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「価値と・・・」価値3

何度もすいません。かえって混乱しています。 事物の「価値」が、事物に有るのか、認識する人間の精神(感情・理性)に有るのかという問題ですが、人間の精神のにあると理解するほうがほうが旗色が良いようです、ひょっとするとそんなものは元々ないのかもしれませんが。 今回は具体的に質問してみます。 目の前に、焼きたてのサーロインステーキがあると想像してください。この食物の価値は、私の精神の中にあるのでしょうか。確かに自分の視覚は社会や文化の影響を受けていて、牛肉を食べる習慣のない世界の人とは違った認識を経験上持ってしまうことは解かります。 それでもその一切れを食べ、歯ごたえや味覚、香辛料の香りとときどきのどをとおる音、これらの私の身体的五感がステーキの中に価値そのものを見出してしまうのです。 「価値」が精神の認識だとすればステーキと言う存在をどう捕らえればよいのでしょう。 この質問は一見ふざけているように思われるかもしれませんが、結構まじめなんです、「出来の悪い生徒ほどかわいい」といった寛容な精神で教えてください。

noname#1317
noname#1317

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • starflora
  • ベストアンサー率61% (647/1050)
回答No.3

    「価値」が、例えば、ステーキとすれば、それを食べ経験し、認識あるいは判断する人間の「精神」または「主観」のなかにあるのか、または、ステーキという或る意味超越的な「事物(レース)」のなかにあるのかというのは、質問の立て方がおかしいというべきでしょう。      一応、事物(レース)は、外在的に、超越的であっても、プラグマティックに存在するとして、この場合、認識あるいは判断は、ステーキだけで成立するものではなく、また、いかにグルマンであろうと、粗食家であろうと、それを食するものの精神内部だけで成立するものでもないでしょう。事物と精神の中間領域というか、両者があい交わる「機能的な空間」において「成立または現成」しているというべきでしょう。「現成」という言葉を使うのは、お金や金銀宝石がそうであるように、事物との直接的な実践の交わりなしに、精神内部において、「仮想の価値」を形式的に与えられているものは、皮相的に考えると、精神のなかに価値があるようにも、金銀や宝石それ自体に価値があるように思えても、実は、それらは、精神における「仮想あるいは仮象」なのだと言えるからです。      人間の精神は、生存の活動や、精神の志向性の行為発動において、外在的世界の事物と、何らかの「関係」を結ぶのであり、この関係は、先に「交わりの機能的空間」と呼んだものと同じであって、主体と対象のあいだに生存の活動あるいは精神の行為によって、「関係・交わりの空間」が成立し、この空間の場において、価値などは、現に成り立っているということです。間主観というのは、主観と主観のあいだで、客観へと通底するように成立する精神の位相ですが、このような事物と精神の「関係・交わりの空間」も、また、広い意味の間主観的事態でしょう。      間主観的に成立している事態は、純粋の主観でもなければ、純粋の客観でもないのです。そして現実にわたしたちが生きている世界は、こういう世界・現成する・しつつある世界であるのです。ステーキだと思っているものが、実は巧妙に造られた大豆蛋白の模造牛肉かも知れないし、本物の牛肉ステーキでも、味付けや料理の仕方で、客が、これは鯨のステーキではないのかということにもなります。客観としての事物が本当は何であるのか、主観には分からないのです。しかし、それでは、主観の思い通りに何でもなるのかといえば、そうでもないのです。これは最上級のステーキですと言って出された料理を食べて、「素晴らしい味だ。これこそ本物のサーロインだ。最高の価値がある」と判断した時、この「価値判断」は、主観と客観の丁度あいだというか、「関係・交わりの空間」で、その時に現成しているものなのです。      先の最上級のステーキだと言って出された肉が、実は、大豆蛋白から造られた合成牛肉である可能性もあり、反対に、本物の牛肉サーロインのステーキを、これは、我が社が開発した大豆蛋白の合成牛肉のステーキですと言って出された客が、食べてみて、「これはうまい。本物のステーキのようだ。だがやはり、合成牛肉は限界があるようだ」と判断した場合、これらの主観的判断にある「価値」は、どこに帰属するのかということです。それは、牛肉ステーキだ、あるいは大豆蛋白ステーキだ、と言われてステーキを出された「状況」、その肉の実質、客の味覚と記憶などが絡む判断の総合的事態として、その「場」で成立しているものでしょう。同じ人でも体調によってものの味の感覚が変化し、化学調味料で造った味か、本来の味か、区別が付かない事態も起こるでしょう。ステーキという事物があり、それが食事に供されるという場にあって、食べる人の主観と、事物のステーキの客観のあいだで、「関係の場」という相互主観・間主観において、ステーキはうまいという価値あるいは、これはまずいという否定価値が、現成するのです。      「ステーキは美味だし価値ある」という経験から導かれた認識の命題が、ある人のなかで成立する時、それは「このステーキは現に食べていまうまい」という現成事態判断ではなく、抽象化された判断でしょう。人によっては、「ステーキの味は嫌いで、あんなものは、価値がない」という命題判断をしている人もいるでしょう。しかし、人が抽象命題判断していても、そのことと、事物としてのステーキは、また独立していあるとも言えます。価値あると思っている人に出すと、ステーキが牛肉に代わり、嫌いだという人に出すと、ステーキが、大豆蛋白に変化する訳ではないでしょう。      ものの価値は、それを経験する相互関係の場で・現成する場面で成立するのですが、そこから離れて、抽象的形式ともなりえるのです。「事物自身に価値がある」と言えば、確かにあるとも言えます。しかし、それは、「関係の場での相互主観における、価値現成」において、具現化するのです。また、価値は、精神主観のなかにあるかと言えば、主観のなかにあるのは、現成の場を離れれば、抽象的認識とその命題でしょう。「サーロインステーキは最高に美味で価値ある」というのは、抽象命題であり、一種の「仮象」の認識なのです。      素材が最高のサーロインステーキだから美味なのか、サーロインステーキだと認識するので美味なのか、実際食べてみて美味なのか、この三つの事態が同時に、同じ「相互連関の場」で起こり、判断が現成するのです。だから、事物に価値があるのでもなく、認識する主観精神のなかに価値があるのでもなく、経験のなかに価値があるのでもなく、これらが相互両立する「場」のなかに価値があるのです。      ものや商品について、「使用価値」とか「交換価値」ということが言われます。使用価値が、事物の備える客観価値で、交換価値とは、主観精神のなかの判断命題における価値付与で、実体事物の価値とは別に、仮象として成立しているものだとも言えます。金銀宝石は、使い方によって使用価値がありますが、使い方を知らないものには、たいへん美しいものだ、という程度のことでしょう。金は、物性からして優れた金属なのですが、その使用価値よりも、交換価値の方が優越しているのです。また、交換価値しかほとんどないものは、紙幣の形の貨幣でしょう。あるいは紙の形の有価証券などでしょう。大インフレーションが起これば、一万円札千枚も、ただの紙の山になります。株式は、会社が倒産すれば、これも紙屑でしょう。      しかし、「実在としての・レアルな価値」は、使用価値にも交換価値にもなく、両者も含めた認識における、生存や行為の場での「関係空間」で「何が」主観と間主観にあって現成するかで決まってくるのです。      ステーキは旨いという価値判断は精神のなかにありますが、それは抽象形式の命題で、仮象なのです。その極端な例が、紙の貨幣や有価証券です。逆に、旨いステーキがあるのだというのは、それを食べて味わい判断する主体がいないと、どこにも価値はないというか、現成していないのです。  

