• ベストアンサー

ナポレオンは、なぜモスクワ遠征に遠征したのでしょうか。

ナポレオンが、ロシアと戦った時に、モスクワに遠征し、敗北しましたが、なぜ、当時のロシアの首都であるペテルブルクではなく、モスクワに遠征したのでしょうか? 普通に考えますと、首都を目指して攻め込むものだと思います。 また、ペテルブルクの場合、海に面していますから、補給もモスクワより楽だったと思います。 さらに、モスクワへ進撃する場合、南北両方の側面を敵にさらすことになりますが、ペテルブルクへの進撃の場合、南方だけに配慮すれば、足りますので、絶対にモスクワより楽だったと思います。 そりを、あえて進撃先としてモスクワを選んだのは、なぜなのでしょうか。

  • nacam
  • お礼率79% (51/64)
  • 歴史
  • 回答数4
  • ありがとう数8

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • caesar-x
  • ベストアンサー率48% (101/208)
回答No.4

余りに話が長すぎて、内容が分かりにくかったでしょうかね? 全体を読んでくださいね。 いいですか、実際にはリガは攻略されてません。 ナポレオンの主攻撃の矛先はこちらには向きませんでした。 しかしもしあなたが言うように、最初からペテルブルグを攻撃するつもりで、 リガを攻略してペテルブルグに進んだとしても、 時間的に無理があって、モスクワに進んだ場合と同様に結果にしかならないということを ”仮定”を使って説明したわけです。 わかっていただけるでしょうか? 前の投稿も読み返してみてください。 実際にはロシア軍の増援の到着で攻略を諦め、封鎖を続けて挙句に、撤退です。 マクドナルの軍団の兵力は約3万1千名。 エッセンのリガ守備隊は初め1万2千名、10月にフィンランド軍団の来援があって2万7千まで増加します。 加えて海上にイギリスの戦列艦18隻、河には砲艦21隻以上があって完全包囲を困難にしていました。 4万というのはどこの数字でしょうか? 間違いでょう。 ロシア軍は規格よりも大きい第25師団(軍団規模)、フィンランド軍団の二個師団しかないので、4万になることは絶対ないです。 ロシア軍の編成だと概略で、師団が6千、軍団が1万2千ぐらいです。 ポメラニアはスウェーデン領とプロシア領の二つがあります。 スウェーデン領なのはリューゲン島のある方です。 1807年にもフランス軍に一回占領されましたが、翌年に関係改善されて返還されています。 そして1812年に再度占領されるのです。 ナポレオンは最初、第二次ポーランド戦役と号してこのロシア戦役を始めたので、 リガ攻略の意思はありましたし、リトアニアの解放という政治的意図は明らかでした。 ただし結果的にはナポレオンはスモレンスク街道を急進することを選び、ロシア軍も第一西軍と第二西軍を合流させたので、野戦軍撃滅という目の前の最優先課題にとりくむことになったわけです。 だからマクドナルの消極性もあって、結果的にリガは封鎖になったというだけです。 現実的に考えて、ペテルブルグ方向にはそれほどのチャンスはなかったでしょう。 敵の主力を無視して自由にさせるわけにはいかないですし、ペテルブルク方向にはヴィトゲンシュタインの1個軍団があるだけです。 逆にクツーゾフ統合西軍は歩兵と騎兵をあわせて11個軍団もあるわけで、どっちを狙うべきかは明らかでしょう。 サン=シールやウディノの軍団があったので、それでヴィトゲンシュタインを追いかけてもよかったわけですが、補給線の維持につかっただけになりました。 イギリス軍は地上部隊が数個大隊ありましたが、分断の必要があるほどではないですし、オランダ戦線と違って海から直接支援を受けていたわけではないので、海側に追い詰めてもあまり意味はないでしょう。 むしろ南方ウクライナ方面が穀倉地なわけですから、あっちを分断したほうが論理的です。

nacam
質問者

お礼

いろいろありがとうございました。 ナポレオンの行動が、ロシア遠征の時期、従来と全く異なっていますので、理解できない行動が沢山有ります。 従来、敵勢力を分断し、各個撃破の政戦略が、ロシア遠征に関しては、全く見られません。 caesar-x様の意見を聞きましても、ますます分からなくなるばかりです。 いつまでも続けることはできませんので、一応締めることにします。 また何かの機会に、いろいろ教えてください。 ありがとうございました。

その他の回答 (3)

