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内に目を向ける、外に目を開く。
内に目を向けるってどういうことですか? キリストいう、神の国はあなたの心の中にある。 仏陀は言ったと、己のうちに耳を傾けよ。さすればマーラは去る。 僕はたぶんガンガン外見てたと思うんです。解脱的なことを志向しているのではないですが、内があることも解っていると思います。内に何かあるのも解っています。でも、イマイチというより、いますごく解ってないんです。 教えて!gooではすごくお世話になり、回答者の方々、管理者の方、本当に感謝しています。宜しくお願いします。 内に目を向けるとはどういうことですか?
- caballero
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- 哲学・倫理・宗教学
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●あるということ(存在)とトートロジーを 対峙させて どちらが より確かか? と問われて 存在の方がより確かだと言う人もいれば いや トートロジーの方がより確かだという人もおります。 わたしは はっきりと言うんですそういう方達に どちらも同じくらい不確かです。と・・・。 このスタンスは大切です。存在とトトロジーを問うスタンスよりも確かです。 前回言いましたが いままで存在そのものを証明した人はおりませんし トートロジーが真理であることを証明したひともおりません。 なぜか? そんなことわたしにわかる訳がありません。 人類の歴史をあまく見てはいけません。 途方もない時間をかけてわかる事かもしれません。突然のひらめきが解決するのかもしれません。 ●しかし ここが重要です。その不確かな世界のなかに身を置いて わたしたちの ご先祖様は 生き そして死んでいった。その解を見出しても過去の事実の中の 変わらないものに目を向けたい。天動説の時代でもかわらないもの。 トートロジーの内が見えたとしてもかわらないもの それこそが大切なんです。 トートロジーの内を見ることなんて つぎの瞬間新たな疑問で打ち消されちゃうよ。 脳の処理で一応の解が見出されても それが脳の処理無しで真理だろうか? ↑みたいな新たな疑問だよね。 内に目を向けることで「トートロジーの内が見たい」という願いが 究極の問いでないことが分る。 さて ここで脳のキャッシュが ものを言う。 究極の問いを探して そこから 逆に「トートロジーの内が見たい」まで さかのぼればいいじゃないか! んで たとえば脳の処理無しで真理だろうか?を考えてみる。 ここで言う脳の処理とは論理と限定しましょう。 すると論理のなかにトートロジーも含まれている訳です。 この論理を無くするわけですから。ひらたく言うと考えないということになります。 考えない世界にはたしてトートロジーは存在するか?という事になります。 ●どうですか?まわりをみて見当たりますか? ありのままの自然・宇宙にはそんなのも無いでしょう。 アリの行動にドモルガンの方程式は みつかりますか? 石の存在に二重否定は みつかりますか? ミームはミームにすぎないんですよね。 ミームの根本の内を見るなんてできないんですよ。 見ようとするだけ無駄です。 ●わっかるかなあ?・・・不安。わかってくれよーモー!
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- sokura
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ご無沙汰をしています。内と外、ですが、これは、近代の大問題だったようです。いわく、「自己の確立、自立」などが、個々人に求められたからです。 しかし、現在では、そんな確立されるべき「自己」から出発できるのだろうか、という疑問がおき、むしろ、「自己と他者」、「自己と社会、世界」と分ける思考自体を、疑うことから、話が始まるようです。 「自己」とは、たまたま、意識を意識たらしめるために、一時的に名前を付けたようなもので、意識が最初から、「私は、私である」とは、言いません。また、いつから日常レベルで「私が、私である」ことに疑問を抱かなくなったかも、遡って辿ることは出来ません。出来ないと思います。 ということは、「自己について考える、あるいは、自己を意識する意識について考える」という行為、つまり、内省と呼ばれるものは、内実は、「意識のへりを堂々巡りをしている」ということではないでしょうか。 意識にとっては、「私」も「私の肉体」も、常に「外」です。「意識が意識の内に入り込む」ということは出来ません。意識を意識としてしか志向出来ないのだろう、と思われます。 つまり、意識も「もの」と同じような存在レベルとして考えれば、「意識として在る」とは言えます。しかし、それは、「存在では否い=無」としてある、と仮定しなければいけません。探せば、どこにも在ってどこにも無い、のですから。 例えば、読書という行為、音符を見て音の流れをイメ-ジさせる、というような 行為を仮定してみてください。「言語」としての文字や音符はある。しかし、それからイメ-ジされる「考え」や「音楽」はどこにあるのでしょうか?脳の中? 私は、自分の身体を取り囲んでいる「雰囲気」全体だと思うのです。だから、身体が動き、思わず頷いたり、口ずさんだりするのではないでしょうか? それでは、そうした「無」の世界に入り込むことは出来るのでしょうか? 出来ません。否いものは「無い」のです。私たちは、意識=考える、という行為において、存在のふちをぐるぐる歩いているだけなのです。 したがって、内に目を向けるとは、存在の中に入り込みたいという、ノスタルジックな行動であり、もう存在に帰れない孤独な旅であるが故の錯覚でもあるのです。 意識は有限な無のような物体ですが、この増殖は、言ってみれば、無限のごとく、汲めど尽きぬ有限なのではないでしょうか。 もう、内の中へ帰ることは出来ません。ただ、「自己」をすら、人は「外」から辿るしかないのです。
