• ベストアンサー

「五月雨を あつめてはやし 最上川」について

『奥の細道』を読んで不思議に思い、気になったので質問させていただきます。 芭蕉は山寺(立石寺)に今の暦で7月13日に行っていて、その後最上川のあたりを通ったはずですよね。そのとき、大体8月ころになったようなのですが、どうして、そこで“五月雨”という季語がでてきたのでしょうか? 想像力なのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • kamuten
  • ベストアンサー率43% (118/271)
回答No.2

こんにちは。 曽良随行日記の記述では、この句が詠まれたのは、元禄2年(1689年)5月29日(新暦7月15日)、大石田での止宿先の船問屋を営む高野一栄宅においてですが、そのときには「五月雨をあつめてすずし最上川」でした。 この句が出てくる歌仙「さみだれを」は5月29日に4句が詠まれ、翌30日に32句が補われて完成していますので、丁度「五月雨」の時期だったようです。 しかし、6月3日(新暦7月19日)に最上川を元合海(本合海)から清川まで下ったとき、「水みなぎつて舟あやうし」という記述から読み取れるように、その濁流渦巻く様子から「すずし」を「はやし」に改案したようです。 つまり元句ができたのが5月だったという事になると思います。

chikon-kon-ko
質問者

お礼

私が持っている本では、新暦で書いてあったので、ずれていたようです。 俳句も推敲するものなのですね・・・。 ありがとうございました。

その他の回答 (1)

  • mn214
  • ベストアンサー率23% (306/1302)
回答No.1

五月雨という季語は6月の季語です。 また、芭蕉が最上川の辺りを通ったのは現在の7月中旬~下旬ではないのでしょうか? 当時の暦で6月に当たっているのだと思います。

chikon-kon-ko
質問者

お礼

旧暦なので、今の暦とずれる上、五月雨というのは、6月の季語なのですね。知りませんでした。 ありがとうございます。

関連するQ&A

  • 五月雨や 集めて早し 最上川

    http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1665112 で川の流れは 早い でなく 速い と分かったのですが 松尾芭蕉の奥の細道で有名な「五月雨や 集めて早し 最上川」 はなぜ早しとなっているのでしょうか? 人の人生は早く過ぎ去ってしまうとかいう無常観をあらわしているのか それとも僕の間違いなのか… あと関係ないんですが 集めて早し の 集めて とは何でしょうか… よろしくお願いします

  • 「五月雨の降り残してや光堂」について 沢山お願

    奥の細道の 「五月雨の降り残してや光堂」 という部分を、芭蕉は何を思いながら書いたのでしょうか? (できるだけたくさん) 他にも特別な技法とかあったら教えてください。

  • "立石寺" の読み方は

    松尾芭蕉が『おくのほそ道』の旅の途中に訪れた山形県の宝珠山立石寺(山寺)。この "立石寺" について、 "りっしゃくじ" と "りゅうしゃくじ" の二つの読み方があるようです。正しい読み方は、どちらの(どのような)読み方でしょうか。よろしくお願いします。

  • 降る雨や 明治は 遠くなりにけり

    降る雨や 明治は 遠くなりにけり であったならばそれでも評価は高かったとおもいますか? 咲く花や~ では? 雪でなければならない必然性はこの句にはあるのですか? 懐かしむのに何でもいいはず。 だから、明治はとおくなりにけり、がある時点で上の句はなんでもいいんじゃないの? 「今宵あうひと みなうつくしき」 がそうなように。あれだって清水でなくとも祇園でなくともいいはず。 桜でなくともきっと名歌とされてたでしょう。  五月雨や ○○○○○ 最上川 があっただけでは まだ名句たりうる形質ができあがっていないのではと思う。 五月雨や 流れて早し が出来上がった時点でもはや名句なのではないですか? 最上川でなくとも信濃川でもいいんですよね? いや、雪でなくては、古池でなくては、最上川でなくてはならない必然性を教えてください? 芭蕉の人間性や歴史など考えず 純粋に句としてだけを客観的に見てください。

