• ベストアンサー

ゾロアスター教は一神教?

ゾロアスター教は一神教でしょうか? 光と影の神はコインの裏表の存在でしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.2

ゾロアスター教が、一神教であるのか多神教であるのかは、単純に言えません。 そもそもゾロアスター教の成立時は、善悪を伴う二元論的一神教として成立しています。 最高神「アフラ・マズラ」の下に善神「スパンタ・マンユ」と、悪神「アンラ・マンユ」の二神とその神族が争い、最終的に善神スパンタマンユが勝利し、統一されるというのが、ゾロアスター教の考え方でした。 これは、キリスト教における、「神とサタンとの戦い、最後の審判」のモデルとなったと言われています。 悪神アンラ・マンユも、アフラ・マズラという絶対神の中で動いていますので、「アフラ・マズラ」による一神教と言えます。 ところが、ヘレニズム時代に、ギリシャ哲学がペルシャに入り、肉体と精神についての理論が活発になります。 この時、キリスト教世界では、グノーシス的考え方が顕著になります。 現世を、「精神と肉体の対立の場」と考えるようになります。 ゾロアスター教も、そのような環境で変化します。 ササン朝時代、最高神「アフラ・マズラ」(オーフルマズド)の地位が低下し、悪神「アンラ・マンユ」(アフリマン)と並んでしまいます。 つまり、善と悪が、対等な関係になってしまったのです。 これは、マニ教の影響もあったと思われます。 この時点で、ゾロアスター教の一神教としての性格は無くなります。 善(光・精神)と悪(闇・肉体)が、それぞれの一族を率いて、現世で戦う多神教となってしまうのです。 ササン朝時代のゾロアスター教を、アケメネス朝時代のゾロアスター教と区別する必要がある時は、特に「ズルワーン教」と言います。 現在のゾロアスター教徒は、インドのムンバイ周辺に居住して、パーシ(ペルシャ)と呼ばれています。 現在では、一神教的性格が、強く出ているようです。 で、回答ですが、 ゾロアスター教は、時代により、一神教的性格が強くでたり、多神教的性格が強く出た宗教です。 >光と影の神はコインの裏表の存在でしょうか? これに関しては、絶対的二元論(光と影は、永久に別物)、相対的二元論(影は光より生じた)、一神教的考え方(光も影も絶対神が創造した)、多神教的考え方(光も影も多数のうちの一つ)、グノーシス的考え方(光に対し反逆した者が、影となった)、ギリシャ哲学的考え方(影により光が囚われて現世ができた)により、微妙に異なりますので、ご自分で考えてみてください。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

その他の回答 (1)

  • porilin
  • ベストアンサー率22% (142/632)
回答No.1
noname#19961
質問者

お礼

ありがとう。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • ゾロアスター教について。

    おはようございます。 ゾロアスター教について、ご教授頂ければ、幸いです。 「(古代の人々は)「武力で「掠奪」を欲しいままにする人たち」を「悪」と見做し、それに対抗する者を「善」と考えた(そのように「神」を設定した)」・・・ここまでは読めたのですが、その先が、まだ読めていません。 ゾロアスター教的には、何が善で、何が悪なのでしょうか。 よろしくお願いいたします。

  • 「一神教」及び「一神教の神」に付いてお尋ねします。一般的には「ユダヤ教

    「一神教」及び「一神教の神」に付いてお尋ねします。一般的には「ユダヤ教」・「キリスト教」・「イスラム教」は所謂「一神教」と言われている様ですが,「一神教」の正確な定義を教えて下さい。更に「一神教」と似た表現に「唯一神」・「単一神」・「拝一神」等が有るようですが,これらと「一神教」との基本的な違いも教えて下さい。次に「一神教の神」に関してお尋ねします。「ユダヤ教」の神(エホヴァ/ヤハベ/アドナイ等)「キリスト教」の神(God)及び「イスラム教」の神(アッラー)は同一の神なのでしょうか。併せて回答お願いします。以上宜しくお願いします。但し,宗教に関する質問をしますと,主観的な回答をされる方(と言うよりは寧ろ盲目的乃至「おたくっぽい」回答が多数)がいますが,是非信者以外の者でも理解しやすい客観的な回答をお願いします。

