芭蕉が奥州に旅立った日に江戸に桜は咲いていたか?

このQ&Aのポイント
  • 芭蕉の「おくのほそ道」の紀行文は、月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。
  • 芭蕉が奥州に旅立った日、元禄2年3月27日は新暦では1689年5月16日でした。
  • 現代の気象感覚からいって、新暦の5月中旬に東京周辺にサクラが咲いているはずはないと思われます。
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芭蕉が奥州に旅立った日に江戸に桜は咲いていたか?

 芭蕉の「おくのほそ道」の紀行文は、  「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。」からはじまる序章に続く次章(二 旅立ち)にこうあります。  「弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は有明にて光おさまれる物から、冨士の峰幽にみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。」  芭蕉が奥州に旅立った日、元禄2年3月27日は新暦では1689年5月16日でした。すると「上野・谷中の花の梢」とあるのは、芭蕉が旅立った日に実際に咲いている花(サクラ)を見たのでしょうか?(第一の可能性) あるいは、毎年(そしてこの年も)サクラの花を愛でていたが、旅立ちの日には葉桜となっている花の梢を眺めていた(もう二度と江戸のサクラを見ることもできないかもしれないと詠嘆しながら)のでしょうか?(第二の可能性)  現代の気象感覚からいって、新暦の5月中旬に東京周辺にサクラが咲いているはずはないと思われますし(「第二の可能性」)、地球気象学的には、芭蕉が旅立った時(1700年頃)は「小氷期」(「江戸小氷期」と呼ばれている)で、当時の日本は現代よりかなり寒かったので、サクラの開花が五月であってもおかしくないとも思われます(つまり「第一の可能性」)。  どちらが、正しい「おくのほそ道」の解読なのでしょうか。お教えくださいませ。

質問者が選んだベストアンサー

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  • taoyuany
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回答No.1

私は奥の細道に関しては素人ですのでその旨ご了承の上以下お読み下さいませ。 まず、以下の国会図書館のページをご覧下さい。 #PC環境によっては見ることが出来ない場合もあります。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2536365/12 こちらのページは「江 戸 遊 覧 花 暦」という本のデジタルアーカイブです。 江戸の花がどこでどのようなものが見られるかという今風に言えば「東京Walker」のような本ですね。 このページの右上部に「流山」という文字があり、その左に「東叡山」と書かれているのが見えます。 東叡山は現在の寛永寺(東京都台東区上野桜木一丁目)です。 この東叡山の右列には「◎櫻(桜の旧字体)」と書いてあります。 この12ページ目までは梅などのページがあり、ここからが桜の紹介ページですよという意味ですね。 東叡山の下を読んでいくと今回の回答である「弥生(旧暦3月)の末まで花の絶えることなし」という文もあります。 そのため、上野では一般的に旧暦3月末までサクラを見ることが出来たと考えられます。 これは小氷期の影響も大きいと思います。 他の考えられます理由としては江戸時代の方は今の日本のようにソメイヨシノ一色の花見ではなく、様々な種類の桜を楽しんでおりそれらのおかげもあって芭蕉は江戸を離れる際に上野で見ることが出来たのではないでしょうか 以上質問者様の参考になれば幸いです。

Anseigenji
質問者

お礼

ご紹介くださった「江戸遊覧花暦」を見ました。「東叡山では弥生(旧暦3月)の末まで花の絶えることなし」が確かにありました。おおいに参考になり、ありがとうございました。 お礼を書く順番がNo2の方が先になりました。そこで、No1の方へのお礼のついでに、ここに追加しておきたいことがあります。 芭蕉が旅立つ日に、「上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし」と綴ったのは、彼の心の中にある、ある捨てがたき思い入れの一つがサクラであり、それゆえ「サクラ」をシンボリックに登場させて、旅立つ彼の心情を吐露したかったのかしれません。だとすると、旅立ちのときに、サクラが現に咲いているかどうかは彼にとってさほど重要なことではなかったのかもしれません(葉桜の梢をみて詠嘆しているのでもかまわない?)。 しかし、読者の私にとっては、やはり満開のサクラ、あるいは散り急ぐサクラを眺めながら「またいつかはと心ぼそし」と芭蕉に言わせた方が、ドラマチックやな~あ、と思えるのです。 イヤとんでもない! ワビサビの世界に生きる芭蕉を、そんな大仰な猿芝居の大根役者に仕立て上げるなんてケシカラヌ、とお叱りをうけるかもしれません。乞う、ご批判を!

その他の回答 (1)

回答No.2

ご質問者さんのいう『サクラ』とは、ソメイヨシノだと思い込まれていませんか? ソメイヨシノという品種は江戸時代に生まれたとされていますが、品種として確定して全国に広まるのは明治維新前後だと思っていいように思います。 ソメイヨシノは、継ぎ木でしか広まらないので、その寿命は差はあるようですが60年くらい、継ぎ木の元木が腐るまでと言われています。花だけでなく木も短命なサクラなんです。サクラの名所でしたが、今見ている上野の桜並木は江戸中期には無かったはずなんです。 例えば、ナラノヤエザクラは、東京近辺だと4月下旬から5月中旬に咲きます。ソメイヨシノよりも早く咲く品種もあれば遅い品種もあります。 私は奥の細道に詳しいわけではないのですが、書かれている『サクラ』が、ご質問者さんの開花時期で想像されている品種と同じかを確認されてはいかがでしょうか。 これは想像ですが、当時は山桜などさまざまなサクラが植えられていて、その中にその後、突然変異があってソメイヨシノが生まれたというのかな、と思います。

Anseigenji
質問者

お礼

ご指摘おおいに参考になりました。 仰るとおり、ソメイヨシノは幕末に接ぎ木によって発見された品種なので芭蕉の時代にはなかったわけですね。 ご指摘のように江戸には早咲き遅咲きの多品種のサクラが咲いていたことと、当時「小氷期」で寒かったことが相まって、遅咲きのサクラが新暦五月中旬にも咲いていたことがわかりました。 街道が整備されて旅に便利な東海道五十三次とくらべると、不案内な「奥の細道」に分け入らねばならない、もしかしたら病をえて死ぬかもしれない不安、だが、奥羽への旅をしてみたいとのやむにやまれぬ詩的熱情、芭蕉の心にはそんな感情が交錯している中での旅立ちだったはずです。ですから愛してやまないお江戸のサクラを眺めながら、これが見納めになるかもしれないとの思いから、「上野・谷中の花の梢、またいつかと心ぼそし」と綴ったのではないかと思われます。 回答者No1の方のご教示とともにいい勉強になりました。ありがとうございました。

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