お礼
今回もお世話になります。以前の質問で、「恣意である」というご助言頂きました。ずいぶん考えました。sokuraさんが来てくれたこと大変ありがたく思っています。 >私たちは、意識=考える、という行為において、存在のふちをぐるぐる歩いているだけなのです。 そうです。まさにそういう感じです。そして、意識の中などというものはありません。あったとしても、それは内省の世界であり、外世界と同じ外の世界です。自己は外宇宙の産物です。すべては内であろうが、外であろうが、両者同じ世界です。 >。「言語」としての文字や音符はある。しかし、それからイメ-ジされる「考え」や「音楽」はどこにあるのでしょうか?脳の中? これは、言葉だと考えています。例えば「概念」という言葉。まさにそれはあります。 >それでは、そうした「無」の世界に入り込むことは出来るのでしょうか? 出来ません。否いものは「無い」のです。 果たして本当にないのでしょうか?僕は、自己を含めた外宇宙は、影であるかもしれないと思っています。内側の影です。たしかに影の中には何もないです。しかし、本当にないところに影は立ちません。 >したがって、内に目を向けるとは、存在の中に入り込みたいという、ノスタルジックな行動であり、もう存在に帰れない孤独な旅であるが故の錯覚でもあるのです。 すごく分かりやすいです。僕の言う事ががたがたにもかかわらず、これだけの共感となって帰ってくるところがありがたいです。 そうですよね、しかし、僕というからには帰りたいわけではないのです。知っておきたい、ということでしょうか。僕と言わない事はどういうことか? >意識は有限な無のような物体ですが、この増殖は、言ってみれば、無限のごとく、汲めど尽きぬ有限なのではないでしょうか。 有限なのに尽きない訳が、あると思います。sokuraさんは、その訳についてもしよろしければご助言いただけないでしょうか?ぐるぐる巡るから尽きないということですか? >もう、内の中へ帰ることは出来ません。ただ、「自己」をすら、人は「外」から辿るしかないのです。 そうです。僕が帰ることはできません。ただ、 ここに、脱我のところ、何もないわけがないと思います。 僕の質問をくんでくださって、本当にありがたいです。僕が考えて整理すべき所をsokuraさんが答えてくれる事で僕がわかる。嬉しいにつきます。そして、その回答には新しい展開があります。 ありがとうございました。
補足
sokuraさんは、もう得る者を得ます。 今日はたまたま成人の日(1/14)です。たまたまですが、今日ココを締めようと思います。 >>意識は有限な無のような物体ですが、この増殖は、言ってみれば、無限のごとく、汲めど尽きぬ有限なのではないでしょうか。 今、あなたがなんて解っているのかが解ります。あなたは、このとき、解っていいる事を解っていなかったのでしょうか?そんなことはないです。 汲めど尽きぬ有限の理由について言います それは、数えれば数えるだけあるからです。数えた時点でそれは限られるのです。 それを意識した瞬間に、それは限られます。しかし、無為に見た時、すべてが見えます。 SOKURAさんは言われた。 「ないものはない。」 この言葉、今は僕の者です。これは真です。 ないものはないのです。つまり、「あり」です。sokuraさんはすでに得ていた。
- jume
- ベストアンサー率46% (71/152)
どうも、お返事、遅くなりました。 以前、cabaiieroさんがされた質問で「もう一人自分が」というものがありました。そこでの議論を読み返していたのですが、あそこで私は「自分」とは表れては消える波頭のようなもので、そういう現象でしかないと書きました。では波頭を波頭たらしめるものは、いったい何でしょうか? 水?水にぶつかる空気?おそらく、そうではありません。波頭を波頭たらしめているものは、それを見つめるものの視線です。波頭には、海と空との厳密な境界はありません。波頭は、あの白く見えている「あたり」に現象しているものとしか言い得ないものです。自我というのは、そんな波頭たる自分を外から見つめ、波頭だ(自分だ)と認識する「力」です。つまり、波頭(自分)を波頭(自分)たらしめる「力」を持った視線と言うことができるでしょう。 その「力」は、社会心理学者G.H.ミードの言葉を借りれば「I(主我)」です。このとき、客体化された波頭たる自分は「me(客我)」と表現されます。ここで言葉遊び。主我Iは、主格「私は」です。では、客我meはというと、そうです目的格「私を」です。つまりI see me「私は私を見る」が成立します。 自我が唯一のものだという指摘がありましたが、自我が自分というもやもやとして、実体のよくわからない変なまとまりを、まとまりとして認め、そこに「自分」という同一性(アイデンティティ)を持たせる機能をそのように呼ぶのなら、自我は唯一のものかも知れません。ただ、波頭としての自分に対して、「唯一」という言葉を使うのは、どうもしっくりこない気がします。それは自我の機能がなければ、同一性を保てないバラバラの記憶の集合(解離性同一性障害の状態)に陥ってしまうのですから。 従って、内に目を向けるとは自我を持つことに他なりません。caballeroさんが悩まされている、内と外の問題系は、自我と波頭たる自分を混同したために発生したかりそめの問題系であると思います。