  • 奥の細道

    松尾芭蕉の奥の細道の立石寺に 岩に巖を重ねてやまとし、松柏年旧り、土石老いてなめらかに、岩上の・・・ とありますが、漢字の読み方がいくつかわからないので教えてもらいたいんです まず土石老いてのところです。ここは”どせきおいて”で良いのですか? それと岩上これはわかりません。 よろしくお願いします

  • 荒海や佐渡によこたう天の川の季語

    タイトルの季語は何でしょうか? 荒海と天の川で周りで意見が分かれています。 荒海やで切れ字があるから荒海で冬だとする意見と、芭蕉が奥の細道で歩いた日時から天の川(季 語では秋)とする意見とで私の周りで分かれています。 宜しくお願いします。

  • おくのほそ道

    おくのほそ道の現代語訳を教えてください。 例えば 月日は百代の過格にして・・・・・ [月日は永遠の時間を過ぎていく旅人の・・・・] みたいな感じで、一文一文、丁寧に教えてもらいたいです、もしくはそれが載ってるホームページとか教えてください。 でも、おくのほそ道に書いてあることが、(松尾芭蕉が何を言いたいのかが)だいたいわかればいいです。 教えてください。よろしくお願いします。

  • 「とつて返し』の文法的解釈

    『奥の細道』中の立石寺のあたりの記述の中で、 「尾花沢よりとつて返し、・・・」というのがあります。 「尾花沢より引き返し」という訳になるのですが、 「とつて返し」はどのように解釈したらよいのでしょうか? 「とつて返す」では辞書に載っていませんでした。 「とる」+「返す」とすると、この「とる」はどういう意味になるかわかりません。 よろしくお願いします。

  • おくのほそ道、「卯の花に」は良い句?

    おくのほそ道を読んでいて、平泉はすばらしい場面だなあ、と感心させられます。ところで、あの場面で詠まれた曾良の句なんですが、  卯の花に兼房見ゆる白毛かな ですけれども、直前の「夏草に」直後の「五月雨を」の中にあって良さがわからないのです。  白い卯の花が揺れている。その卯の花の白は奮戦した兼房の白髪の白である。卯の花の中に兼房の姿が甦ってくる。  俳句というのは風景を切り取った写真のようなものと考えています。するとここに見える風景はたとえば心霊写真のようなものになってしまう。この句の良さ、そして芭蕉がこの句をここに挿入した意図を教えていただきたいものと思います。 よろしくお願いします。

  • 芭蕉が奥州に旅立った日に江戸に桜は咲いていたか?

     芭蕉の「おくのほそ道」の紀行文は、  「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。」からはじまる序章に続く次章(二 旅立ち)にこうあります。  「弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は有明にて光おさまれる物から、冨士の峰幽にみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。」  芭蕉が奥州に旅立った日、元禄2年3月27日は新暦では1689年5月16日でした。すると「上野・谷中の花の梢」とあるのは、芭蕉が旅立った日に実際に咲いている花(サクラ)を見たのでしょうか?(第一の可能性) あるいは、毎年(そしてこの年も)サクラの花を愛でていたが、旅立ちの日には葉桜となっている花の梢を眺めていた(もう二度と江戸のサクラを見ることもできないかもしれないと詠嘆しながら)のでしょうか?(第二の可能性)  現代の気象感覚からいって、新暦の5月中旬に東京周辺にサクラが咲いているはずはないと思われますし(「第二の可能性」)、地球気象学的には、芭蕉が旅立った時(1700年頃)は「小氷期」(「江戸小氷期」と呼ばれている)で、当時の日本は現代よりかなり寒かったので、サクラの開花が五月であってもおかしくないとも思われます(つまり「第一の可能性」)。  どちらが、正しい「おくのほそ道」の解読なのでしょうか。お教えくださいませ。