• ベストアンサー

いけにえは必要かしら?

イエスさんは、みんなの罪のために死んだといわれているようですね。ボクには余り理解できませんが。 1)キリスト教徒は、イエスさんのことをいけにえの様にとらえているのでしょうか? 2)人間には、いけにえが必要なのでしょうか? やったらやり返すという気持ちは、誰にでも少しはあると思います。この憎しみの連鎖を絶つには、いけにえによる許しが必要でしょうか? いけにえがなければ、人の人情として気が晴れないような気もしますが…

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.6

(1) キリスト教は生け贄という概念では捕らえていませんが、実際はその概念は古代 あの地域一帯であった神への生け贄の儀式そのものです。 http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/sacrifice.html 『鞭打ちと刺殺は豊饒の呪術として、身代わりの王に涙と血を流させるために行われた[註5]。バビロンの聖典は述べている。「もし王が打たれたとき涙を流さなかったら、悪い年の前兆である」[註6]。王あるいは身代わりの王は死ぬとただちに「神になった」。彼は天界に昇り、天界の父(すなわち本来の部族の父を象徴する最初の犠牲者)と一体となった[註7]。おそらく神格化と不死性の特権を得るという約束のもとに、犠牲者は喜んで死を受け入れたのであろう。これと同様の約束がキリスト教の殉教者を引きつけたのとよく似ている。』 2) http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/christos.html 『エッセネ派の人々の間では、キリストなる者は聖職者であって、とくに、「罪をになう人」、「あがない主」と呼ばれた。すなわち、他人の罪をあがなう人であった[註4]。スラブ人の間では、キリストKrstnikは生贄になる英雄を意味すると同時に、また、「のろわれた人」をも意味した。それは、「罪をになう人」が生贄となる前に、儀礼としてその人にのろいをかける習慣が古代にあったからであった』 http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/kingship.html もっと話しは複雑なのだと思いますが、どうしてイエスが王とされ、生け贄とされたことにより身代わりの子羊となった という話ができあがったのかなんとなくわかると思います。 生け贄は神への捧げ者であり、捧げることで国が豊かになる という概念が古代にはあったんです。 3日後に生き返るというのも、その当時 生け贄とされた王は女神の生命のスープに還元され、通常3日で戻ってくるといわれていたから、そういう物語になったんだと思います。 異教の概念がユダヤ人の宗教に入ったからじゃないかと。

anima-mundi
質問者

お礼

ありがとうございます。 「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」 文化人類学的に,なんとなく腑に落ちました。王権神授説みたいですね。王様の力は神から授かったもの。 日本の死んだら仏さんになるというのも何か関係がありそう。 古代に行われたことは,呪術的な意味合いが多かったのでしょうね。十字架刑は,本来,鳥や野犬に召される鳥葬でしたか。しかし,イエスさんは神に召された。神は喜んで召し上がり,罪は贖われた。

anima-mundi
質問者

補足

カントーロヴィッチの「国王ニ体論」というのを見つけました。国王は不死にして不壊の第二の身体を持っている。この第二の身体(政治的身体)が,イエスさんの復活にも当てはまるような気がします。過剰に意味を組み込まれた身体。十字架をお守りのように身に付けるのも,意味過剰な行為ですね。 カインとアベルのように,神様も人によっては,いけにえをもらわないことがある。何とも不条理なことだ。もしかして,イエスさんもいけにえとして機能していないから,カインのように人類に罰が当たり続けているのかも。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

その他の回答 (9)

  • katyan
  • ベストアンサー率9% (201/2029)
回答No.10

ごめんね。死んだままではありません。と書きたかった そしてイエスがよみがえったように信じるものが 新しき人生を歩き出す。

anima-mundi
質問者

お礼

ありがとうございます。 なるほど,そういう意味でしたか。人種差別につながる根源的な宗教のもつ負のドグマですね。 人は全て生まれながらに呪われているのですね。 罪びとはサタニズムを信仰し,神の至福の千年王国が訪れるまで,争いつづける。 最後に生き残るのは一部のキリスト教徒であるのは間違いないと思います。 そのとき人は超人,神人になるのですもの。世紀末がくるまでは,真のキリスト教が訪れることは無いのでしょう。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • bender
  • ベストアンサー率45% (108/236)
回答No.9

