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仏教のお経について

m_chappyの回答

  • m_chappy
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回答No.3

良し悪しを問うているのなら私にはわかりませんが、ちょっとアドバイスめいたことを書かせてください。 まず、仏教は他の宗教に比べて寛容であったということで、広まっていくにつれて形を変えて行ったということです。日本に伝わるに至って、そして伝わってから更に、初期仏教とは全く別モノになってしまっていることを認識しておく必要があるでしょう。 さて、お経ですが、もとは口述されたものなので、文字としての記録はありません。お釈迦様(仏陀)の頃から数百年たてから記録されたもので、インドで行なわれました。従って、原文は漢文ではありません。中国に伝わってから漢訳されたのです。漢訳に当っては、音を再現させるために漢字を当てた部分と、意味合いから漢字を当てた部分が混在するようです。そして、日本においては、漢訳された経典を日本語訳しています(文語体ですが)。意味が分かりにくいのは、庶民に分からしめる必要性が乏しかった宗教だからでしょう。 次に、唱える意味ですが、これは解釈というか信念というか信仰というか・・・。そもそも仏陀やそれに変わる成仏したモノの言葉を伝えるだけのものですから、その言葉自信に力があるとは思えません。教えであるわけですから、意味を解釈してナンボの世界でしょう。もっと言うと、経典によって矛盾した内容もあるようです。宗派によって崇める経典が異なる理由の一つはここにあります。因みに、本来仏教では僧侶は葬式を扱いません。これは日本独自の制度です。 また、先祖崇拝の思想は、仏教本来の考え方とは関係無かったと思います。何せ、死んだらすぐに生まれ変わる(輪廻転生)のが仏教の考え方ですから。 最後に蛇足ですが、仏教にも経典がありますが、西方各宗教(ユダヤ、キリスト、イスラム)とは決定的に違います。この3宗教は基本的に同じ神に対しての信仰(契約)ですが、仏教は神を定義しません。従って、全知全能のモノは存在せず、法則だけが世界を支配し、その法則を説くのはお経だったかに思います。

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