noname#1317
質問者

お礼

starfloraさんご回答有難うございます。 拙速なお礼を心がけていますか、かえって失礼に当たると思い一晩考えてしまいました。(それでも拙速に変わりは有りませんが) お礼で補足を要求することは失礼に当たりますが、starfloraさんのご回答を理解するために時間が有ればyes,noだけでもお聞かせください、当然無視して頂いても結構です。私もほとんどそうして来ました。 >事物と精神の中間領域というか、両者があい交わる「機能的な空間」において「成立または現成」しているというべきでしょう。 1.ここで使用された、精神の中に人間の本能も含まれる。 >「関係・交わりの空間」が成立し、この空間の場において、価値などは、現に成り立っているということです。 2.価値などと表現してありますが価値以外のものはない。 ここで議論する気持ちがさらさらないことは、過去の応答でご存知だと思いますが誤解されないことを祈ります。 おかげさまで、半歩前に進めるかもしれませんが、自分の考えとして消化するためにはまだ時間がかかりそうです。 楽しいクリスマスをお迎えください。

その他の回答 (6)

  • chihoko
  • ベストアンサー率13% (14/106)
回答No.7

●あなたの一日の労働の価値とおなじ価値をもつ通貨を雇い主との間で交換します。  その価値をもつ通貨は5000円 その通貨をもってレストランでステーキ  と交換します。ステーキの価値とおなじ価値の通貨を あなたは1000円  という量で渡します。  あなたの労働の20パーセントとステーキが交換できたことになります。 ●このように価値とは他者との関係を処理するための概念なのです。  歴史的価値がある・・・歴史的に重要  愛こそ価値あるもの・・・愛こそ大切なもの  ステーキのなかには生命を維持するために必要な価値がある・・・  ステーキのなかには生命を維持するために必要な要素がある  言葉としての「価値」は他者との関係を処理するための概念としての  イメージを含みつつさまざまに使われています。  しかしその本質を捉えようとするなら概念の発生に目をむけなければ  到達できないでしょう。 ●価値という概念は通貨という媒体を得て フレキシブルになりました。  価値を確保するために通貨の売り逃げが起こり通過崩壊を招きました。  また 売り逃げによる崩壊を見越して 先物取引で価値を収束する者も  現れました。 ●価値に正義感を感じれなくなってしまったのは  価値というものが概念であるうえにその概念を媒介する通貨という物に  置き換えられたことによって 本来動かせないもの(概念)が  動かせるもの(通貨)に変化したことに由来すると考えています。  このことが経済をGAMEに変貌させてしまったのです。 ●他者との関係を処理する概念じゃない「価値」が 思い当たるのでしたら  実例で示してください。実例がないと返答のしようがありません。 ●本来 価値があるといわなければならないものは皆無なんですよ。  あくまでも他者との関係を処理するために生まれた概念なんですから。 ●賢者であれば自分に価値があるなんて思いもしません。  また価値ということばを引き当てないでそばに置くものにこそ  本当に大切なものが在るのです。それは正にあなたと同化しているのです。  

noname#1317
質問者

お礼

chihokoさんご回答有難うございます。 お礼に対して新しい助言を頂く事は、大変感謝していますがopenなこのサイトで議論する、勇気も、才能も有りません 議論はやはり相対で行わないと言葉による誤解が多く不快感が残るだけのような気がします。 楽しいクリスマスをお過ごしください。

