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  • 人生最後の日の生き方

    今日と言う日が人生最後の日だとしたら、今日までとは違った一日を生きるのでしょうか? 愚拙は、今日までと同じような一日を生きるような気がします。 何らかの事情で今日が人生最後の日だと悟ったとして、みなさんは、今日までと違った一日を生きると思いますか? また、そう思う根拠はなんですか?

  • きみはヨブを見たか。

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  神はヨブが試されることを悪魔に許した。  ヨブは試された。  悪魔は困惑させられた。  ヨブが神を自由に(神のために)礼拝すること 神を自由に(神のために)愛することを見出したからです。  神がヨブに何か〔力〕を与えたもうからではなく 神ご自身がヨブから去りたまわなかったからであります。  ヨブは言っております。    主は与え 主は奪う。主はみこころの通りになされる。    主の御名はほむべきかな。(1:21)  と。試練の火はかれに迫った。しかし その火はヨブがわらではなく金であることを発見した。その火はそのものから不純物を取り除き 灰には変えなかった。  (アウグスティヌス:Sermones 共観福音書説教 マタイ 説教91 茂泉昭男訳 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    これを哲学のことばで表わして欲しい。  いまわたしに思い浮かんだのは   ○ 能天気  ○ 聖なる甘え  ☆ このふたつです。  ヨブやアウグスティヌスへの批判をも含めて ご見解を明らかにしてご投稿ください。

  • きみはヨブを見たか。

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  神はヨブが試されることを悪魔に許した。  ヨブは試された。  悪魔は困惑させられた。  ヨブが神を自由に(神のために)礼拝すること 神を自由に(神のために)愛することを見出したからです。  神がヨブに何か〔力〕を与えたもうからではなく 神ご自身がヨブから去りたまわなかったからであります。  ヨブは言っております。    主は与え 主は奪う。主はみこころの通りになされる。    主の御名はほむべきかな。(1:21)  と。試練の火はかれに迫った。しかし その火はヨブがわらではなく金であることを発見した。その火はそのものから不純物を取り除き 灰には変えなかった。  (アウグスティヌス:Sermones 共観福音書説教 マタイ 説教91 茂泉昭男訳 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    これを哲学のことばで表わして欲しい。  いまわたしに思い浮かんだのは   ○ 能天気  ○ 聖なる甘え  ☆ このふたつです。  ヨブやアウグスティヌスへの批判をも含めて ご見解を明らかにしてご投稿ください。

  • 聖書の誤訳

    こんにちは。 先日ある方とお話をさせていただきましたときに、聖書の誤訳の話題になりました。私はヘブライ語もギリシャ語も分かりませんので市販されている聖書を一字一句信じて読んでいます。特に意味不明な箇所なども感じておりません。イエス様がお弟子の方々と宮殿を尾出になるときのおことばで少しこなれていないと感じていたものはありましたが、それも新共同訳になって改められました。誤訳というのはそういう問題ではないとも思います。 どなたか、聖書にお詳しい方で聖書が誤訳されている箇所をご存知の方がいらっしゃれば、ご教示いただけないでしょうか。その方によりますと、「たくさんありますよ」ということでした。もしかして異端の方なのでしょうか。 よろしくお願いいたします。

  • 聖書の誤訳

    こんにちは。 先日ある方とお話をさせていただきましたときに、聖書の誤訳の話題になりました。私はヘブライ語もギリシャ語も分かりませんので市販されている聖書を一字一句信じて読んでいます。特に意味不明な箇所なども感じておりません。イエス様がお弟子の方々と宮殿を尾出になるときのおことばで少しこなれていないと感じていたものはありましたが、それも新共同訳になって改められました。誤訳というのはそういう問題ではないとも思います。 どなたか、聖書にお詳しい方で聖書が誤訳されている箇所をご存知の方がいらっしゃれば、ご教示いただけないでしょうか。その方によりますと、「たくさんありますよ」ということでした。もしかして異端の方なのでしょうか。 よろしくお願いいたします。