  • caesar-x
  • ベストアンサー率48% (101/208)
回答No.3

スウェーデンは1811年にはすでにナポレオンの公然たる敵となっていたといっていいですね。 確かに宣戦布告をしたのはロシア遠征の失敗を確認してからでしたが、時間の問題でした。 そもそもベルナドットが王太子になってからというものロシアのアレクサンドルに急接近して、欧州新秩序を目指した仏露同盟を阻止したのは彼です。 結局、ロシアは対仏大同盟にまた加わって戦役が始まるわけで、ナポレオンもロシアより先にスウェーデンを攻撃しようかと考えたほどで、実際にダヴーにスウェーデン領ポメラニアを占領させています。 ロシア戦役が始まるまえ4月にはロシアとスウェーデンは同盟を結びました。 スウェーデンは名目上は1810年からイギリスと戦争状態だったわけですが、実際にはこれは反故になっていました。 イギリス船はこの頃、地球の裏側にも行き来があるほどなので、戦闘で重大な損害を被らない限り、別に港によらなくても自由に活動できました。 海上封鎖と監視ぐらいは楽勝です。 ま、ロシアの港には寄れるわけですし、問題ないでしょう。 あとリガの件は誤解されているのではないでしょうか? 言われている質問の意味が良くわかりません。 もしリガがダンチヒと同じように短期間で陥落したら、という仮定であって、実際にはリガは陥落してませんよ。 史実ではマクドナルは攻囲を途中でやめてダンチヒに退却しています。 中央の状況が彼には全く分からなかったこともありますが、怠慢に近い失態でした。 結局、ヴィトゲンシュタインもマクドナルを無視して追走せず、大陸軍の撤退阻止のためにベレジナ河に急行するので、マクドナル軍はこの戦役では何の役にも立ちませんでした。 シュバルツェンベルグもトルマソフを捕捉しないで放置したので、両翼はナポレオンの指示が届かなくなってパニックに近い状況だったといえます。 ま、両方ともプロシアとオーストリアが主体の軍団なのでもともとあてにはできなかったのですが。

nacam
質問者

お礼

どうしても、caesar-xさんの言う事が理解できません。 リガが、ボロジノの戦いのころ陥落したと言われたのは、caesar-xさんです。 マクドナルドが陣取っていましたケーニヒスベルクは、ダイツィフィよりリガ側ですから、障害になるとも思えません。 また、スエーデン領ポメラニアンですが、当時ポメラニアンは、プロシア領だったと思いますが? また、その地区の戦いは、1807年ころで、ベルナドットが、王太子になる前だと思います。 そもそも、ロシア軍4万の守るリガへ、プロシア軍中心のマクドナルド軍3万で攻め込むことが、リガを陥落させる意図が無く、リガ方面へのロシア軍の進撃を阻止する程度の役目でしかなかったのではないでしょうか。 リガからペテルブルクへの進撃は、イギリス軍とロシア軍の分断をはかるチャンスだったはずです。 分断し、各個撃破は、ナポレオンの得意の戦術で、躊躇したとは思えません。