  • ereignis
  • ベストアンサー率57% (11/19)
回答No.6

ふざけているとは思いません。むしろ、立派な哲学的な疑問です。 ステーキの価値が事物にあるか、人間にあるかという設問ですね。そしてどちらにも説得力がないので困っているということでしょう。 こうは考えませんか。価値は、人間にも事物にもあるのではなく、それとは別の第3のものに由来するのでは…、と。 あなたがステーキを美味しい、価値があるとおもうのは、もちろんステーキがあるからです。しかし、ステーキがあるのは、それを美味しいと思うあなたのような人間が居るからです。どちらがかけても、ステーキの価値は生まれません。いわば、美味しいと思う人間と美味しいステーキは、ともに同時に現れます。ステーキを美味しいと思わない民族の国にはステーキは存在しません。 ですから、美味しさという価値に対して、それを感受する者と感受される物が同時に発生するのではないでしょうか。先に挙げた第3のものとは、価値自身のことです。 するとますます設問は混乱するでしょうか。価値は人間の側にあるのでも、事物の側にあるのでもないといい、価値は価値そのものに由来するといっているわけですから。 しかし、考えてみてください。箱の中にリンゴが有るように、人間の中に価値が有るでしょうか。またステーキの中に価値があるでしょうか。空間的なイメージで「価値」は捉えられるでしょうか。 あなたがステーキを美味しいと思うのは、美味しいと思うから美味しいのではなく、ステーキが「美味しいから」美味しいと思わざるを得ないのではないでしょうか。ステーキが「美味しい」のは、調理人が「美味しく」作っているから、「美味しさ」を味わってもらいたいからです。するとやはりステーキのなかに美味しさが「閉じ込められている」のでしょうか。 常に、美味しさという価値の周りを人間とステーキが堂々めぐりをしています。ステーキの美味しさを発見されたとき、それを食べる者(人間)と食べられる物(ステーキ)が存在できるようになるのではないでしょうか。 価値は、人間や事物が存在するようには存在しません。ステーキの美味しさという価値そのものは誰かが作ることはできませんし、何かにもともとそなわっているわけでもありませんから。だからこそ哲学史を紐解けば分かるように、価値は存在するとはいわれずに「妥当する」といわれるわけです。 価値そのものを作る人がいるとすれば、それは神か、あるいは人間の中では芸術家です。芸術という「価値の世界」では、芸術家は美しさを「創出」します。実際には色や音といった物理的な素材を用いて作品を「制作」しているだけなのですが、その作品を通して芸術家はその作品の美や快などの価値を生み出すのです。しかしその場合でも、作品の中に価値があるわけではないのです。 価値とは、どこからともなく突然やってきて、人間と事物をその周辺に取り寄せます。そして、時代や場所で、その価値は違います。「普遍的な価値」という言葉は自己矛盾です。お金も愛も平和も、価値があるといわれるものはすべて普遍的ではありません。歴史が語るとおりです。 実を言うとここでいっている価値、ステーキの価値の問題とは、美学の問題です。カントならば美的判断の問題として、ヘーゲルならば精神の感受性の問題として記述したことでしょう。ニーチェなら、ステーキの美味しさに陶酔したかもしれません。哲学者によってその捉え方はさまざまです。 いずれにしても、価値を考えるには、世界を人間と事物(主観と客観)の2つにわけて、そのどちらに有るかと問うのではなく(人間と事物という二項対立がこの設問を導いたともいえますが)、そもそも価値とは何かというところから考えていかれる方が良いのではないでしょうか。善・美・有用性・希少価値など価値にもいろいろありますが。 最後に私の意見を申し添えますと、もともと価値は存在しないのですから(「妥当」はするかもしれませんが)、ステーキを食べるときには、肉を提供してくれたウシさんと美味しく調理してくれた料理人とそれが食べられる自分の健康に感謝して食べた方がいいと思います。 それがもっとも美味しい食べ方であり、ステーキの美味しさに「肉薄」する仕方ではないでしょうか。

noname#1317
質問者

お礼

ereignisさんご回答有難うございます。 >そもそも価値とは何かというところから考えていかれる方が良いのではないでしょうか。 そのつもりがこんな事に成ってしまったのです。 「妥当する」という表現はわかりやすかったです、哲学に詳しい人にはあたりまえの事だったのですね。 時節柄、七面鳥にした方が良かったかもしれません。 楽しいクリスマスをお迎えください。

  • jun95
  • ベストアンサー率26% (519/1946)
回答No.5

価値の判断とは関係なく、価値のあるものは存在するのかということなのでしょうか。 これは、ものについては、なかなか難しいのですが、それ以外に普遍的なものが存在するかと聞かれれば、存在すると思っています。 具体的には、片方でアメリカでのテロを誰もがよくないことだと思ったように、なにも悪いこともしていない人を殺すことはよくないことだという道徳律のようなものがあります。カントなどは、実践理性批判で、そういうものを悟性でみんな持っていると考えています。 もう少し分かりやすい例を挙げれば、「価値」を「美」に置き換えてみると、ピカソの絵が普遍的な美しさを持つとしたら、その絵をどのように捉えたらいいかという問題になります。そして、その絵を「美しい自然」に置き換えてみると、「美しい自然」は、失われつつあるものの実際に存在しています。しかし、ここでも、では「美とは何か」という問題についての論争は続いています。 このように、寄って立つ立場によって、見解は相違するものと考えた方がいいのではないでしょうか。 もとより、近代経済学は、価値に関する問題は複雑なので、なるべく簡単な公理を設定して分析するということに専念してきたきらいがあります。事実、そういうことを考えていると、哲学者にならざるを得ないのかもしれません。 昔は、経済学では環境の問題をほとんど考えませんでしたが、時代が変わると、経済学の課題になるように、流動的な学問と言えるかもしれません。 価値の問題に悩んだ著名な経済学者については、経済学史などで知ることが可能です。

参考URL:
http://radicals.tripod.co.jp/het01/indexhet.htm
noname#1317
質問者

お礼

jun95さんいつもご回答有難うございます。 価値の問題を経済学として考えていましたので、経済学の関係の本は結構目を通したのですが、あまりピンとくる本がなかったのです、先日jun95さんから教えていただいた本も社会学の本でしたが、調べてみると金額からしても量的に読み応えがありそうで、正月休に読む予定の本がたくさんたまっていて、いつ読もうかと迷っているところです。 ところで「価値」の件ですが、牛肉に好き嫌いはあっても一つの社会の中では食品としての、好き嫌いの感情の前に生命維持のための基本的というか根源的というか、よくわからないのですが理性とは関係なく価値があるように思うのです、誰も同意してくれなくてさびしく思っています。

  • chihoko
  • ベストアンサー率13% (14/106)
回答No.4

●ステーキがうまい!歯ごたえがたまらなくいい!栄養になる!  このステーキに対する感じは それで完結しているのです。  それを 価値があるとした時点で あなたは無意識のうちに他者を意識にいれているのです。  例:この肉はお金を払ってまた食べるだけの価値がある。    家族や友達にも食べさせる価値がある。    ステーキ屋で稼げるほどの価値がある。    肉としてこれに勝てる肉がないほど価値がある。 ●もし地球上にあなた一人なら ステーキはおいしいから一番目にすきとか  二番目にすきとかで 十分です。  でも現実はいろんなひととのかかわりで生きているわけですから  価値という等価交換原理を持つ概念に置き換えがちなのです。  しかし 価値とはあくまでも他者との関係を処理するための概念ですから。  あなたがステーキの真髄をきわめたいのなら 価値などという下世話な概念に  とらわれることなく。ステーキとあなたと直で向き合うことが真髄への  近道ということです。

noname#1317
質問者

お礼

chihokoさんご回答有難うございます。 >価値という等価交換原理を持つ概念に置き換えがちなのです。 ようやく意見の一致する部分が見つかりました、私もこの一連の質問の前に、言語のカテゴリーで価値という言葉に交換のイメージがあるのではという質問をしましたが、反応がなかったで自信はないのです。 >しかし 価値とはあくまでも他者との関係を処理するための概念ですから。 それでも、価値はこれだけではないと思いますが。 またお願いします。