  • 聖書の誤訳

    こんにちは。 先日ある方とお話をさせていただきましたときに、聖書の誤訳の話題になりました。私はヘブライ語もギリシャ語も分かりませんので市販されている聖書を一字一句信じて読んでいます。特に意味不明な箇所なども感じておりません。イエス様がお弟子の方々と宮殿を尾出になるときのおことばで少しこなれていないと感じていたものはありましたが、それも新共同訳になって改められました。誤訳というのはそういう問題ではないとも思います。 どなたか、聖書にお詳しい方で聖書が誤訳されている箇所をご存知の方がいらっしゃれば、ご教示いただけないでしょうか。その方によりますと、「たくさんありますよ」ということでした。もしかして異端の方なのでしょうか。 よろしくお願いいたします。

  • なぜ人間には心があると思うのでしょうか?

    人間を解剖しても「心」という臓器はないのに なぜ人間には心があると仮定するのでしょうか? ・親やまわりの人にそう教えられたから、 ・それが常識だから でしょうか? よろしくお願い致します。

  • ヨブ記について

     私はプロテスタントのクリスチャンですが、旧約聖書のヨブ記を読んでいて、いくつかの疑問が浮かび、そのために今私たちが読んでいるヨブ記は全文ではなく、抜け落ちている箇所があるのではないかと思えるのですが、間違いでしょうか。  ご意見いただければ幸いです。 ・疑問1エリフの不自然な登場のしかた。 32章2節に、この物語のキーマンになるかもしれぬエリフが何の説明もなく唐突に登場するのは、あまりにも不自然である。 ・疑問2神様の登場しかた。 ヨブ記38章1節に主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。 とありますが、それまで、一言も嵐のことなど記されていない。 ・疑問3突然いなくなってしまうエリフ エリフとヨブのやり取りのあとヨブ記38章1節に神様が登場してから後、エリフはまるで初めからいなかったかのように文章中から消えてしまっている。神様はヨブの3人の友人に対してはコメントしているのに、エリフについては、全く言及していないのも不自然。  以上のことから、私はヨブ記には何らかの理由により、抜けているエピソードが存在していたのではないかと考えるのですが、この考え方は浅はかでしょうか。

  • 脳髄損傷が精神活動に与える機能障害と死後の生に関する心霊学的解釈

     怪我や病気で脳髄が物理的に損傷した時、精神活動(記憶、知覚、認識、思考、性格、etc.)に機能的障害が発生する場合がある事が知られています。  脳髄の一部が損傷しただけで、精神活動に影響するのであれば、脳髄が全損する肉体的な死の後には、精神や人格は存在しない事が、自然だと思います。  (何も感じず、何かを認識する事も無く、何も思い出せず、新たに何かを憶える事も無く、何も考えない、その様な態を精神が存在すると呼べるとは思えません)  脳髄損傷と精神の機能障害との因果関係や、死後の生の存在を可能とする方法に関して、霊魂の存在を肯定する心霊学においては、どのような解釈がなされているのでしょうか。  尚、私は理数系の人間ですが、超自然的なものを無闇に否定するつもりはありません。  特に、死後の生に関しては、存在して欲しいと思っております。  ですが、現実に脳髄の損傷が、精神活動に影響する以上、死後の生は存在しないと考えざるを得ないのです。  この現実と、死後の生を両立させる説を、御存知の方は御教え願います。

  • 凶悪事件が起きるたびに出る死刑存続・廃止論あなたは。。

    1、凶悪事件が起きるたびに出る死刑存続・廃止論あなたはどちらですか? 2、何故、死刑存続・廃止論なのですか? 哲学カテであえてお聞きします。

  • E・キューブラー・ロス「死ぬ瞬間」について

    E・キューブラー・ロスの「死ぬ瞬間」についてはどう思いますか? これの論理は正しいものだと思いますか?

