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ブッダの教えと、仏教。菩薩。阿弥陀。

odd-artの回答

  • odd-art
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回答No.11

 仏教では、厳格なまでに「因果(原因と結果の関係)」を根本としておりますが、仏教以外の教えにおきましては、因果が明らかでなかったり、あるいは因果を無視し否定しております。およそ、世の中の全ての物事において、原因なくして結果が生じたり、原因はあるのに結果がないなどということは、ひとつとしてありえません。 科学というのも、人間の目に観察される現象について、そこに因果関係を究明していく学問でありますし、身近な私達の日常生活においても、道理や筋道のわからない人は、正常とは認められないものです。したがって、いかに見かけが立派で神秘的な宗教であれ、無から有が生ずるというような、因果を無視し否定する教えを説くならば、とうてい最高の真理であるなどと認めるわけにはいきません。  オウム(アレフ)だって、真理じゃないけども、「真理」といっています。  仏教をよく知らない人々は、「仏教であれば、どれも同じお釈迦様の教えである」と思っているようですが、それぞれの宗派でまったく違う教え、異なる本尊を立てている以上、どれも同じ釈尊の教えであることに変わりはない、などという馬鹿なことはない筈で、釈尊の真意はただ一つの筈であります。釈尊は、一代五十年間にわたり、膨大な教えを説いていますが、その四十二年目に説いた『無量義経』という経典の中で、「自分は、かって菩提樹の下で端坐黙想し、この世の中の真理というものを悟った。そして、この真理を人々に説こうと思い、思惟したが、これを、そのまま説くことは思い止まった。何故ならば、人々の素養・理解力が低く、また、まちまちであることを知ったからである。そこで、まず、人々の理解力や、それぞれの素養に合わせ、真理の中の一分一分を種々の経として説くことにした。かくて説いてきた教えは、いわば真実へ導くための方便であり、これまでの四十余年間においては、いまだ真理の全てを説き顕わしていないのである」(無量義経説法品第二) と述べています。また、『無量義経』に続き、最後の八年間で説かれた『法華経』という経典においては、「人々の状態に応じて教えを説いてきたところの、その真意というものは、なかなか人々には理解できぬであろう」(法華経方便品第二) 「今こそ、まさに、これまでの方便の教えを捨てて、最高真実の教えを説くであろう」(法華経方便品第二) 「自分が説いた経は膨大な量であるが、その、すでに説いた経、今まさに説いた経、これから説くであろう経の中で、この法華経こそは最第一の経である」(法華経法師品第十) 等と宣言し、『法華経』こそが、釈尊の悟った真理をそのまま説き明かした、最高真実の教えである、と述べているのです。このように、釈尊の真意が法華経にある以上、法華経こそが真の仏教であることは明白です。  これは、前の回答にも記述したことで、念仏宗の阿弥陀如来(西方極楽浄土を教化する主であって、この我々の住する娑婆世界の教主ではない、これは娑婆世界の教主たる釈尊に対する師敵対である)や真言宗の大日如来(釈尊によって説かれたものなのに、「釈尊などは草履取りにも劣る」と、釈尊を押し倒している)などは、架空仏であり、実在したことのない仏です。これらを立てること自体、釈尊の真意に背いており、仏教とは名ばかりで、「邪宗教」なのであります。  さて、その法華経の中には、 「悪世末法の時」(法華経分別功徳品第十七) 「後の末世の法滅せんと欲する時」(法華経安楽行品第十四) 等々と、「末法」という時代のことが説かれています。 「釈尊が亡くなって後、およそ二千年が過ぎると、末法といって、人の心が非常に濁った、泥沼のような時代が訪れる。その時には、仏教も分裂・混乱し、世の中にも争いが相次いで、釈尊の遺した仏法が民衆を救済する力を失ってしまう」というものです。では、末法時代の人々はもはや救われないのか、と申しますと、釈尊は、この悪世末法の時こそ、釈迦仏法に替わり、法華経の文の底に秘められた前代未聞の大仏法が出現すべき時であり、末法時代の人々は、この大仏法によってのみ救われる、ということを説いています。しかして、その新時代の大仏法を弘める御方は、どのような御姿、御振舞いをもって出現するのか、ということまで、細かく法華経の中(観持品第十三、如来神力品第二十一、薬王菩薩本事品第二十三等)に予証されているのです。これを、現実の歴史に照らして検討してみますと、この釈尊の予証と完璧に一致する御方は、古今東西にただひとり、日蓮大聖人をおいてありません。したがって、今、末法の時代に適する最高真実の教えとは、日蓮大聖人によって取り出だされた、法華経の文底の大仏法「南無妙法蓮華経」なのであります。  このことも、前の回答に記述しています。  宗教には、高低、浅深、正邪の違いがあります。

noname#4470
質問者

お礼

確かに宗教には正邪がありますね。問題はすべての信者が、自分の信仰している教えは正しい。と信じていることです。 そのためにも、一度自分の所属しているところからはなれ、様々な宗教を広く学ぶことでしょう。一つの物しか知らないのに、何を基準にただしい、間違っているといえるのか。ご回答有り難うございました。

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