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日本人の対外意識
NHK高校講座「日本史」の「幕藩体制の危機」 https://www2.nhk.or.jp/kokokoza/watch/?das_id=D0022120064_00000 の中で、幕末期の外国船の来航の話が出てきます。ロシア使節ラックスマン、レザノフをはじめとして、以降イギリス、アメリカなどが通商を求めてやってきますが、幕府は「異国船打払い令」で一時をしのぎます。 理由としては、 1 キリスト教が広まるのを怖れた 2 金銀の流出を防ぎたかった 3 幕藩体制を維持したかった と説明されています。その通りなのかもしれませんが、こんな理由であれば、方法は他にもあったようにも思います。ふと、元の襲来時の、元の使節に対する北条時宗と鎌倉幕府の対応を思い出しました。漠然としていますが、何か似ているものがあるように感じました。 時代も背景も異なりますが、この二つの事件の対応に、「日本国」あるいは「日本人」の本質として、何か現代の日本国や日本人にも通じるような共通性みたいなものはあるでしょうか???「島国根性」なんて言葉もありましたが、それではあまりにも短絡的に過ぎるような気がしての質問です。やはりこの一言に尽きるのでしょうか???
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お礼
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