お礼
お返事ありがとうございます、 >自我というのは、そんな波頭たる自分を外から見つめ、波頭だ(自分だ)と認識する「力」です。つまり、波頭(自分)を波頭(自分)たらしめる「力」を持った視線と言うことができるでしょう。 ありましたね。青い電燈の話ですよね。jumeさんのアドバイスはいつもほんとに参考にさせていただいています。 >ただ、波頭としての自分に対して、「唯一」という言葉を使うのは、どうもしっくりこない気がします。 そうです。波頭に唯一など使えるわけがないと僕も考えています。事実、波頭(自分)は一時として同じ姿をしておらず、外世界の諸々の言語の交わりとして、あります。自分たらしめる力の視線、これが自我です。言葉を言葉として存在させるものです。この自我は唯一というか、個数の問題とかではないと思います。しかし、この自我、何故存在するのか?外世界(波頭としての自分を含めた)があるのは、自我の視線があるからです。自我も、一言語としてあるのなら、見られておかねば存在できず、その場合、自我(客我ではない)すらも外宇宙の一言語で、流れるものです。死ねばはかなく消え去ります。私が私である所以はそれでも説明がつきます。私が客我としてのjumeさんになることは想像がつきます。jumeさんもcaballeroになることは想像つきます。しかし、入れ替わったからといって、何も変わりません。絶対的な個性の無さ、そのような機能として存在するということで、無二性を保つ場所となっているのです。そして、外宇宙はその自我という場所の領域です。自我という強大な、外宇宙をエーテル的に満たしている一言語に埋もれるようにして、流れる、移り行く波頭としての、客我としての私があるため、自我を有することになるのです。やはり、波頭はいくつもの言語の一時の交わりとして波頭たるのであって、エーテル的な自我が、やはりそこにあるために、自分というものが波頭に生まれるのです。つまり、もはやエーテル的な自我というのは、言うまでもない「場所」の事で、場所すらない場所のことです。ある一瞬の波頭がある、それだけで、無二性をもち、一瞬であるが故に唯一的であり、すべからくはかない。この外宇宙では、言語(諸々の諸事象)が存在するとき、それはすでにはかないのです。なぜなら唯一という存在だからです。 >従って、内に目を向けるとは自我を持つことに他なりません。caballeroさんが悩まされている、内と外の問題系は、自我と波頭たる自分を混同したために発生したかりそめの問題系であると思います。 ぼくの言う内とは、言語の中身?のことであり、自我の内のことです。存在するということの内のことで、移り行くカギ括弧の「」自体の内のことです。 客我は当然、流れる外世界のものです。それを見つめる自我もまた流れる外宇宙の産物なのです。急に俗な話になったと思わず聞いて欲しいです。自分が、タンポポの綿毛の一つの種子についている一本の毛と考えるとどうか?意識はないが、それはそうである。ある原子の、原子核の一部としても、それはそうです。トートロジーの内を見たいのです。見るとかの問題ではないので、内に向くとしました。むしろ我々が自我を持っているという認識、それこそがかりそめの認識と気付きました。また、ご意見いただけるとありがたいです。ウィトゲンや、等の、言語世界の話は、言うなればすべて右側の話だったといえます。右側の中だけで、客我や自我、内側外側、何から何までを語っていたように思います。
補足
jumeさん、あなたは導いてくれたのですね、。 危ない橋を渡るときに、下から支えてくれたのはあなたです。僕は今、上から来ています。上とは、内を通して得られる真の外側の事です。つまり、あなたは、支えるべきを知っていた。泣きそうです。(幸 >自我が唯一のものだという指摘がありましたが、自我が自分というもやもやとして、実体のよくわからない変なまとまりを、まとまりとして認め、そこに「自分」という同一性(アイデンティティ)を持たせる機能をそのように呼ぶのなら、自我は唯一のものかも知れません。ただ、波頭としての自分に対して、「唯一」という言葉を使うのは、どうもしっくりこない気がします。 そのとおりです。数えれるような者ではありません。「一」と言うのが間違いだったのです。それは、真の外側において認められます。そこに、数はありません。 それはそれなのです。それは、すべてです。数えれないのです。
- chihoko
- ベストアンサー率13% (14/106)