  • 慈悲は 経験現実か

     わたしたち人間のおこなう行為であるのか これを問います。  《ウィキペディア:慈悲(じひ、パーリ語mettaa、サンスクリット語maitrii, karuNaa)》にもとづき設問します。  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%82%B2  まづ 《慈》も《悲》も 日本語での 友がら・やさしさ・思いやりといった言葉と同じように 生活の中から出た言葉であって( 人間S語 ) しかも 抽象一般化し また 概念を純粋化し高めたもの( 普遍A語 )と考えられます。高められたとき それは 実践しうることだと見ているのかどうか このことが知りたいことです。  ▲ (ヰキの記事に 私註をはさみつつ)~~~~~~~~~~~~  〔《慈》にあたる〕サンスクリット語の「マイトリー(maitrii)」は、「ミトラ」(mitra)から造られた抽象名詞で、  【S語】 本来は「友情」「同志」の意味である。しかも、  【A語】 ある特定の人に対し友情をもつのではなく、あらゆる人々に平等に友情をもち、友誼を示すことをいう。  したがって慈とは、このようないっさいの人々に対する平等の友情をいう。  次に、〔《悲》にあたる〕サンスクリット語の「カルナ(karuNaa)」は  【S語】 「優しい」「哀れむべき」というのであるが、その原意は「呻き」(うめき)にあるという。「悲」とは、まず人生の苦に対する人間の呻きを意味する。その呻きがなぜ「悲」かというと、自らが呻く悲しい存在であることを知ることによって、ほんとうに他者の苦がわかる。そこで、はじめて他者と同感してゆく同苦の思いが生じる。  【A語】 その自分の中にある同苦の思いが、他の苦を癒さずにおれないという救済の思いとなって働く、それが悲であるという。  仏教ではこの慈悲心を三種に説く。「衆生縁」「法縁」「無縁」の三縁慈悲である。いわば慈悲心の生起する理由とその在りかたをいう。  (一) 衆生縁とは   衆生(しゅじょう、jantu,sattva)の苦しむ姿を見て、それを救うために、その衆生を縁として起こした慈悲の心。すなわち、衆生の苦を抜き、楽を与えようとする心である。    ☆ (これは =【S語】か?)  (二) 法縁(ほうえん)とは、   すでに煩悩を断じた聖人が、人々が法は空なりという理を知らずに、ただ抜苦得楽のためにあがくのをみて、抜苦与楽しようとする心をいう。    ☆ (これは ≒【S語】か?)  (三) 無縁とは   慈悲心の自然(じねん)の働きをいうものであり、それは仏にしかない心であるという。    ☆ (これは =【A語】であろう。あたかも≠【S語】か?)  この三縁の慈悲とは、  第一は 一般衆生の慈悲、あわれみの心をいい、  第二は 聖人、つまり阿羅漢や菩薩の位にあるものの起こす心、  第三は 仏の哀愍の心であると言える。  この中で第三の無縁の慈悲心のみが本当の大悲(だいひ、mahD-karunD)と言える。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  Q1. 慈悲は 全体として 人間に実践可能か。  Q2. 〔可能だと仮定した場合〕 三縁の慈悲のうち 第三の《無縁の慈悲》は 《仏性》のことと違うのか。  Q3. 仏性と同じだと仮定して ならば すべての人間が 慈悲を実践しうるとなるのか。それとも 人は仏性を宿すが 慈悲を実践しうる者とそうでない者とに分かれるのか。分かれるとすれば それは なぜか。

