• 締切済み

全能の神は 難問を解けるのか?

全能の神でも仏様でも教祖様でも いいです。 ●四色問題は 彼等に解けるでしょうか?  また いままでそのように崇拝された存在が その存在だけでなければ  解けなかった設問は あるのでしょうか? あるとしたらなんですか?  経典には あたりまえのこともしくは既存の概念  しか書かれてないんじゃないでしょうか。  みなさんのお考えを教えてください。

みんなの回答

  • caballero
  • ベストアンサー率17% (31/182)
回答No.9

おつかれさせてしまうかもしれないので、よければ読んでください。 >その言葉が 聞きたいんですよ。 では聞けばいいじゃないですか。 あなたに響く言葉はあなたに聞かされるからです。 あなたが、まず、求めているので、いずれ聞くでしょう。←宗教臭いね♪ 以下特に疲れるので、特に薦めません。 >オリジナリティあふれる 論理を教えていただきたい。 希少性のある論理ですか?現代人には受けない方が希少ですよ。最初の僕の回答じゃダメですか?数式まで書いたのに、。1)の答えは、蓮華でスープを飲んでます。一般的な人のように論理的です。解るはずです。僕が説明度下手ですが、。 2)の回答は、現代のフツーの人がその人を見ると、「まだ飲んでない」のに、「もう飲んだ」と、その人は言います。確かに飲んでます。 >神様が人間より能力低いという考え方もありだと思っています。 神を全てとするなら、低いも高いも無いので、低くも高くも無い事も無い。もちろん、大きくも小さくも無い。だから、はかろうとしてはいけない。図れる者でない事は解っておられるはずです。自分についてもそうでしょう? 「神を試すのか?」と、イエスが言うのは、それがうまく行かないどころか、ダメなほうに行くからです。 >具体的に 考察していかないと結局幻想とか妄想の域をでませんよ。 リアルな思考ですよ、。具体的に考察すると言うのに、箸でスープを飲み続ける気ですか?思考が、本物なのです。覚えもしないし、忘れもしません。知るとはそう言う感覚です。 >すべてだってーんじゃ いてもいなくても同じだよそれって。 ちがうじゃん(笑)いないからいるんですよ。いてもいなくても同じだよって、何か神に意味を求めてるんですか?意味は無いから、全ての意味をもつんです。 ないものはないんです。だから、隙間無くあるんです。すべてが。いてもいなくてもという表現が、追いつかないことがわかりますか?何故なら、追う者でないからです。 >じっさいに行って見せれば 疑いは薄らぎますよね。 多分疑いは膨らんで、迷いも膨らむと思いますよ。うまく行かないと思います。今の人間はそういう風に感じるはずです。なぜなら、他から見せられる事によって、自分を見ることを忘れるからです。個人を得る前はそのようなことは不適切です。 個人から個人を離そうとするのは、虚偽です。たくさん、見れば見るだけあります。だから、限られています。   魔貫光殺法ぐらい、人間にもうてると思います。幻想ですか?箸でスープを飲むような者ですよ?かるくうてます。宇宙人とかうってそう←幻想。 全てに何を求めるのか? 神と、あなたと、比べるような者ではありません。 あなたが得るものはあなたが得るべきです。 僕は、何をゆっていいか分らなくなりました。 次に会うときは何時でしょうね。そのときは、何かゆえたらいいんだけど。 あなたは言葉を必要ない人と、僕は常々感じています。  じゃあもし、次またこれたら、あなたに言います。 よければ気にしないで下さい。 そのときがあるように、。    

chihoko
質問者

お礼

●あなたのいうことは観念なのです。  観念をたのしむなら それはそれでいいでしょう。  それでおしまいのことなのですから。 ●わたしが必要としているのは 幸せなんです。  幸せへのメソッドなのです。だからどうするのか?  の どうするかが 知りたいわけです。  それを ひとつも言えない神なんて まぎらわしいだけですよ。  ないほうが まだましです。