> 1)キリスト教徒は、イエスさんのことを... キリストが自身を「いけにえ」とした、ということは聖書に書いてあることです。このこと自体は新約聖書にそのまま書いてあることなので(ヘブライ人への手紙7、9章の終わりの方など、参考URL「ヘブル人への手紙」)、1) は、おおよそ、そのように言って差し支えないように僕は思います。 後半部については、質問の意味は理解できたと思うのですが、キリストが自身をささげたということと、質問された方が書かれている「憎しみ...」ということとでは、「いけにえ」や「許し」の意味するところが同じではないので、前半と後半の質問に脈絡がないように感じます。

参考URL:
http://www.kidok.info/BIBLE/cgi/biblevlist.php?VR=6&FR=H
anima-mundi
質問者

お礼

ありがとうございます。 後でゆっくり読んでみようと思います。 やっぱり,聖書に書いてあるんですね。

anima-mundi
質問者

補足

ユダヤ教では,贖いの日にヤギを生け贄にして罪をかぶせたらしいですね。まさに,スケープゴートですね。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • katyan
  • ベストアンサー率9% (201/2029)
回答No.8

生け贄ではないですね。私たちの代わりに十字架にかかったけれど イエスは死んでいませんからね。 十字架にかかったというより、その行為によって 私たちもまた新しく生まれ変わるんだという確信を持って生きていくものだと思います。あくまで復活されたというのがテーマだと思います

anima-mundi
質問者

お礼

ありがとうございます。 死んでないというのは,一般的なキリスト教とは違う解釈のような気がします。 一度,死ななければ復活も無いのでは? 私たちはイエスさんに騙されていたのでしょうか。死んだふり?仮死状態?

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • Aselia
  • ベストアンサー率14% (24/163)
回答No.7

1の回答) 敬虔な人の場合(予測) 人類がいまだに犯しつづけている罪の贖罪を肩代わりしてくれている(思い込み) 一般的な教徒(予想) 白羽の矢を立てられた不幸な人を哀れんでる ちなみにキリスト教に喧嘩を売っているわけじゃありませんよ? 2の回答)虐めの生贄にされた側としてはあっても別にかまわないかと。 私の場合は社会的に制裁しましたが(生贄じゃないとは言わないで……)それでも回りに迷惑をかけられるよりはましかと。 某国二つほどが核弾頭で回りに憂さ晴らしされても困るでしょ? 特に日本が。 最後の……ふむ……憎しみの連鎖を断ち切る方法…… 一番簡単な方法 他人の意見などお構いなしにスベテを滅ぼし尽くして自分も死ぬ。 一番難しい方法 人類が階梯を一つ登る この場合の階梯は人類がお互いの心を感じ取りお互いを補完すると言う事です。 どちらにしても人類が滅ぶ事には変わりありませんが。 人類から争いをなくせばその結果は滅びしかありえません。 動かないと言う事は何も作らない、ただ朽ち果てるだけなのですから

anima-mundi
質問者

お礼

ありがとうございます。 人柱とかお守りというものは,尊い犠牲ですよね。自分の代わりに犠牲になってくれるものがいたら,どんなに嬉しいことでしょう。お国のために死んでくれる人がいるのも,自己犠牲の尊さを物語っているようにも思います。政治家はえてしてそれを悪用しますが。ローマ教皇も政治家だったのか。 全てを滅ぼすというアイデアは究極ですね。真理だと思います。キリスト教徒だけは,最後の審判で救われるそうですしね。異教徒は殺されるしか手が無いのかもしれない。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.5