  • odd-art
  • ベストアンサー率9% (31/325)
回答No.2

 価値は、本人次第です。  対象にあるのではなく、自分本位なのであります。  ダイヤモンドは高価です。しかし、石でしょ。  石に価値を見出しているのは、人間です。ダイヤモンドが希少だから、それを欲しがる人間が価値を付けたのです。  ただ逆に、知らないだけなのですが、本当に価値あるものがあるにもかかわらず、分からずに捨てさられている現状というものもあります。  宝が分からない、迷妄なのも本人の機根からでしょう。  気付かれることを望むばかりです。  如何でしょうか?

noname#1317
質問者

お礼

odd-artさんご回答有難うございます。 >価値は、本人次第です。 この言葉は前にも聞いたような気がしますが >価値は、本人次第です。とすれば、人間と食品の関係はどう表現すればよいのでしょう。人間も自然の一部として生命としての制限があり、仙人のように霞を食べて生きていける人は一人もいません、本人の精神に関わらず生きるために、何かかを食べなければなりませんが、生きるために食べる食物に価値があるという表現が間違っているとしたら、「価値」という言語の不備を考えてしまいます。 なかなか納得しない頑固者ですいません。

  • aminouchi
  • ベストアンサー率46% (376/804)
回答No.1

うーん、fishbowlさんの混乱の度を増してしまわせたのなら申し訳ありませんね。 ただ、混乱の根源ははっきりしています。「価値」という多義的な言葉を無限定で使用し、統一した見解を持とうとしているところにあります。 fishbowlさんの最初の質問は経済学分野での「宝くじの価値」に関してでした。 (http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=170202) 2番目のものは哲学分野での「金の価値」から派生したものでした。(http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=185508) で、今回は「ステーキの価値」です。 正面から「ステーキ」の価値が生じる所以を論じてもかまいませんが、それ以前にこれらの三つの質問で同じ意味の「価値」が対象になっているとは思えません。 宝くじでは1億円の値打ちしかないものを2億円で買うのは何故か、と聞かれました(私はこの問題の立て方自体が誤りであると思います)。ここでは「価値」=「財貨の効用」です。 2番目の金については、金は貨幣として使われる場合には交換の尺度としての役割を果たしますが、それを故意に除いて、金に内在する価値はあるのか、という問いを立てられました。ここでは「価値」=「人間による評価」です。 そして今回のステーキではある意味では美術品・芸術作品の評価に通じるものがあり、これも「人間による評価」ですが金と異なるのはステーキには金のような交換性がないことでしょう。どちらかというと「価値」=「有用性」に近いものです。 人間はその長い歴史の中で、貨幣という非常に有効な概念を発明し使用してきました。これは本来、比べることのできない二つ以上のものから、行動、さらに愛の概念のように具体性をも持たないようなものまでを価格という尺度で価値を比較できるようにしました。しかし、比較可能になったとは言え、その源泉は物々交換に始まる、ものとものとの交換比率であり、芸術品のように評価が一定しないものや恋愛・正義・平和というような抽象概念にまで「価値」という言葉が使われるからと言って全てを統一的に理解することは困難であると思います。 前回の質問において、ある方は独自の「価値」解釈であなたにお答えしたために混乱を招いたと思われます。なお、私はこうした疑問については対話を重ねることによってしか納得を得られるものではないと思っておりますが、Q&A形式とは言え回答とそれに対するお礼というこのgoo(OKweb)の形式では充分な対話が可能とは思えません。できましたらメールででもお話したいものですね。

noname#1317
質問者

お礼

aminouchiさんご回答有難うございます。 やっぱりばれていますね、最初の宝くじは大失敗でした。「価値観」について量の変化が質の変化を伴うのだろうかと言う意味で宝くじを取り上げたのですが、思慮不足と反省しています。 2回目以降は真正面に価値についての疑問を正直に質問しているつもりですが「言葉で気持ちを伝えることは難しいですね」 他で質問したのですが、価値という言葉が多義的といっても意味が多すぎて、言葉としての機能が失われてしまいませんか、名詞としての「価値」という言語の意味も、もっとはっきり理解したいと思っています。 本当は大法螺吹きになりそうで言いたくないのですが、価格からなぜ正義感がなくなったのか考えるために価値のことを考えているのです。かっこよすぎるのでほんの少しそんな気持ちがある事にしておきましょう。 またよろしくお願いします。 

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    ニーチェのwikiに記載されてあった、この文章にとても感動しました。このほかに感動する哲学の文章はありますか? 「人間は、合理的な基礎を持つ普遍的な価値を手に入れることができない、流転する価値、生存の前提となる価値を、承認し続けなければならない悲劇的な存在(喜劇的な存在でもある)であるとするのである。だが一方で、そういった悲劇的認識に達することは、既存の価値から離れ自由なる精神を獲得したことであるとする。」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E...より引用。

  • 仏教 イスラム教、根本的にどう違のでしょうか?