  • caballero
  • ベストアンサー率17% (31/182)
回答No.8

URLはやさしく書かれた法華経と、現代語訳、維摩経です。 維摩経はわかるけれど、法華経はわかりません。 維摩経は哲学で、考えればわかります。が、法華経は「信仰」です。 法華経を理解するには、法華経があることを、「知らなければならない。」 僕は法華経を知りません。しかし、知ってないとも言いません。 このスタンスは、重要です。 僕が、「」の、カギカッコ自体の内側を見たいと言っていましたよね。何かあるのがわかっていたからです。 その時の僕の言語に対するスタンスと、法華経に対するスタンスは同じ感覚です。 当時、あなたや助言たちが現れたように、今、すでにそれは現れています。 僕はその者らに逢うでしょう。   維摩経:http://www.hi-ho.ne.jp/universe/yuima/yuima0.html 哲学が許されるなら、維摩経は許されます。 その時、法華に気付きます。   キリストは叫んだ 「我が神!我が神!何故、私をお見捨てになったのですかっ!」 そしてもう一度叫んで、「っ。」とうなだれた。   これがイエスのあかしです。 このあかしに対する僕のスタンスも、又、同じです。 出逢うでしょう。  

参考URL:
http://www.sunlotus.org/tales/yasashi/yasashi_bn.html
chihoko
質問者

お礼

●どうも話が 思う方向にいかないんで 誘導させてください。  宗教とは あたりまえのこと+既成の概念+幻想 だと・・・。  いやいや 悟った人や 神を見た もしくは逢った もしくは感じた人は  こんなにすごい「輝く言葉」を手に入れたのですよ!  その言葉が 聞きたいんですよ。  維摩経でも 法華でも キリストの言ったことでも なんでもいいです。  オリジナリティあふれる 論理を教えていただきたい。