キリスト教に興味を持ってはおりますが非キリスト教徒です。理解の足らないところはどうぞご指摘ください。 ■質問(1)について 下の回答者さまも仰られてますが、キリスト教での「いけにえ」というのは、まず「私たち」が「神」に捧げる(大切な)もの、だと思います。 「敵」に殺されたもの、ではありません。 そうすれば殺されることを知っていてなお、神の意志に沿う生き方を貫き、その結果、それを気にくわないと思う人々に殺されたもの、は、自らを捧げた、という意味で「いけにえ」になるかもしれませんが。 しかし、その際、イエスを殺した人々がそれで気が晴れたかどうかは全く関係ないことです。敵の気を晴らすため、民族間の恨みや憎しみを昇華させるためにイエスは十字架にかかりに行ったわけではありません。 イエスは「(敵も含めた)私たち」や「神」のために行ったんです。彼が気にしていたのは敵のことではなく、自分の行為が神の意に適うかどうか、つまり、自分が正しくいけにえとなれるのか、ということではないかと……。 (いけにえ=捧げ物ですから、神がそれを諾と言い、受け取ってくれなければ成立しません) イエスの死が、異なる宗教や民族間の争いに巻き込まれたものなのか、自殺なのか。それとも、神の心に沿っての行為、同朋の罪(神に対する罪ですよ)を贖うために自分の命を神に捧げるという信仰の現れ(=いけにえ)なのか、というのは、キリスト教にとっては重要なことだと思います。 信仰とはいかなるものか、ということの本質に関わってくることだと思いますので。 ■質問(2)について 信仰、つまり、なにか自分たちを超えた大きなもの(神)を信じ、心を委ね、祈るという行いには、「自分の大切なものを神にささげる」というプロセスが必要なのかもしれないなあ、とは思います。 しかしその場合、捧げるものは「人の命」である必要はありません。時間でも、その日の収穫の一部でも構わない。修道士・修道女のように世俗の人間としての幸福を捧げてもいい。 (ユダヤ教の昔は遊牧民だったので、大切なもの=家畜=命=生贄だっただけで。大切なものなら何でも) 人間に信仰が必要ならば、そのプロセスとしての捧げ物・供え物の行為もまた必要であるということは言えるかもしれません。 それが特定の方法(いけにえ)である必要はありませんが。 ■その下の文章について 上記のように考えますと、「やられたらやりかえす」「憎しみの連鎖」を絶つための「いけにえによる許し」というのが、どういうものかよくわからないのです。 「いけにえを捧げれば許してくれる(かもしれない)」相手は「神様」であって、敵ではありませんので。 「神の意志に沿う生き方をし、その結果、それを気にくわないと思う人々に殺されたもの=いけにえ」という図式は、「神の敵とされた人々に殺されれば、それが神の意に適う行いである」という誤解を生みやすいということはあると思います。 ゆえに、争いに巻き込まれて死んだ「自分たちの側の人」を「彼はいけにえになったのだ」と言い張ることによって、相手方に「神の敵」のレッテルを貼り、自分たちの行為を「神の意にかなう行為」として正当化することはなかなか有効な戦術ではないかと。 (敵方にとっては、そのいけにえを神が受け取る理由が成立しないので「なんじゃそら」でしょうけど) 比喩的に、「人知を超えたなにか大きなもの(歴史・運命など)の犠牲になって死んだり損なわれたりしたもの」を「いけにえ」と呼ぶことがあります。 (そのレベルまで抽象化されてしまうと、宗教色はかなり薄くなりますが) 質問者様が想定しておられるのはそのレベルの、双方が認めざるを得ない歴史上の悲劇のようなものなのでしょうか? その場合、その悲劇が正しくいけにえとして、争いの抑止力として機能するためには、少なくとも争いの当事者たちが、自分たちの神や信仰や宗教的世界観による歴史観とは別に、そのような歴史上の悲劇を歴史上の悲劇と認められるだけの共通の歴史意識、世界史意識のようなものが備わらないといけないのではないかと思います。 ……備わってないんじゃないかと思うんですが。 まとまりのない文章で申し訳ありません。

anima-mundi
質問者

お礼

ありがとうございます。 いけにえは確かに人である必要は無いのかも。ただ,人の命が容易に手に入る場合は,ついやってしまうのかも。 例えば,戦争中,朝鮮人を人柱にして埋めて,工事の安全や建造物の安泰のために神に捧げるとか。 私の言ういけにえは,結構あいまいに使っていて,申し訳ない。尊い犠牲者くらいの意味で使っています。人柱や即身仏は,正直,気味が悪い。それだけに力があるのか。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.4