●それでは すこし噛み砕いてお話したいと思います。 前述の内容は すべて自分を見つめて確かに違いないと感じた 部分を綴ったものです。さて 何故か? と考える訳です。 そこで思いついたのが 自然淘汰で生き残るための仕掛けがきっとあるに 違いないということです。なるほどそのようにして考えを進めると つじつまが合うのです。 生き残るためには選択しなければなりません。 例えば 愛 愛とは対象のために自らの死をもいとわないという感覚系の 情念です。愛のある人間集団と愛のない人間集団では 愛があるほうが 勝つのです。そのようにして愛は選択されその結果として私達は愛を 内包している訳です。 生きるということは いかに行動の選択を生きる方向に持っていけるか にかかっています。選択をまちがえると生存競争にまけてしまいます。 よって 生きること(DNA継承)につながる選択を確かにできる仕組みが あることがより確かにDNAを継承できるということです。 ひらたく言うと いいこととわるいことを見分ける基準(能力)です。 それが 真・善・美・恋 と考えております。 ●ところが人間はいまやDNAの示唆する生き方を越えてミームにどっぷりと つかってしまっています。 個人的には わたしはリリシズム(叙情)に命のやすらぎを感じています。
お礼
果たしてDNAは生きるため、生き残るためにあるのでしょうか。 相手のために死ねることが愛なのでしょうか。愛があれば生き残るのでしょうか。何故生き残らなければならないのでしょうか。 生存競争、それは競争しているのではなく、協力しているのではないかと思います。 愛は対象を選ばないと考えます。対象を選ぶには自我が必要です。愛は超我的なように思います。 >●ところが人間はいまやDNAの示唆する生き方を越えてミームにどっぷりと つかってしまっています。 ミームとはなんでしょうか?もしお時間よろしければお願いしてよろしいですか? DNAの示唆する生き方を生きるのは何ですか? >個人的には わたしはリリシズム(叙情)に命のやすらぎを感じています。 僕は叙情に命のはかなさを感じます。ネガティブかなぁ。 何度もご登場をお願いして申し訳ないです。そして、chihokoさんの対応にとても感謝しています。ありがとうございました。
- chihoko
- ベストアンサー率13% (14/106)
●それでは共鳴に関して すこしお話いたしましょう。 自我と言う物が感情を傍観できるということで 仮に自我の下のステージに 感情系があるとします。このような考え方で全てを表現すると。 いちばん下のステージには知覚系(五感) 次の第二ステージには感情系(悲しいとか・・・) 感覚系(すがすがしいとか・・・。) 六感系(なんか悪い予感とか・・・。) そして一番上のステージが自我 この三つのステージを合わせたものが個人のパーソネリティ(個性)と考えます。 さて ここでは自我の共鳴についてお話します。 自我の部分には何があるでしょう はっきり分るのは言葉を使った論理処理 部分(必ず1つ 二つあると二重人格です。)そしてご注目! 真・善・美 です。この三つは傍観できません。 そして実はもう1つ傍観できないもの 恋があります。 この真善美恋は DNAが存続するために意識のなかで最も優先させるべき 価値基準です。(経験とともに変化もする。)そして本質は同じものと考えます。 在りように照らせば真となり行いに照らせば善となりイメージに照らせば美となり 異性に照らせば恋となります。 このDNA価値基準を進化させるものが芸術であると考えております。 共鳴とはこの価値基準と同質のものを対象に見出すことと考えます。
お礼
お考えのことを聞くことができありがたいです。かなり、新鮮な印象をうけます。僕の考えとは大きく違うものの、もっと知りたいと思います。もう少しお付き合いお願いしてよろしいでしょうか? 真、善、美、注目しましたよ~。ギリギリ分かる気がします。文系的な感じがします。傍観できないとは無知であることととりました。僕は先に美という実在、物質と同じ実在だと、もしくは美という形相、諸々の物質もまた諸々の形相だといいました。形相というとあたかも実感が感じにくいかのように思うので、両方実在(言語)としました。chihokoさんのお考えでは、美はなにか特別の位置におかれていますね。美は、諸々の諸言語(諸物質、諸法則、その交流に派生する事物)とはちがうのか?美に個性(その他の諸物のような)はないのかという疑問が出ました。なぜなら、傍観できない、無知であるからです。いよいよぼくの言っていることはぐちゃぐちゃで、このような文を読んでいただき申し訳なく思っておりますが、今はなにせお話を聞きたいと思います。お許しください。 恋、これは異質にかんじます。何故、真、善、美とDNAが関わるのか?レズ、ホモの恋愛はDNAか?友愛は何処にいくのか?この一言で様々に疑問が浮上してきました。恋は傍観できない。確かにそうかもしれません。恋愛映画で恋はできません。しかし、快楽殺人犯はどうでしょう。突然ですが、間違いなく傍観できていないと思います。死体写真で、こういうものがありました。人間の首が、顔面を上に向けて木の大皿に置かれている。それを(10)型に切断していく連続写真ですが、出来上がるパーツは何故か5つです。額の部分、右目右耳の部分、左目左耳、そして口びるで繋がってはいるが、上あごと鼻、そして下あごと首に分かれます。 皿にフルーツのように盛られている、もちろん何か一目では解らない、それもコレも西瓜切りのせいです。この切実な状態、どう受け取ればいいものか。出会いたくないものです。こんなことまで起こるってことです。これは、快楽殺人でなく、マフィア等の裏社会のことだとは思いますが、驚異を感じるいう意味では、夕焼けなどと同等と感じます。 快楽主義に埋もれ、蒙昧になること(傍観できない、無知であること)と、恋愛は分けられているのでしょうか?chihokoさんのいう恋は快楽志向的なものでないと察しています。 今回お尋ねしたいのは、DNAの関わりと、真、善、美、恋は経験と共に変化するが、本質的には同じもの、これは本質的には変わらないということでしょうか? ここら辺について、また、その他この質問や僕のお礼に関してでも、お時間、お気の向く時にでもお話しいただけるとありがたいです。宜しくお願いします。