  • caesar-x
  • ベストアンサー率48% (101/208)
回答No.2

リガの攻囲戦は対壕を掘った本格的なもので 攻略にはかなりの時間が必要です。 兵力を増やしても時間が早まるというわけでもなく 全体戦略を考えれば、 攻囲に戦力を割くのは意味がありません。 またナポレオン自身がリガに行っても事態は 全く変わりません。 攻囲には時間がかかります。 また敵野戦軍の撃滅が最優先課題であって、 初期の状況はそれが十分に可能でした。 ナポレオンは大きな魚を狙っていたのであって 敵野戦軍撃滅という大きな任務には ナポレオンの存在が絶対に必要不可欠で 戦争の成否を決める重要なポイントです。 ドリッサでアレクサンドルがまごまごしてたら そこで全てが終わっていましたし ジェロームやダヴーがうまくやっていたら包囲できたかもしれず スモレンスクでジュノーが正しく動いていたら ロシア軍は破滅していたでしょう。 現実の状況に対応して作戦は進展していくので 現実を無視して結果論から考えるのは間違いです。 歴史を振り返れば、失敗したということがわかりますが 現実には可能性を追求してトライする以外にはないのです。 バルト海の周辺国、特にスウェーデンは敵側についたので 友好国はデンマークだけですが デンマーク艦隊はずっと前にネルソンに襲撃されていて 大した味方にはなりません。 せいぜい海峡を鉄鎖で封鎖することぐらいでしょうが 焼け石に水。 バルト海のほかの周辺国はナポレオンに服従しているだけで 味方とは違います。またこれらの小国は 貧弱な海軍があるだけで、イギリスに対抗する気も ありませんでした。 リガを攻略しても制海権の確保は絶望的です。 ナポレオンはすでにイタリア戦役でも似たような状況を経験していて リビエラ海岸の沿岸海上輸送は海賊やイギリス艦隊に あって全く上手くいかず 結局は地上輸送と都市からの徴発に頼ることになりました。 しかもリガの攻略はいつおわるかわからず ロシアの厳しい冬は確実に近づいてきます。 こんなところでまごまごしている暇はないのです。 ダンツィヒの攻略に3ヶ月かかりましたが、 これは非常に短かったといえますが、 もし同様の短期攻略に成功すると仮定しても、 会戦後すぐリガの攻略に向かって リガが落ちるのは史実でボロディノ会戦を戦った頃になります。 ということはそれからペテルブルグに向かう時間は ないということです。 また海上輸送が可能になっても、凍結で春までは使えません。 3ヶ月、あるいは4カ月でペテルブルグに到達することは 空間と時間を考えれば到底なし遂げられることではないですし そもそもナポレオンが人馬のみでモスクワに進撃できたこと自体、 奇跡的な偉業なのです。 そしてナポレオンはその代償として40万名近い落伍者と 100万頭の馬を失ったわけであって 広大なステップを強行軍でロシア軍の後を追ったのは 今から考えれば、正気の沙汰ではないほどです。 ペテルブルグ進撃はロシア遠征二年目なら可能だったでしょうし ナポレオンもそれは考えていました。 モスクワを占領した後もペテルブルグ進撃か、 モスクワで冬営か、南下して冬営かと議論になりましたが 結果的にはどちらも不可能でした。 ボロディノ会戦は決定打を欠いたため 近辺にロシア軍が徘徊して、ナポレオンは自由に動けませんでした。 モスクワに着いた時点ではナポレオンの軍は疲弊しすぎていて 増援を得たロシア軍と再度決戦すれば敗れる危険があったからです。 最初の段階で 東に焦土戦術を用いながら退却する敵野戦軍を無視して ペテルブルグに向かえばよかったのにという疑問が あるようですが その場合、ナポレオンは補給路を完全に遮断されます。 ロシア軍はナポレオン軍とは決戦はせず、 後ろから追走するだけに留め、 もしナポレオン軍が向きを変えて迫ってきても バウツエン会戦後のようにナポレオンからは逃げて カツバッハ会戦のように部下の軍を痛撃したでしょう。 その間に別働隊でスモレンスクや ヴィデブルグ、ミンスクなどを奪還すれば万事休す。 つまりナポレオンはロシアの真ん中で補給物資の 一切を失い、敵の野戦軍の捕捉もできず、 どの都市も手にしていないという最悪の状態を迎えて ワーテルローやライプチヒ以上の 大敗北をするということです。 そんな旧日本軍のガダルカナル作戦のような マヌケ戦略をナポレオンがとるはずもありません・・・。 ナポレオンは60万の大陸軍を組織し 補給に苦心していた人物です。 数十万の人間が補給なく活動できると考えるほど 狂ってはいません。 さらに言うと、例えペテルブルグを攻略できたと仮定しても 戦争が終わる保証はどこにもありません。 恐らくモスクワが占領されたと同様の事態が起こったはずです。 ロシア軍や宮廷は退去し、町には火が放たれたでしょう。 なぜか? そうすればロシアの厳しい冬が外敵を滅ぼしてくれるという 確信があるからです。 勝てるとわかっていてみすみす講和に応じる手はありません。 クラウゼビッツも言ってますが、戦争が終わるのは 敵を完全に打倒したときだけであり 戦争をこれ以上続けられない要因が発生した時のみです。 最後に言い忘れていましたが、 ロシアの首都はモスクワとペテルブルグです。 モスクワも首都であるので誤解なく。 最近、睡眠時間がサッカー時間になっているので チョー暇な人の長文でした。 もっと疑問ありましたたどうぞ。

nacam
質問者

お礼

いろいろ知らない事を教えていただきありがとうございました。 疑問点が2点あるのですが、ロシア遠征が始まった時、スエーデンは中立で、モスクワ陥落後にロシアとの同盟になっていると思っていましたが、それ以前から、イギリス軍に自由に港を使わせていたのでしょうか? ダンチヒの件ですが、攻略に3ヶ月、リガ陥落が、ボロジノのころですと、ロシアへの進軍開始が、6/24日それから3ヶ月ですと、9/24。ボロジノの戦いが、9/7。 リガは、無抵抗で陥落したのでしょうか?