>1)キリスト教徒は、イエスさんのことをいけにえの様にとらえているのでしょうか? 「いけにえ」とは、捧げる事を言います。 キリストの場合、捧げられたわけではありませんから、「いけにえ」とはなりません。 >2)人間には、いけにえが必要なのでしょうか? 必要ありません。 人間で生贄を要求した人は、一握りの暴君しかありません。 しかし、神の中には、生贄がいないと生存できない神がいます。 アスティカやフェニキアの神は、人間を生贄として要求しましたし、ミトラ教では、牛が生贄として捧げられました。 質問者の方は、生贄の意味を取り違えているように思います。

anima-mundi
質問者

お礼

ありがとうございます。 例えば,いけにえでは無いけど,誰もがやりたがらないような汚れ仕事であっても,やる人は必要です。被差別部落のように,そういう忌避仕事をするものの存在を,人は求めているのでは無いでしょうか。 日本や欧米が栄えるためには,アフリカ諸国の犠牲が必要なように。資源さえ出れば,それは富めるもの,資本を持つものが支配する。そのためには混乱し続けさせる。救いの手は,宣教師からはやってこない。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • maddog
  • ベストアンサー率52% (18/34)
回答No.3

すみません; あまり細かく書くと政治カテになってしまうのと、宗教の歴史は長く古く、質問者様のお気づきの通り権力闘争に利用されてる節があます。 根拠となる証拠物件も本人達の手によるものではなく、第三者によって書かれた物がほとんどです。 しかも、何世紀にもわたりかなり歪曲されてる節があり、正確に物事を捉えるには、政治・歴史・宗教といった多方面に渡る多大な資料と解釈が必要です。 それに質問者様のご質問は、心理学に近い部分が強いですので、あらぬ誤解を与えたくなかったので断片的に書いたのですが、不十分だったようで…; あくまで私個人の意見として捉えて頂きたいのですが、全ての根底にあるのは、人間の「欲」です。 あくまで、憎しみとは事実から遠ざける為に利用される「道具」に過ぎません。 人間は感情に左右されがちな生き物ですが、欲と違って憎しみの操りやすさはまた格別です。 事実から遠ざけ、現実を無視させる働きが大きいからです。 人間が報復という行動に出るのは、最終的にそれが自衛となる為です。 報復されない暴力とは、いわば一方的に強者が弱者を潰す虐殺であり、利益を遥かに上回る反撃があるからこそ、平和が維持されるのです。 それでも紛争がなくならないのは、得をする人間がいるからです。 もし本当に、紛争が誰も得をしないのであれば、そんな非効率的システムはとうの昔に淘汰されています。 しかし、当然、大部分の人は戦争をしたがりません。 利益を誘導しようにも、パイは食べる人数が少ない方が得ですし、大部分の人は傷付きたくないと考えます。 そこで出番となるのが憎しみというわけです。 しかも、このシステムは放っておけば憎しみが憎しみを呼ぶ形で、勝手にどんどん増殖します。 仮に生贄を捧げた所で、人間の根源である「欲」は永遠に無くす事は出来ませんので、あくまで一時しのぎにしかなりません。 質問者様のいう憎しみの連鎖を断つ為には、人間の遺伝子が猿から1%以上賢くなるよう、争いの非効率さを全人類一人一人が自覚するまで、進化するしかありません。 まぁ、簡単に言うとNo.1さんが言ったように、飽きるまで待つしかないですね…。 しかし、人間は同時に健忘症ですから…。 食う事より大好きな闘争本能を持った人間が、果たして争いを捨てられるのか…。 私は全人類が滅ぶまで無理だと思います…。

