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日本人の対外意識

NHK高校講座「日本史」の「幕藩体制の危機」 https://www2.nhk.or.jp/kokokoza/watch/?das_id=D0022120064_00000 の中で、幕末期の外国船の来航の話が出てきます。ロシア使節ラックスマン、レザノフをはじめとして、以降イギリス、アメリカなどが通商を求めてやってきますが、幕府は「異国船打払い令」で一時をしのぎます。 理由としては、 1 キリスト教が広まるのを怖れた 2 金銀の流出を防ぎたかった 3 幕藩体制を維持したかった と説明されています。その通りなのかもしれませんが、こんな理由であれば、方法は他にもあったようにも思います。ふと、元の襲来時の、元の使節に対する北条時宗と鎌倉幕府の対応を思い出しました。漠然としていますが、何か似ているものがあるように感じました。 時代も背景も異なりますが、この二つの事件の対応に、「日本国」あるいは「日本人」の本質として、何か現代の日本国や日本人にも通じるような共通性みたいなものはあるでしょうか???「島国根性」なんて言葉もありましたが、それではあまりにも短絡的に過ぎるような気がしての質問です。やはりこの一言に尽きるのでしょうか???

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  • eroero4649
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回答No.1

>ふと、元の襲来時の、元の使節に対する北条時宗と鎌倉幕府の対応を思い出しました。漠然としていますが、何か似ているものがあるように感じました。 そうですね。そうだと思います。まあそこらへんは「日本人の宿痾」なのだと思います。それをもうちょっと分かりやすい言葉でいうと「島国根性」なんだと思います。 本質的には、医者をひたすら追い出した田舎の村と同じだと思います。自分たちの村から医者がいなくなると、困るのは自分たちのはずです。それよりも「よそ者を入れたくない」というムラ社会の感情のほうを優先させましたよね。 「(日本の)ガラパゴス化」ってのもそういうことなんじゃないですかね。 あと私の過去の職場でも経験したことですが、当時そこの職場は旅行に行ってくるとなんとなくみんなにお土産を配るところだったのですが、あるときある人から「自分が旅行に行ってきたときにいちいち職場用の土産を買ってこないといけないからこの風習はどうかと思う」というクレームがついたんです。別に買ってくるのが義務じゃないし、買ってこなかったからといって「みんなにお土産を買ってこないケチなやつだ」と噂する人も滅多にいないだろうし、そんなにお土産を買ってくるのが嫌なら旅行に行ってきたことそのものをいわなきゃいい話じゃないですか。 だけど案の定、その人のクレームが通って「今後お土産を配るのは禁止」とお達しが出ました。「配らない自由」が認められるのに、なぜか「配る自由」は認められない。 ここでキーワードになるのは「一部が何か利益を得るのは許せない。全員が不幸になるならそれは平等だと許せる」になると思います。日本人てそういうところがありますよね。 コロナの給付金も、最初は「コロナで収入減になった人に配る」という話でした。これは話の筋道からすれば真っ当ですよね。そのための給付金のはずだから。 だけど案の定「もらえる人ともらえない人が出てくるのは不平等だ」といい出す人が沢山出てきて、「全員一律に配る」ということになりました。生活保護受給者、年金受給者、公務員などはコロナによって収入は減ってないんだから本来は給付金対象になるほうがおかしい。そしたらその人たちの分を経済的損害を多く被っている人に手厚くしたほうが合理的なのですが、日本人はこういうときに「全員が損をする不合理」を選択することを好むのです。 江戸幕府による「異国船打払令」は、その本質としては「密貿易防止」だったと思います。学校の「男女交際禁止」みたいなもんですよ・笑。交流そのものを持つことを禁じれば、密貿易をされることはありません。 当時の感覚でも「人道上の救助」というものはありました。水や食料などが尽きている船に対してその支援をするのは「それは思いやりだよね」という感覚はありました。でももしそれで「代金」を受け取ったら「交易」となってしまいますよね。なので江戸時代にも時々半分漂流してきた船が助けを求めてきて、こっそり水や食料や薪を与えたなんてこともあったのです。そして船側がその代金を払おうとすると、そのことは頑なに断ったのです。もし幕府にバレたら「密貿易をした」という理由で御取潰しに遭う危険がありましたからね。 しかし現実には薩摩藩は琉球国を通じた密貿易を行うことで莫大な利益をあげていました。調所笑左衛門という人がこの密貿易を取り仕切って事実上破綻状態にあった薩摩藩の財政を立て直したのですが、幕府にバレて急死しました。服毒自殺説が根強くありますね。 いかにも日本的なのが、幕府は薩摩藩の密貿易を掴んでおきながら調所が死んだらそれ以上追求できなかったことでしょうね。責任者が死んだことで幕引きとなったのです。これは現代の政治家の不祥事がだいたい秘書が「謎の自殺」をとげることで幕引きになるのと同じですね。 ただそのあたりの事情、特に日本人の「忖度」が関わる部分については高校生に理解するのはまだ難しいので、高校生向けの授業としてはそういうことになっているのでしょうね。