  • caballero
  • ベストアンサー率17% (31/182)
回答No.7

最後の4行が主文です。しんどければそれだけどうぞ、。 そうですか、数学者は箸でスープを飲みきったんですね(笑 飲んだって言うよりなめたと言うほうがいいかもしれません。偉大ですね。そういうのもありでしょう。箸で釘も打てそうですね。その内、三本使っても、「箸」だと言うようになります。彼らはそういうのとくいです。(笑  まぁ、箸もしがめば何か飲めるという、いつか蝿も捕まえてみせようという、こだわりの精神ですね。網を使ってしまえば意味が無いのです。箸で蝿を取ることが、すごいと、思ってるんです。その内、ラクダも針の穴に通すかもしれません。ホイポイカプセルも出来そうですね。やればやった分だけ出来るでしょう。そのため限られているでしょう。すでにやっている事を知れば、限られません。   仏教の因果律が優れているのは、原因が他にあるのではなく、自分にあるからです。結果もまた自分にあります。だから正しいんです。さらに行くと、因も果であり果もまた因です。何故なら、最初と最後は同じだからです。 最初の因は最後の果です。因果の無い事はありません。   神は並ぶ者のない言葉です。全ての事なので、全てに含まれないものはありません。あなたも、石コロも、全てに含まれるのです。空もまたすべてです。終わりであり最初であるのはそういうためであり、そうであるからです。理由が事実です。 また、人間は、知ることにより忘れたのです。エデンの知恵の実の話はそういう話でしょう。忘れを知ったともいえますね(笑 「すべて」を忘れたのです。 皆が神と言ってるのは、創造神もまた神であるし、羞恥心もまた神です。なぜなら、全てに含まれないものはないからです。だから、全能なのです。あなたがあなたであるように、全てもまた全てであるのです。だから同時に無いのです。創造神、破壊神、慈愛神、石ころ神に、カワヤ神、あなた神に、何でも神。 つまり、神は無い。   だから、ありなのです。すべてなのです。 しかし、神、全ては嘘を嘘と明らかに。ほんとをほんとと明らかに。します。 知る事で、ほんとを嘘とするのは人間です。 しかしそれもまた、神はそうするのです。それもまた神であるからです。 神が、解らないようにあれないわけがない。全てなのに。同時ですし、ばらばらです。すべてです。また無です。 全てから離れるものはありません。   皆が誤解しているのは、「すべて」が最も大きい包括的カテゴリだと思っている点です。 ちがいます。カテゴリそのもであり、何でもあり、すべてであります。 言葉は要りません。 しかし、ドコからも全てに繋がっているので、言葉でもいいです。 皆は神を誤解している。 神は全てです。全能の神もまたすべてです。 中観とは、天秤のバランスを取るようにあるのではなく、そうなくもない。と思うことです。 中は内です。なかの意味です。バランスのとれている事ではありません。中庸をバランスと言うのは間違いです。中観を得るのに基準はいりません。 その時なかはなかになり、そとはそとになります。中を指でさせます。外はさせないです。中は点でそとは広がりです。宇宙空間で、空間を指ではさせません。 それと同じような事ですが、真の外は空間を指でさせます。空間もまた中であるからです。真の外に隙間はありません。 その外、真です。   神に、「ないものはない」 何故なら神はすべての事だからです。 僕の神の解釈は、全てであると言う事です。 誤解の課程は以下のようです。 みかんをくりと呼べばそうなります。そのくりはすっぱいでしょうね。 すっぱいをからいと言えば、みかんはからいですね。意味がやいこしいでしょう。 ほとんどの知識人がこのようにこんがらがってます。 名前に惑わされてはいけない。   自分を知れ。そして器を知ると言う意味がわかる。 自分が器なのか、中身なのか、両方なのか、 答えは全てです。 僕の回答にも囚われてはいけない。捕らえるようなものは、虚偽です。 解らない事にも悩んではいけない。解らない事は解らない事です。それが解ればいい。   僕の言った事で、経典に書かれていないことはありません。 しかし、経典に書いてある事でゆっていないことはあります。そりゃそうだ(笑 聖書も経典も、理解できれば両方間違っていないのです。 なぜなら、理解するものは知っているからです。 知っているから理解するんです。理解するから知ってるんです。 ここにもまた因果律があります。 法華経は解りません。知識しかありません。とりあえず行き止まりですね。 空をとべる事を知れば、解るでしょう。解る事もまた知れるからです。 イエスならわかると思います。なんか、言っていることそっくりですもん。 山に動いて海に入れと信じて疑わなければそうなる(笑 どの宗教、宗派も、方便ですし、事実です。方便である事を知らなければ成りません。   イエスが若いころ経典を読み漁ったって言うのはホントなんでしょうか(笑 どうでもいいですけど、 どっちがどっちなんて、、、、。、。、。ねぇ? あっちこっち(笑

chihoko
質問者

お礼

●神はすべて ねえ まあ なんでもいいんですけど。  そういう考え方って かんこいいと思いますか?  なんか そういう神って 忙しそうだし たいへんそうだねえ  わたしの感では そういう考え方は 現代人には受けないなあ・・・たぶん。  救世主のほうが かっこいいよ ネオみたいにね。  自分が救世主であることを信じることで 精神世界(MATRIX)での  死から復活してみせたんだよ。  あと おんなを発情させるおとこの神とか  男をたたせる おんなの神とかのほうが うけるね。 ●あなたの言う「神」がカメハメハでもやってみせるんなら おもしろいけど。  すべてだってーんじゃ いてもいなくても同じだよそれって。  今 地球は人間によって汚されてるよね あなたの神はどうおもってんの?  よごれたのもまた「神」ですってーんじゃ 話にならないよ。