anima-mundi
質問者

お礼

ありがとうございます。 人間は,損得だけでは無いような気がします。ただ,戦争は難しいですね。ルサンチマンが人民に充満していれば,それを政治家は利用するだろうし。 確かに,欲深いものが戦争を起こすのかもしれない。結果はどうなろうとも。その中で,ヒトラーや石原莞爾のような預言じみたことを言う人がいる。イエスさんもそういう人だったのか。 世界が実り豊かなものになるためには,自己犠牲が必要か。環境問題やアフリカの貧困問題も,自分の痛みとして受け取れる感受性が無ければ,解決できないような気がします。人類は,超人や神人にならなければ駄目なのか。 霊的な力や自然をめでる力は間違いなく現代人は退化している気がする。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • maddog
  • ベストアンサー率52% (18/34)
回答No.2

1)実際、キリスト教徒といっても千差万別なので、一概には言えません。 ただ、「イエスは処刑され弟子は助かった」という「事実」があるだけです。 あとは、それを見た人々がいかにして「真実」と捉えたかです。 2)(筆問者様の言う意味での)生贄は必要ありません。それで気が晴れる人もいますが、全体から見れば極小数です。 実際にはそんなものがあっても、憎しみの連鎖は止まりません。 それは憎しみの原因となる出来事が、憎しみだけで引き起こされるからではないからです。 ただ、質問者様の言う生贄という意味が「犠牲」や「報復」という意味なら、話は別です。 「犠牲」は結果的に引き起こされるもので、最初からそれを要求するのはナンセンスです。 「報復」は抑止力という効果があり、憎しみとはまた違います。

anima-mundi
質問者

お礼

ありがとうございます。 1)首謀者の処刑によって弟子が助かったというのはいまいち分かりません。弟子にとってはイエスさんは必要な人だったのでは。死んだら困るのでは。弟子はその後、大体は迫害されて殉教死しているようですし。 2)報復に抑止力があるのなら、なぜイスラエルの紛争は止まないのかしら。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • ipa222
  • ベストアンサー率20% (903/4455)
回答No.1

1 生け贄とは思っていないでしょうが、イエスを身代わりにしたおかげで弟子たちは助かったと思っているでしょう。 2 生け贄は宗教上必要な民族もいれば、生け贄が必要ない民族もいます。 憎しみの連鎖と生け贄は無関係でしょう。 神というものの設定の仕方でしょうね。 肉食民族が神に捧げるものが一般に生け贄と言われています。 日本の神道では、お供え物と言って、海のものと山のものを供えて、後でそれをもらいうけ、一緒に食べることになっています。 タイやサツマイモを供えますが、それと憎しみの連鎖は別です。 憎しみの連鎖を経つためには、争いに飽きるまで待つしかないです。 厭戦気分にならないと何をやっても無駄です。

anima-mundi
質問者

お礼

ありがとうございます。 1 身代わりですか。古代では、生け贄の身代わりに土偶などが用いられた所もあるようですが。身代わりとして犠牲になるものを生け贄と言うのかな。 2 イスラエルの紛争などを聞きますと、一つ生け贄になるようなシンボリックなことが無いと事が収まらないように思います。それがイエスさんのような十字架じゃないかなと思う。 フランス革命とかでも、王様の首を民衆が求める。首には力が宿ると信じられ、ハンカチにその血をしみ込ませたりするわけですよね。 確かに、飽きるということは以外に重要かもしれませんね。退屈ほど人間にとって、厄介なものはないのかも。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 人類はいまだに生贄を必要とする。