  • 慈悲は 経験現実か

     わたしたち人間のおこなう行為であるのか これを問います。  《ウィキペディア:慈悲(じひ、パーリ語mettaa、サンスクリット語maitrii, karuNaa)》にもとづき設問します。  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%82%B2  まづ 《慈》も《悲》も 日本語での 友がら・やさしさ・思いやりといった言葉と同じように 生活の中から出た言葉であって( 人間S語 ) しかも 抽象一般化し また 概念を純粋化し高めたもの( 普遍A語 )と考えられます。高められたとき それは 実践しうることだと見ているのかどうか このことが知りたいことです。  ▲ (ヰキの記事に 私註をはさみつつ)~~~~~~~~~~~~  〔《慈》にあたる〕サンスクリット語の「マイトリー(maitrii)」は、「ミトラ」(mitra)から造られた抽象名詞で、  【S語】 本来は「友情」「同志」の意味である。しかも、  【A語】 ある特定の人に対し友情をもつのではなく、あらゆる人々に平等に友情をもち、友誼を示すことをいう。  したがって慈とは、このようないっさいの人々に対する平等の友情をいう。  次に、〔《悲》にあたる〕サンスクリット語の「カルナ(karuNaa)」は  【S語】 「優しい」「哀れむべき」というのであるが、その原意は「呻き」(うめき)にあるという。「悲」とは、まず人生の苦に対する人間の呻きを意味する。その呻きがなぜ「悲」かというと、自らが呻く悲しい存在であることを知ることによって、ほんとうに他者の苦がわかる。そこで、はじめて他者と同感してゆく同苦の思いが生じる。  【A語】 その自分の中にある同苦の思いが、他の苦を癒さずにおれないという救済の思いとなって働く、それが悲であるという。  仏教ではこの慈悲心を三種に説く。「衆生縁」「法縁」「無縁」の三縁慈悲である。いわば慈悲心の生起する理由とその在りかたをいう。  (一) 衆生縁とは   衆生(しゅじょう、jantu,sattva)の苦しむ姿を見て、それを救うために、その衆生を縁として起こした慈悲の心。すなわち、衆生の苦を抜き、楽を与えようとする心である。    ☆ (これは =【S語】か?)  (二) 法縁(ほうえん)とは、   すでに煩悩を断じた聖人が、人々が法は空なりという理を知らずに、ただ抜苦得楽のためにあがくのをみて、抜苦与楽しようとする心をいう。    ☆ (これは ≒【S語】か?)  (三) 無縁とは   慈悲心の自然(じねん)の働きをいうものであり、それは仏にしかない心であるという。    ☆ (これは =【A語】であろう。あたかも≠【S語】か?)  この三縁の慈悲とは、  第一は 一般衆生の慈悲、あわれみの心をいい、  第二は 聖人、つまり阿羅漢や菩薩の位にあるものの起こす心、  第三は 仏の哀愍の心であると言える。  この中で第三の無縁の慈悲心のみが本当の大悲(だいひ、mahD-karunD)と言える。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  Q1. 慈悲は 全体として 人間に実践可能か。  Q2. 〔可能だと仮定した場合〕 三縁の慈悲のうち 第三の《無縁の慈悲》は 《仏性》のことと違うのか。  Q3. 仏性と同じだと仮定して ならば すべての人間が 慈悲を実践しうるとなるのか。それとも 人は仏性を宿すが 慈悲を実践しうる者とそうでない者とに分かれるのか。分かれるとすれば それは なぜか。