  • ichigota
  • ベストアンサー率18% (7/38)
回答No.6

「全能の神」というのは人間が考え出したものです。 「いかなる難問をも解き得るもの(物・者・人物・神・仏)」を空想したのです。 「4色問題」だって、「全能」であるからには解けるはずです。 しかし「全能の神」は人間の前で人間に解るようにそれを示すことをしません。 全能であるからには、どんな盾でも射抜く事のできる矛と、どんな矛を以っても射抜けない盾を 同時に存在させるといった事ができるはずです。 しかし「全能の神」は、可能ではあってもあえて実行しないのです。 いや仮に実行したとしましょう、しかし人間には、そんな盾と矛を同時に観測する事はできないかもしれません。 「できる」ということと「じっさいに行なう(行なって見せる)」ということは同じではないのです。

chihoko
質問者

お礼

●じっさいに行って見せれば 疑いは薄らぎますよね。  できるんなら できることを論理でわからせてほしいですね。 ●盾側から見れば射抜かれてなく 矛側から見れば射抜けてて  その中間からみれば 射抜いているようでもあり射抜いていないようでもある  そんなところで いいんじゃないですか。  ご回答ありがとうございました。

  • odd-art
  • ベストアンサー率9% (31/325)
回答No.5

 「四色問題」とは、  平面図形をどのような領域に分けても、四色のみで隣接した領域を塗り分けることができるか否かという証明問題のことで、1976年にスーパーコンピュータが 1,200時間かけて証明したとされています。  自然科学でも、幾何学(数学)は、仮説により導き出す約束事であります。数字にしても、約束、仮設であり、これを解くことが、真理を説くことになるのでしょうか?  仏教では、宇宙の実相が説かれています。  真理は仮説でもなく、宗教は、科学により証明することが困難でありましょうが、科学を網羅している筈であります。  経典を、全て理解出来る方は、仏でしか有り得ませんが、既存の概念とは何でしょうか?  誰も知れ得れなかったことが説かれてある為に、信じれずにいるのでしょ。難信難解と言われていますよ。  あなた自身が、全て経典を、ご理解されているのなら、仏とはどういう方なのか、質問されるまでもないでしょう。釈尊は、学者ではありません。修行により悟られたのです。  神は、人間がつくったものでしょ。キリスト教やイスラム教で立てる天地創造の神ゴッドやアラーは、予言者と称されるキリストやマホメットが教典に説示しただけのことで、現実にこの地上に姿を現わしたことはありません。  一番初めに神様があって、そこから神様が人間を造ったというのがキリスト教の一番基本的な教えであります。そのほか、マホメット教においても、アラーの神がみんな我々を造ったというようなことを言うのです。  しかし、その神は原因がないのです。原因がなくて、ただ漠然と結果としての神様が存するわけです。すると原因、結果の理法に背いているわけなのです。  仏法においては、仏様という方はけっして初めから存在したというのではなくして、必ず原因があって、その結果として仏様の尊い勝れた命を得られたのであるということです。ですから、因の行、すなわち原因があり、その結果としての仏様という果徳が得られたということであります。  そういう意味で、爾前経においても、あるいは迹門においても、仏様という勝れた人格と智慧を得られたところの元の原因というものが説かれてあり、また、その結果が説かれてあるということであります。  宗教は、幸福境涯になるための直道です。  釈尊は、微積分すら解かないと存じます。それを解くことが、成仏に繋がらない、他事、遊戯雑談だからです。  如何でしょうか?

chihoko
質問者

お礼

●釈尊は、微積分すら解かない  わたしも たぶんそうじゃないかとおもうんですけど。  宇宙の真理を見て 微積分は知らない。  宇宙の真理を見れば微積分はおろかなんでも分る。  ↑の間の どのへんの感覚なのかなあ?  信ずることでひとは救われる 確かにそのような場合もあるでしょう。  しかし 現代 信ずることよりも疑いのはての折り合いのほうが  生きることにリアリティを与えれるように感じています。  釈尊のしゃべったことは わたしにはたぶん全部理解できると思います。  なにを言ってたか全ては知りませんが。推察はできます。  釈尊のいわんとした いちばん大切なことは  たぶん命のすばらしさ だとおもいますよ。  わたしは 釈尊のことばにちゃんと向かい合ったことがないので  もし これぞ人類の解けない難問を解いているという言葉がありましたら  ぜひご紹介ください。 ご回答ありがとうございました。