    以下の教えは、「般若心経の本」:Books Esoteria 発行人大沢広彰 によります。 「般若心経 深波羅蜜多(パーラミラー)とは 布施 持戒 忍辱 精進 禅定 智慧」  布施―惜しまず施す .持戒―身を正しく保つ 忍辱―どんなことにも耐えること 精進―常に努力し前進する 禅定―どんなときでも心を乱さぬこと 智慧―物事を正しく認識すること 「仏教の 世界観 一切皆苦」 パーラミター=六波羅蜜多 「パーラミターを会得し 極限で 涅槃に入る人はいる?」 般若=智慧 「般若心経 悟りを否定し 無明から生まれ 無明に死すと」 「無無明とは、人生は濁流に流れる 藻屑?」 「ただ 施しがあることを 望むのみ」 「ギャーテー ギャーテー ハーラーギャーテイ ハーラーソーギャーテー ボジソワカ」 「行きましょう、行きましょう、彼岸の岸に さあ皆で努力して 行きましょう と」 「他者救済の智慧の実践を完成させる と」  「不説過戒―他人の過ちを説くなかれ と」 「不妄語戒―嘘をつくな と」  「輪廻断ち切りれば パーラミター 涅槃なり?」 般若心経 「仏説魔訶 般若波羅密多心経」 「魔訶」:偉大なる 「観自在菩薩」:この世のすべてを知る観世音(アヴァローキャーテーシュヴァラ)=救いを求めるあらゆる人の声を聞き分け、すべてを心の目で見透かして、救済の手をさしのべる存在である。) 「行深般若波羅密多時」:「深」は6番目の智恵を含めて6つの項目すべて、「行」実践すれば少しずつ、悟りの世界 に近づく と <「照見五蘊皆空」:[五つの集合=精神的作用+物質的現象]:月光が地上をくまなく照らすように空であることがはっきり見ることができると 「肉体を含むすべての物質(色蘊)、感受作用 (受蘊)、表象作用 (想蘊)、意志作用(行蘊)、認識作用(識蘊)の五つしか、人間には見つからなかった と。」 「度一切苦厄」:観世音はどんな苦難も例外なく取り除いた 「舎利子」とは、シャーリープトラで智恵第一と称賛されていた人で位の位置づけは、釈尊>観自在菩薩>舎利子」 「釈尊は霊鷲山で瞑想に入っており、パーラミター(六波羅蜜多)を全宇宙に偏在する超越的な場で実践し悟りを開いた観自在菩薩を通じて、釈尊の瞑想が、地上にいるシャリープトラに、広大無辺の響きをもって電磁波のように発せられた と」 「色不異空、空即異色」:あらゆる事物は母なる無の空間、あらゆる事物にその実体はない、母なる無の空間は、あらゆる事物と一体である」 「色即是空、空即是色」:すべては空である。あらゆる事物は、この流転の場の現象である。空がすべてである。流転の場をはなれて現象するものはない」 三法印とは    「緒法無我」+「諸行無常」+「涅槃寂静」---仏教思想の根幹     「緒法無我」:位置により性質が変わってくる。ゼロの位置が1の位か10の位かまたは100の位かで数が変わる。諸法:我々が知覚し認識するすべての事物、それらは決して関連なくして存在できない。おかれた位置によって、内容を変えるだけ。碁石の石が、その碁盤の位置によって、強くもなり弱くもなるように。   我欲が良いとか悪いとか言われるが、それがなければ生きる意欲が無くなってしまう。しかし固執しすぎるといけない。中道でなければならない。 「諸行無常」:すべては変化するという客観的な事実をいう 「受想行識、亦復如是」:目に見えるもの、心に浮かぶこと、やろうと意志すること、自分はこうだと認識していること、それらの自我の全体は、これもまた空である。    五蘊皆空を繰り返している。五蘊とは、色、受、想、行、識       色(肉体)ーーーー(心)受ー感受作用ー楽しい、苦しい、痛い                     想ー表象作用ー好きだ、愛しい、憎いや空想                     行ー意志ーある方向に心が働いていること                     識ー認識作用ー知識、五感を通じてものごとを認識すること    ひとはそれぞれの気質や生育歴を通じて、ある一定方向に人格を形成していく。これはそれぞれの世界観、価値観によって形成される。大切なことはその世界観、価値観に矛盾を生じさせずに、一つの人格を形成すること ここまでで仏教とは、人間の人格を高く評価している点に特徴があると考えます。 一方イスラム教とは、人格を認めているのでしょうか。 イスラム教では、来世と現世をはっきりと分離し、来世では裁判があり、地獄行きと極楽行きに分離されると言われています。 そしてモハメッドー予言者の命令は絶対であることを強要されます。 このような状態では、個人の人格は認められるのでしょうか? ウサーマビンラディンは、予言者に対してはどのようなスタンスで自分を認識されていたのでしょうか?

  • 武道の人間形成。

    武道の人間形成。 武道では人間形成を重視していますね。わたしは武道ではありませんが西洋剣術というそれに類似したようななものを趣味としております。私自身はあくまでも趣味と研究を目的としていましたが、最近、若者がエクスカイヤ(従騎士。弟子のようなもので師弟関係を契約する)を申し込んできました。 海外ではこの関係のシステムはきちんとあり、マスターレベルはすばらしい人ですが、日本のグループは小さくマスターなどはいません。私のグループはノブリス・オブリージュを大切だとしていますが、道徳を教える団体ではありません。遊びと活動のなかでそれが養え、日常に生かせればよい程度の認識でした。 単に技術的なことを教えたり使用する武具の援助をするだけならよいのですが、しかし、この関係となると騎士道といった精神面をむしろ教えていかねばなりません。これは相手の精神、価値観、思想、哲学にわたしの行動が強く影響をあたえることになります。若者一人の将来を左右することにあり、非常に責任が重大で(積極的ではなくても)マインドコントロールをすることになるからです。 私自身、人間形成がなっているとは露ともおもっていません。 日本の武道では剣道始め「人間形成」が大きくうたわれていますが、具体的にはどのような指導をしていますか? 武士道そのものを話題として価値観、思想、哲学をことばで語るような指導をしていますか? 礼儀作法など形や武術を通じて学ぶ云々ということではなく、武道を通じての思想教育をどのように実践し日常にいかしていますか? 師範はその師弟関係の重大さをどのように認識し行動をしていますか?