5555www
質問者

お礼

ありがとうございました。 「日本人の宿痾」なのだと思います。……私のこれまでの人生においても、外国人との接点がまるでなかったわけではありませんが、「どうも苦手で……」の一言に尽きますね。昔、知り合ったことのある米国の女性に、なんて挨拶をしていいのか分からなくて、手をあげて、「ハロー」なんて挨拶すると、「○○さん、発音おかしいですね。」なんて、日本語で返されたりして。「宿痾」だと言われると、何故がほっとします。仕方がない、治らない病気だったんだと。(笑) ムラ社会の感情のほうを優先させましたよね。 「(日本の)ガラパゴス化」ってのもそういうことなんじゃないですかね。……私も高校卒業までは、かなりの田舎で暮らしていましたので、「ムラ社会」での生活がどのように維持されていたのか、その一端は分かるような気がします。進化からは遅れても、なぜか内部については、あらゆることが知れるような情報網みたいなのがあって、それこそ、「隣の今晩のおかずは○○だよ。」なんてところまで。 「自分が旅行に行ってきたときにいちいち職場用の土産を買ってこないといけないからこの風習はどうかと思う」……たしかに「理屈はそうなんだけど???」という気が私はしますね。私も現職のころは、例えば東京なんかに出張した折には、職場に東京の名物なんかを買って帰りましたけどね。いつも旅費の範囲を大きくオーバーしていました。しかし、「そんなものだと」疑問にも思わなかった。中間管理職の悲哀をもろに背負ったような。あれからずいぶん時を経ているので、もしかしたら、今は変わっているかも??? (笑) 「みんなにお土産を買ってこないケチなやつだ」と噂する人も滅多にいないだろうし、……「滅多に」というのが気になる人もいるとは思います。だから「自分に都合のよい平等が良い」ってことに。(笑) 服毒自殺説が根強くありますね。 いかにも日本的なのが、幕府は薩摩藩の密貿易を掴んでおきながら調所が死んだらそれ以上追求できなかったことでしょうね。責任者が死んだことで幕引きとなったのです。……それにしても服毒自殺ですか。やはり武士と言えども、「切腹」というのは至難のことなのですかねぇ。よく分かりませんが、今、話題の裏金問題も、「亡くなられた方の指示があった」ような変な方向に……。 私には、まだまだ理解できない部分、誤解をした部分があるかも知れませんが、いろいろと興味深いお話ありがとうございました。 高校生向けの授業としてはそういうことになっているのでしょうね。……「日本史」の講座も3廻り目ですが、聴くほどに疑問が。基礎知識のない者が、歴史を理解するというのは、奥が深すぎますね。

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その他の回答 (3)