  • 一神教のイスラムキリスト教について

    一神教のイスラムやキリストは、この世の中には 存在する神はアラーやイエスキリストしかいないと 言い張っていますよね。 日本人は、多神教の民族で、たとえば草木や食べ物 または大地や自然現象にも神が宿っていると お祈りしたりします。 つまり、日本人の場合は、ありとあらゆる物質的なものに 対して神様が宿ると考えるメンタリティがあります。 私が一神教の人に教えてほしいのは、「食べ物」なんかには 神様が宿るとは考えないのでしょうか?

  • イスラム教って一神教何ですか?

    イスラム教って一神教何ですか? そもそもアッラーって神ではなく生身の人間だったのでは? イエスキリストも生きた生身の人間なのに神なの?違いますよね。イエスキリストは預言者ですよね アッラーも預言者では?アッラーは神ではないのでイスラム教は一神教ではないのでは?

  • 多神教は 一神教と違うと思っていませんか?

     1. この問いは 個人にとっての信仰については ほとんど脇に措いておきます。  社会のナラハシとしての宗教を扱います。  2. だとすれば 商人がお稲荷さんを拝もうと その妻が極楽浄土の阿弥陀仏に帰依すると言おうと あるいは天国を夢見て教会でアーメンと唱えようと それぞれみな 一神教でしかない。  3. 狐や仏さんや神さんをいだくというその姿としては それぞれ一つの神を信じることでしかない。  4. 自身が経営の神様なる松下幸之助がどんな神を受け容れていたか知りませんが 仮りに自分がよいと思った神をみな信じていたとしましょう。すると だから 多神教となるか?  5. なりません。神さま仏さまお金さま等々すべての神々を おのれという一人の人間が人格全体として統覚するかたちで信じていると見る限りで それらはまとまって一つの神であるはずです。さもなければ 分裂状態か さぞうまく信じ分け使い分けていることになります。  6. 一つの社会ないし国として多神教を標榜しているという場合にも 実際の情況は 一神教の状態に同じです。  7. なぜなら その集団としてまとまって《一神教より多神教のほうがすぐれている》と宣言したそのとき その多神教社会は よそから見れば 一神教状態にほかならない。  8. 言いかえると 多神教社会は 一神教を自分たちの社会の中に輸入した場合には 多神教主義という一神教の中に従属するかたちでしか存続させないのだから。  9. もっと言えば 日本は 多神教ではなく 日本教という一神教であり その基にいろんな宗教・宗派が――マルクス教や反日教などをもふくめて――支部をつくっているというに過ぎない。  いかに?

  • 一神教では悪魔もいないの?

    一神教では、神様一人だけなのでしょうか? 悪魔や神の使いもいないのでしょうか? 神様1人がこの世を作り上げ、1人でいるのでしょうか?

  • 多神教は もし宗教であるなら 一神教ではないか?

     1. 多神教は もし宗教であるなら 一神教ではないか?  2. 多くの神々から成りつつその多神のまとまったかたちは 全体としてひとつの神 すなわち《唯一神》なのではないか?  3. クリスチアニズムのような特にはっきりと唯一神をかかげる宗教に相い対したばあい 相手を《あなたは 一神教である。ゆえに どうだこうだ。うんぬん》というふうに述べるその視点は やはり一神教としての立ち場にもとづくものではないのか?  3-1. けっきょく 一神教 vs.一神教という図式になっているのではないか?  4. あるいはただし そのときさらに込み入った状態・情況が派生していると思われる。  4-1. すなわち 多神教の側は――というのははっきり言えば 日本人の日本教を捉えて言っているのですが その八百万の神々を擁する唯一神体制の側からは―― その神々の中に ブッダもヤハヱーもクリストスもアッラーフもあるいは 《無い神》もコミュニストの無神もぜんぶ入っている。  4-2. マジワリをつうじて入って来る神はすべて その多神制の内にひっくるめたかたちで それらが全体としてひとつなる神と成っている。  4-3. つまり 《一神教》ではないのか? その多神体制よりほかには 宗教のかたちはあり得ないとまで思っているとすれば 明らかに一神教ではないか?  5. と問うたのちに――いえ 問うと同時に―― では 宗教をめぐる寛容とは どういう姿が描かれるか? これを問います。