  • caesar-x
  • ベストアンサー率48% (101/208)
回答No.1

バルト海はイギリスに制圧されていたため 海上輸送は不可能です。 またペテルブルグよりも手前の港湾都市である リガを包囲攻撃中で、これは結局、 イギリス海軍の支援もあったので、 ロシア戦役が終わるまで攻略できませんでした。 また距離的にもペテルブルグはモスクワよりも遠く 主要道路はすべてモスクワを経由していたので 地理的にモスクワからペテルブルグに向かうことになります。 リガからペテルブルグにかけて広大な沼沢地があり 途中、補給できる基地も都市もないので、 リガをという一塁を攻略しないと ペテルブルグという二塁に進むことはまず無理でしょう。 またナポレオンは第一に計画段階でロシア戦役を 二年以上にわたる長期戦として計画していたので ペテルブルグ侵攻はまだもっと先の予定でした。 実際の戦役ではナポレオンは敵野戦軍の撃滅を目指し ドリッサからスモレンスク、モスクワと敵を追って 追撃しています。 もし敵の野戦軍を無視してペテルブルグに向かうと 敵に背後を突かれるか、包囲されて壊滅してしまいます。 よってそれは論外といえます。 まずは敵の野戦軍撃滅が先です。 南方だけといいますが、それは退路を失うことを意味します。 補給もなく退路も失って、ペテルブルグを攻囲するのは不可能です。 ナポレオンはヴィルナやスモレンスク、ミンスクを 補給基地にしようと物資を集めていました。 ナポレオンの最初の計画ではヴィルナあたりの都市で冬営して 春と共にペテルブルグに進撃して アレクサンドルに講和を強制するつもりでした。 しかしスペインでマルモン元帥がサマランカ会戦で大敗し 半島戦争の敗北が決定的になったので 是非、一年以内に決着をつける必要性がでてきました。 マクドナル元帥の指揮下にあったプロシア軍の離反も懸念され オーストリア軍も不穏な動きをみせていました。 ナポレオンは長くパリを不在にしてロシアに留まれなくなったので 計画を変更したわけです。 ナポレオンはモスクワ占領で妥協的な停戦の可能性をさぐりました。 それは結局は上手くはいかなかったのですが クラウゼヴィッツが擁護しているように、 最終的にロシアを屈服させるだけの兵力をモスクワに 率いていけなかっただけで 論理的にはありえる選択肢です。 ま、基本的にペテルブルグに直接向かうことは無理でした。 少なくともリガを攻略しないと。

nacam
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 リガ攻略に関しまして、リガを攻略しなければ、ペテルブルクに攻め込めないのは、理解できます。 しかし、ナポレオン軍の配置からしまして、リガ方面に向かったのは、3万(4万)の軍だけで、ナポレオン自身が、リガに攻め込む気配がありませんでした。 バルト海の制海権も、周辺国がナポレオンの味方ですから、リガさえ陥落させれば、制海権は確保できたと思います。 ペテルブルクに進撃すれば、ロシア軍主力もナポレオン軍方向に向かわざるを得ず、決戦の機会も有ったはずです。 これらの事から、ナポレオンに、ペテルブルク進撃の意図が感じられません。 それが、疑問なのです。

関連するQ&A

  • ナポレオンのヨーロッパ遠征

    単刀直入に、 ナポレオンのヨーロッパ遠征についてのことを教えて下さい。

  • ナポレオンのエジプト遠征について

    アレキサンドリアに上陸し、カイロを制圧した後、ナポレオンは なぜピラミッドまで向かったのでしょうか? エジプトを旅行したことがありますが、ピラミッドのあたりは田舎で わざわざ軍を率いて制圧しに行くような場所ではなく、カイロと アレキサンドリアをおさえれば十分なような印象を受けました。 そこにマムルーク朝の本拠地かなにかがあったのでしょうか? おわかりの方、ご教示下さい。

  • ナポレオン ロシア遠征

    ナポレオンによるロシア遠征が失敗した大きな理由は何か

  • 小磯良平画伯の「南京中華門戦闘図」

    1937年の南京攻略戦には、兵士や報道陣だけでなく、画家も従軍していました。 その従軍画家のひとり、小磯良平の「南京中華門戦闘図」は、朝日新聞社賞を受賞した名画ですが、戦後、所在不明になっているそうです。 幸い、写真が残っているので、どんな絵かわかります。 見ると、手前で、日本兵が休憩していて、向こうの方で、南京市が煙を上げています。 この絵を見てわかるのは、「日本軍が、南京市に来ると、すでに、南京市は、焼けた後だった」ということです。 蒋介石は、焦土作戦を取っていたんです。 「日本軍に渡すくらいなら、燃やしてしまえ」ということで、略奪、強姦をしまくった後、上海や南京など、主だった都市は、放火して、廃墟にしてしまったそうです。 ナポレオンも、モスクワまで進撃しましたが、モスクワは、焼かれてしまっていましたよね。 ロシアや中国のような大きな大陸国は、後退して、敵を引きずり込む戦略を取ります。 自分たちも、後退しながら、町々に放火し、降伏した町が、敵を利することがないように、敵には、廃墟しか渡さないわけです。 小磯良平画伯の「南京中華門戦闘図」が所在不明になってるのは、「日本軍が行ったときには、すでに、南京市は、燃えていた。南京大虐殺は、嘘だ」と言うことが、バレるから、シナの手先が、絵を盗んで、処分したんじゃないですか?