    イエスがユダヤ教の神学者であることを否定する権威は現代には少ない。 イエスとは奴隷階級のユダヤ人に対する伝道師だった。 信仰心があるものを人間であることを認めるのは今と変わらないだろう。 要するにイエスの行いは、奴隷階級への人間性回復運動なんだよ。 政治的にまずいから、あっさり処刑。 このローマの横暴はローマ周辺で当時の古代社会で話題になった。 新約聖書はローマと裏切り者の契約書だ。 原始キリスト教はイエスの意志が常に自らととものあり、信仰を保つ限り常にイエスと共に生きた。 しかし、新約により、祭祀の場に処刑台をかざす獄門信徒となり、目的は魔女狩りという体裁で「イエスに似た者を見たら皆殺しにしろ」という契約の忠実な履行をする。 彼らにはもう、イエスのことは理解できなくなった。 なぜなら、理解することは処刑されることだからだ。 えっと宗教家は冷静になれないでしょうけども、歴史事実を考証すると合理的にも了解できる見解ですよね。 こういうことを言うのは勇敢な悪魔とでもいうのでしょうか。 え~と、哲学には既存の命題に取り組むほかに、自ら命題を考案するという研究手法があります。 今回の質問は後者の属していまして、完成度などに関して助言をお願いします。 命題というのは、回答も準備したから作成するのが理想だと考えますが、私は命題に2つの回答を想定しています。 新約キリスト教は「獄門信徒」とでも表現すべき「悪魔崇拝者集団」という可能性、そして、恐ろしいことをいう私が悪魔だという見解に関しては「イエスを理解したからこそ私は悪魔なのだ」とでも準備しましょうか。 皆様なりの最後の審判の練習を兼ねた、読書感想文でもいいでしょう。

  • プロテスタント系の教会に通い始めて約5年になり,聖書を初め,キリスト教

    プロテスタント系の教会に通い始めて約5年になり,聖書を初め,キリスト教関連の本は結構読んでいますが,キリスト教の教義というか,根本原理(精神)等が未だに理解出来ません。取り敢えず下記の疑問点に付いて教えて下さい。*キリスト教で云う贖罪(罪を贖う)と罪を償うとの基本的な違い。*又イエスは十字架で処刑される事により人類の罪(原罪)を贖ったと云われていますが,この場合の人類とはクリスチャン以外の人(例えば仏教徒・イスラム教徒等)も含まれるのか。*前に述べた「原罪」はキリスト教徒以外の者にも有るのか*「贖罪論」・「原罪」等は聖書のどこに記述されているのか。以上宜しくお願いします。

  • 批判的な(?)キリスト教の本を探しています。

    キリスト教について詳しく、根本的なところから説明されている本を探しています。 ただし、私はキリスト教徒になりたいわけではなく、キリスト教徒の頭の中を理解したいのです。 (キリスト教徒にならずしてキリスト教を理解したと言えるのかわかりませんが…) 先日、「ふしぎなキリスト教」橋爪 大三郎,大澤 真幸 (著) という対談形式の新書を途中まで読んでみたのですが、ネット上での書評を見てみると、 ・「キリスト教に対する「誤った理解」の典型例」 ・「誤りと誤解と偏見に満ちている本」 ・「理解していない者同士の対話」 などなどといった散々な言われようで、私も読む気を失ってしまいました。 本書は、大澤氏が素朴な疑問を投げかけ橋爪氏がそれに答えてゆくという形で、 キリスト教徒ではない二人が日本人目線で客観的に解説してゆくもので、その回答がどうであれ 大澤氏の疑問というのはまさに私が聞きたいことでした。 ・全知全能の神がつくった世界になぜ悪があるのか ・イエスは神なのか、人なのか ・「神の子」とはなにか ・イエスは奇跡を起こせたのか ・信仰とはなにか などなど、、、 本書の場合、これらに対する回答はどうやら間違いだらけらしいのですが、 では、こういう根本的というか、 「神とかいるわけないやん」「イエスなんて所詮人間やろ」とか考えてる 私みたいなバカな無宗教の日本人にもわかる解説をしている本はありませんか? また、キリスト教に関する私のバカな質問にどんだけでも答えてやろうって方はいらっしゃいませんか><?笑 例えば、なんで科学とキリスト教は矛盾しないのか?とか…