  • 自己分析から哲学してみる

    私は9年前に「現代が社会進化の移行期で既に4千年経っている」ことを、おぼろげな認識ではあるが、ハッと気付いた。目覚めたのです。しっかし、だからって、私に何ができる? 奇跡はね、私は脳障害だからこそなんだけど、たまに起こる。私は口腔内の感覚異常で毎日へんな気分だ。しかし逆にその脳が生む幻覚にも規則性があるのが解る。五感は量子交換なんでしょ? つまり量子交換にも規則性がある。そして脳内のアナログな回路がバグを生むと、幻覚になるっていう。視覚的幻覚もたまにあるが、口腔内はいつでもどこでも可能なのはなぜなのか? 特に「舌」が大きな主役だ。 そんな私に何ができる? 社会進化の移行を止めなきゃ。宇宙が私の補完なんだから、何かできるはずなのに。やはり、どう考えても己の認識を深めるしかない。誰かが言った。様々な障壁は、己の認識の浅さに起因する自己矛盾である、と。 馬鹿な私にできることは精神性の向上しかない。でも面白く生きたいものだね。何にでも基本と応用がある。基本はそれでいこう。応用は、私の未知なる不思議な意外性に期待しているのだ。きっと死ぬまでに意外なことを自他共に体験できる。 だって初めて書き込んだ掲示板に賢者がおり、初めてのツイッターで同一の芸術感覚を持つ東洋の歌姫と話しができたり。その谷山さんの歌の歌詞は、その賢者ほどではないが、同じ指向性を持っている。また、漫画の世界では、人間とは「光りの矢のようなもの」と表現する作品さえある(ディスコミュニケーション=相互不理解の意味)。 全てが何かへ向かう。 「己の認識の浅さに起因する自己矛盾」の意味が上手くイメージできないんですけど。

  • 大企業勤めの社員の金銭感覚

    大企業勤めの社員の休日休暇の過ごし方。。。現在東証一部会社の社会人2年目の会社員です。年商1100億の社員は2000人の会社です。大企業と言っても年収は350万です。 私の会社は大企業というのか微妙なラインですが。。。 早速ですが、仕事に対しては向上心はあります。 ただ私は趣味が少なく、趣味が少ないことが仕事に影響するのではないか心配です。 趣味が薄いからと言って、人間力不足、経験不足、見聞不足など。 例えば、同僚や他部署の同期は、休日によく出かけたりなど毎週活発に遊びに行っています。 大企業の人間だからかもしれませんが、金銭感覚が私の感覚では考えられない方が多いです。 休日は毎週、ラーメン巡り、買物に出かけたり、渋谷に行ったり、六本木や麻布のバー行ったり、ライブ行ったり、フットサルやったり、ゴルフに行ったりし、海外旅行も年に2~3回も行ったりしています。よくそんなに金あるなという感じです。下記に述べておりますが、私の会社の人はほぼ裕福orそれなりに金のある家庭に生まれている人しかいないのは事実です。スーパーの西武ストアや京王ストア、マルエツ、いなげやが安いと言っています。オーケーやビッグエー、ロヂャースが普通の感覚からすると違和感を感じます。 海外旅行の今年の出国者は65万人だそうですが、不自由なく動ける身体のある国民は恐らく何千万単位かと思いますが、そのうち、海外旅行に言っている人はたった65万人しか言っていないと言うことは、65万人より下回る人間しか金持ちor中堅以上の家庭がいないということになると思います。そう考えると、私の会社の中にそういった人間がほぼ入り込んでいることになると思いますので、金持ちor中堅以上の家庭だと言わざる得ません。 私の妹が勤務している会社はハロワで見つけた会社ですが、社員200人程度しかいない中小企業で、海外旅行なんて行っている人は皆無のようです。皆毎月18万~20万程度でやりくりしています。妹の会社と比較すると、何か大きな違和感を感じます。 そもそも中小企業と大企業を同じ土俵で見ていることがナンセンスかもしれませんが。。。。 以上のように、周りの金銭感覚や価値観について行かれません。 かくいう私はせいぜい、ゲーセンに行ったり、書店に行ったり、一人で公園の池に釣りに行ったり、など高尚な趣味は持ち合わせていません。基本家でゴロゴロしたり、勉強したり、DVDを見ていたりしています。趣味が薄いかもしれません。 価値観や家庭環境によるかもしれませんが、自分の中で金を使うのがもったいなくないです。 欲しいと思った物以外金を使うのがもったいないのです。ちなみに奨学金もまだ270万円あります。 例えば、家電や家具、物、本、DVD、ゲームなどです。 例えば、牛肉はスーパーで売っている高めの牛肉や、レストランで提供されるステーキの牛肉、米沢牛・松坂牛クラスなど高級の振り幅がすごいですが、こういうものを買おうとするとき、食べようとするとき、安い肉を買います。なぜかというと、スーパーで売っている安い肉と300円高い中堅の肉を比較して食べたことがありますが、際立って変わらない、牛肉は安くてもどっちにしろそれなりにうまいです。なので中堅を出す必要が無いです。一度でも中堅以上を求めてしまうと、下位のものに戻れなくなります。1度そういう「上を上をと求める世界」に入ると、常時継続的に病みつきになり「味覚が狂い中堅物~高級物しか食いたくなくなる」と思いますので、「中堅以上・最高級というのは知らなくていい世界」だと思い、誰かに誘われたとしても、価値観が根付いているため絶対いけません。そしてピンキリの深い世界で上を上をと求めているとキリがないと思いますし、本当に底辺の肉と最高級の肉を比較しない限り、際立って味は変わらないという経験則からです。 他の例だと風俗です。60分1万5千の激安ソープから7万まであります。家賃が3万の物件から15万の物件まであります。天ぷらを食べるにしても、てんやの500円~銀座の老舗店の5000円まであります。 スーツや皮靴もピンキリです。芸能人が見栄やちょっと稼いでるからといって家賃20万~200万円もするマンションにわざわざ住んでいるのとがいい例です。 また、渋谷に行ったり、風俗、銀座などに行く等に行くことに価値を見出せません。スポーツ音痴で、人付き合いが苦手なので、友人と過ごしたりする以外、同期とフットサルなど集団で休日を過ごすのも嫌です。ゴルフは興味は少しだけありますが、スポーツ音痴ですし、金も相当かかりますし、車も持っていません。 また、同僚や同期に誘われて飲み会に行く時は金を消費しても付き合いなのである程度消費してもしょうがないので我慢しますが、基本は居酒屋、個人飲食店に行きません。1品700円もする小皿の料理や、生中ジョッキ400円~500円、鍋で1,500円など信じられません。同僚や同期は私とここでも金銭感覚がずれてるのかばんばん頼みます。そして大勢で行くと割り勘を請求されるのでとんでも迷惑です。それならば松屋で牛丼大盛り食べたほうが十分だという金銭感覚です。これを頼んだら、牛丼の大盛りが3杯分食えるからもったいなすぎるなど考えてしまいます。 にも関わらず、周りは「ここでこのくらいの値段は妥当」「こんなのもかっこよく払えない社会人としてださいよ」と、私の価値観からでは想像の出来ないことを言います。 以上が私の持論と価値観・金銭感覚です。 でここまでなら「タダの愚痴かよ」と思いますが、問題はこの後です。 こういう私のような思考や価値観をしている人は私の会社の同僚・同期にまずいないため、かなり変人扱いされます。 「海外旅行に行かない」「銀座に行ったことが無い」「百貨店で買い物したことがない」「おいしいお店を知らない」「ゴルフをやったことが無い」「金が無い」など言うと口をそろえて「言い訳」「見聞が狭い」と言われます。 本人たちにとっては、そういう金銭感覚が普通だと思っているのかもしれませんが、私からすると、金もないのもそうですし、私の金銭感覚や価値観を全否定された気分です。 私のような金銭感覚・価値観を持つ人間は、この会社にいないから場違いだと言われた気分かもしれません。 私の会社のようなレベルの大企業の社員でも「見聞の広さ」や「見栄」を重視するようです。 そもそもうちの会社にいる人の9.5割は全員高学歴の金持ち育ちorお金に困らせられたことがない家庭出身で、奨学金はそもそも借りている者は一人もいません。私くらいです。 私は、非金持ちのMARCHです。 同僚や同期は毎日ランチに500円~2000円を平気で使っています。そういうレベルの店に食べに行きます。金がない私には一緒について言っても金がなくて食えないこともあります。 なので私は昼飯はコンビニのカップ麺とおにぎりや松屋の牛丼で文句無く必要十分です。 周りに口には出しませんが、高い店に一緒について行くのが辛いです。 以上長々となりましたが、 私のような人間は、『大企業勤め』には恐らく絶滅危惧種的少数派かと思いますが、 上記についての感想や、「こういう思考は直した方が良い」「こうした方があんたのためにいい」「ここはおかしい」などの御意見をお願いします。また、私のような人間、貧乏人は大企業勤めには向かないでしょうか? 場違いでしょうか? 大企業勤めの方は本当の庶民の感覚が全くないように感じますが、如何でしょうか? 念を押しておくと、決して私は意識的にケチをしている訳ではなく、感覚的にこういったことが自然と染みついています。本当に必要な時以外、自然に高いものを買うことを避ける感覚が自然についています。そのため、もちろん金があればそれはそれでうれしいですが、彼らのように肉にしろ魚にしろ中堅以上のクラスのものしか求めず、金に溢れ、金銭感覚や価値観が私と180度異なる彼らに特別憧れはありません。 ただ、私の価値観や金銭感覚上、彼らの行動や金銭感覚が信じられないだけです。