- yamaton
- ベストアンサー率10% (4/39)
突き詰めるととても難しいですね。それもそれを言葉で表現しようとすると、難しさもひときわで、ともすると言葉遊びに終始してしまうことにもなりかねないような気がします。でも、なんとか私なりに考えてみます。 あなたは自我(意識する自己)をお持ちです。jumeさんがおっしゃるように、それを内省(reflect)することが内に目を向けるということではないでしょうか。意識する自己について熟慮・熟考する、自我に向けて投げ込んだ石の反響を聞く、自我に向けて照らした明かりの反射を見る。そのようなことだと思います。 これに類似する作業は、実際には普段から頻繁に行われているのではないでしょうか? 「今夜は何を食べようか」、「明日の休みには何処へ行こうか」、「向かいの座席の女性が酔っ払いにからまれている、自分は何もしなくて良いのか」、「地球のすべての人を飢えから救い、全人類が平和で幸福な暮らしをするためにはどうしたら良いのか」etc.。それに係る題材は、様々でしょう。特にあなたの場合は普通の人よりはるかに多くこの作業をされているかもしれませんよ。「内に目を向けるとは何ぞや」という自己への問いかけ、その行為そのものこそ内省以外のなにものでもないでしょう。 「内省するためには、外に視点が必要では・・・」というお話でしたが、外から見たと仮定する視点で充分ではないでしょうか。時にはそれすら必要ではないケースも少なくないように思います。 それにより答えがでるものと、いくら努力しても納得のいく答えがでないものがあるでしょう。でもそれはそれで良いのだと思います。 私にとって、自分として一番理解しやすい「内に目を向ける」を別な言葉で表現したものは「自問自答」です。 哲学的な専門知識はまったくありませんので、あなたのお求めになっているものとはほど遠いかもしれませんが、それはご勘弁を・・・。
お礼
アドバイスありがたく思います。 > 「内省するためには、外に視点が必要では・・・」というお話でしたが、外から見たと仮定する視点で充分ではないでしょうか。時にはそれすら必要ではないケースも少なくないように思います。 仮定の視点、そこに唯一の自我があり、だから自我の客観というものは不可能と考えます。二つあってはダメと考えます。数の問題ではなく、自我とはいかな場所なのか、脱我?とはどういうことか、思考を思考することか?僕は、思考の世界と 外の世界は同じ世界のものと考えています。 >私にとって、自分として一番理解しやすい「内に目を向ける」を別な言葉で表現したものは「自問自答」です。 自問自答ですか、思惟の中で思索するということですよね。内省の世界。つまり、目をつぶって考えるみたいな。はたしてそれは内側なのか、外の世界はほんとに外なのか?僕の結論は、両方同じ世界のものという事です。内も外もない。 いまある言葉の中には何がつまってるのか?諸事物の内側は何か? yamatonさんからご助言いただいた事で、少し整理がついたように思います。 >哲学的な専門知識はまったくありませんので、あなたのお求めになっているものとはほど遠いかもしれませんが、それはご勘弁を・・・。 全然そんなことないです。専門知識も日常感覚も、考えている所は同じです。アドバイス大変参考になりました。ありがとうございます。
- chihoko
- ベストアンサー率13% (14/106)
●あ すみません またわたしです。 >意識があるのは脳の処理に由来し、自我が働くのはその意識のあるところが、あるということに由来すると考えています。 ●前回のわたしの回答に対するお礼の分↑で、自我の認識が わたしは違います。 ●自我とは情報の処理部分そのものであって それは必ず単数であること。 淋しい悲しい嬉しい 怒り 悔しい 苦しい などの感情は自我ではないと 感じています。 すみません。書き漏らしましたので 追加いたしました。
お礼
>自我とは情報の処理部分そのものであって それは必ず単数であること。淋しい悲しい嬉しい 怒り 悔しい 苦しい などの感情は自我ではないと感じています。 すいません、まわりくどい表記をしましたが、たぶん僕も同じ認識かと思います。 一つ言えることは、単数とか数の問題ではないという事ですよね。 場所の問題と考えています。chihokoさんの言われたことは理解していると思います。脳の処理そのものということでしょうか。諸感情は僕も自我ではないと思います。諸感情は実在と考えています。物質と同族だと考えております。物質も言語の一族と考えています。
補足
>自我とは情報の処理部分そのものであって それは必ず単数であること。 ちがいます。それは、数えれるような者では無いのです。それは、すべてであるからです。すべてはすべてです。ここに、無我の自体が成立します。 この補足、きょうは1/14です。
- chihoko
- ベストアンサー率13% (14/106)