  • キリスト教徒になる資格

    キリスト教徒になるための資格は何ですか? 本には、「イエスをキリスト(救世主)と信じること」って書いてあったんです。 僕は、キリスト教とかキリスト教徒をあこがれてるけど、信者じゃないので、ちょっと寂しい感じなんです。だから、まあ、教会に行ってみようかなと思ってるんです。でも、教会行ったら、たぶん、他人に威張ると思うんです。 「イエスは救世主だよ。イエス・キリストって名前違うよ。救世主イエスってことだよ。まあ、僕は、こういうこともきちんと理解して、教会に来てるんだけどね」とか、「聖書何冊持ってるの? 僕2冊だよ。まあ、少ないかもしれないけど、1冊の人よりはましだ。」とか、「キリスト教の本読んでる? きちんと大学教授の本を読んでるの?」とか、威張り散らすと思うんです。 威張るっていっても、みんなに威張るんじゃなくて、ちょっと仲良くというか、話したり出来るようになった人に、いろいろ威張るんです。 「三位一体って知ってるか? 教えて欲しい? うーん、教えてやろうか? よし。三位一体っていうのはな、父・子・聖霊が集まってていうかな、3個じゃなくて1つ。それがヤハウェ。分かったか?」とか、たぶん、他にも「イエスの職業何か知ってる? まあ、僕は、イエス様って言わないけどな、イエスの職業は、すばり、なんと、もう、僕は知ってるんだけど、な、な、な、な、なんと「大工」だ! 知ってた?」とか言うと思う。 僕は、あんまりキリスト教に関する知識は持ってないけど、その少ない知識を、自慢すると思うんです。 僕は、いつも、学校でも、会社でも、少数の、僕の話を聞いてくれる人に対しては、延々と、自慢したり威張ったりするんです。自慢の内容は、いろいろです。好きな芸能人のこととか、読んでる本のこととか。 こんな人がキリスト教会に来たら嫌ですか? みんなどんな性格でしょうか?

  • キリストの人類を罪から救うために磔になったの意味

    キリスト教の教義においては、救い主であるイエス・キリストが人類をその罪から救うために、身代わりに磔になったものとされる。 とあります。昔からいろんなキリスト教徒から人類の身代わりにイエス様は磔になったのですと聞くのですが、意味がよくわかりません。○○さんの為に身代わりになって磔になったというのなら意味がわかります。しかし人類の罪からというのがなぜ????と疑問符がついてしまいます。ご存じの方お教えください。

  • キリストが人殺しを許すのは何故

    昨日、短気なアメリカ人クリスチャンの彼と喧嘩した時に、聖書の教えを守る守らない以前に、もっと人として大切なことあるんじゃない?と聞きました。彼は婚前前交渉NGとか、イエス様がヤキモチやくからイエス様以外への祈りNG、とか禁止事項的なものを頑なに守り抜いていますが、人として何か大切なことを欠いている気がすると前々から思っていました。クリスチャンじゃない日本人のほうが考え方大人だなと感じたこともあるし、心が広いと感じたこともあります。(人を許せなかったり怒りやすかったり。それなのに彼と付き合っているのには、それ以外で彼の魅力があると感じているからです) すると、人間は完璧にはなれないからいい人になんてなれない、と言い張ります。 私の言っているのはそういうことではありません。神と比べてどうこうじゃなくて、人として、人間レベルでのことを話していたのです。 殺人者も自分も、罪を持つ人間には変わりはない、と言っています。 もう呆れました。 人間は罪を持っているけど、神は慈悲深いから人間が神に許しを求める限り、救われたいと思う限り、神は許してくれるのだそうです。 この考えは知っていましたが、 じゃあ人殺しの人はどうなるのか、 と思いこんな質問をしました。 なぜ、許しを求める限り殺人者は神によって許されるのか。 被害者の人生はやり直せないのに 殺人者の人生は何度でもやり直せるのは何故か。 シェイクスピアの言葉で、 人殺しを許す慈悲は人殺しを育てる、みたいなのがありますが、 これを支持する私にとって、 殺人をも許す神は慈悲深いとは言えない、と思います。 むしろ神のしなければいけないことは、殺人を許すことではなく被害者の命を殺人者から守ることではないのですか? それができない神がなぜ全知全能なのですか? また、キリスト教者であればどんな人でも救われるが、キリスト教者によって殺された人は救われないのですか? とにかくこの問題について納得したいです。これが解決されない限りキリスト教を好きになれません。それが意味することは、キリスト教を好きになれなければ彼のことも完全に愛せないということだと理解しています。別れないために解決策を求めているので別れたほうがいい、というご意見はお控え頂けると嬉しいです。 特にクリスチャンの方、よろしくお願い致します。 散文で大変申し訳ないです。

