• ベストアンサー

ヘルムホルツの無意識的推論について教えて下さい。

知覚は無意識的に外界の刺激を感覚受容器で受け取って知覚に至る。 という事以上に詳しく教えていただけないでしょうか? なんだか上記の説明では物足りなく、心理学カテゴリーでなら良い回答をいただけるのではないかと思い質問いたしました。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.1

こんにちは。 > 知覚は無意識的に外界の刺激を感覚受容器で受け取って知覚に至る。 > という事以上に詳しく教えていただけないでしょうか? > なんだか上記の説明では物足りなく、 うーん、無意識的推論の説明はそれで十分だと思うのですが。 まだ足りません?具体例がもうちょっとあると良いのでしょうか? ヘルムホルツが記述したことを正確に知っているわけではないのですが、 せっかくなので私の他の知識も交えて回答してみようかと。 「私達は、目の前の世界をそのまま知覚しているわけではありません」 といきなり言われたら、「本当なの?」と思うでしょうか? たとえば以下の画像を御覧ください。 "Shape from shading"(陰影からの形状知覚) http://www.psych.usyd.edu.au/staff/colinc/Gif/shading.gif 全員が全員同じように見えるわけではないのですが、  ・中央下以外の5つの円盤は、手前に出っぱって見える  ・中央下の円盤だけは、奥にへこんで見える と知覚されたら嬉しいです。 で、当然タネ明かしはあるわけで。 これは2次元平面上の画像であって、本当に凹凸があるわけではありません。 円盤の中の明るさが、白から黒まで段階的に変化しているだけです。 このような円盤内の明るさの変化がある映像(刺激)が、 私達の網膜に入って来て、脳内に送られます。 そうすると脳の中でいつの間にか、凹凸の知覚になるわけです。 ここから知覚の研究者は考えました。  「どうやら、私達は目の前の世界をそのまま知覚しているわけでは   ないらしい。入って来た映像に対して、私達の脳が無意識的に   解釈を行ない、最終的な知覚に至るんじゃないか?」 "Shape from shading"の画像の解釈として考えられるのは、   「光は上から当たる」 という経験則的な前提の下で画像を解釈することによって、 画像中の明るいところ → 上から光が当たっている部分 →  → そこは出っぱっているか、くぼみ(のうち光が当たるところ)  → 凹凸の知覚 という過程を経て、最終的に凹凸のある画像が知覚されるのだ、 というものです。 その脳内解釈を逆手にとった錯覚もありまして、 これは以下の解説ページと画像を見る(読む)とわかりやすいです。 "hollow face illusion" http://ipr.hijiyama-u.ac.jp/~hyoshida/studies/hollowface/ 脳内解釈の別な例が、以下の「大きさの恒常性」の話になります。 "Size constancy" (大きさの恒常性) http://psylux.psych.tu-dresden.de/i1/kaw/diverses%20Material/www.illusionworks.com/assets/images/constancy.jpg ("%20"のところが、PC環境によってはマズいかもしれません) とりあえず、手前の人物の足下の小人を無視して見ていただくと、  ・奥へと続く廊下の手前側に立つ男の人がひとり。  ・廊下の奥側に小さく写っている人がひとり。 と見え、何ら不自然なところはないかと思われます。 でも、この2人の人物の、網膜にうつる物理的な大きさは全然違います。 廊下の奥に映っている人物をそのまま切り取って、 手前の人物と並べてみると、 巨人と小人ぐらい違うように見えるでしょう。 2人の人物の物理的な大きさは全く違うのに、 なぜ元の廊下の写真では不自然に見えないのでしょうか? その写真の情景は「奥行きをもつ廊下である」という解釈により、  ・物理的に大きい人物は撮影者のすぐ手前にいる  ・物理的に小さい人は撮影者からずっと離れた廊下にいる と脳内で解釈され、最終的な知覚へと至っていると考えられます。 さて、このように、  「我々は目の前の世界をそのまま知覚しているわけではない」  「目の前の世界(刺激)と最終的な知覚の間に何かがある」 と考える立場を、  「経験主義(empiricism)」といいます。    (哲学の「イギリス経験主義」とは異なります) で、御質問にありますヘルムホルツの無意識的推論ですが、 この「経験主義」が発展する基本となった主張のひとつです。 Hermann von Helmholtz(1821-1894) は、熱力学の法則で有名なヘルムホルツと同じ人物で、 19世紀に知覚心理学の基礎を作った人物でもあります。 彼は、私が上に出した例のような、 物理的な刺激と最終的な知覚が違うといういくつかの例から、 ・どうやら「外界の刺激」と「最終的な知覚」との間に何らかの中間的過程があり、 ・その過程は、以下のような推論による思考と似ている   (画像中の明るいところ     → 上から光が当たっている部分     → そこは出っぱっているか、くぼみだろう) ・これは普通の思考のように意識的に行なっているのではなく、  また自分の意思で知覚が変化するということに気づいていない、  ということで無意識的であろう と主張しました。 なので、「無意識的推論(unconscious inference)」と呼ばれています。 知覚過程についての主張は他の研究者も行なっていて、 William Jamesという心理学者も、以下のように述べています。 「我々が知覚することの一部は、目の前の情景中の物体から生じる感覚から来るが、残りの部分(それが大部分かもしれない)は、常に脳内で生じるものである」 回答は以上です。 文章が多少おかしくなっているところがありましたらごめんなさい。 「学校や心理学の本で知ったのと話が違うんですが…」 などがありましたら、訂正に来ます。