  • oska2
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回答No.4

>幕末期の外国船の来航の話が出てきます。 1860年には、ロシア海軍が対馬を測量し占領。 ※幕府は、イギリスに依頼してロシア軍を対馬から追放。 アメリカは、琉球を測量して武力で上陸。 幕末は、様々な事件が起きていますね。 >漠然としていますが、何か似ているものがあるように感じました。 実際のところは、討幕派と佐幕派の力関係が原因です。 幕府は、アヘン戦争の結果を(オランダ商館経由)十分把握していました。 また、アメリカ艦隊が日本に来る1年前にオランド国王の親書で理解しています。 幕府としては、現状の国力では諸外国に対抗する事は不可能との考えだったのです。 ※諸外国の情報は、案外幕府の外事方は理解しています。 ※決して、ペリー艦隊が来て「驚いた!」は明治政府の嘘。 そこで、一時しのぎに「外国船舶への攻撃でなく、威嚇」を目的にしていたのですね。 ところが、政治・国際情勢に疎い朝廷の「攘夷」を口実に長州・薩摩は外国艦隊を攻撃。 結果として、佐幕派はイギリスから軍事支援を受ける。 ※グラバーの命を受けた海援隊によって武器を確保。 幕府側は、フランスから軍事支援を受ける。 ※軍隊の派遣申し出は、慶喜が内戦になるとの理由で拒否。 要は、討幕派にとっては外国船撃払いは「攘夷の口実」に過ぎません。 幕府が倒れると、直ぐに諸外国に使節団を派遣していますよね。 朝廷が望んだ「攘夷」を、全く無視したのです。 「尊王攘夷」の掛け声も、明治藩閥政府によって全て無視されました。 >やはりこの一言に尽きるのでしょうか??? その通り「島国根性」というよりも、陸地で国境を接していない事が大きな原因でしようね。 現在の国防も、「相手が撃つまでは反撃しない」事になっています。 領空・領海侵犯でも、「相手が撃つまで、何もしないで見ているだけ」ですよね。 諸外国なら、交際法に則って警告の後に撃墜します。^^; まぁ、憲法9条があるので諸外国からは武力攻撃は受けない!という左派系関係者も多いですが・・・。 台湾有事では、尖閣諸島も「中国・台湾省の一部」と中国政府・軍が考えていますよ。

5555www
質問者

お礼

ありがとうございました。 私が疑問に感じたのは、「時代も背景も異なる元寇時の対応と異国船打払い令という対応に」、「日本国」あるいは「日本人」の本質として、何か現代の日本国や日本人にも通じるような共通性みたいなものはあるでしょうか???ということでした。 実際のところは、討幕派と佐幕派の力関係が原因です。……異国船打払い令(1825年)という対応が、「討幕派と佐幕派の力関係が原因」でなされたということではないですよね。 幕府は、アヘン戦争(1840年)の結果を(オランダ商館経由)十分把握していました。……むしろこのことが、開国を促したということですよね。 また、アメリカ艦隊が日本に来る1年前にオランド国王の親書で理解しています。~~明治藩閥政府によって全て無視されました。……幕末の経過を教えていただきありがとうございました。黒船来航については、個人的には、幕府の対応もさりながら、一般庶民の心情がどんなものだったのか、関心がありますね。幕府は外国船への対応の仕方について庶民にまで意見を求めたと記憶しています。むしろ今の政府自民党に、「政治の在り方」について、庶民に意見を求めてほしいですよね。今の政府自民党なんて、当時の幕府以下ですね。 やはりこの一言に尽きるのでしょうか??? その通り「島国根性」というよりも、陸地で国境を接していない事が大きな原因でしようね。……まだ、勉強はしていませんが、「日本のはじまりのころ」というのには関心を持っています。そのことに「海」がどのようにかかわったのか、その後の日本人の在り方にどうかかわったのか???私には到底分かりませんが、興味深い課題ではあります。 現在の国防も、~~台湾有事では、尖閣諸島も「中国・台湾省の一部」と中国政府・軍が考えていますよ。……御説には、まったく同感です。ただ、表現は難しいのですが、今の日本では、「何か大きな転機となる事件」が訪れないと、変わるのは難しいと思いますし、今の日本では、そんなことを口にすること自体が大問題に発展してしまうような気がします。

