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「に」の識別

古典の文法書には連体形に接続する格助詞と接続助詞の識別に関して、連体形の後に体言が補えるか否かが判定のポイントであると説明してあります。それで納得している方も多いようなのですが、私には納得いきません。体言は補う気になればいつでも補える気が私にはするのですが・・・。

  • jasko
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みんなの回答

  • shiremono
  • ベストアンサー率70% (187/267)
回答No.5

「弓射ることを習ふに」 が 「習うので」 なのか 「習う時に」 なのかを決定する文脈的な根拠はありません。自然な解釈になれば、どちらでもよいはずです。 ただし、上代の文の場合 (万葉集など) だけは、接続助詞としての用法がまだ分化していないとされるので、接続助詞として解釈できても格助詞として処理するのだそうです。 「弓を射ることを習うのに、二つの矢を指に挟んで」 は、 「このことを嘆くのに」 と同じく 「のに」 で訳していますが、この文だったら現代語として不自然ではありません。 「旅行するのに必要なもの」 (新明解国語辞典 第三版) と同じ使い方で、 「ために」 や 「上で」 といいかえられるのでしょうか。 それでいて、なるほど文法的な解釈はあいまいです。 あてはまる用例がわからないのですが、格助詞 (目的) として解釈していることになりそうです。

jasko
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 「自然」か「自然」でないかの判断は難しいです。 「旅行するので必要なもの」という言い方も存在しますから。 「旅行のしおり」に記載する場合なら「上で」かなぁ……

noname#160411
noname#160411
回答No.4

「に」は格助詞から接続助詞の用法が派生したものなので、特に過渡期のものは見分けにくい、というかどちらともとれるものが多いですね。 >連体形の後に体言が補えるか否かが判定のポイントであると説明してあります。それで納得している方も多いようなのですが、私には納得いきません。 質問者さんと同様、私もそれで十分だとは思いません。人に説明するときにはポイントの「一つ」としています。 識別のポイントとしてはもう二点あると思います。 ・「ニ」と訳した方が自然なら格助詞。 ・「ノデ・カラ(原因理由)」「ト・トコロ(単純接続)」「ガ・ノニ・ケレドモ(逆接)」と訳した方が自然なら接続助詞。 こうすると、「ニ」と訳す方には体言を補うことになります。 ・格助詞は基本的に単語と単語の関係を表す。(「山『に』入る」) ・接続助詞は基本的に句と句の関係を表すので、「に」の前後を二つの文に分けて、しかも「に」の部分を接続詞で言い換えることができる。(原因理由なら「だから、それで」、単純接続なら「すると」、逆接なら「しかし」) また、格助詞は基本的に体言接続なので、連体形に接続する例はさほど多くないと思います。少なくとも >補う気になれば補える ような時は補わないもの、と考えた方が無難です。 これでお手元の例文に当てはめてみて下さい。どちらにしても >一刀両断的に識別できる ものではないと私も思います。

jasko
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 やはり体言を補えるか否かという単純なものではないということですね。 三点セットで攻める必要がない場合は「のに」でスルーする方法もまんざら悪くないということなのでしょうか。