  • なぜナザレのイエスを神として扱うのか

    こんにちは。 西洋史を個人的に勉強していて、必然的にすこしキリスト教の歴史についても触れるのですが、タイトルの件がよく理解できません。 というのも、同じ一神教のユダヤ教やイスラム教の預言者とされる人たちは、神ではなくあくまで人間として扱われていると思います。実際、イスラム教ではイエスを預言者として認めているものの、あくまで人間として扱いますよね。 しかし、キリスト教の正統派においてはなぜ三位一体という直感的に理解できない理屈を採用してまで、ゴルゴダの丘で磔刑にされたナザレのイエスを神として扱うようになったのでしょうか?普通にわかりやすく、神がイエスを人間の代表として罪を背負わせるために遣わした。とかではだめだったのでしょうか? 回答に期待する内容としては、信仰心に基づいた神学的解釈というより、キリスト教の歴史として、なぜそうである必要があったかを知れるものをいただきたいです。 よろしくお願いします。

  • 【キリスト教】イエス・キリストが生きているときにキ

    【キリスト教】イエス・キリストが生きているときにキリスト教はなかったのですか? イエス・キリストが死んでからキリスト教というのが出来た? イエス・キリストが生きているときにイエス・キリスト自らがキリスト教を布教させていた? イエス・キリスト生きている時代の人は自分がキリスト教徒だと気付いていなかったって本当ですか?

  • キリスト教を進化させたい。

    キリスト教には良い所が沢山あります。 私も高校生の時に読んで参考にしました。 しかし問題は、一つはイエスを残酷な殺し方をして「贖罪」として イエスの死をありがたがってる所。イエスにしたら堪ったもんじゃないです イエスは死ぬ時に「エリ エリ サバクタニ」とか言って 「なぜ私をお見捨てになったのですか」といったと言われます。 つまり奇跡が起きて神の力が示されると 思っていたのではないでしょうか? 一人の人間を血祭りにあげて これで人間の罪は贖われたなど あんまりでしょう。 イエスは生きてもっと教えを説くべきだったのです。 それともう一つは聖書は「これ以上書き加えてはならない」と書いてあります。 それまでは沢山書き加えられていたのに そこで成長が止まっています。 せっかくいい本でしたが 最近は軽く見られています。 聖書はもっと書き加えられるべきだったのではないでしょうか? でないと聖書の成長、進化はありません。キリスト教徒がこれだけいるのです 宗教革命を起こしてでも変えないと アメリカは20世紀、21世紀と殺しまくっています キリスト教立国アメリカがあれでは 聖書が泣くと言うものです。

  • なぜイエスを子なる神として扱うのか

    こんにちは。先程誤って質問を締め切ってしまったので再投稿です。 西洋史を個人的に勉強していて、必然的にすこしキリスト教の歴史についても触れるのですが、タイトルの件がよく理解できません。 というのも、同じ一神教のユダヤ教やイスラム教の預言者とされる人たちは、神ではなくあくまで人間として扱われていると思います。実際、イスラム教ではイエスを預言者として認めているものの、あくまで人間として扱いますよね。 しかし、キリスト教の正統派においてはなぜ三位一体という直感的に理解できない理屈を採用してまで、ゴルゴダの丘で磔刑にされたナザレのイエスを神として扱うようになったのでしょうか?普通にわかりやすく、神がイエスを人間の代表として罪を背負わせるために遣わした。とかではだめだったのでしょうか? 回答に期待する内容としては、信仰心に基づいた神学的解釈というより、キリスト教の歴史として、なぜそうである必要があったかを知れるものをいただきたいです。 よろしくお願いします。