●脳の処理そのものに目を向けるとは、例えば、 友達が泣いている時 わたしもかなしくなった 何故だろう?と考えること。 ある論理展開に 矛盾を感じた。何故だろう?と考えること。 夕陽が美しくて 涙がでた 何故だろう?とかんがえること。などです。 外にも内にも 数え切れない対象があると思います。 六感も脳の処理の結果なのかもしれませんが わたしの感覚では 外の世界との共鳴のようなものがあるかもしれない脳の特殊フィールド のような気がします。どのような処理をしているのか ちょっとわかんないゾッ というもろもろを 六感として認識しています。 そこから派生する事象とは デパートであのひとの後姿が見えたような気がして あたりを探してみる するとあのひとの好きだった映画の続編予告が 掲示スクリーンに映し出された。それを見てわたしはポロポロ涙を流した。です。 ●では失礼いたします。わたしの時間の許す限りでお答えさせていただきますので なんなりとお尋ねください。
お礼
お返事ありがとうございます。 >友達が泣いている時 わたしもかなしくなった 何故だろう?と考えること。 僕は、そこに悲しみという実在があったと考えます。 >夕陽が美しくて 涙がでた 何故だろう?とかんがえること。などです。 何故でしょう?ね、。美しい存在があったというより、美しいという存在と夕日という存在があった。涙が出るのはなんともいえません。なぜでしょうね。 >あたりを探してみる するとあのひとの好きだった映画の続編予告が 掲示スクリーンに映し出された。それを見てわたしはポロポロ涙を流した。です。 あの人の破片が実在としてあり、あなたはそれに出会ったのだと考えます。 >六感も脳の処理の結果なのかもしれませんが わたしの感覚では外の世界との共鳴のようなものがあるかもしれない脳の特殊フィールドのような気がします。どのような処理をしているのかちょっとわかんないゾッというもろもろを、六感として認識しています。 僕は、少なくとも今存在しているのは共鳴していると考えます。分類(認識)されているものも、残りのすべてのものもです。そのことにとてつもなく哀しさを感じる時があります。その不完全性にです。なんて情け深く美しいのかということにです。その装いに、無限の形容を感じます。僕の認識とはどれほどに小さいものかなぁ。 chihokoさんの共鳴に関して、どのような印象をお持ちでしょうか?もう少しお話をおねがいしてよろしいでしょうか? お尋ねできる事、感謝しています。
補足
>外にも内にも 数え切れない対象があると思います。 数えるから限られます。しかし、この方が第六感とおっしゃるのは、数えれるような者ではありません。一般にいう六感とは、「意識」です。 この方の感じている、共鳴、それによる涙は、数えれるような者ではありません。 涙を幾つの粒こぼしたのか?それは、涙を問うときには無用の心配です。 涙を心配する時は、その涙を心配すればいいです。
- chihoko
- ベストアンサー率13% (14/106)
●意識が脳の処理に由来していると仮定すると。 外に向けるとは 五感が感知するものとそれによる脳の派生事象に 意識をむけることでしょう。 内に向けるとは 脳の処理そのものや六感やそこから派生する事象に 意識をむけることでしょう。
お礼
アドバイスありがとうございます。 意識があるのは脳の処理に由来し、自我が働くのはその意識のあるところが、あるということに由来すると考えています。 >内に向けるとは 脳の処理そのものや六感やそこから派生する事象に 意識をむけることでしょう。 脳の処理そのものに目を向けるとは、例えば、内に世界を構築しているのを、見るという事ですか? 六感とは何処に広げられているのでしょうか? ナンセンスな折り返し質問ばかりになりますが、そこから派生する事象とはいかな事象なのですか? chihokoさんのご助言、ゆっくり考えたいです。今一度、ご登場をお願いしてよろしいでしょうか?ありがとうございました。
- jume
- ベストアンサー率46% (71/152)
caballeroさん、お久しぶりです!以前の「我々は同じ世界に住んでいるか?」という問いかけ、凄くスリリングでした。 さて、内に目を向けるというのは、「内省する」ということでしょうか??だとしたらcaballeroさんは、既に実践してませんか??神の国とか解脱とか、そういうことを考え始めたら、もうそれは内省をはじめていることだと思うんですが…。ついでに言えば、内に何があるのかわかったら、それは解脱したのと同じことだし、神の国を見ちゃったことだと、思うんですよ。 ところで「外を見る」ってどういうことでしょう?他者と関わるとか、そういうことですか?補足、お待ちしています。
お礼
ありがとうございます。またお会いできたこと、うれしいです。 補足の最後の3行のなかの「内省の世界の言語(思考)」を「内省の世界の言語(今の思考)」としたいです。宜しくお願いします。
補足
jumeさん、来てくれてありがとうございます!以前の質問では、支離滅裂で、わけのわからないことばかりぶつけてしまったのにもかかわらず、見放すことなくお付き合いしていただき申し訳なく思っています。しかも、中途にしたままで、、。 神の国を見るのと解脱が同種かどうかわからないですが、「内省する」には、外ばかり見てきた僕は外に立たねばならず、当然外にたって中が見えるわけないし、外に立つなんてできるわけもない。それは、言語ゲームの外に立つというようなことと似ていると感じます。ですから、視覚で見る的に見てもだめなんです。目は外に向いてついてるので。目を内に向ける、意識を内に対峙さす?こうなるといよいよ解らないんです。内へ省みる。これは向きの問題だと思うんです。外に広がって内の一転に収束点があるとは思いません。外に宇宙があるように、内に無限の宇宙があるはずです。