  • 母とロシア旅行で

    母とのロシア旅行を計画しているのですが、 プランについてご相談があります。 母とは何度か海外旅行に行っております。 私は旅行に関しては、自分の好きなペースで見れる という理由から、自由旅行が好きです。 母との旅行では、いつも送迎が付いた、格安ツアーで 場合によってはオプショナルツアーを付けて…という 旅行の仕方をしていました。 しかし、母は上記私のプランは少なからず不満があったようで(泣) とにかく楽!な添乗員同行の完全パッケージツアーが良い! と言うのです。 私は以前一度、母と添乗員同行ツアーに行ったことがありましたが、 ガチガチにスケジュールを決められていて移動も多く、 もっとゆっくり見たい美術館などは添乗員に付いて行くため ゆっくりも自由にも見れない、ご飯も自由に食べられないのが大不満で 二度と嫌だと思っていました。そして値段もやはり高くつくので…。 しかし今回はちょっと難易度が高い(と思っています) ロシアで、自由ツアーと添乗員同行ツアーも値段は3万ほどの差しかありません。 (食事が全部付くことを考えると、むしろ同じくらいかも?) サンクトペテルブルグ&モスクワ旅行ですが、 自由旅行の場合は、少なくともサンクトペテルブルグ→モスクワの 列車は駅までは送迎がありますが、駅から自分で電車に乗ってモスクワへ 行かないといけません。 皆様、ロシア旅行は添乗員同行の方が楽しめると思いますか?(母の安心度は高いですが…) それとも、思うよりも難しくないのであれば、自由旅行の方が楽しめますか? あと、夏の8月までがベストシーズンと聞いておりますが、 10月とかの方が、やはり若干安くなっています。 10月のロシアはやはり寒いからさけるべきでしょうか? (9月は都合で行けず…) コサックダンスを母も私も見たいのですが、ツアーの日程にもオプションにも ないので、それはオプショナルツアー専門で付けたいと思っています。 いろいろ書いてしまいましたが、 アドバイスを頂けますと参考になります。 よろしくお願い致します。

  • ナポレオンのイタリア遠征と第一回対仏大同盟について

    ナポレオンがイタリア遠征をしオーストリア軍を撃破した結果、第一回対仏大同盟は崩壊したそうですが、 オーストリア軍の撃退と大同盟の崩壊はどんな関係があるんでしょうか? 大同盟をの中心はイギリスなのでは? あと、ナポレオンがイタリア遠征をした理由も教えてください。 よろしくお願いします。

  • 目指せモスクワ

    マイヤフーみたく替え歌のジンギスカンを歌ってる人が目指せモスクワのフラッシュが見たいのですが、どこにあるかがわかりません。 誰か教えてください。 お願いします。  それと、他に面白替え歌みたいのがあれば、それも教えてください。 よろしくお願いします。

  • モスクワでの過ごし方

    モスクワにて飛行機を乗り継ぐ都合上、空港若しくはトランジットホテルに一泊しなければいけないのですが、乗り継ぎ便が早朝出発便ですので、トランジットホテルには泊まらず、そのまま空港内のトランジットルームにて夜を明かそうかと考えています。 しかし、旅行時期が1月の厳寒期ということもあり、もし「空港内に暖房がなければ大変なことになる」と危惧しています。 そこでお尋ねしたいのですが、冬季のモスクワ・シェレメチェボ空港に宿泊(野宿?)することは、やはり無謀でしょうか?

  • 目指せモスクワ について

    Flash の「もすかう」が少し前人気がありましたが、 この曲は1979年頃ディスコで流行ったと思いますが、 当時ディスコではジンギスカンのように 不思議なステップでみんな合わせて踊っていたのでしょうか? ご記憶にある方是非教えて下さい。よろしくお願いします。

  • ナポレオン

     こち亀で江崎教授が、ナポレオンが手をポケットに入れているのは何故か?。 っていってます。何でですか?。