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江戸の銭湯が発達した訳

江戸時代ににおいて江戸の銭湯が発達した理由に火や水不足。湯銭が安いなど理由がありますが、私は江戸の地がもともと未開の地であったということも要因の一つではないかと思うんです。未開の地であったために労働者がたくさん流入してきましたし、もし家康が入国したさいに、江戸の町が整備されていたとしたならば、それほど銭湯も発達しなかったのではないかと思うのです。勝手な予想で根拠もないのですがどうしても気になります。別に根拠がなくてもいいので私の考えについて意見があれば何でもいいので参考までにアドバイスお願いします

みんなの回答

  • pbf
  • ベストアンサー率16% (49/300)
回答No.3

明治時代初期まで、家庭の風呂といえば屋外でしたから 庭があるような立派な家でないと内風呂を焚けなかったのでしょうね。 とうぜん水道もありませんでしたから、井戸から何杯も汲んでしまうと、 まわりの町民たちにヒンシュクだったのではありませんかね?

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  • 6dou_rinne
  • ベストアンサー率25% (1361/5264)
回答No.2

こちらのURLを参考にしてください。

参考URL:
http://www.dnp.co.jp/jis/g_gakko/talk/16/16_talk0_1.html
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