  • ユダの福音書の何が注目されるのか

     その意義が飲み込めません。おしえてください。  ヰキぺディアの記事は まだ 書きかけのようですが  そこに記された次の二点が 一般にも 取り上げられているものでしょうか。   ▲ (ユダの福音書) ~~~~~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%80%E3%81%AE%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8  (1) イエスを裏切ったイスカリオテのユダが 実は イエス・キリストの弟子の中の誰よりも真理を授かっており、  (2) 「裏切り」自体もイエス・キリスト自身が主導したものであるという。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですが (1)の事項は もし  ( a )《誰よりも賢い》ことであるなら   ● (コリント前書1:20) 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。  ☆ ですから  特別のことではないでしょう。もし  ( b )《神の霊に満たされていた》のであるなら あとで ほかの弟子たちも そうなったのですから これもまた 特別のことではないでしょう。  次に(2)の事項についてですが   ( c )《裏切り》行為じたいは あまり 問題になりません。弟子たちも残らず皆が 裏切りましたから。あとに残った事項としては   ( d )《「裏切り」自体もイエス・キリスト自身が主導したものである》というものです。けれども この事項も たとえば   ▲ (ヰキぺディア:イスカリオテのユダ) ~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%86%E3%81%AE%E3%83%A6%E3%83%80#cite_ref-11  スイスの神学者のカール・バルトは、ユダは、イエスを十字架に架け〔* そのはりつけの刑による死を通じて かれイエスを 救世主なる神=〕キリストにする重要な役割を果たした人物であり、「神の使わした者」と考えた。この考えは突飛なものではない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と知られます。そのことを 『ユダの福音書』は 発見が遅れたとは言え 歴史的に先に指摘したので 注目に値するということなのでしょうか。  けれども 『ヨハネ福音』(13:26-27)にも すでに あの最後の晩餐において そのたぐいの事柄は 指摘されているようなのです。その席で ユダは イエスから  ▲ 「しようとしていること(* つまり 裏切り行為)を、今すぐ、しなさい」  ☆ と言われていますから。  よく分かりません。ご自身のご見解でもよいですから おしえてください。ヒントが得られることがあります。

  • ユダの福音書の何が注目されるのか

     その意義が飲み込めません。おしえてください。  ヰキぺディアの記事は まだ 書きかけのようですが  そこに記された次の二点が 一般にも 取り上げられているものでしょうか。   ▲ (ユダの福音書) ~~~~~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%80%E3%81%AE%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8  (1) イエスを裏切ったイスカリオテのユダが 実は イエス・キリストの弟子の中の誰よりも真理を授かっており、  (2) 「裏切り」自体もイエス・キリスト自身が主導したものであるという。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですが (1)の事項は もし  ( a )《誰よりも賢い》ことであるなら   ● (コリント前書1:20) 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。  ☆ ですから  特別のことではないでしょう。もし  ( b )《神の霊に満たされていた》のであるなら あとで ほかの弟子たちも そうなったのですから これもまた 特別のことではないでしょう。  次に(2)の事項についてですが   ( c )《裏切り》行為じたいは あまり 問題になりません。弟子たちも残らず皆が 裏切りましたから。あとに残った事項としては   ( d )《「裏切り」自体もイエス・キリスト自身が主導したものである》というものです。けれども この事項も たとえば   ▲ (ヰキぺディア:イスカリオテのユダ) ~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%86%E3%81%AE%E3%83%A6%E3%83%80#cite_ref-11  スイスの神学者のカール・バルトは、ユダは、イエスを十字架に架け〔* そのはりつけの刑による死を通じて かれイエスを 救世主なる神=〕キリストにする重要な役割を果たした人物であり、「神の使わした者」と考えた。この考えは突飛なものではない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と知られます。そのことを 『ユダの福音書』は 発見が遅れたとは言え 歴史的に先に指摘したので 注目に値するということなのでしょうか。  けれども 『ヨハネ福音』(13:26-27)にも すでに あの最後の晩餐において そのたぐいの事柄は 指摘されているようなのです。その席で ユダは イエスから  ▲ 「しようとしていること(* つまり 裏切り行為)を、今すぐ、しなさい」  ☆ と言われていますから。  よく分かりません。ご自身のご見解でもよいですから おしえてください。ヒントが得られることがあります。

  • 哲学と言葉

    哲学というのは言葉で表現するので哲学と言語は切っても切れないような存在ですよね? 頭で思考している間も言葉で思考していることがほとんどだと思います。 けれど言葉になかなか表現できないような、現在の言葉では補いきれない思考などが浮かぶこともあります。 私は哲学に関して専門的な勉強はしていないので是非哲学を専門に学んでいる方達に教えてもらいたいです。 歴代の哲学者達の本など(入門書に近いものですが)読んでみると、“言葉を数式のように扱い、答えを説いていく”と感じるような文章が予想以上に多くて、数学者に似たようなものを感じました。 数学者の方達も数式を解く時、提唱する時、数式はイメージ、ヴィジュアル、直感で浮かび、またそれを直感で解けるもの、解けないもの(存在し得ないもの)との区別感じとり、解けると感じたものを信じてその数式に挑んでいくと聞きます。でもなんとなく理解できますよね? 漠然としていて文章もめちゃくちゃなんですが哲学者と数学者は結局同じことをしているように感じます。 はっきりとした違い、境界は何かを教えて欲しいです。 どんなめんからでもいいので根本的な違いを教えてください。 酷い質問の仕方でスミマセン。よろしくお願い致します。

