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神の怒りについて

kigurumiの回答

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回答No.6

No.3です。 未読の本が山積みなので、怒りの葡萄は相変わらず読んでいませんが ^^; 参考になりそうなサイト見つけました。 http://home.hiroshima-u.ac.jp/nkaoru/Grapes.html http://www.bekkoame.ne.jp/~darts/pagej030.html 人によって<怒りの葡萄>の解釈が違うようです。 例えば上に張ったリンクの下の方には <ぶどう園で働く労務者を毎日集めにくる手配師はマタイ伝に「天の御国」のようなものであると記されている「主人」と呼応していて、彼は自らまめに労務者を労働に励まし、その労働時間にかかわらず一律賃金を与えるが、「怒りの葡萄」の手配師はこれの逆に、終始威圧的な態度で労働者を募り、一律だが信じがたいような低賃金しかやらない。聖書を逆手にとった皮肉と言える。> 理想と現実世界で起こっていることの差を指摘しているのかしら? 上に張ったリンクの上の方のサイトでは <人びとの目の中には、失敗の色がうかび、飢えた人びとの目の中にはしだいにわきあがる激怒の色がある。人びとの魂の中には、怒りのブドウが、しだいに満ちて、おびただしく実っていく。収穫のときをめざして、しだいにおびただしく実っていくのだ。> 収穫の時とは光と闇の戦いが起こり、光がついに勝利し、平等が訪れるというヨハネの黙示録を期待するものだと思えます。 「今すぐ奴らを裁いて懲らしめてください。神様」という感じでしょうか。 聖書にあるストーリー。 ぶどう園の所有者(聖書でいけば神)がぶどう園の小作人(聖書でいけば人間)に収穫の代金を回収するため派遣したら、小作人は支払いを惜しみ、所有者が送った人に暴行を加え追い払います。 何度か派遣したが、使者はだんだんひど目に合わされ帰ってくる。 では自分の息子を直に送り込めば、息子に敬意を払って支払ってくれるだろうと思ったが、農奴は後継者の息子を殺せば、やがてこの土地は自分たちのものになるとして、派遣された息子を殺してしまった。 これがヨハネの黙示録に繋がっていくのだと思えます。 ヨハネの黙示録は神同士の最終戦争が起こり、光の子が闇の子を打ち砕き、天の国が地上に降りて新しいイスラエルができると預言されているものです。 (これがハルマゲドン伝説の元ネタです) >私なりの解釈では、罪のある葡萄の木の実である葡萄の汁を飲むことによって >(=キリストの血)それをアクセプトしているという意味、つまり許した、 >許された、ということではないでしょうか。 うーーん 私はキリスト教徒じゃないので、ほんとのところはわからないのですが、本を読む限り、キリスト教を受け入れる誓いの儀式、聖餐式の時にぶどう酒を飲むようです。 聖餐式は古代の生け贄の模倣ですので、イエスを食べて自分の中に取り込む つまり 「キリスト教に人生を託すことを契約する・宣誓する・絶対に裏切りません もし 裏切ったら即刻処刑にされてもかまいません」くらいの強くキリスト教に確固たる自信と信頼を表す儀式だと思えます。 つまり、自分はもう死んだとすること。 日本でも結婚の時に白無垢を着ますよね。 あれはなにかというと死体の模倣です。苦笑 嫁に行くことは自分の人生はそこで終った・死んだとし、それを表す意味で、全身死体のように真っ白に塗って死んだことを表すらしいです。 もう死んだので、自分の意志はもうなく、嫁に行った先になすがままにされるということを意味します。 死体なので、意志は無いですから。 つまり処刑みたいなもの。 (今じゃ離婚は不思議でもなんでもないですが、昔は財産も持たない女は、離婚=餓死。生きていくために死体になったような心境にならなければ生き延びられなかったのでしょう) >キリストは皆(罪人)の身代わりになったのではありませんか。 どうなのでしょう。 キリスト教がこの世から抹殺したはずの文章が土の中から出てきて解読が進んでいますよね。 異端の文書として破棄されたはずの文章の一つ、ユダの福音書。 そこには、イエスは死ぬためにユダにサポートしてもらったと書いてあります。 死こそ絶対な自由であるという思想が現れており、この世を救うために身代わりになるなど、書いていないのです。 ユダはイエスに説得され、彼が死刑になるよう彼のために援助したと書かれています。 一番イエスを理解していたのはユダだったということになります。 だから、キリスト教は初期のうちに、この文書を破棄させたわけです。 >キリストが自分の血だと言って、自分の肉だと言って教徒に与えるものには、 >「これで帳消しですよ。」「あなたたちの罪はもう終わりました。」 >ということではないのかと考えます。 うーーん キリスト教の教義では、イエスが2000年前に人間の原罪を消したとなっていますので、今更ぶどう酒を飲んだところで、もう2000年前に原罪はきえているので、聖餐式は原罪を消すためにやっているわけじゃないようです。 聖餐 つまり聖なる食事。 つまり生け贄の儀式の模倣で、生け贄となった聖なる生け贄を食べる儀式の模倣としか思えません。 えっと、あれから調べてみましたが、天使が葡萄を刈り取り怒りの葡萄の桶に入れるという意味は、この怒りの葡萄とは全く違う意味だったようです。 キリスト教の教義では、ハルマゲドン願望ですが、実際は、、、話し長くなるので手短に言うと、イエスは死んでいませんでした。 ローマに行き そこで宣教をしていたようです。 ヨハネの黙示録から 「そこで、その天使は、地に鎌を投げ入れて地上の葡萄を刈りいれ、そして神の怒りの大きな葡萄搾り桶に投げ入れた。そしてその搾り桶は、都の外で踏まれ、そして、血が絞り桶から流れ出て、馬のくつわに届くほどに、1600スタディオンにわたって広がった」 ローマで入会式をやって信者を集めていったので、血 つまり イエス派はローマにどんどん広がっていったって意味にも解釈できます。 そうなると、ああ スタインベック・・・。 ヨハネの黙示録をシュール文学として読むか、歴史書として読むかで全然違った解釈になってしまうようです。 キリスト教はその内容は史実ではなくシュール文学として読んだようです。

oignon
質問者

お礼

ありがとうございました。これでとてもすっきりしました。

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