B14 =シート1!A5 =シート1!B5 =シート1!A10 =シート1!B10 =シート1!A15 =シート1!B15 そこでシート1の6行めに空白を挿入して 赤1 リンゴ 赤2 ミカン 赤3 柿 赤4 梨 赤5 栗 <空白行を挿入> 白1 スイカ 白2 メロン 白3 イチゴ 白4 トマト 白5 バナナ 黒1 ブドウ 黒2 パイン 黒3 桃 黒4 マンゴー で <シート2> 赤1 リンゴ           白5 バナナ   赤2 ミカン  白1 スイカ   黒1 ブドウ   赤3 柿    白2 メロン   黒2 パイン  赤4 梨    白3 イチゴ   黒3 桃 赤5 栗    白4 トマト   黒4 マンゴー と<シート2>と表示させたいのですが、どうしても当初の表になるのです 空白挿入はできないのでしょうか?