frano
質問者

お礼

心理学カテなのに、誰も答えてくれず正直がっかりしておりました。こんなことで心理学カテゴリーはいいのでしょうか>管理者へ ご回答ありがとうございました。 面白い例を挙げられて大変興味深く読みました。 ありがとうございます。 非常にためになりました。 今後も報われない心理学カテゴリーですが、がんばって書き込みしていってください、そして少しでもカテゴリーの内容がまともになるようにしてください。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 無意識

    感覚や知覚 思考 学習などの領域において 私たちが無意識的に行ってしまう現象を説明せよと課題がでました 夢を見ることや寝言 はこの課題に合っていますか?

  • 「知覚」と「感覚」と「感じ取る」

    知覚、感覚という言葉は、普段意識して使い分けることはほぼありません。 が、少し気になって調べてみたところ心理学的には感覚は生理的に刺激を受け取る次元で、知覚はそれをもとにした情報処理の次元...といった(曖昧にしか理解出来てませんが)異なるものであると書かれていました。さらに高次のものが「認知」だそうです。 それでは、よく使う「感じ取る」という言葉は何処に当てはまるのでしょう。 「感じ=感覚」「取る=知覚」といったように、感覚知覚(認知)ひっくるめた広い範囲で「感じ取る」なのでしょうか? それとも、感覚知覚認知のどれかを優しく言い換えたのが「感じ取る」なのでしょうか? 定義が難しく、個人の捉え方に差があるとはおもいますが、詳しい方、自分の考えを持ってる方、回答よろしくお願いします。

  • 自我、意識について

    自我・意識とは一体どのような状態なのでしょう?そしてどのようにして生じるのでしょうか?昔からの疑問です。 昔読んだ本では、自己を意識することが自我なんてかいてありました。 自分の考えでは、時間の経過の中で、連続的に自己に意識が向いている状態、みたいに考えています。 つまりもし仮に外界から入ってくる全ての情報が記憶されず自己を自己たらしめる情報が瞬時に消えてしまえば、自我、意識はない。 寝ても自我が連続するのは今までの情報が記憶されているからである。見たいな感じです。 そこで質問です。 1.以上の私の考えは現時点でおそらく正しいと思われているものなのでしょうか? 2.仮に生まれた直後の新生児を、全く刺激のない空間(栄養摂取等生存に最低限の刺激は除く)に隔離した場合、そのままで果たして自我、意識は生まれるのでしょうか?どう思いますか? 稚拙な文章ですみません。 よろしければどなたかご回答よろしくお願いします!

  • 意識

     多くの方が意識のことでご質問されており、何度か自分も四度、意識に関連して質問させていただいております。その折はまことに有難う御座います。心理学や哲学の専攻ではないのですが、ヒンドゥ哲学に関連した本を読んでおりまして、素通りできませんので、何卒お教え下さい。  私と致しましては、意識と大脳構造やその機能と働きについてのご説明もたくさん御座いましたが、それは私の手には余りますので、あまり専門に立ち入るご説明はつらいところとなります。  あいつは革新的で意識が高いだとか、政治意識とか、生活意識とかの意識という意味での意識は問題の対象にしておりません。  http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%B0%D5%BC%B1&kind=jn&mode=0&kwassist=0での、(3)の(ア)思考・感覚・感情・意志などを含む広く精神的・心的なものの総体。とか、(イ)単なる直接的な情意作用や知覚ではなく、自他の在り方自身を察知する明瞭で反省的な心の状態。或は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%8F%E8%AD%98での意識とは自分の今ある状態や、周囲の状況などが正確に認識できている状態のことを指す。などで取り上げられている意識のことで教えていただきたく、質問申しあげます。どうかよろしくお願い申しあげます。  1. 私達が日常、知覚し、経験、認知、認識する主体としての意識は、これを顕在(wakeful)意識というと、これは何に根拠を、基盤を、根っこをおいておりましょうか。   (1) 潜在(sub)意識というものでしょうか。睡眠という状態或は睡眠での身体と心のことを管轄している意識は、顕在(wakeful)意識とは対照される意識機能なのでしょうか。   (2) 両意識の構造図式は上下でしょうか、並立並置でしょうか。基盤とその樹木や地表、表面でしょうか。  2. 意識の出てきている系統的構造のようなもの、生成歴史には必ずしもならなくても、そんなものはご説明いただけないでしょうか。    つまり、一定の樹木が、葉はこう枝とつながり、枝はこのようにして幹に、幹はこのように根っこに、そして地面にというような構造は、想像と創作を交えても、ご説明がいただけないでしょうか。  3. 意識を意識していくことは可能でしょうか。   (1)この普段の生活している意識を仮に私が、素人で反省し、分析していっても、それは意識していることにはなっていないような気がして致し方ありませんので。   (2)仮にそうやっていって、どこまで自分は意識を調べていくことができるものでしょうか。    つまりその根ざすところに到れない意識化というのは意識化ではない、横滑りでしかないとも、悲観しているわけなのです。  どうかよろしくお願い申しあげます。

  • 感性と感情の違いは?