chihoko
質問者

補足

●あたりまえのこと=よく見聞きし考えればわかること ●既存の概念=すでに論理的の説明されていること                       です。

  • caballero
  • ベストアンサー率17% (31/182)
回答No.4

皆に答えるつもりで書きます。chihokoさんへの敬意はお察しのとおりです。 >全能の神でも仏様でも教祖様でも いいです。 誰でも何でもいいってことですね(笑 ウサギじゃダメですか? >「地図に描かれた各国のうち、境界線を共有する2国は必ず異なる色で塗り分けるものとすると、最低何色の色が必要であろうか」という問題をいう。1点で接しているだけの2国や、全く接していない2国は、同色で塗って差し支えない。  この問題は、A.ケーレイが1878年にロンドン数学会の席上で提起して以来、人々の注目を集めるようになった。  塗り分けが3色では不十分である。また、5色あれば十分であることは、P.J.ヒーウッドが1890年に証明した。したがって、4色で十分かどうかの問題が最後に残ったことになり、この問題は「四色問題」と呼ばれるようになった。 というものが四色問題です。ドコが問題になってるのか無学無知、アタマのろいので理解できません。だから、問題になりません。疑問がありません。   答えかたはたくさんあると思いますが、当時の数学者は、箸でスープを飲むつもりだったのか?ジョークが好きなんですね。(笑。100年以上経ち、箸も、使い方も、ずいぶん進化したので、スープぐらいきっと飲めるで笑。←マジです。 しがんだ割り箸に吸い込ませてもいけますね。(笑  回答。 1.)境界線を引いた時点できちんと「塗り分け」られている。序二段くらい。二色。有無。白黒。それ以上塗り分けるのは、問題を解いてる途中に、国境線を継ぎ足す、増やす、国を増やすようなもんです。一元論がわかればわかる。 2.)僕は無職です(笑。無色でできる。一色も必要ない。小結? ということで、僕の限界は小結です。まぁ限界も何も「ないん」ですが 1.)を数式で証明します 白=黒 境界線=国 間違っていますが、数学者はA=Bとする事で納得します。コレは間違いです。この数学式は皆嘘をついています。しかし、嘘も方便です。 2.)を数式で証明します。 無=無 0=0 = という事を以下に示します。                                                         以上。   余談:二つの円が中途に二つ重なって、共有している部分と、していない部分と、どちらの円にも属さない部分が出来ます。じゃあ、二点で接するけれど、交わっていない円の部分達は別の色でいいのでしょうか?この場合、二色で塗り分けれるけれども、三色必要なんでしょうか?   当時はこの事(四色問題)で、学術費用、研究費とかゆって税金を使ってたんでしょうか?それともやっぱ自腹だったんですかね。民衆は黙ってませんよ、きっと。(笑  でも、冗談で生活は出来ます。地球が豊かな印ですね(幸 >経典には あたりまえのこともしくは既存の概念  しか書かれてないんじゃないでしょうか。 当たり前のことを思い出せば、問題は「ありません」。皆最初は知っている事を忘れたんです。何ででしょうか。   今回の僕の回答は間違いです。なぜなら、その態度、愛がありません。信仰よりも、異言(智慧)よりも、愛が優れています。まさに、愛が優れています。愛があれば、問題ありません。問題がっ!、ないのです。愛がなかったので、僕の答えは答えなのに何も解決しませんでした。いまならするかも。 悩みは、自分で悩むから悩んでるんです。悩みを自分のものと思わず、外にある「問題」として思っていることが、「すでに間違っています」。 この問題、話になりません。無数の教祖たちに聞いても同じです。 しかし、神においてはこうです。 みんな、神の行為は今から言うような行為です。  「神においてはすでに答えています。」 神はすでに答えているのです。聞きなさい。聞きもしないのに解らんとかゆうのですか?答えはすでに与えられています。   この問題、当人にしか解けません。僕は数式を示しましたが、解るのは当人だからです。あなたにしか聞こえません。「答えはあなたに語られている」からです。 聞きなさい。   いつも皆がやるような、人と談義することはただのきっかけです。 人と逢うのはもっと後です。   皆が逢うように 皆と逢うように すでに逢っている事を思い出すように     オーム アーメン ツタンカーメン(今は冬)   あなたがサブいのは(=)あなたがサブいから(理由)です。 笑えないですね、。 答えはすでに与えられてます。    