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回答No.3

共通性は 昔も現代も どちらも宗教(キリスト教、統一教会)の裏にいる 外国勢力による日本の侵食です。

5555www
質問者

お礼

ありがとうございました。 どちらも宗教(キリスト教、統一教会)の裏にいる……宗教戦争だったということですか???そうじゃないと思いますね。

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  • gunsin
  • ベストアンサー率32% (391/1205)
回答No.2

高校講座は、差し障りが無く受験の為の物で上辺だけですね。 ロシアのレザノフはロシア皇帝により、死罪になってます。 蝦夷地に派兵された兵士は寒さと飢えで多くが死にました、 青森のねぶた祭は兵士の鎮魂が起源とされてます。 天保の改革が失敗したのは、消費税を商人に課そうしたが反発 に有ったのが一番の要因なのですが。 幕藩体制の危機の要因の一つは、米の年貢に頼る経済制度が人口 の増加と共に立ち行かなくなって来たからなのです、この事を 未だに取り上げていないのは如何な物かと思いますよ。 学者将軍徳川綱吉は金銀の採掘が枯渇する事を予想して、現在の 為替に当たる制度を導入しようとしたが300年前に受け入れられる 筈が無く頓挫しました。 徳川吉宗の頃には、一反当たりの収穫量が増えていたので、年貢制度 を見直すことで、年貢が増え、財政を維持する事が出来ましたが、 佐渡の金山が枯渇し始めました。 田沼意次は、民間活用で商人に新田開発の権利を許して、年貢を 増やそうとしましたが、反対派に賄賂政治と揶揄され頓挫しました。 水野忠邦の天保の改革は消費税お導入しようとしたが頓挫しました。 更に拍車が掛ったのが欧州と東アジアの金と銀のレートの違いを (欧州は金の1/10 が銀で東アジアは1/4でした) 利用されて小判が大量に流出して物価高騰の要因になった事です。 南北戦争が終結して不用になった鉄砲を各藩が大量に購入して 小判で支払ったからです、支払った小判の多くは米国に行き ロシアから購入したアラスカの支払いに充てたそうです。 どこの国でも経済が不安定になると暴動が起き革命に至るのです それの繰り返しが歴史となっていると思います。

5555www
質問者

お礼

ありがとうございました。 高校講座は、差し障りが無く受験の為の物で上辺だけですね。……1講座わずか20分間、40講座で日本史を構成しているのですから、「うわべ」だけにならざるを得ないと思いますし、そのことは分かります。ただ私のように基礎知識がない者にとって、日本史の概略とその流れを押さえるうえで、自室の机に座っているだけで、直接耳で聴けるというのは、それなりに価値はあります。有名な本郷先生や亡くなられた山本先生も解説してくれます。(私は自分なりの意見というのは持てないタイプのうえに、有名人に弱いタイプ。(笑)) そして、疑問に感じたことをこうして詳しい方に教えてもらうことが、さらに勉強になります。なによりもいろいろな考え方に接することが出来るというのは魅力のひとつです。gunsinさんもかなり特徴のある考え方を持っておられるように感じます。(失礼🙇) ただ年齢のせいか、昔の受験勉強に必要だった「記憶をする・暗記をする」という能力は全く失われてしまいましたので、質問することをやめたほうがいいかもと考えることもあります。また回答しても、質問者から何の反応もないことが多くなり、もうこのQ&Aサイトをやめようかとも。(迷) 幕藩体制の危機の要因の一つは、米の年貢に頼る経済制度が人口の増加と共に立ち行かなくなって来たからなのです、この事を 未だに取り上げていないのは如何な物かと思いますよ。……なるほど。この兆候はすでに吉宗の改革のころから現れていたように記憶しています。ただ、ここでは、一時しのぎとしての「外国船打払い令」を出した理由としてあげられているようです。このことには、私も疑問に思っていますが、そのことよりも、幕府の対応に、何か憎めない日本的なものを感じての質問でした。 どこの国でも経済が不安定になると暴動が起き革命に至るのです それの繰り返しが歴史となっていると思います。……幕末の一連の動きを暴動と見るのか???明治維新が革命であったのか、単なる政権交代であったのか???いろいろな意見があるのかもしれませんが、そのへんのところは私はまだ考えたことがありません。

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