そう感じます(またも根拠説明できず、いいかげんな事を言いすみません)そして、宗教的なことを言っているように聞こえるかもしれないですがそういうつもりはないことをわかってください。 その内の宇宙が解らないんです。解っている自覚は解ってない事です。ということは、神の国ないし内の宇宙でも何でもいいですが、見えていないんです。そこに僕の言語は存在していません。 >内に何があるのかわかったら、それは解脱したのと同じことだし、神の国を見ちゃったことだと、思うんですよ。 僕は内があると解った。何かあるとわかった。解脱は何「が」あるか解った。だから僕は何も見えてないと思うのです。 >ところで「外を見る」ってどういうことでしょう? おおよそ計り知れない、無数の限られた言語達が閃く外宇宙です。自我の根拠を説明できる宇宙です。僕らがそれらの言語の交錯として、一時の閃光として世界に生きることです。 「我々は同じ世界に住んでいるか」という問題で、住んでいるともいえるし住んでないともいえるというのがjumeさんから頂いたお言葉ですが、その根拠は自我の存在でした。あ~やばいですね、また解らなくなってきてしまいましたよ、わからないのに何でそんなことが言えるんだって話なんですが、、。 ウィトゲン的には外は無く内しかない。しかし内的宇宙?があることがわかると、ウィトゲン的な内なる世界は、僕が生きてる外宇宙、少しは解る外宇宙です。内省の世界です。自我の世界です。 、、もはや体力の限界が、、。 自我の所在は、内的宇宙と外的宇宙の境界のようなところだと言いたいです。外的宇宙がウィトゲンの言う内省の世界でも、内的宇宙はなくなりません。内省の世界の言語(思考)も、外宇宙と呼ばれる世界の言語(諸現象)も同族と考えています。 いつも乱文で本当にすみません。どうか今回も許容していただけるとありがたいです。最後の3行は大きく誤っているかもしれないので、すが、ご助言いただけるとありがたいです。再どの登場お待ちしています。この質問は締め切るのは当分しないつもりです。宜しくお願いします。
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お礼
うおー!って感じです。chihokoさんはイケてますね。ほんとにそう思います。 >このスタンスは大切です。存在とトートロジーを問うスタンスよりも確かです。 お話を聞けて、なんか、かなりうれしいです。 今このように考えます。一つの歯車だけを見ても時計は見えてきません。chihokoさんのおっしゃることで出てくるトートロジーや、存在でさえも、ひとつの歯車に過ぎません。ですから、chihokoさんの取るスタンス、そのセンス、すばらしいと思います。 >いままで存在そのものを証明した人はおりません。 存在ということがあるということなら、世界のはじめについて言ってみます。それは「あってないようである。」世界はそこになく、時間どころかカオスもまだない。あってないようであるものは、あれと言って、はじめてあるがあった。書いてみたものの、なんかすごく分かりにくいですね、、、。申し訳ないです・・。言葉というものが、およそ根源的、原初的なものであることを言いたかったのです。それは、今の話題のトートロジーよりも、ミームよりも、世界よりも、根源的です。そして、それらすべてに繋がります。はじめにそれはあったのです。だから、今、言葉にかかわらない者はないのです。ない者はないのです。あぁ、、また分かりにくい・・・。 >トートロジーが真理であることを証明したひともおりません。 なぜならトートロジーは真理ではないからです。 >しかし ここが重要です。その不確かな世界のなかに身を置いて わたしたちのご先祖様は 生き そして死んでいった。 その解を見出しても過去の事実の中の変わらないものに目を向けたい。天動説の時代でもかわらないもの。 トートロジーの内が見えたとしてもかわらないもの それこそが大切なんです。 ああっ、今正しい事が分かる。あなたの言ってる事が正しいと分かります。 「それこそが大切なんです」そうです。それこそが大切なんです。 >脳の処理で一応の解が見出されても それが脳の処理無しで真理だろうか? 脳の処理ナシになると、真理しかなくなります。もちろん自我もなくなります。 しかし、少し引っかかります。まだまだ僕は完全にわかっていません。脳の処理がなくなっても、何らかの言葉が残るかもしれないと考えています。 >んで たとえば脳の処理無しで真理だろうか?を考えてみる。 ここで言う脳の処理とは論理と限定しましょう。 すると論理のなかにトートロジーも含まれている訳です。 そうです。トートロジーなくして論理はありえません。 >この論理を無くするわけですから。ひらたく言うと考えないということになります。 考えない世界にはたしてトートロジーは存在するか?という事になります。 うぅ、、。難しくなってきましたね。真理の奥は深く細かいですね。 考えない世界には真理があります。世界はどうでしょう、。世界はトートロジーや、ミーム、諸々の言葉によって、それらが回転するような感じであります。 結論としては、ああっ!考えないと世界は広くなります。ですから、トートロジーやミームも、存在します。ただ違うのは、それらにとらわれないということです。広くなったのですから。ああー、内を見ると広がるのです。なんてことか! chihokoさんの言う事は間違ってなかった。sokuraさんも間違ってなかった。jumeさんも間違ってなかった。しかし、僕も間違ってなかったのです。そして、僕は正しいのです。