  • 国語の質問(難)

    現代の都市に暮らす人びとの心は、都市の建物、雑踏、シッソウしたり渋滞したりする自動鮮、ショウ・ウィンドウや街旅 のテレビ・スクリーンに映し出される映像、郊外住宅地の風景、携帯電話の小きなディスプレイ上の文字列、小さなイヤフォン から流れつづけるリズムやビートといったものたちのなかにトウエイされ、表象されている。それだけではない。そこに暮ら す人びとの心的生活が、そうした事物に規定され、それらを通じて現れ、それらなしにはまったく別棟のものになるであろうと いう意味で、それらの事物は、そこに暮らす人びとの心の一部なのだ。 物質が見る夢、物が抱く感情、メディアのなかの記号やイメージとともに明滅する心や感情が、都市や社会のなかで私達 を捉え、私(たち)によって生きられる。私たちが見てきたのは、そのような場としての都市や社会ではなかっただろうか。 物質が夢を見る。あるいは、心が物の中に、あるいはものを通じて現れる。こうした一見すると奇妙な物言いは、ヴアルター・ベンヤミンやマーシャル・マクルハーン、ミシェルフーコーの思考を通過したあとの社会学的思考にとっては、必ずし も奇異なことではない。 、′ たとえば都市をめぐるベンヤミンのテクストでは、商品や室内、パサージユやその内外をイロドるモードといった、十九 世紀から二十世紀はじめの都市空間に見出される端的にモノである存在群は、そこに人びとの意識が表象されるだけでなく、そ れ自体が集合的な心的現象であるかのように取り扱われる。 芸術家が作る建物からエンジニアが作る建物へ。絵画から写真へ。これらは建築やイメージを「精神」から解放していくかの ように見える。だが、実際、そのようなテクノロジーとともに現れたパサージユやプルジョワジーの室内、博能会やパノラマと いった事物が示すのは、それらの事物を生み出した人びとの意識や欲望である。そしてそれらは、単に人びとの意識や欲望を表わしているだけで ではない。そのようなテクノロジーに支えられた事物はまた、積極的に人びとの意識や欲望を駆動し、作り出す ものであり、その意味で入びとの意識や欲望の一部をなしてもいるのである。 マクルーハンは、「メディアはメッセージ」という警句的教現によって、種々のテクノロジーが社会のなかに生み出す行為や 関係のペース、スケール、パターンへの注目をカンキしただけではない。彼はまた、みずからの警句をさらにもじった「メデ ィアはマッサージ」という言葉で、そうしたテクノロジーが生み出すペース、スケール、パターンが人びとの意識や感覚に働き かけ、たとえば「活字人間」や「テレビ人間」のような、特定の思考や感覚の形式を備えた人間類型を生みだすことに注目した。 マクルーハンによれば、メディアとはそもそも「人間の拡張」を可能にするものである。活字人間やテレビ人間にとって、活字 やテレビ、そしてそれらが可能にする意味や表現やイメージの空間は、人間に外在するものでほない。それらは拡張きれた人間 の一部なのである。同じことは、鉄道、高速道路と自動車、高層ビルといった〝メディア〝についても言えるだろう。現代の都 市に暮らす私たちほ、〝鉄道人間″や〝自動車人間〝高速道路人間〝や〝高層ビル人間〝であり、私たちの意識や思考、精神は、そうした〝拡張された身体″と相関した存在でしかありえない。 また、フーコ-が監獄の誕生で示したことの一つは、監獄や教室、兵舎のような物的施設の空間内の配置が特定の運用規 則と組み合わされることで、その内部に位置づけられる人びとのなかに、「不断に自分を監視し、管理する自分」という という特異 心的メカニズムを生み出すと同時に、そのような心的メカニズムに支えられた身体間の相互関連のなかの存在へと、人間を形成 していくということであった。「身体の監獄たる精神」という監獄誕生のなかの言葉は、身体に内在する多様な運動性が精神を蝶番にして規律・訓練されていくことを示しているのだが、その精神は人びとの身体のなかにだけあるのではない。監 獄の建物に、そして教室や兵舎の建物にそうした精神が宿り、身体を攻囲しているのである。 十九芸世紀以降の都市と社会を特徴づけていることの一つは、こうした物質的であると同時に社会的な世界のなかに、高速交通や高速通信を可能にするメディアに媒介された、それまでに存在しない「場」や「地形」が生み出されていったとい うことである。 たとえば、鉄道敷設は、その沿線の空間を線状に結び付けていっただけではない。以前であれば五感によって経験されて いた移動する途中の空間が、そこでは車窓の外を飛び去っていく「風景」という像として経験されると同時に、「移動する車内」と という新たな場と、居眠りや読書、とりとめのないおしゃべりや、車内の中吊り広告をほんやり眺めるといった、新たな行為や経験の様式を作り出す。して、そのような行為や経験を通じて、鉄道路線で結ばれた駅の数珠状の鎖列を軸として国土や地域や都市をイメージする空間了解の形式が共有されていく。と同時に、通勤や通学、業務のための移動などの活動を、鉄道の運行時間にしたがって管理・調整するという、時間的・空間的な行動の管理も、日常生活を送るための必要な技術として浸透 く。