  • 哲学と言葉

    哲学というのは言葉で表現するので哲学と言語は切っても切れないような存在ですよね? 頭で思考している間も言葉で思考していることがほとんどだと思います。 けれど言葉になかなか表現できないような、現在の言葉では補いきれない思考などが浮かぶこともあります。 私は哲学に関して専門的な勉強はしていないので是非哲学を専門に学んでいる方達に教えてもらいたいです。 歴代の哲学者達の本など(入門書に近いものですが)読んでみると、“言葉を数式のように扱い、答えを説いていく”と感じるような文章が予想以上に多くて、数学者に似たようなものを感じました。 数学者の方達も数式を解く時、提唱する時、数式はイメージ、ヴィジュアル、直感で浮かび、またそれを直感で解けるもの、解けないもの(存在し得ないもの)との区別感じとり、解けると感じたものを信じてその数式に挑んでいくと聞きます。でもなんとなく理解できますよね? 漠然としていて文章もめちゃくちゃなんですが哲学者と数学者は結局同じことをしているように感じます。 はっきりとした違い、境界は何かを教えて欲しいです。 どんなめんからでもいいので根本的な違いを教えてください。 酷い質問の仕方でスミマセン。よろしくお願い致します。

  • 運命って、どうして人によって違うのでしょう?

    運命って、どうして人によって違うのでしょう? 病気のため、成人せずに短い一生を終えてしまうかたがいる一方で、 健康で長寿の方もいらっしゃいます。 私(30代前半)は今年、癌を宣告されました。 幸い早期発見だったため、大事にはいたりませんでしたが、 同じ病に冒されながら、発見が遅かったため、私より若くして お亡くなりになられる方もたくさんいらっしゃいます。 癌を宣告されてから、「同じ人間なのに、どうして運命に こうも違いがでてくるのだろう?」と考えるようになりました。 明確な答えなんて永遠に分からないのかもしれないけれど、 どうしてひとによって、運命って分かれるのでしょうか。 是非、みなさんのお考えをお聞かせください。 (「前世」とか「先祖の因縁」と言ったお答えなら、ご遠慮ください。)

  • ニーチェの良いところをおしえてください。

     ありますか?    世は 理性信仰 つまり 理性なる神 理性という神が はびこっているところへ その観念なる神は観念なる神であるに過ぎないと指摘しつつ 観念の神は死んだと言ったのではないでしょうか。  つまり そんな神は もともと 死んでいるというふうに指摘しなければいけなかったのではないか。  そこを そうではなく わざわざ その観念の神を克服しなければならないと思いこみ そのためには 《自然 大河 あるいは 超人であれ》と わざわざ 説くにいたった。・・・  これでは すべてが コップの中の茶番劇であるのではないでしょうか?  ほかに ニーチェにいいところは ありますか。

  • ニーチェの良いところをおしえてください。

     ありますか?    世は 理性信仰 つまり 理性なる神 理性という神が はびこっているところへ その観念なる神は観念なる神であるに過ぎないと指摘しつつ 観念の神は死んだと言ったのではないでしょうか。  つまり そんな神は もともと 死んでいるというふうに指摘しなければいけなかったのではないか。  そこを そうではなく わざわざ その観念の神を克服しなければならないと思いこみ そのためには 《自然 大河 あるいは 超人であれ》と わざわざ 説くにいたった。・・・  これでは すべてが コップの中の茶番劇であるのではないでしょうか?  ほかに ニーチェにいいところは ありますか。