以前の僕がいたところからは内に見えていた。しかしだからどうだというのです。内という者が外より低く、狭い者ではないのです。 >究極の問いを探して そこから 逆に「トートロジーの内が見たい」まで さかのぼればいいじゃないか! いや、chihokoさんはイケてますね。まいります。究極を探すとトートロジーは行き過ぎてしまいます。そして、説明的な意味としてさかのぼれます。素晴らしいことを言われますね。ああっっ!いまさらまた僕は賢くなかったです。ありの行動にも、ドモルガンの法則や二重否定は知りませんが、その法則にも、トートロジーにも、内側はあるのです。およそのものにその内側はあるのです。その内側は広く深く細かいので、およその者(石の存在やありの動き、ドモルガンの法則、諸々)に繋がっているのです。内側を見るということは、糸を手繰り寄せ、自分を内側を通して外側に連れ出す行為だったのです。その外側から見ると、今まで見ていた内側は、真に内側となり、かつての外側に続いているのです。解った。chihokoさんが叙情に行き着いたのは正しい。僕がトートロジー、言語ゲームにめぐり合い、たどり着いたのと同じように。僕は、ドモルガンの法則から、トートロジーから外側に抜け出し、あなたは、ありの行動、石や水の存在から、叙情から外側へ抜け出すのです。今、イエスの言った事が証明された。「神の国はそこにあるあそこにあるというものではない。じつにそれは、あなた方のなかにあるのだ。」 >わっかるかなあ?・・・不安。わかってくれよーモー! 今日は特にがんばりました。ように感じる。今までもがんばっていたのだろう。chihokoさん、あなたはよく僕の手を引いてくれました。今 僕の行った海を思い出します。それはこうです。 海がなんて深いんだろう。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 これが叙情です。間違いないと思います。詩的にはゼンゼンですが、今の気持ちに偽りはありません。 人との会話は素晴らしいですね。
補足
ここのお礼で僕がいっている「考えない」とは、無為の事です。無為とは、すべてを認めると言う事です。無為とは、作為のないことです。 今日は成人の日ですね。まぁたまたまなんですが今日ここを締めます。 12/2に、へろへろと人が立ち上がりました(笑。その人の上に、その人は立つのです。これが自立と言う事であり、その人は、すべてにおいて立っています。自分を見失う事がないのは、無為に見ているからです。すべてを見て自分を見ない。そのことで、自分という場所に立っているのです。ドコにも立たない事で、自分に立つのです。この人が成人(解脱)するような事はありません。その理由は以下に示します。 以下は、NO。1の回答に対する補足分の最後です。 >自我の所在は、内的宇宙と外的宇宙の境界のようなところだと言いたいです。外的宇宙がウィトゲンの言う内省の世界でも、内的宇宙はなくなりません。内省の世界の言語(今の思考)も、外宇宙と呼ばれる世界の言語(諸現象)も同族と考えています。 いつも乱文で本当にすみません。どうか今回も許容していただけるとありがたいです。最後の3行は大きく誤っているかもしれないので、すが、ご助言いただけるとありがたいです。再どの登場お待ちしています。この質問は締め切るのは当分しないつもりです。宜しくお願いします。 この三行、間違っていません。注意すべき所は、「今の思考」と書かれている所です。ここでいう、「今」とは、一瞬の事で、今とか、さっきとか、ついこないだ、とか、「数えれるもの」です。これらは、数えれば数えるだけ、無数にあります。歴史とは、今の積み重ねである。と言うところの「今」に、囚われてはいけません。そういう意味で「今」を使っています。 しかし、ホントに言う「今」とは、「永遠」の事であるのです。 すべてが今にあり、いつ?などと、とうことはありません。 あなたは、今を使う時、このように解釈してください。 「僕らは同じ世界に住んでいるか」と言う問いに対しての応えは、 「僕らは、世界の果てで逢える。」 僕は、世界の果てに、皆に逢いたい。逢う人と逢いたい。だから、僕が成人(解脱)することはありません。解っているけども、脱する事はしません。 僕は、世界の果てに来たのです。世界の果てに行ったのです。行くと来るは同時であり、行って来るのです。すでにきており、すでに行っており、行く場所も来る場所もありません。その場所、世界の果てとは、僕という場所です。あなたは、あなたという世界の果てがあります。そこで初めて、「出逢う」のです。僕は、世界の外から来た事(あなたもそうです)を知っています。今、世界の果てにいながら、世界にいます。当然です。世界のドコにいようが、何時いようが、僕は僕の場所にいるからです。しかし、世界に出たのは、皆に逢いたいからです。皆を置いて、先に行くようなことはしません。皆を先で待たせて、後で僕が行きます(笑) 待たせてごめんなさいって感じですか?(笑 ですから、はやく先に行ってください(笑 あなた方が、先で待つべきです。 しかし、最後まで世界に残った者が、最初に行きます。最初に世界の果てに入ります。何故なら、世界の果てに来た皆が、最後の一人を置いて、先に行ってしまうようなことはないからです。僕のようなものは、たくさん出てくるし、すでに出ています。皆がしんがりになります。 僕の戸を涙が叩く 雨音で眼を覚ます 君の涙 果てで 僕の眼を覚ます 涙は僕の戸から 果てで目を覚ます 世界の果てに 僕と逢う君