  • shiremono
  • ベストアンサー率70% (187/267)
回答No.3

「このことを嘆くに老いぬる心地す」 の出典がわかりませんでした。恥ずかしいのもさることながら、おかげで回答にいまひとつ自信がもてません。 「マドンナ古文」 の内容がまちがっているということは考えにくいのですが、少なくとも 「このことを嘆く、それに老いた気がする」 は、このままでは現代語の文としてでたらめです。 「に」 を格助詞として解釈するなら、質問者さんのように、 「このことを嘆く時に、老いた気がする」 とすべきところです。 その上で、 「このことを嘆く時に、老いた気がする」 という現代語の文も、よくよく考えると不自然ではないでしょうか。 格助詞の 「に」 があらわすのは、 「動作が行われる時」 です。 しかし、この例文の前半が 「いつ老いた気がするのか」 を説明しているとは、考えにくいのです。 「このことを嘆く」 と 「老いぬる心地す」 の間には、前後関係をみとめるのが自然だと思います。 だとすれば、単純接続で 「このことを嘆くと老いた気がする」 とすればよいのです。 もっといえば、「このことを嘆くせいで老いた気がする」 と、原因・理由で解釈してもよいかもしれません。   一方、「このことを嘆くのに、老いた気がする」 では、現代語の文としての意味が正確に伝わりません(もちろん質問者さんはわざとあいまいにしてみたわけですが)。さらに悪いこととして、 「のに」 は逆接としても読むことができます。こういう書き方は、よほど自信がないときでもなければ、しない方がよいでしょう。 ご参考までに、接続助詞か格助詞か区別しにくいとされる例文を辞書からあげておきます。 「弓射ることを習ふに、もろ矢をたばさみて」( 徒然草 92 「古語林」 ) 「賀茂の競べ馬を見侍りしに、車の前に雑人立ち隔てて見えざりしかば」( 徒然草 41 「古語辞典 改訂新版」 旺文社 ) 「旅にしてもの恋しきに山下の赤のそほ舟沖に漕ぐ見ゆ」( 万葉集 3・270 「全訳読解古語辞典」 三省堂 )

jasko
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 「弓射ることを習ふに、もろ矢をたばさみて」 仮に「弓を射ることを習うのに、二つの矢を指に挟んで」と訳をしても、逆接に解釈する人は少ないと思われます。 ご指摘の通り文法的には曖昧なままにしてスルーしている訳です。 文脈から「習うので」や「習う目的で」よりも「習うために」を、更には「習う時に」をよしとする確たる根拠は存在するのでしょうか。 卵(文法)が先か鶏(用例)が先かといわれたら、鶏が先だから……?

  • shiremono
  • ベストアンサー率70% (187/267)
回答No.2

「帰るに、友来たり」 は、接続助詞として解釈すれば、単純接続の用法です。たしかに、格助詞として解釈できなくもありません。 接続助詞 「に」 の単純接続や順接の用法は、ある辞書などの解釈で接続助詞とされていた箇所がべつの本をみると格助詞とされていることがあるように、格助詞と区別しにくいものです。 これは、接続助詞の 「に」 が格助詞から派生したもので、使っていた当時の人たちにしてみればそれらを区別する必要もなかったことによるのでしょう。 逆接の用法をまちがえないことが肝心だと思います。 ちなみに、わたしのもっている辞書の説明は、次のとおりです。  (例) 「寄りて見るに、筒の中光たり」  「見るに」 は 「見るときに」 と補えないこともないが、 「見ると」 の方が自然で、補わない方がよい。  本来、接続助詞の 「に」 は格助詞から転じたので、無理に 「こと」 「とき」 などを補おうとすれば補えるのである。  補わなければ訳せないのが格助詞、補わない方が自然なのが接続助詞と考えるとよい。 ( 『古語林』 大修館書店 )

jasko
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 かのマドンナ古文では 「このことを嘆くに老いぬる心地す。」の例文を引き 「このことを嘆く、それに老いた気がする」と解釈すると不自然だから、格助詞ではないとしています。 とはいえ、「このことを嘆く時に、老いた気がする」と解釈できないとは言い切れないと思うのです。 それなのに一刀両断的に識別できるかのように謳う辞書や受験参考書は理不尽ではないかと感じます。 こういうケースは取りあえず「このことを嘆くのに、老いた気がする」とだけ訳しておけば、 格助詞か接続助詞の識別まで問われることはないと考えてよいのでしょうか。

  • banzaiA
  • ベストアンサー率16% (100/595)
回答No.1

確かに、格助詞と接続助詞の判別は難しいところがあります。 体言を補えるか否かの判別ではありますが、 ここはテクニックだけに頼るのではなく、原点に戻って考えることをお勧めします。 格助詞の働きと接続助詞の働きの違いを、再度認識してください。格助詞の「格」の意味を調べてみてください。

jasko
質問者

お礼

アドバイスありがとうございます。 たとえば「帰るに、友来たり」の場合、「帰ると友達が来た」のか「帰った時に友達が来た」のかの区別なんてつくんでしょうか? 文と文とを接続しているのか、文の中の格を表しているのかの区別を、機械的につける方法はない気がするのに、どの辞書にも「体言が補えるか否か」で区別するって説明してあるだけなのは、理不尽な気がするのです……。

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