それは、社会化された機械装置を軸とするものへと社会的な空間や時間が編成されて、そのような機械装置とそれに媒介さ れた空間・時間のなかで、身体の集合的な活動が編成されていくということ、それを通じて新たな質や構造をもった「場」や「社会の地形」が、社会生活の物質的な基盤であり、かつまた時空間上の広がりをもったイメージとして、成立していったというこ とである。私たちが知っている「都心」や「郊外」という場は、物質性とイメージと、そこでの人びとの行為や問係のスイコ ウを通じて編成された社会の地形のなかに現れるのであり、そのような地形のなかで固有の実定性を与えられるのである。また、映画のうな映像メディアや、電話やテレビのような電気的な通信メディア、グラビア化した雑誌のようなプリント、メディアの普及と浸透は、地理的な場とは異なる言語やイメージの伝達の場を、聴覚や視覚という物理的かつ身体的な位相で存在することを可能にすることで、新しい社会的な環境を形成していくものだった。こうしたメディアは、文字や絵画を媒体とするそれ以前のメディアに媒介された環境とは異なる遠近感、身体感覚、現前性をもつ場を、社会の中に切り開いていく。そこでは、ひとびとにとって有意味な社会の広がりが、みずからの身体の近傍に経験される広がりだけでなく、種種のメディアを通じて拡張され、自己や生活の理想的なイメージメディアもメディアを通じて日々降り注ぐファッショナブルな幻像のなかに求められるようになる。そして「経験」「結びつき」「理想的」といった言葉が意味するものも、かつてそれらの言葉が意味していたものとは異なるものへと変貌する。それはつまり、「世界」や「社会」に対する人々の了解と想像の形式が変わるということ、端的にいって「世界」や「社会」のあり方が変わってしまうということだ。都市の「境界」という伝統的には地理的空間上に見いだされる存在すら、そこではメディア媒介的な現実の位相において思考され、経験されるのである。私たちが生きる世界は、十九世紀以降に出現したこうした諸メディアが切り開く新たな物質性の次元も、その素材として取り込むとこに成立している。 映画スタジオにおいては、器械装置が現実の奥深くまで侵入しており、その程度たるや、現実の純粋な姿、器械装置という異物から解放された姿のように見えるものはある特殊な処理の産物、つまりその目的のために特別にセットされたカメラで撮影したものを、同種の他の撮影フィルムとモンタージュした結果なのである。器械装置から解放された現実の姿は、ここでそのもっとも人工的な姿となった。なまの現実の光景は、技術の国の青い花となった。ここで述べられているのは、映画というテクノロジーのなかでは、器械装置が現実の構成に深く浸透しており、最も自然に見えるものこそが器械的な技術や処理を通じて現れてくるということだ。そして、映画というテクノロジーとその表現が、大衆的な娯楽を通じてひとびとの日常的な環境の一部になっていくとき、映画をつうじて現れてくるさまざまな映像は、ひとびとにとっての現実の一部を構成していくようになることができるだろう。このとき、そうした技術に深く支えられた技術の国では、なまの現実なるものは伝説の青い花のような、決して手の届かないロマン主義的な憧れの対称という位置を、技術化された環境のなかで、夢みられるものとしてあてがわれることになる。 問題1 それらの事物は、そこに暮らす心の一部なのだとあるが、そのように言える理由として、最も適切なものを選べ。 1人々の欲望から生み出された都市の事物は、一方で人々が抱く欲望の多様性を奪う拘束となるから。 2都市の事物は、そこで暮らす人々の心の反映であるとともに、人々の欲望を現出させるものであるから。 どちらが正しいか解説お願いします。

  • 自分の考え方が正常か異常か知りたい

    相手が望んでいても自分が望まないことは施さず、相手が望んでいなくとも自分が望んでいれば施す。こういった行為は独善やエゴというのでしょうが、現代社会の至る所で散見されており、位置付けとしては悪いものとされている認識です。 しかし、例えば産後直後の赤子の遺棄といった昨今の事件などで、事件そのものに一切関係の無い人間からの意見として、母親を悪とする意見や赤子が可哀そうと言った意見は、好意的に捉えられることが多いように感じます。 この2つの話について、同じようなことをしているのに前者は悪、後者は善と扱われることが不思議でならないのですが、私の認識がおかしいのでしょうか。 特に、後者の赤子が可哀そうという意見について、勝手に赤子の境遇を想像し哀れに想うことの目的は、そう感じる自身の精神を愛する故だけのことだと思っており、極めて気持ちが悪いと感じています。 事実は事実としての価値でしか無く、それに対してどう感じたかということに良い悪いも無いというのが私の考えなのですが、この考えは一般的な意見と一致しない結論を出してしまうことが多く、その都度自分の意見を表現しないことを選んでいます。 ここまで読んで頂いた皆様は私のような考え方をどう感じますか? 教えて頂けると幸いです。