chihoko
質問者

お礼

●なにを言わんとしているのか さっぱり わかりません。  具体的に 考察していかないと結局幻想とか妄想の域をでませんよ。  つぎのご回答もあるみたいなんで そっちよみますね。

noname#2787
noname#2787
回答No.3

全能の神の『全能』とは『この世で可能なことは全てできる能力』でありさらに、人にはわからない部分もいっぱいあるから『人知を超えた能力』も有するという意味ではないかと思います。 つまり神にも出来ないことはある…と思います。 でなけりゃ悪魔だとかサタンだとかおいておかないでしょうからね。 四色問題については人間が解けたんだから神にも解けるでしょう(解く力を神が与えたもうたのだから) >経典には あたりまえのこともしくは既存の概念 しか書かれてないんじゃないでしょうか。 そりゃ当たり前で、経典とは人間に理解できる(ように)ことを書いた。というのが建前なんだから… >いままでそのように崇拝された存在が その存在だけでなければ 解けなかった設問は あるのでしょうか? あるとしたらなんですか? 私の想像では『ミッシングリンク』がこれに値するのではないかと思える1つです。いわゆる『創造説』と言うヤツです。でも自信は「なし」です。以上無神論者なりの想像です。

chihoko
質問者

お礼

●四色問題が証明された とするのはあやまりです。  コンピューターで多くの地図を塗り分けても四色で済んだから  それで良しとしましょうということです。  公理を用いて証明されていません。  経典に 人間が理解できるように難問を解いてみせた例があるやなしや  と設問したわけです。  あなたには ちょっと難しかったかな? ●『ミッシングリンク』は観察比較すればだれでも気づくよー!

回答No.2

宗教によって違うかもしれないけど、 神様が全てを創ったわけでしょ。 てことは、 その難題自体を考えた人間も神様が作ったわけだから、 その難問自体、神様が作った物って事になるじゃない。 で、「問題」っていうのは、 作った人が正解だといえば、それが正解なんです。 なので、神様が何か答を言えば、それが正解です。 つまり、答えられない問題は無いことになります。 そもそも、「全てを作った」という時点で、 創造者である神様自身を超えるものは存在しないはずです。 というか、自分より能力の低いものを作ります。 そうしないと「神」として存在できないから。

chihoko
質問者

お礼

●そのような具体例があれば 神様のとらえかたが  さらにはっきりするかな? という設問です。    神様が人間より能力低いという考え方もありだと思っています。  ご回答ありがとうございました。

  • PEPSI
  • ベストアンサー率23% (441/1845)
回答No.1

田中芳樹さんの銀河英雄伝説にこんなセリフがありました。 「全能の神がいるなら「誰の言うことも聞かないわがまま女」を作ってもらいたいものだ、もしその女に言うことを聞かせられないなら全能じゃないし、その女に言うことを聞かせられるなら「誰の言うことも聞かない・・・」という女を作れなかったことになる。だから全能なんてあり得ない。」

chihoko
質問者

お礼

●全能の神なら 誰の言うことも聞かない女をつくることもできるし  その女を言うことを聞かせるように改造できると思います。  田中芳樹さんのセリフには時間のレトリックがあります。  ご回答ありがとうございました。

関連するQ&A

  • 全知全能の神について

    ズバリ皆さんに聞きたいのですが、全知全能の神(全知全能の神が居るという事を大前提に考えています。ただ、全知全能の存在物ならなんでも良い。要するに、「全知全能」という事に注目してほしいのです。)は、その名の通り、何でも知ってて何でもできるのでしょうか?単刀直入な質問で悪いのですが、質問に答えてもらえたら幸いです。

