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虚無主義に対抗するには?

aruberihiの回答

  • aruberihi
  • ベストアンサー率27% (23/84)
回答No.12

はふん? いいね、いい感じだねぇ。 オッケーだ。ナイスだ。 おおいに悩み賜え。 って感じだな。 だが、他人に愚痴るのはエレガントとは言えないな。 こういう問題は自分で結論ださにゃいかんな。 そもそも、見ていて鬱陶しいしな。 そう言う奴に私から一言 「進化論的視点から人間の発生過程を考えて見ろ」 「物理法則の視点から人間を考えろ」 ですな。 ----------------------------------------- 補足説明 私自身がいつも取っている立場から意見を言わせてもらおう。 私自身は無神論者で「人間とはそこら辺の石と変わらないただの物である」という意見の人間だ。唯物論とは少し立場が違うように感じるので唯物主義者と自称してるがな。 どう違うかというと霊や神の存在を否定しないところである。化学的証明のしようのないものは「存在する立場」と「存在しない立場」の両方を取るということだ。また、「精神」の存在も考慮する。精神も物理法則が体現した一つの形態とみなす。 話を戻そう。 閑話休題 この立場をとった場合、進化とは「物質の進化」のことであり、人間とは物理法則を体現した一つの形態にすぎない。 その価値は魚やそこらの石ころ、太陽、星々と同価値である。 ところで、「価値」とは何だろうか? 人がなにかに価値を見いだすときとはどのようなときだろう? それはある物事に対して「他とは違う状態」「特殊性」をもって初めてそのものに「価値」を見いだすのである。 ここで唯物主義的立場からするとすべての事象、物は同価値である。 等価であり、優劣はない。 優劣がないと言うことは特殊性がないと言うことである。 一方、人間は進化論的人間発生過程において、自らの特殊性を主張したいと本能的に考えるように作製されている。 つまり、人間は自らに意味づけをし、特殊化しようとする。 しかし、等価であり特殊でない人間を特殊化しようにも出来るわけがない。 よって、自己矛盾が発生し悩む。 自爆してるわけですな。 愚かなり(合掌) ---------------------------------------- 私の立場からすると「正義や愛や自由、平等が美しい?その成り立ちをよく考えてから言ってる?」とか「正義って何?自由って何?」とか言っちゃいます。 信じてる?……愚かです。 人間が作り出した幻想です。 んで、このような主張な私だが死にたいと思ったことはあるのか? ありまくりだ。 というか、精神的には常に崖っぷちだ。 崖っぷち状態で15年以上生きているな。 我ながらしぶといものだな。 自殺するくらいなら死ぬ気でなにかやってから死のうと思っているからかもしれんがな。 それに本能は「生きよ」と命じるし。 「好きなこと」たくさんあるし「責任」もあるし……ま、いろいろ現世に縛るものがあると言うことですな。 --------------------------------------- 彼の人の言動に対して一言ずつ述べる >生きている事など虚しいことだ そう感じる場合、あなたは好きなことはなく、他人から見放されているように感じている可能性がある。まず、それを解決するのだな。 >どれだけ努力をして社会に(中略)巨大な宇宙に比べて一人の人間の存在なんてちっぽけなもの 人間と宇宙の価値は等価だ。 宇宙に物質があるように宇宙に人間があるのだ。 その発言は人間の主体である「私」の存在を絶対視しているが故に出てくるものである。主体たる「私」は他と自分を区別し「特殊化」するためのものである。「特殊化」するが故に優劣を決定しようとするのだ。物に優劣はないようにただの物にすぎない人間の価値に優劣はない。人間と宇宙は同等である。 >意味や概念などは、人が生きるために作り出したものではないか 生きるために必要かどうかは知らないが人間が作り出した虚像であることは確かだ。 しかし、虚像であることを知りながらその意味に固執しているのはあなただな。 生きている事が苦しみの連続ならというが「苦しみ」も虚像だ。同時に「幸せ」もまた虚像だ。 結局、お前は虚像だらけの世の中で何がしたいんだ? 幸せをつかみたいのか? 「幸せ」も虚像にすぎないのに? 自己矛盾だらけだな(やれやれ) >あ、でも一人で死ぬのは癪だから、道連れに大量殺人でもしてやろうか よくよく考えてその結論に達しなたらやっても良いが自分の無知、考えなしを棚上げしてないか?自分は何?自分の意見が人間代表の意見見たく勘違いしてない? 聞いてる分だとただの馬鹿で愚か者だぞ? よく考えて主張があるならやってくれ賜え。 -------------------------------------- ま、なんにせよ。 ここら辺の悩みは自分で悩んで自分で結論を出すしかないんじゃないかな? http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=115914 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=116514 上記のURLでも同じような悩みの輩がいるな。 115914の方では生きるための原動力について考察している。 参考になれば幸いだ。 以上

visnu
質問者

お礼

 なるほど、批判をすると言うことは何らかの価値観に依拠したものであって、おおよそ人間界で教育を受けて育ち、風土的な影響を受けてきたものは、信仰する立場を捨てて思考することは難しいのかもしれない。  確かに私も言葉の枝葉をとらえて、矛盾を追及することはできるが、それでは結局本質的な疑問には答えられないのだ。  哲学が「なぜ?」と問うことをはじめ、歴史が記録されてから数千年たつというのに、私達は、なぜ宇宙は存在し続けるといった面倒な事を続けているのか?いつ宇宙は生まれたのか?人間の知りうる事には絶対的な限界があるのだろうか?我々はそもそもどこからきたのか?そしてどこへ行けばよいのか?といった、いくつもの根源的な質問に答える事は、まだできない。(といっても、数千年経ってわかっていないという事実が、時間的に遅いのか早いのか、比較する対象がないからわからないが。)  そういう疑問が解ければ、理由がわかればもしかしたら人間は生きる事に対して何の疑念も抱く必要もなくなるのかもしれないが、結局、今の時点では私はそういう疑問には答えられないのだ。だけど、解くべき命題が残っているというのは、生きる理由に充分なるとも思う。  ところで人々は、価値観というものが社会の産物(もしくは遺伝子の?)であることに気づいても、物事に優劣をつけたがる傾向にあるように見える。もしかしたら人類には価値体系を欲しがる習性を持っているのだろうか?  生命と物質が同価であるという思想に、反論するだけの論拠は見当たらないが、それだと少々困ることが起きるとも思う。  もしかしたら人々は、そういう科学にはカバーできない分野を宗教という非論理的なものに求めているのかもしれない。  「殺人は悪」という論理は、全宇宙的に考えれば真理でも何でもないが、少なくとも人間界では、この意見はかなりの広範囲にわたって流布しているものであるし、割と優れた論理でもあるので、”限定つき真理”といって差し支えないだろうと思うし、それに変わる新しい論理(殺人が善であるということを、論証できる場面も、社会にはあり得るだろうか…?)も見当たらない。  

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