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自ら死を選ぶのはよくないことか?

starfloraの回答

  • starflora
  • ベストアンサー率61% (647/1050)
回答No.9

    わたしは、この種類の質問には、原則一回しか回答しないことにしているのですが、「自殺」という、実存存在である人間が持つ究極的な「意志の自由の行使」の是非を、中世西欧の異端審問官のような詭弁的議論で否定しようという人がいるならば、そういう非道で反理性的な議論は肯定できないと明確に述べる必要があるでしょう。中世西欧の異端審問官の論理は、「魂を救うため」「肉体を苦しめ、滅ぼし、火で生きたまま焼いても」、その人の「魂」には、「善を施しているのだ」という論理です。     人間は社会的存在であり、社会共同体の網の目のなかで自己の存在があるものです。そのような人間が「自殺を意志する」ということの意味は、ただ、肉体の生命を放棄する、生を自分で終焉させるというだけではなく、実は、「内面の底までも社会的存在である自己」を、まさに否定するという意志決断の意味があるのです。こういうことを明瞭に自覚して自殺する人は、少ないかも知れませんが、例えば、中高年者の孤独自殺とか、失業者の自殺などの例が多いということは、これはまさに、「社会的関係にあるはずの自己の存在が、十全でなく、社会的存在として、死んだも同然である」と痛切に思えた時、まさに社会的存在であるが故に、社会的存在としての「生きる意義」が見出せない状態に耐えられなく、このまま「社会的存在死者」として生き続けるのは辛いので、辛いこの自己も消して、社会的存在死者たることの悲しみ・苦痛・悲痛・絶望から救われたいという思いがあることがあるのです。     人間はその内面までも社会的存在であるが故、逆に「自己の社会的存在性を否定するため」の自殺があるのです。生きている限り社会的存在であることから逃れられない、生きている限り、いかに薄くなっても、様々な人との社会的関係から逃れられない……このため、それから逃れるために、まさに、どんな社会も他人も追ってこれない彼方……「死の彼方」へと逃れるという形の自殺意志があるのです。まさに社会的存在が人間であるが故、この場合の自殺は、「自己の誇り、自己の意識ある人間たる尊厳を守るための」自殺だとも言えるのです。(死んでしまえば「意識もなくなる」と言っても、その「社会的痛苦に耐え難い意識」を消すために自殺を選ぶのです)。     「尊厳死」の「尊厳」とは何のことかと言えば、「社会的存在としての人間の尊厳」の謂いなのです。その「尊厳」を守るための「死」を認めると言うのは、人間は「社会的尊厳を守るため、時には死を選び」そして、その行為が称賛される場合もあるのです。例えば、ニューヨークの国際貿易センタービルの事件の時、大勢の警官や消防隊員がビルに決死で入って行き、殉職しました。いまにも倒壊するか、熱が回って危険になるビルに突入し、避難者誘導のため、高い階層に登るなど、「自殺行為」でしょう。少なくとも、生命の危険を大きくかけている行為です。単に職務としてでなく、積極的に、そうした人が大勢いたはずです。その時、彼らは「自殺行為」に敢えて向かったとも言えるのです。しかし、そうして殉職した人々を、誰も、非難などしません。むしろ、称賛しているはずです。そういうことをすると、9割以上危険なことが分かっていて、敢えて、遭難者を救いにでかけ、二次遭難で死んだ人にも、非難の声はありません。自己の社会的存在であることを実現するために死をも選んだ人を称賛する他方、自己の社会的存在の故に、その完成(社会的関係の完全な断絶も完成なのです)を求めて自殺する人が、何故非難されねばならないのか、ということです。     人間は社会的存在であるが故に、自殺的行為をして、称賛される場合があるのです。ならば、社会的存在としての自己への絶望故に、社会的存在の網の目から脱しようと自殺する場合、前者は「社会に寄与するが」、「後者は社会に寄与しない」ので否定するという理屈は、おかしいものとなるでしょう。     近代以前の社会は、「個人」は「社会の道具」としてあったのであり、道具が勝手に道具をやめるのはけしからぬという理屈があったのです。しかし、個人は、社会の道具でもなく、他人の道具でもなく、つまり、個人の実存は、それ自体が「目的」で、何かの手段ではないのです。実存である「目的としての自己」を完成させるに、自殺しかないというのは、哀しいことかも知れませんが、それを「社会の道具・手段である個人」が勝手に死ぬのは社会や他者ににとって迷惑だ・罪だというのは、恐るべき発想でしょう。     そういう何気ない、当たり前だと思っている考えが、大勢の人の「社会的存在意味の喪失感」をもたらし、中高年者の自殺などを誘導していると言うのが事実でしょう。人間は社会的存在だから、社会の役に立つ人間が人間であって、そうでない人間は、死ねという訳にはいかないが、社会にとって不要なので、無視され、誰も訪ねることもなく、何も期待されず、この時、実存としての人は、まさに、「自己の最後の尊厳」のため、乞食のような姿で死ぬことは避けたいと思い、まだ、見苦しくない形で死ねる時に「自殺」して、自分を必要としなくなった社会から消えて、死ぬことで「社会のためになろう」という考えがもしあるなら、何という悲惨で恐ろしいことかということです。そして、このようなことが日常茶飯事にあるこの社会が、どういう社会なのか、そのような社会から「逃れて、絶対の自由を得たい」という人には、まさに、誰も追ってこない「死の向こう」に逃れるしかないでしょう。こういう「自殺」は、まさに自己の「尊厳」のための死で、それに対し、なお、社会的に無責任だとか言うのは、死者に鞭打つ行為とは、こういうものを言うのでしょう。     そのようなことを考え、多くの人は自殺するのではないでしょう。しかし、本人の思考としての自覚は別に、このような状況に他ならない場合というのは、考える以上に多いのだとわたしは思います。     自殺する人は、反社会的だ、などという考えが、そもそも自殺へと人を追いやるのだと言うことが分からないのだろうか、という思いです。  

noname#4470
質問者

お礼

社会的尊厳を維持するが為に「自分のプライド故に」自死をするのは無責任ではなく、これを反社会的だという考えが自死へ追いやる。ということになる。こうなりますか?反対に取ればプライドもかなぐり捨てて生に執着する方が無責任で反社会的だとなるのですか? 文章が難解で私の理解力のなさ故、間違えて解釈していたらごめんなさい。  それから自殺と自殺的行為は明らかに別の行動です。前者は確実に死ぬことを目的としますが、後者は1/100でも生きる可能性があれば、生き抜く努力と意志があり生き抜くことを目的とします。

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