  • 神や仏って

    神や仏ってどうして生きてるうちに救ってくれないのですか? 本当に全知全能で慈悲深い存在であれば、生きてるうちに何とかしてくれてもいいのでは? 死んでから救うとか言われても、本当に救ってくれてるかもわからないから意味ないですよね。

  • 神は人間が創ったもの

    人間の頭脳が優れているので神の概念を創ることができたと思っています。人間だけが神を信じ、他の動物が神を信じているようには思えないのです。私は人間が創った神を否定する者ではありません。多くの民族が神の概念を持っています。その概念は尊くて先祖崇拝や万物崇拝に繋がっています。 もし神が先に存在するとしても人間だけを創ったとは思えないのです。神が他の動物も創ったならば、その動物も神を信じていると思うからです。

  • 神と仏の違いを、天地創造の視点から教えてください!

    絶望した時、「神も仏もいない!」と言うヒトがいます。神と仏の違いを教えてください!聖書も仏教の経典も読んでいません。ただ、あまりにも大きな概念なので、次のポイントに主眼を置いてお願いします。どの聖書か分かりませんが、「神が天地を創造した!」という言葉があるようです。仏教の経典にも、「仏が天地を創造した!」というような記述内容があるのでしょうか?印象としては、「創られた天地の中(仏や人間を含む)で、仏は、人間の生きてゆく指針を示している」ように感じています。つまり、「神の方が仏より、上位の概念」に見えるのですが?ついでに、「天地創造には、人間も含む?」のだと思います。そこで、聖書では、「この世の天地創造と、あの世の天地創造との、区別がある(対象側の視点!)」のでしょうか?仏教では、「意識の視点(主体側)から、この世とあの世の処世を示している?」ようで、逆に分かりやすい感じがします。両方とも、「天国と地獄」の概念は、同じですか?

  • 神様の存在について

    ふと疑問に思ったことがあるので質問させてください。 神様の存在についてです。 私は特に信仰している宗教はありませんが、ギリシャ正教会に属する方との交流が過去にあり、そこから沸いた疑問になります。 私は無宗教といえど、物心ついたころから神様という言葉を耳にし、ああ、もしかしたらいるのかもしれないなと思いながら育ち、今に至ります。 ただ、そういう認識に至るまでには言語習得であったり、教育であったり、何かのきっかけや、条件があったように感じられます。またそれらは神様を認識するにあたり必要不可欠なのではと思うようになりました。 そこで、です。 例えば特殊な環境で育った赤ん坊がいたとします。両親どころか、まったく人の手で育てられておらず、言葉も話せません。(例えなのでこういう環境で人間が生き延びることができるかは、問題にしません) そういった特殊な人間も、いずれは神様の存在について意識が芽生えるのでしょうか。ぼんやりとした概念のようなものが頭に浮かぶのでしょうか。 神様というのは、全知全能で普遍的だと聞いたことがあります。 ですが、もしその存在を私たちがある一定の条件のもとでしか認識できないのであれば、これは全知全能で普遍的といえるのでしょうか。 考えれば考えるほど、神様の存在は限定的に思えてしまいます。 神様の存在と、こちらからの認識や観測を結びつけてしまうのは、そもそも間違いでしょうか。

  • 神についてのある考え方の名称

    以下,私の考えです. 1.神という存在は,全知全能であり,すべてを含みます(神=すべて). 2.私が,神を信じ,拝むためには,私以外に神という別の存在が必要である.(拝む対象としての神vsそれを拝む私) 3.ところが,神はすべてであるため,私をも含みます.私は私以外の存在(別の対象)としての神を信じたり,拝んだりすることはできません.(2の図式だと「それを拝む私」は神に含まれない) 4.もし私がなんらかの形の神を信じた,拝んだとしたら,それは全知全能であり,すべてを含む神ではなく,神に似せた別の物です. 5.ゆえに我は,(純粋な意味での)神を信じることも,拝むことも原理的にはできません.ただ,すべてなるものの一部であることを不完全ながら知るだけです. 6.そのように考えると,「神様がみてる」とか「神が与えた」とかいうのはおこがましい気がします. 屁理屈にもなってないかもしれませんが,私の考えです.こういう考え方になにか難しい哲学,思想的な名前はついているのでしょうか?