  • イスラム・キリスト 一神教における信仰

    イスラム教とキリスト教はどちらも一神教ですが、前者は厳格な一神教であり、唯一神以外の信仰を認めていないのに対し後者は三位一体説をとなえ神そのもの以外も信仰の対象としています。この違いはどこからくるのでしょうか。また、なぜイスラム教はそのような厳格な一神教になったのでしょうか。

  • 一神教と多神教を生み出す環境の違い

    宗教には一神教と多神教があります。 高校のときの社会の先生は、それが生まれる背景を次のように説明してくれました。 「砂漠のように何もない世界では一神教が生まれる。日本のように四季があって自然が豊かな世界では多神教が生まれる」 当時はなるほどと納得したのですが、今考えると、そんな単純ではないと思います。 一神教と多神教が生まれる環境というか、背景というか、生まれる要因としてはどのようなものがあるのでしょうか? また、一神教の神は戒律が厳しいといわれますが、どうして厳しくなってしまうのでしょうか? 神についての概念は両者で大きく違うと思いますが、一緒に論じてよいものなのでしょうか? いろいろと疑問を書きましたが、神に関することなら何でもよいので書き込んでください。 よろしくお願いします。

  • ソクラテスのダイモニオン信仰とユダヤの一神教の関係

    ソクラテスのダイモニオン信仰と、ユダヤの一神教の関係について教えてください。 http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/sokuratesu3.html 上記ホームページを読ませていただいて、そこからうまれた疑問です。 クセノフォーンの『ソクラテスの思い出』四巻の三などをみると、たしかに『創世記』と一致するような記述が見られます。 まさしく聖書の神は、ソクラテスの言う神のように、人間に寄り添った神のように思われました。 「「だが君は知っているだろう、われわれはまず第一に光がある必要であるが、これを神々はわれわれのためにととのえてくださってある。」 これなどは旧約聖書の『創世記』の「光あれ」を思わせる。」 なるほどと思いました。 しかし素朴な疑問なのですが、 「キリスト教はその意味では、ユダヤの一神教をソクラテス的に解釈したともいえる。ローマの支配下にあったイスラエルでキリスト教は誕生し、主にローマで発展したその本当の理由は、キリスト教がソクラテスからプラトン・アリストテレスにつながる古代ギリシャ哲学による一神教の解釈だったからに他ならない。」 『創世記』などは、キリスト教がうまれる以前に成立している、まずユダヤの一神教のための聖典だと理解しています。 上記ホームページの記載による、キリスト・ユダヤ教の区分において、古代ギリシア哲学が影響を及ぼしているという図式に、ずれが生じているように思います。 「こうした世界観は後のキリスト教の形成に大きな影響を与えている。本来ユダヤ教は、人間と神との間に大きな断絶があり、人間は神の痕跡しか知りえない。それを解釈するのは賢者(ラビ)の役割となるが、賢者(ラビ)はあくまで人間にすぎないため、その解釈は相対化される。これに対し、キリスト教は、イエスが神の子として直接神の言葉を伝達することで、神と人間は言葉(ロゴス)を通じて対話できる存在となる一方で、神は人間を超越した自然的な存在ではなく、より人間的な存在になる。」 これは、創世記がいつ成立したか?http://okwave.jp/qa/q6640649.htmlというような問題とからめて、 旧約聖書の成立においても、ソクラテスのダイモーンが影響していると考えたらよいのでしょうか。 それとも、古代ギリシア哲学のほうが、ユダヤ教のテキストのような神の概念に影響されているということでしょうか。 感覚的に言って、「旧約」より「新約」のほうが、神が人間にちかづいたような印象をうけます。 その上で、古代ギリシア哲学と、一神教の関係について、ソクラテスのダイモーンとユダヤ・キリスト教の「神」の関係について、より詳細な情報を頂戴したく思います。 よろしくおねがいいたします。