    感性(1外界の刺激に応じて感覚・知覚を生ずる感覚器官の感受性。2感覚によってよび起こされ、それに支配される体験内容。従って、感覚に伴う感情や衝動・欲望をも含む。) 感情(喜怒哀楽や好悪など、物事に感じて起こる気持ち。)とあったのですが、違いがよく分かりません。どなたかご存知の方よろしくお願いしますm--m

  • ヤングヘルムホルツの三原色説について

    ヤングヘルムホルツの三原色説についてどなたか詳しく説明していただけないでしょうか。 この話では錐体が関わってきますが錐体もよくわかりません。 錐体、桿体の説明はできますが場所がどこらへんにありどのようなものなのかがわかりません。 詳しい画像を探したのですが見つかりませんでした… またヘリングの反対色説も色覚説では有名ですがこちらも詳しく解説していただけると助かります。 回答の程よろしくお願いします。 カテゴリがわからないため心理学とさせていただきました。 もしカテゴリが間違っていましたら申し訳ございません。

  • 言葉を勉強しています。

    1つ目は「感性」です。 1 物事を心に深く感じ取る働き。感受性。 2 外界からの刺激を受け止める感覚的能力。カント哲学では、理性・悟性から区別され、外界から触発されるものを受け止めて悟性に認識の材料を与える能力。 と出ていましたが、どういう意味ですか?もう少し噛み砕いて教えていただけないでしょうか? と「感受性」です。 外界の刺激や印象を感じ取ることができる働き。 外界つまり、外の印象を感じ取るとは「自意識過剰」という意味なんでしょうか?こう理解すると2つがリンクしないので分かりやすく教えてください。お願いします。 最後に2つの使い方を教えてくれますでしょうか?よろしくお願いします。

  • 無意識を意識したときの混乱

    無意識の行動を意識した途端に、一体どうやってその行動を行っていたのかわからなくなる事があります。例えば唾液の飲み込み方が突然わからなくなったり、眼をつぶってスラスラ弾けるはずのピアノ曲なのに、手元を見た途端に弾けなくなったりします。 しばらく苦しんだあと再び無意識状態に戻ると、何の問題も無く、再び唾液を飲み込めるようになり曲も弾けるようになります。 こういった事が頻繁に起こる場合、心身に何か問題があるのでしょうか?また、なぜこういった事が起こるのか説明した脳科学や心理学の理論を教えてください。 いつか呼吸の仕方がわからなくなる日が来るのではないかと杞憂しています。

  • 意識すると怖い

    下らない事なんですが、 無意識動作を意識すると苦しくないですか? 例えば、瞬き、呼吸などです。 僕の場合、自分が「思考する・考える」ということを意識してしまいます。 普段人間は、食事の場合ですと、 ご飯から食べるかオカズから食べるかという意思決定を ほぼ無意識状態で行ってると思います。 今、この瞬間においても、自分の思ったままに人間は行動してますよね? この行動すべてに意識がいってしまいます。 感覚としては、現実感が薄れて、少なかれパニックになります。 一生このままなのか・・という不安もあります。 僕と同じ感覚になったことある、またはなっている人 こういう感覚をなくす方法もしくは、意識しても現実喪失感、違和感を感じさせなくなる方法 なんかがありましたら、ご回答願います。 自分が自分を苦しめてどうするんだって話ですよね・・・ 意識したくないと思うほど意識してしまいます。

  • 宗教は無意識において成り立つか。そうならば、無意識での意識とは何か。

    質問の概要はタイトルの通りです 複雑ですので質問の文脈をできる限り整理しておきます。 宗教的認識について。 宗教的認識とは生活の世界、つまり経験の蓄積によって我々が意味を与え、成立する世界におけるものなのか。 それとも、生活の世界の意識を対象化し、そこに架かる「認識のための梯子」を外すことで、より高次の直覚的認識の世界に至ろうとするものなのか。 私としては、これについては後者の解釈がより正確だと思われます。そこで以下の問いが浮かびます。 後者に至る認識的上昇は、「外界は存在する」「5+7=12」というような、自然的態度ないしは我々の生活における態度(これも曖昧で物議を醸しそうですが)の完全な放棄を意味するのか。これが質問の一つです。 仮にそうだとすれば、認識的上昇は無意識への到達と同じことになると思われます。 ここで、例えば「宇宙の本源」や「神」との意識の共有が行われることになる。 そう言うことは理解できますし、なかなか魅力があるとも思います。 ただ、ここで「無意識における意識」という一見したところの矛盾があるのは明らかです。あえて哲学の文脈で言えば「絶対矛盾的自己同一」の問題だと思われます。これを解消するのはどのようにしてか、というのが質問の二つ目です。 ピンと来られた方、ぜひ回答よろしくお願いします。