  • 神や仏のいない宗教

    自分は最近、仏教やキリスト教などの宗教全般に対して、以前よりは肯定的に考えられるようになってきました。それは、宗教が精神性の向上と深く結びついていると思うからです。精神を高めること、それは素晴らしい事だと思います。しかし、やはり神や仏など、そういった存在は信じるつもりは一切ない為、宗教というものに馴染めません。そこでお聞きしたいのですが、神や仏といった崇拝する対象のない宗教というのはありますか?

  • 神様仏様なんていないのでは?

    こんにちは 私は神様や仏様はいないと思っています。 なぜなら、真面目に生きている人が悲惨な死に方をしたり、悪い事をしている人がのうのうと生きているからです。 若し神様や仏様がいたとしたら、このような事は起きないはずです。 皆さんは、神様や仏様の存在を信じていますか?。

  • 全知全能問題、再び・・・

     ふくろうです。  実は、へびくんがどうしてもと言うもので、この質問を開けます。「まだおわってないの! もっとあそぶの!」って言うもので。へびくん、ちょっとだけ執念深いんです。あいたたた! 噛むなよ、へびくん…。  ふう。…さて、二つ下の「全知全能の神が存在しないことの証明」は、一応、質問者のご友人の方が納得される「正解」が出た形になっています。が、その回答にも明記されておりますように、実は証明としては不備があります。  その「証明」は、「ある条件」を暗黙裡に添加することで初めて成立しています。  しかし、「条件」とはすなわち「制約」です。stomachmanさんが指摘されているように、「制約された全知全能者」というもの自体、すでに概念上自己矛盾しているのです。本当の意味での「全知全能者」の存在を否定しうるものではありません。  そこで、問題。  その「ある条件」とは何でしょうか。そしてその条件を外すことで、あの「証明」はどうして崩せるでしょうか。そうそう、「こうすれば本当に全知全能の矛盾を証明できる」という方向の回答も歓迎します(これがないとクイズになちゃいますね)。…この話、意外と生産的に副産物も生むかもしれません。  fwappyさんも、ご友人とお誘いあわせの上、ご参加くださいませ。  さあ、これでいいかい、へびくん? おやおや…とぐろ巻いて寝ちゃいました。風邪ひくよ、へびくん。

  • 神は仏であり、仏は神である

      神と仏は同じである。 なぜなら神も仏もただ一つのものを意味するからである。 ただ一つのものとは宇宙の法則である。 即ち、神=仏=宇宙の法則なのである。 では宇宙の法則とは何か。 それは我々の周りにある森羅万象を生み出す根源である。 ギリシャの哲学者たちはそれを万物の根源、アルケーと呼んだのである。 そして彼らはアルケーが何か追い求めたのである。 そこから真理の探求が始まり、哲学が生まれたのであった。 そして21世紀になり一つの答えが与えられた。 それはアルケーは宇宙の法則であるということ、そしてアルケーとは他でもない神そのものであるということである。 「万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神を除いて如何なる神も仏も存在しない。」 これがギリシャの哲学者たちが追い求めてきたアルケーとは何かに対する最終的な答えである。     アルケー本願 アルケーの神は偉大である、 アルケーの神は万物の根源である、 アルケーの神は宇宙の法則である、 アルケーの神は唯一絶対である、 アルケーの神は全知全能である、 アルケーの神は永遠無限である、 アルケーの神は永遠不変である、 アルケーの神は永遠不滅である、 アルケーの神は信じるためのものではない、拝むためのものでもない、願うためのものでもない、 アルケーの神は感じることの出来るもの、理解することの出来るものである、 アルケーの神を除いて如何なる神も存在しない、 アルケーの神ほど偉大なものはない。