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「自殺」を考えるは難しい

highbrewの回答

  • highbrew
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回答No.11

 こんばんは.  私なりに考えてきたことを踏まえて回答していきたいと思います. 『否定派』 1.自殺は逃避である  すべて向き合って闘えば解決するというものでもありません.ときには逃避も必要です. 2.自分の命は自分だけのものではない  自分自身だけのものです.例え,血が繋がっていようと,戸籍が変わろうと,自身以外の何者にも属することはないのです.誰にも迷惑を掛けずに(残された人が悲しむのはただの自己愛表現に他ならないので,迷惑を掛けたことにはならない)死を選ぶことが重要です. 3.自分の人生を否定する行為  生きる意思も無いのに,生かされることが自分の人生を否定する行為だと思います. 4.人生の物語りは自分でつくるもの  それならその物語の終わりを自分で決定することもできるはずです. 5.愛は消えてもまた現れる  そうとは限りません.一生巡り合えない人もいるでしょうし. 6.死にたいは生きたいの裏返し  それは,善意の偽善者が自分勝手な正義を肯定するためのいい訳・謳い文句にすぎません. 7.生き甲斐がないから死を考える  すべてではないにしてもそういう人もいるでしょうね. 8.人生がつらいのはみな同じ  楽しんでいる方もいるはずです.また,「人生がつらい」かどうかは絶対的な価値ではなく,相対的であるので,「他にもっと酷い状況の人がいる」とかということは考慮すべきではないように思えます. 9.死は人間の義務である、ならば生も人間の義務である  生と死の関係は,一方について,ある命題が成り立つと,他方も成り立つというような簡単なものではないと思います.生は権利として持っていても義務とは言えないのではないでしょうか. 『肯定派』 1.自殺は選択である  その通りだと思います.大切な自己決定のひとつだと思います. 2.他者のために生きるは自己犠牲である  これを否定すべく「悲しむ人がいる」などと説かれ,生を強要されるのは,勝手な正義を押しつける偽善者の自己満足を満たすだけの無意味な犠牲に他なりません. 3.自殺は自己の表現である  1と同じような趣旨でしょうか?   4.人生の物語りを完結するために死ぬ  そういう方もいると思います.また,元々「物語」が始まっていない,もしくはストーリーのない,何もない無意味な世界がだらだらと続いている人は,完結というより,それを振りきるために死を選ぶことあるのでしょうね. 5.ひとつの愛のために死ぬ  生かされるよりずっと幸せでしょうね.愛のために死ぬことができるなら本望です. 6.自分が死んだように生きるのが問題  まさにその通りです.生きる意思もないのに生かされるというのは非常に苦痛です.意思のある一瞬一瞬が苦痛であり,「生きていればいいことがある」などと無責任極まりない言葉で生を強要されるのは侮辱に他なりません. 7.みんな死を忘れようとして生きている  そうかもしれませんね.逆に死を選びたくても選ぶこともできず,生かされている人間は,必ずおとずれる,おとずれてくれる死のことを思い出しながら生きているのかもしれません. 8.苦労話は自慢話に他ならない  「こんなに辛かったのに耐えて生きた」と切々と語るのは,励ましの根拠にもならないただの自己満足,自慰であるという意味でしょうか?そういう趣旨ならその通りだとは思いますが. 9.生きる自由があるならば、死の自由もある  死の自由というのは「生きることを放棄する自由」ということでしょうか?そう理解するなら,死の自由はあるとは思いますが,生きる自由があるからだとは思いません.生きる自由と死ぬ自由は一体ではなくそれぞれ別の次元の問題だと思います.  以上,生かされている一人間からの意見でした.

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